一カトリック信者(ジュゼッペ)の日々想い

聖ヨゼフを愛する一カトリック信者の日々を綴ったブログです。

札幌での聖伝のミサ(第二回)

2023-04-15 12:31:00 | カトリック
今話題のSSPXの小野田神父のホームページに
「来たる4月22日(土曜日)と4月23日(主日)には、北海道青少年会館 Compass 会議室1にて、聖伝のミサが行われます。
愛する兄弟姉妹の皆様をご招待いたします。予約の必要はありません。どなたでも自由にご参加できます。
4月22日(土曜日)10:00よりミサ聖祭
4月23日(主日)10:00よりミサ聖祭」
とあります。
海外ではTLM(伝統ラテン語ミサ)話題はバチカンや多くの聖職者を巻き込んで話題の中心にあると言っても過言ではありません。
北海道にお住みの方は是非このカトリックの伝統ラテン語ミサに与ってみてはいかがでしょうか。チャンスだと思います。




聖母の被昇天

2020-08-15 08:59:46 | カトリック
聖母マリア様の被昇天の大祝日です。
おめでとうございます。
マリア様はイエズス様に忠実でありました。イエズス様もマリア様に忠実でした。私たちも聖母マリア様のようにイエズス様に忠実であれば、私たちにもマリア様に与えられた天国の永遠の報いが約束されているのです。
私たちも天に上げられるように祈りましょう。
マリア様は私たちに何をお求めになりましたか。
犠牲とロザリオです。
天国の報いが得られるように。
常に聖なるカトリック教会の教えに留まることが天国の最も近い道です。
天国におられる聖母マリア様にお願いしましょう。


世間体による罪深い冒涜を明白にします

2020-08-06 09:43:52 | カトリック

『天主は、無限に完全な御者で、天地万物の創造主、主宰者、人間の慈悲深い父です。』

私たちがカトリックの信仰を表明するとき成人の方なら洗礼の前に、子供は初聖体の準備をするときに以上の信仰の大原則を勉強したはずです。
そして同じく
『天主は第一戒を以て、ただ天主のみを天主として礼拝することを命じ給うのであります。
天主を天主として礼拝するとは、天主を万物の創造主、最上の主として、崇め奉ることであります。
崇めるとは、信、望、愛の対神徳及び敬神徳を以て天主を崇めねばなりません。』
も学びました。
この十戒をシナイ山でモーゼが天の御父から頂いたとき何が起きたかを振り返るとき、私たちの置かれている現代社会において、何が相応しい行いなのかを、逆に何をしてはいけないのかを知る事になると思います。長い間エジプトの奴隷となったユダヤ人は、解放を夢見て多くの祈りと犠牲を捧げてきました。そしてモーゼは天主様に選ばれて紆余曲折を経ながらも、ユダヤ人を解放することに成功します。それは天主様の大いなる御業を直接目撃することにもなりました。多くの人が知るものでは、海が割れる奇跡がその一つです。それだけではありませんでしたね。そしてユダヤ人は天主様に感謝の祈りを捧げたのでした。命を救って下さったからです。私たちもそこにいたらどんなに喜んだかは想像に難しく無いと思います。
さて、奴隷からも解放され、異教の迷信の神々からも解放され、命も救われ、直接天主様の奇跡をその目で見て、魂の自由を頂いたユダヤ人でしたが、モーゼが天主様に従ってシナイ山に祈りに行ったときです。何が起きたかというと、自分たちの新しい神を作ろうと思い始めたのです。最初は多くの人が反対をしたことでしょう。しかし次第にシナイ山からモーゼがなかなか降りてこないという(40日間の)不安から貴金属を集めて金の牛を作るという暴挙に出たのです。そしてご存知の通り天主様はこれに非常にお怒りになりモーゼを通して正義を下されたのでした。

