一カトリック信者(ジュゼッペ)の日々想い

聖ヨゼフを愛する一カトリック信者の日々を綴ったブログです。

最もな確かな手段

2017-09-26 07:42:35 | カトリック
長い聖母御出現の歴史の中で、イエズス様の御母である聖母マリア様が私たちに共通して求められているのは、「祈り」です。
それもロザリオの黙想です。ロザリオが私たちに与えられたとき「ロザリオの約束」をお与えになりました。そして、現代においても、マリア様はファティマ、秋田においてそれを繰り返しておられます。
私が小さい頃、母が私に言いつけをするとき私はよく従った方だと思っています。ですから天の母、創造主の御母の言いつけは、これよりも勝ります。
高位聖職者が聖母のお願いを無視した結果、信仰のみならず世俗的にも多くの危機が訪れています。最後に残された武器がロザリオです。ロザリオの月も始まりますが、ますますロザリオをお捧げする時です。罪人の回心のために読者の皆様も力を合わせましょう。
月曜日と木曜日は「喜びの玄義」火曜日と金曜日は「苦しみの玄義」水曜日、土曜日と日曜日は「栄の玄義」を黙想しましょう。待降節中の土曜日に限っては「喜びの玄義」、四旬節中の土曜日に限っては「苦しみの玄義」を黙想しましょう。
それ以上に祈れる方は、教会と世界の平和のためにもっともっとロザリオをお捧げしてください。よろしくお願いします。

見える一致

2017-09-15 07:40:38 | カトリック
旧約聖書にはご存知の通りバベルの塔の話があります。人が神よりも上だと勘違いしたわけです。人間の不遜が罰せられた話として、また様々の言語が発生した起源の物語として知られています。
バベルというのは、「混同」の意味があるそうです。前回、国語化したミサが様々な混同や混乱が起きている話を紹介しましたが、この手の話は実はキリがありません。色々な話を聞いておりますし体験もしています。バイリンガル以上の人や言語の比較ができる人は、同じミサを受けているにも関わらず、ミサの典礼文の「訳」が微妙にまたは大きく違うことに気が付く人もいます。訳が違うということは、ニュアンスや雰囲気も変わるのです。ただミサに与るだけなんだから多少の訳の違いなど気にしない、という人が大多数なのは明らかなのですが、少しずつこれが私たちの信仰に影響を与えていることも無視してはいけないと思います。では、どこの典礼文の訳がどう違うかは時間の問題で割愛しますが、実際のところ、ミサの国語化はバベルの塔のような結果になってしまっていると私は思うのです。
つい最近までカトリック教会のミサはどこでもラテン語で行われているころは、教会の建物の雰囲気やラテン語典礼、顔形も同じ様な聖人像は、現在はどうでしょうか。御聖櫃はどこにありますか?真ん中にありますか、それとも右ですか、左ですか、それとも無いですか。
このように目に見える一致が少しずつ無くなっていくカトリック教会を想うとき、バベルの塔の物語を読むとはっ!としてしまいます。

本末転倒

2017-09-06 07:47:33 | カトリック
私の前に所属していた教会は、日本人と外国人の割合でいえば日本人の方がやや多い教会におりました。
しかし最近は、外国人と日本人の割合が逆転し外国人の割合が圧倒的に多くなったそうです。
司祭の数が激減しているという理由で集会祈祷が始まった頃私は、他の教会に転籍しました。外国人の多くは日本語を理解してないのと同様、日本人も外国人司祭の言葉を理解出来ません。
外国人司祭がミサを挙げに来るとき、聖歌も司祭の祈祷も理解出来ないのは当たり前なのですが、月に一回集会祈祷に助祭が来られる時には、どういうわけか、主聖堂で集会祈祷、小聖堂では外国人司祭による外国語によるミサが執り行われているのです!
聞いた話によると、外国人は集会祈祷はただの祈りであってミサでは無いので、外国人にせよ、主聖堂でみんなでミサに与ろう!ということで招待した外国人司祭だったのですが、ある日本人の信者の方が、「言葉が分からないから集会祈祷の方がいい」というのです!?
まず、この事を考えたときいくつかの事を私は思いました。
まず国語化したミサは、結局のところ言葉の壁に直面しています。昔はラテン語、聖歌はグレゴリオ聖歌だったころは、日本語が分からない司祭だろうが、世界のどこにいっても、まったく同じ言語と聖歌のミサに与ることが出来ました。現代はどうでしょうか。外国に私達が旅行に行ったとき、そこで挙げられるミサはどうでしょうか。
この言葉で同じ教会でそれぞれの国のミサが行われて、日本人と外国人が一緒に与れないようになっています。
そして、「ミサ」よりも言語を優先するという由々しき事態に発展しています。