一カトリック信者(ジュゼッペ)の日々想い

聖ヨゼフを愛する一カトリック信者の日々を綴ったブログです。

人間の考えではなく

2020-06-12 09:55:00 | 聖体
今一度この画像をご覧下さい。これは手でイエズス様を受けることの危険性を表しています。心がすごく痛みますがこれは現実です。

ある海外の神学生が実際ホスチアの粉がどのように手に付着するかを手袋を使って数回実験した画像があります。実験中全ての回で付着が認られました。以下の画像です。言葉よりも雄弁に物語っていますのでこれに関しては多くは書きません。






前回、私はコロナ対策以前にまずイエズス様が私たちにとってどういうお方なのかをまず考えるべきだ、と提案しました。
東京大司教区では21日から『公開ミサ』が徐々に解禁されるようです。それでも東京大司教区の大司教さまは以前の状態には戻らないだろうとした上で以下の指針が出されました。
5:しばらくの間、ミサでの奉納も行いません。またしばらくの間、口(舌)での聖体拝領を控えてください。
とあります。これに対してメールを送らせて頂くとすぐに返事がありました。
「口の方が安全」「手の方が安全」「どちらも差はない」等、様々な意見があり、見解が統一されてないということで、消毒を徹底した上で手での聖体拝領をするという旨のメールを頂きました。つまり東京大司教区は手の方が安全だという選択をしたということになります。
しかし、何度も申し上げていますが、私たちはコロナ以前にイエズス様の体についての事を考えなくてはいけません。信仰を優先するのが私たちの正しい判断では無いでしょうか。
聖体拝領は必ずすべきものではありません。もともと恩寵の状態でしか受けられるものではないのです。ですのでもし上の画像を思い起こして頂けるならば、手での聖体拝領しか許されないのであれば、イエズス様をお守りする意味で霊的聖体拝領を私は強くおすすめします。

聖マタイの聖福音に次の箇所を私は思い出しました。
『イエズスはふり向き、ペトロに向かって言われた、「サタン、引き退れ。私の邪魔をするな。あなたが思っているのは天主の考えではなく人間の考えだ」

手による聖体拝領は口での聖体拝領よりも危険です

2020-06-10 10:52:03 | カトリック
先月は聖母月でしたが、今月はイエズス様の聖心の月です。イエズス様の祝日が続きます。6月7日に三位一体の主日がお祝いされ、来る11日は聖体の祝日、14日は御聖体の荘厳祭、19日はイエズス・キリストの至聖なる聖心の大祝日を迎えることになります。
さてイエズス様とは、どんなお方なのでしょうか。宗教を問わず多くの人が人としての模範として2000年以上の長きに渡って敬意が払われてきました。最高の人間として敬われてきたことは間違いがありません。犠牲と忍耐の人そして優しさの人であったり、正義の人であったり、徳のある人であったり、罪の無い完璧な人として、または奇跡を行う人として信じられてきました。キリスト教はイエズス様を天主として拝んでいます。それは三位一体の第二位のペルソナが聖母を通して人間になったお姿がイエズス・キリストなのです。つまり、私たちが本来『神様』『天主様』と言うときそれはイエズス・キリスト御自身なのです。
さてそのイエズス・キリストは今どこにおられるのでしょうか。それは教会の中央に位置する最も聖なる場所、祭壇の上、つまり聖櫃の中におられます。
コロナ禍の状況で、現在カトリック信者の主流となっている『手での聖体拝領』が海外では高位聖職者と多くのカトリック信者を巻き込んで話題になっています。コロナウィルスの感染経路において私たちが手で触れるものに付着することが分かってきました。ミサに与る私たちは手を合わせるだけではありません。中には本を持つ人もいます。そして献金などをするときにオカネなどに触れることあるのです。顔や髪の毛、衣服やご自分の子供などです。特にカネは多くの人の手の間で行き来するものです。司祭は聖変化する前に、特別な手ではありますが、手をまた水で清めます。しかし多くの信者はそこまで配慮をする人は皆無に等しいのです。科学的な詳細はここで割愛しますが先月イタリアのカトリック医師会会長から、「手による聖体拝領は口での聖体拝領よりも危険です」という声明が出たそうです。手での聖体拝領の仕方は伝染性が非常に強く、そしてさらに跪いての聖体拝領は拝領の仕方では最も安全だといいます。
コロナ禍の中で、手での聖体拝領はあくまでも例外であって本来の正しい伝統的な受け方は口で受ける聖体拝領だ、ということに改めて気が付いた信者が増えてきました。
しかしここはコロナ禍における環境下よりも信仰として、聖体の祝日を前に今一度聖体とは何かを黙想する必要があるように思われます。
このブログで繰り返し聖体については何度も取り上げて書いてきました。私たちの大切な信仰には、キリストの復活同様に絶対信じなければならない教義にはこの『聖体』があります。聖体こそ、真のイエズス様です。ホスチア(パン)の形をして何もお言葉を発せられなくてもそれ自身がイエズス様全てなのです。そしてイエズス様が住まわれるからと、カトリック教会は立派な建物をイエズス様のために建ててきました。そして聖体であられるイエズス様を安置するために立派な聖櫃と祭壇が用意されたのです。それは私たちの信仰と敬意の表れなのです。大切な人の写真を飾るのに床に置いたりは私たちはしません。立派な額を用意したり花を用意したりするものです。お墓もそうです。大切な人だから立派な物を用意したいと思うのが人間の心理では無いでしょうか。しかし、ここは生きておられる聖体の話をしています。聖体はイエズス様です。イエズス様は救世主です。天主です。天主の御言葉です。聖母マリア様からお生まれになった方です。三位一体の主です。創造主です!
しかし悲しいかな、イエズス様が安置されている多くの教会をご覧下さい。なぜ昔建築された教会の方がイエズス様が住むに相応しい形をしているのでしょうか。単純に皆様比較してみて下さい。