これは言わば偶像崇拝の反面教師的な歴史の1コマなのですが、私は小学生の頃これだけのお恵みを頂いたにも関わらず人間は平気で天主様を裏切ってしまうのだなぁと衝撃を受けたものでした。しかし、この裏切りはその後も品形を変えて、時代を超えてついにはイエズス・キリストをも殺したのです。
しかし上の写真をご覧になったとき、これはありえない!確かに冒涜だ!信じられない!と多くの人は思うでしょう。はい、その通りです。実際そのような感覚は私たちキリスト教信者には持っていて当たり前のことなのです。なぜならば例えば教皇ピオ9世は『人間は,どの宗教を信奉しても永遠の救いの道を見出し,また永遠の救いを獲得することができるというのは、誤謬である』と宣言されています。これを宗教無差別主義というのですが、それらは大昔からそして特に近代の歴代教皇によって排斥されてきました。しかし、シスタールチアが言うには現代社会は『悪魔的な方向感覚喪失』の時代なのだそうです。すなわちヴィガノ大司教様のお言葉を借りると『近代主義の異端に染まり、道徳的に不品行な人々の狡猾な欺瞞によって、良き司教たちは誤謬へと道を誤らされてしまった。』の時代であり、『妥協の精神』の時代なのです。





上の写真は30年以上前の第1回アシジの祈祷集会とイスラム教のコーランに接吻するヨハネ・パウロ2世です。
そして直近では









これを良いことだと思いますか?それともこれはカトリックに反することだと思いますか。
モーゼのシナイ山の間の出来事同様にこれはありえない!確かに冒涜だ!信じられない!と思いますか。
さて、善悪を判断する基準(感覚)と善悪を判断する方は誰なのでしょうか。
私たちの身近の日本に話題を移しますが以下の写真もご覧下さい。ある方から送られてきた画像なのですが、これは聖マリア修道女会の最新号の会報なのだそうです。善良なるカトリック信仰をお持ちの読者の皆様はこの絵をご覧になってどう思われますか?



通常、鳩は聖霊を表します。一般的な解釈をすると、聖霊が地蔵菩薩に降臨する直前を表していると思います。聖霊とはなんですか。地蔵菩薩とはなんですか。
私はこれを最初見たときに唖然としました。そして天主様に対する冒涜だと思いました。カトリックの団体の公式の会報に聖母マリアや聖人の絵が載るのは当たり前なのに、なぜ人間が作った宗教の偶像がそこに書いてあるのでしょうか。フィリピンやアフリカを救うのは聖霊が降った地蔵菩薩で、崇める方法としての『望愛』の対象は地蔵菩薩であるとのメッセージなのでしょうか。
繰り返しになりますが、私たちの多くは宗教に対する方向感覚がモーゼの時代のあの1コマのように喪失しているように思われます。そして信念や生活様式の羅針盤でもある信仰が妥協の連続によって思わぬ方向に向かわせているに違いありません。ですから、善悪や信仰の価値基準が時代と共に発展し進化することを当たり前のように思うのです。
『天主の啓示は不完全なものであって,人間の理性の進歩にともなって絶えず無限に進歩するものである、と考えるのは誤謬である』とピオ9世は断罪しています。
では私たちの感覚が喪失しないように助けて下る方は誰なのでしょうか。それは聖霊です。
ヴィガノ大司教様は書簡の中で『慰め主なる聖霊が謙遜な人々や弱い人々に剛毅の賜物を注入し、高慢な人々や権力を持つ人々を戸惑わせ、一方では祭壇の至聖なる御聖体の秘蹟への信仰を明らかにし、他方では世間体による罪深い冒涜を明白にします』とお書きになっています。
私たちが常に正しくいるために、信仰が強められるように、汚聖を繰り返さないように、聖霊に祈りましょう。真の天主様だけを信じられるように。
聖母マリア、聖ジャンヌ・ドゥ・レストナック、我らのために祈り給え!



勇気ある元教皇大使ヴィガノ大司教

2020-07-30 16:34:56 | カトリック
アメリカではフロイド氏の死亡事件を発端に暴動が起き現在もそれは下火になることは無いようです。それも生命を守る運動という名目ではありますが、実際は罪の無い人が被害者になっています。犯罪者が犯罪者への殺人は報道されても、プロライフの善人の黒人が殺されても決して報道されません。このダブルスタンダードの世の中は何が原因なのでしょうか。
トランプ大統領は「彼らの目的は平和では無い、生命のためでも無く、彼らの攻撃目標はイエズス様だ!」と鋭い指摘をされています。平和デモと言いながらもなぜ教会が放火されるのかとも指摘されました。実際アメリカでは歴史のある教会がデモの時に放火され、カトリック教会の聖像が破壊されている動画や写真がネットには多数上がっています。このアメリカの動きの背景には共産主義の働きが指摘されているようです。
その中でトランプ大統領はファーストレディー(夫人メラニア)とカトリック教会を訪問し跪いて祈りを捧げられました。






