一カトリック信者(ジュゼッペ)の日々想い

聖ヨゼフを愛する一カトリック信者の日々を綴ったブログです。

御聖体に対して

2016-11-07 07:23:03 | カトリック
日本の教会では聖変化の時に跪く人、そして口で御聖体を受ける人はとても少ないと思います。それは長い時間をかけてこうなりました。
世界に先駆けて、それまで口で御聖体を受けるのが主流の中、日本では最初に手で受ける許可を取った最初の国の一つだっただけに、手で受けさせるキャンペーンも際立っていました。
私が小さい頃は、口で受ける人は沢山いましたが、ある時他の小教区から来た司祭が、聖体拝領のあとに、「舌で受ける人がいますがとても汚い。万が一舌に付いた指で他の人に渡すのどう思いますか?」とわざわざマイクを使って止めさせようとしていました。それから私の所属教会ではその後口で受ける人はほとんど居なくなりました。そればかりか、あちこちの教会で口で受けることがあたかも悪いかのような事も聞かされました。例えば、最後の晩餐で「取って食べなさい」と仰ったから手で受けるのは当たり前だと言うのです。しかし、これは主は誰に言ったのでしょうか?私達に直接に言ったのでしょうか?霊的読書で聖人伝を読むとき、主が聖人に愛を持ってはたらきかけるとき、それは読者にも同じでしょうか?いいえ、その聖人を私達は讃えますが、聖人と同じ事を私達には仰いません。私達にイエズス様もマリア様も御現れになりません。むしろ私達が聖書を読むとき、それはファリサイ派を咎めるとき、それは私達に向けられています。私達は聖人ではありません。選ばれてると思ったのならばそれは傲慢です。傲慢は全ての罪の源です。私達の中には傲慢がうごめいています。
ミサの中で跪くことが悪いことならば、それまでの人は悪かったのでしょうか。
跪いて祈ったイエズス様は私達の模範です。ある本にありました。主の前に跪か無い人は溶岩の前に跪くことになるであろう、と。そして主に対して跪きがあたかも禁止であるかのように誘導した人、主に跪くことをあざ笑う人の罪はもっと大きいでしょう。それが責任ある立場であればあるほどです。
私達はこの世の事ばかりではなく、後の世のことをもっと黙想しましょう。

聖レオナルドの以下の言葉を黙想したいと思います。
『でたらめな生活を送っているカトリック信者が、無神論的な考えを表明する言葉、信心を台なしにする言葉を吐くとき、それを耐えるために大きい忍耐が要ります。
悔い改めなければならないことと、「主のいと聖なる御体と御血を拝領しなければ、だれも救われない」ことを(ヨハ6・54参照)、人々に諭して下さい。
司祭によってミサの犠牲が祭壇上で捧げられ、パンまたはぶどう酒の形色のもとに運ばれる時には、すべての人がひざまずいて、生ける真の神なる主に賛美と栄光と誉れを帰さなければなりません。』