私たちは宝石など高価なものや大切な物に触れるとき手の指紋が付かないように気を使ったり触れた後布で拭いたりします。しかし、それと比較にも出来ない程の聖体をなぜ、オカネを触ったり本を触ったり、顔や髪の毛、衣服を触ったりする手で簡単に触れることが出来るのでしょうか。
今より恐ろしい疫病が流行った時代にもカトリック司祭は恐れずに教会の子らのために秘跡を授けたのです。私たちも恐れずに正しい信仰を持って主に近づくべき時が来ています。
悪魔は聖体をあらゆる方法で攻撃するでしょう。ロザリオで私たちの主をお守りしましょう。そして善い心で聖体の祝日をお迎えしましょう。








コロナ禍における典礼の問題

2020-06-03 11:26:23 | カトリック
多くの人がコロナ禍でミサに与れない状態は前回の記事で書きました。しかし海外の記事に興味深いブログやニュースがいくつかありました。
『パンデミック中に行われたライブミサは第2バチカン公会議の典礼の弱点を強調した』、というのです。中には古代(伝統)のミサこそコロナ禍の時代に必要なのではないか、というのもありました。もともとの執筆者の多くは伝統ミサ(トリエントミサ)の存在を知らなかったかまたは詳しいことは知らなかったといいます。しかしライブミサやYouTubeなどで伝統ミサの存在を知りそして気が付いたのだそうです。




まず伝統の典礼は祭壇と聖櫃が繋がっており司祭が聖櫃に向かって祈りを捧げているということ、逆に新しい典礼は司祭が会衆に向かって祈りを捧げていること。そして新しい典礼は大きな声で会衆が聞こえるように声を発しているということ、伝統の典礼は聖櫃の中の聖体に向かってるので声は小さめということ。
新しい典礼は聖福音は司祭が読み、残り2つの朗読は信者から選ばれた人が読み、それも会衆に向かって読むこと。伝統典礼は聖福音と新約聖書を司祭が読むので内陣には司祭と侍者しかいないこと。
新しい典礼の『平和の挨拶』では信者同士の接触が多いこと。伝統典礼では司祭が信者に『平和の挨拶』はするが信者同士の挨拶は無い事。
他にもありましたが、大まかに以上の点からコロナ禍の今の時代の環境から見ると新しい典礼よりも伝統の典礼の方が「清潔的」(リスクが少ない)ではないかというのです。まさに温故知新と多くの人が感じているのではないでしょうか。
次は以上の点から御聖体の受け方にも言及したいと思います。




コロナ禍における私たちにの信仰

2020-06-01 09:41:52 | カトリック
ブログを更新しない間に実に多くのことがありました。親愛なる読者の皆様もご苦労されていらっしゃるかと思います。
今年の四旬節は武漢ウィルスのパンデミックが発表され私たちの生活や社会等はもちろん、教会を取り巻く環境も大きく変化をしました。それは現在までに至っています。
逆にこの静けさの中で多くの人が『聖』なるものを見つめ直す良い機会が与えられたのでは無いかと思っています。なぜなら私もその1人で、昔の恩師からの言葉を思い出したのです。「神様は悪からも善を引き出すことがおできになる」。どんな悪い状況でもどんな辛いときでも私たちの主は最後の最後まで私たちを導いておられるということ。どこにでも回心の機会が与えられているという事を忘れてはいけないのだと思います。だから「常に感謝しなさい、祈りなさい」ということを実感するのです。
さてコロナ禍で多くの時間があって霊的読書ついでに海外の事にも色々目を向けてみました。実は日本同様に欧米の多くの信者がミサに与れずにおります。先日知人が教会に直接行き告解をしたいと神父に相談に行ったところ断られたそうです。近くの別の教会にも同じく行ったのですがそこでもウィルスが原因で断られました。実際多くの人からミサや告解の要望があるのですが、教区(長)の意向だからと断っていると言うのです。信じられますか?それともこれにも私たちは慣れっこになってしまうのでしょうか?教会の中にも入れないところもあります。それが全世界で起こっていて信者たちは悲痛な叫びを上げています。司教が禁止するところもあれば知事が禁止する所もあるそうです。


「中絶はできるのに、洗礼は受けられない 。車は買えるのに、ろうそくは買えない。スーパーには行けるのに、聖域には行けない。 離婚はできるが結婚はできない。 ルールを破ることはできるが、赦しを受けることはできない。」多くの信者が感じています。そこで先月22日にトランプ大統領は「知事らは酒屋や人工妊娠中絶の施設を不可欠とみなす一方、教会や礼拝所を除外している。これは正しくない。直ちに再開させるべきである、すぐに!もし州知事がそうしなければ、私が大統領の権限を行使して再開させる、アメリカは、より多くのprayer(祈り)が必要なのであり、(より)少なくではない」と聖職者顔負けの発言をされました。多くの信者が大統領に感謝をして感動し励まされたことでしょう。特に秘跡や聖体訪問を渇望している人ほど。逆にトランプ大統領みたいな為政者が日本に居たらなぁと思いました。
 さて救い主である聖体は今私たちに何をお求めでしょうか。次回「聖体」について書いてみたいと思います。