しかし、これらに対して近代主義者の聖職者が大統領が教会を政治利用したとトランプ大統領を強く批判をしました。それに対して伝統信仰を大切にするカトリックの聖職者や信者らは、逆に人工中絶を容認する議員がカトリック教会内でのパフォーマンスに対しては何も言わないのに、なぜ教会や聖書を擁護することを言うトランプ大統領を攻撃するのかと批判しました。
そのごたごたの中、元教皇大使ビガノ(ヴィガノ)大司教様がトランプ大統領に、『大統領への書簡』を送りました。この中でビガノ大司教は、貪欲な狼に貪り食わせるために、羊達を引き渡そうとする偽りの牧者達について警戒を促しています。それは今の流れの中において非常にするどい指摘です。
これに対してトランプ大統領はこの書簡をhttps://twitter.com/realDonaldTrump/status/1270842639903006720?s=09にて「ヴィガノ大司教から信じられないような手紙をもらって光栄です。 信心深い人もそうでない人も、みんなに読んでほしい!」と感謝の言葉を持って述べたので海外では多くの人が読みました。
是非皆様にも読んで頂きたいと思います。
以下のブログでは日本語訳があります。







不快ではあるが事実は事実

2020-07-14 13:19:20 | カトリック
様々な身分や環境のもと私たちは生活をしています。読者の皆様には結婚されている人もいれば、独身の方もいると思います。お子様がいて親の方もいらっしゃるだろうし、いない方もいらっしゃるでしょう。今ちょうど幸福を感じている方もいれば、不幸に感じる方もいるでしょう。お金持ちの人もいれば貧乏な人もおられるでしょう。
とにかく様々な環境のもと私たちは生活をしています。一見すると不平等に見えるかもしれません。しかし幸せに見えて実は大変な不幸であったり、不幸に見えても幸福感たっぷりな人も存在するのです。私たちには、客観的な尺度で物事を見ること難しくても、しっかりと平等に正義をもってさらに客観的に天主様は私たちを天からご覧になっています。
ただ私たちに言えることは必ず、いつかは必ず死を迎えるということです。現在118年前までに生まれてこれまでこの死から逃れた人間はいないようです。つまりいつか私たちは必ず死ぬのです。死の準備は出来ているでしょうか。つまり死後のことを考えているでしょうか。
私は小さい頃死ぬが非常に怖かったことを覚えています。なぜなら良い子では無かったからです(笑)そういう意味では今も常に死(後)を怖れています。母は私が物心付く頃から悪いことをすると死後必ず地獄の罰があることを教えてくれました。この教えのおかげで学生時代から、自然に悪い友達を避け良い友達を選ぶ習慣が出来たように思われます。勝手に思ってるだけですけど。
様々な環境のもとでの生活の話をしましたが、身近にある職場でも日本のこの社会を見回してください。多くの人は確かに主に導かれているのは、私も肌で感じる時があるのですが、自分も含めて多くの人は天国に行くのに値する生活をおくっているでしょうか。
天国とは不快なことが一つもな無い場所、幸福しかない場所、聖三位一体と聖母にまさに繋がった状態である場所に、今の私たちがおくっている生活の報いとして果たして本当に相応しいでしょうか。
運良く私たちはまだ死んでいませんので、天国も地獄も見た人はおりません。しかし地獄の怖ろしさは、本来人間の魂に刻み込まれてるのか、どの宗教でも地獄がどんなものか、いくらか共通の認識があったりします。この地獄の概念は私達を理性としての人たらしめるものでもあります。伝統なカトリックの神学が蔑ろになり、人間愛の新しい教えで、カトリック信者(聖職者)の中には「実際地獄に行く人は少ない」さらにな「地獄は永遠ではない」さらに発展して「地獄は無い」というとんでも論まで出てきたのは記憶に新しいです。公会議後の教会の特徴でもあります。しかし、昨今共産化した社会と革命的なものを推奨する現代社会では、地獄の概念さえも覆すようなことを言う人もまた増えています。非常に恐ろしいことに、「地獄でも別にいいじゃないか」的なことなどです。これに私達はもちろん同意をすべきではありませんが、多くの人をますます理性の光を失わせて誤謬に導いています。大多数の人の概念が変わったとしても、民主的に決めたとしても、見たことが無いからとてそのように決めたとしても、残念ながら真理と真実はそこに存在するのです。
私たちには、聖母マリア様が天国へ導いております。危険を警告なさっています。油断しないようにです。母は子らが間違いを犯さないように危険を教えて下さるのです。
まさに103年前の1917年7月13日に聖母マリア様は、今よりも信仰に溢れた時代にも関わらず、ファチマでルチアに無数の霊魂が地獄に堕ちていく様をお見せになったのです。
以下のようにルチアは回想しています。
『光線が大地を貫いたように見えました。そして私たちはあたかも火の海の様なものを見ました。
この火の中に浸かり込んでいるのは悪魔たちと人間の形をした霊魂たちでした。霊魂たちは透き通った燃える炭火のようで、皆真っ黒か褐色のようでした。彼らは雲のような煙と共に自分自身からわき出る炎によって持ち上げられ、この大火事の中に漂っていました。彼らは、恐ろしくまた恐怖のあまり震えおののかせる苦悩と絶望の叫びとうめきのまっただ中で重さも平衡感覚もなく、大火災の火の粉のようにあちこちに、また下に落ちていました。悪魔は燃えさかる黒い炭のように透き通ってはいましたが、汚らしい見たこともない動物の恐ろしい厭な形をしていたので地獄に落ちた霊魂たちとは区別されました。この光景は一瞬間しか続きませんでした。私達の天の良きお母様が、最初の御出現の時に私達を天国に連れていくと約束されたおかげでです。もしそれがなかったら、おののきと恐れのために死んでいたことでしょう。』

私たちが何をするにしてもまずこのビジョンを思い出しましょう。子供のように素直な心で想像し思い出すのです。
そして聖母マリア様のこのようなビジョンをお見せになったことでこの100年間多くの人が回心したことを感謝しましょう。そしてこれから回心する人のためにも感謝しましょう。
天の母の言いつけ通りロザリオを唱えましょう。









手による聖体拝領は口での聖体拝領よりも危険です

2020-06-10 10:52:03 | カトリック
先月は聖母月でしたが、今月はイエズス様の聖心の月です。イエズス様の祝日が続きます。6月7日に三位一体の主日がお祝いされ、来る11日は聖体の祝日、14日は御聖体の荘厳祭、19日はイエズス・キリストの至聖なる聖心の大祝日を迎えることになります。
さてイエズス様とは、どんなお方なのでしょうか。宗教を問わず多くの人が人としての模範として2000年以上の長きに渡って敬意が払われてきました。最高の人間として敬われてきたことは間違いがありません。犠牲と忍耐の人そして優しさの人であったり、正義の人であったり、徳のある人であったり、罪の無い完璧な人として、または奇跡を行う人として信じられてきました。キリスト教はイエズス様を天主として拝んでいます。それは三位一体の第二位のペルソナが聖母を通して人間になったお姿がイエズス・キリストなのです。つまり、私たちが本来『神様』『天主様』と言うときそれはイエズス・キリスト御自身なのです。
さてそのイエズス・キリストは今どこにおられるのでしょうか。それは教会の中央に位置する最も聖なる場所、祭壇の上、つまり聖櫃の中におられます。
コロナ禍の状況で、現在カトリック信者の主流となっている『手での聖体拝領』が海外では高位聖職者と多くのカトリック信者を巻き込んで話題になっています。コロナウィルスの感染経路において私たちが手で触れるものに付着することが分かってきました。ミサに与る私たちは手を合わせるだけではありません。中には本を持つ人もいます。そして献金などをするときにオカネなどに触れることあるのです。顔や髪の毛、衣服やご自分の子供などです。特にカネは多くの人の手の間で行き来するものです。司祭は聖変化する前に、特別な手ではありますが、手をまた水で清めます。しかし多くの信者はそこまで配慮をする人は皆無に等しいのです。科学的な詳細はここで割愛しますが先月イタリアのカトリック医師会会長から、「手による聖体拝領は口での聖体拝領よりも危険です」という声明が出たそうです。手での聖体拝領の仕方は伝染性が非常に強く、そしてさらに跪いての聖体拝領は拝領の仕方では最も安全だといいます。
コロナ禍の中で、手での聖体拝領はあくまでも例外であって本来の正しい伝統的な受け方は口で受ける聖体拝領だ、ということに改めて気が付いた信者が増えてきました。
しかしここはコロナ禍における環境下よりも信仰として、聖体の祝日を前に今一度聖体とは何かを黙想する必要があるように思われます。
このブログで繰り返し聖体については何度も取り上げて書いてきました。私たちの大切な信仰には、キリストの復活同様に絶対信じなければならない教義にはこの『聖体』があります。聖体こそ、真のイエズス様です。ホスチア(パン)の形をして何もお言葉を発せられなくてもそれ自身がイエズス様全てなのです。そしてイエズス様が住まわれるからと、カトリック教会は立派な建物をイエズス様のために建ててきました。そして聖体であられるイエズス様を安置するために立派な聖櫃と祭壇が用意されたのです。それは私たちの信仰と敬意の表れなのです。大切な人の写真を飾るのに床に置いたりは私たちはしません。立派な額を用意したり花を用意したりするものです。お墓もそうです。大切な人だから立派な物を用意したいと思うのが人間の心理では無いでしょうか。しかし、ここは生きておられる聖体の話をしています。聖体はイエズス様です。イエズス様は救世主です。天主です。天主の御言葉です。聖母マリア様からお生まれになった方です。三位一体の主です。創造主です!
しかし悲しいかな、イエズス様が安置されている多くの教会をご覧下さい。なぜ昔建築された教会の方がイエズス様が住むに相応しい形をしているのでしょうか。単純に皆様比較してみて下さい。





私たちは宝石など高価なものや大切な物に触れるとき手の指紋が付かないように気を使ったり触れた後布で拭いたりします。しかし、それと比較にも出来ない程の聖体をなぜ、オカネを触ったり本を触ったり、顔や髪の毛、衣服を触ったりする手で簡単に触れることが出来るのでしょうか。
今より恐ろしい疫病が流行った時代にもカトリック司祭は恐れずに教会の子らのために秘跡を授けたのです。私たちも恐れずに正しい信仰を持って主に近づくべき時が来ています。
悪魔は聖体をあらゆる方法で攻撃するでしょう。ロザリオで私たちの主をお守りしましょう。そして善い心で聖体の祝日をお迎えしましょう。








コロナ禍における典礼の問題

2020-06-03 11:26:23 | カトリック
多くの人がコロナ禍でミサに与れない状態は前回の記事で書きました。しかし海外の記事に興味深いブログやニュースがいくつかありました。
『パンデミック中に行われたライブミサは第2バチカン公会議の典礼の弱点を強調した』、というのです。中には古代(伝統)のミサこそコロナ禍の時代に必要なのではないか、というのもありました。もともとの執筆者の多くは伝統ミサ(トリエントミサ)の存在を知らなかったかまたは詳しいことは知らなかったといいます。しかしライブミサやYouTubeなどで伝統ミサの存在を知りそして気が付いたのだそうです。




まず伝統の典礼は祭壇と聖櫃が繋がっており司祭が聖櫃に向かって祈りを捧げているということ、逆に新しい典礼は司祭が会衆に向かって祈りを捧げていること。そして新しい典礼は大きな声で会衆が聞こえるように声を発しているということ、伝統の典礼は聖櫃の中の聖体に向かってるので声は小さめということ。
新しい典礼は聖福音は司祭が読み、残り2つの朗読は信者から選ばれた人が読み、それも会衆に向かって読むこと。伝統典礼は聖福音と新約聖書を司祭が読むので内陣には司祭と侍者しかいないこと。
新しい典礼の『平和の挨拶』では信者同士の接触が多いこと。伝統典礼では司祭が信者に『平和の挨拶』はするが信者同士の挨拶は無い事。
他にもありましたが、大まかに以上の点からコロナ禍の今の時代の環境から見ると新しい典礼よりも伝統の典礼の方が「清潔的」(リスクが少ない)ではないかというのです。まさに温故知新と多くの人が感じているのではないでしょうか。
次は以上の点から御聖体の受け方にも言及したいと思います。




コロナ禍における私たちにの信仰

2020-06-01 09:41:52 | カトリック
ブログを更新しない間に実に多くのことがありました。親愛なる読者の皆様もご苦労されていらっしゃるかと思います。
今年の四旬節は武漢ウィルスのパンデミックが発表され私たちの生活や社会等はもちろん、教会を取り巻く環境も大きく変化をしました。それは現在までに至っています。
逆にこの静けさの中で多くの人が『聖』なるものを見つめ直す良い機会が与えられたのでは無いかと思っています。なぜなら私もその1人で、昔の恩師からの言葉を思い出したのです。「神様は悪からも善を引き出すことがおできになる」。どんな悪い状況でもどんな辛いときでも私たちの主は最後の最後まで私たちを導いておられるということ。どこにでも回心の機会が与えられているという事を忘れてはいけないのだと思います。だから「常に感謝しなさい、祈りなさい」ということを実感するのです。
さてコロナ禍で多くの時間があって霊的読書ついでに海外の事にも色々目を向けてみました。実は日本同様に欧米の多くの信者がミサに与れずにおります。先日知人が教会に直接行き告解をしたいと神父に相談に行ったところ断られたそうです。近くの別の教会にも同じく行ったのですがそこでもウィルスが原因で断られました。実際多くの人からミサや告解の要望があるのですが、教区(長)の意向だからと断っていると言うのです。信じられますか?それともこれにも私たちは慣れっこになってしまうのでしょうか?教会の中にも入れないところもあります。それが全世界で起こっていて信者たちは悲痛な叫びを上げています。司教が禁止するところもあれば知事が禁止する所もあるそうです。


「中絶はできるのに、洗礼は受けられない 。車は買えるのに、ろうそくは買えない。スーパーには行けるのに、聖域には行けない。 離婚はできるが結婚はできない。 ルールを破ることはできるが、赦しを受けることはできない。」多くの信者が感じています。そこで先月22日にトランプ大統領は「知事らは酒屋や人工妊娠中絶の施設を不可欠とみなす一方、教会や礼拝所を除外している。これは正しくない。直ちに再開させるべきである、すぐに!もし州知事がそうしなければ、私が大統領の権限を行使して再開させる、アメリカは、より多くのprayer(祈り)が必要なのであり、(より)少なくではない」と聖職者顔負けの発言をされました。多くの信者が大統領に感謝をして感動し励まされたことでしょう。特に秘跡や聖体訪問を渇望している人ほど。逆にトランプ大統領みたいな為政者が日本に居たらなぁと思いました。
 さて救い主である聖体は今私たちに何をお求めでしょうか。次回「聖体」について書いてみたいと思います。


腐敗の伝染、秩序の破壊

2019-08-22 07:40:00 | カトリック
なぜ人は共産主義に騙され続けるのか
という興味深い記事を読みました。
大方この記者の言うことは至極真っ当です。
実はこの現象は残念なことにカトリック教会に蔓延っています。伝統の教えと新しい教えという意味では新しい教えが正統の教えを駆逐する勢いで伝統信者の多くは迫害を受けています。
欧米社会では伝統のカトリック教会にダメージがあるならばどんな手段をも選ばない左派の動きを上記の記者は見抜いていますが、時代共に言葉やイデオロギー等を変えて常に天主の秩序、すなわち聖なるカトリック教会を破壊すること、実はそれは悪魔の働きであることを指摘できれば満点なのですが。

エクソシストからの警告

2019-07-17 20:37:02 | カトリック
枢機卿(エクソシスト)「数十年前教会は悪魔払いの方法を変えました。12世紀から続いてきた最も効果的な祈りを排除し非力な武器で戦わせたのです。」
質問手「どうしてそんなことを!」
枢機卿「教会も悪魔に毒されているからです。そのせいで聖職者たちは悪魔の存在を信じなくなりました。それに対抗する神の力をもです。多くの人は悪の根元に触れずに悪からお救い下さいと言います。」

カトリック教会と悪魔の戦いはまだ続いています。この世の終わりまで続くでしょう。歴史から私たちが学ぶことは、悪魔側に流された人は地獄に行くという事です。上述から言えることは実際教会の多くの聖職者が悪魔に負けていると言えるのかもしれません。公会議以降、以前のように司祭ははっきりと端的に教えを解く事が少なくなりました。多くの人がカトリック教会から羅針盤として見いだすことが無くなってきました。バチカンも司祭も時代と共に教えが変わって行くようにも見えます。その結果教会から多くの信者が離れ、病み、セクトに関わる人さえいます。
聖なる神学者が言うように、「教えは古ければ古いほど信頼出来る」のです。太古の教えにしがみつくしかありません。
ロザリオを唱えましょう。ロザリオは直接天から与えられた祈りです。祈りましょう!