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歴史だより

東洋と西洋の歴史についてのエッセイ

≪書道の歴史概観 その3≫

2021-02-13 12:08:10 | 書道の歴史
≪書道の歴史概観 その3≫
(2021年2月13日投稿)




【石川九楊『中国書史』はこちらから】

中国書史


【はじめに】


 今回のブログは、引き続き、王羲之の「蘭亭序」について考えてみる。松本清張もその推理小説で取り上げているので、それについても紹介してみる。
 また、王羲之の草書「十七帖」や王羲之の書の魅力、および息子王献之について触れてみたい。



さて、今回の執筆項目は次のようになる。


・「蘭亭序」と松本清張の推理小説について
・王羲之の草書「十七帖」について
・「蘭亭序」に関連して
・王羲之の書の魅力について
・入木道について
・王羲之の書に対する夏目房之介の見方
・王羲之の息子王献之について







「蘭亭序」と松本清張の推理小説について


松本清張の傑作に「書道教授」というのがあり、そこに「蘭亭序」がでてくる(宮部みゆき編『松本清張傑作短篇コレクション 中』文春文庫、2004年所収、73頁~241頁)。
ストーリーを簡単に説明しておく。
呉服屋の主人が亡くなり、未亡人となった50歳すぎの女性、勝村久子が店をたたんで、書道を教えることになる。しかし、裏商売として、盗品の売買をしていたことが後に判明する。
主人公の川上克次は、銀行に勤めているが、古本屋の女房、妙子に好意を寄せるが叶わず、彼女に似たホステスの神谷文子と深い仲になる。しかし金を要求してくるホステス文子に嫌気がさし、その書道教室の家で殺害する。死体処理は弱味につけこんで、その書道教授の久子に任せることになる。
2年が経ち、迷宮入りになりかけたホステス殺害事件も、川上の妻に買ってあげた着物から、意外な方向に展開した。つまり、妻がお気に入りの着物に執着するあまり、探し回り、偶然、自分の着物を着ている女性を町で見かけ、盗品買いの組織を警察が摘発することになる。しかし、このことが結果的に、皮肉にも夫が逮捕されるきっかけになってしまうというストーリーである。
この松本清張の「書道教授」という作品は、『週刊朝日』に連載されたシリーズの一作で、1969年から1970年にかけて発表されたものである。宮部みゆきは、この「書道教授」という作品を次のように要約している。「身近にいる四人の女の、それぞれに腹の据わった生き方に振り回され、勝手に踊りをおどっちゃって自滅する、滑稽で悲しいスケベ男の犯罪譚であります。」と。
四人の女性とは、次の人物である。
①主人公・川上克次の妻、保子。
②主人公の行きつけの古本屋「谷口書店」の女房、妙子。
③呉服店の寡婦で、書道教授をしている勝村久子。
④主人公の愛人で、バー勤めの神谷文子。
宮部みゆきが、主人公の川上に腹が立つのは、文子と切れた彼が、妻の保子に着物を買ってやると言い出し、保子が無邪気に喜ぶくだりであるという。川上は、文子に搾り取られた金を思えば安いものだと思い、「その程度の金で妻がよろこぶのも、平凡な日常生活のありがたさだった」と記されている箇所である。浮気ばかりして、妻をほったらかして、そのうえ女房を舐めるなと宮部は怒っている。
(宮部みゆき編『松本清張傑作短篇コレクション 中』文春文庫、2004年12頁~13頁、204頁、241頁)

【宮部みゆき編『松本清張傑作短篇コレクション 中』文春文庫はこちらから】

宮部みゆき責任編集 松本清張傑作短篇コレクション 中 (文春文庫)

話は横道にそれたが、「書道教授」の勝村久子が「蘭亭序」を手本として、「永字八法」および字の「病勢」について説く場面は、やはり注目に値する(宮部編、2004年、99頁、124頁、140頁、149頁~150頁)。
銀行の外務係をしている川上克次は、呉服店の木の札に書かれた、気品があって惚れぼれするような文字に感心し、書道を習いたいと思った。川上は学生時代に書道を習ったことがあり、銀行の能書家として知られていた。再び書道を始めたいと思ったのは、落ち着きを与える効果があるからであった。
筆法の練習として、手本としたのは、「蘭亭序」である。
「勝村久子は半紙に書いたものを見せた。それは、手本としてよく使われる「蘭亭序」のはじめのところだった。楷書の字は女性とは思われないくらい雄渾で、久子の細い身体からは想像のできないほどの勢いがあった。どこか王羲之の書風を思わせた」(宮部編、2004年、99頁)。

「永字八法」についても、次のような記述がある。「今日も「永和九年歳在」の練習で、当分はここの稽古にとどまりそうだった。ことに「永」の字は「八法」といって筆法の型が集約されている。点書のテンやハネや棒には、いちいち「勒(ろく)」とか「磔(たく)」とかむずかしい名前がついている。」(宮部編、2004年、123頁)。
また、「永字八法」教育には、禁忌すべき書法として「八病八疾」がある。たとえば、八病の一つに、「鶴膝(かくしつ)」というのがある。これは、縦画(弩)とはね(趯)の病である。起筆と終筆が極端に太り、送筆部が細く、かつ終筆部から細く長くはねられた姿は、鶴の膝(ひざ)を連想させるため、この呼称がある。
また、八疾の一つとして「撒箒(さんそう)」がある。左はらい(掠)と右はらい(磔)の先が三角形に収斂しないと、箒(ほうき)や刷毛で書いたような、ハケ目状の収まりのつかないはらいの形状が生まれることをいう。
(石川九楊『書を学ぶ―技法と実践』ちくま新書、1997年、133頁~139頁)

【石川九楊『書を学ぶ―技法と実践』ちくま新書はこちらから】

書を学ぶ―技法と実践 (ちくま新書)


松本清張の「書道教授」でも、「永字八法」の病勢について記している。つまり、「永字八法」の字の病弊について、勝村久子が講義する場面が描かれている。
たとえば、次のように出てくる。
勝村久子は川上に話した。
「……では、病気にかからないようにするにはどうすればよいか、と申しますと、それにはまず癖のない、点画の正しいお手本で習うことがいちばんですが、字の病気をよく知っておき、これにかからぬように気をつけることでございます。字の病勢とは、どんなものを云うかと申しますと、昔から書道のうえで、忌まれている病勢を申しましょう」
久子は、そう云って朱筆を揮い、点書の悪い見本を書いて示した。
「……こんなふうに、打った点がごつごつと角立ったのを牛頭(ぎゅうとう)といいまして、避けなければいけません。……これは角に力を入れすぎて急に力を抜くと出てくる形で、稜角(りょうかく)といい、醜いものにされています。……これは筆の入れかたと止めかたが悪い例で、竹節(ちくせつ)と申しております。……これは、おわかりのように、はじめと終わりに、あまり力を入れすぎて、途中がすっかりお留守になったために形が悪くなったもので、上下が関節のように大きく、その間が細い鶴の足に似ているところから鶴膝(かくしつ)という名がついております。……これは磔法のハネ方が悪くて、箒(ほうき)のようになってしまいますから撒箒(さんそう)といって忌まれています……」
「永字八法」についてだけでも、字の「病勢」を勝村久子は講義し、その見本を書いて示した。書の習いはじめには、この病気にかからぬよう十分に気をつけよ、というのであるが、川上は、聞いているうちに、これは処世の上にも通じていると思い、文子のような女からの苦しみが予防できなかったことをここでも後悔するのだった。勝村久子から書道の講釈を聞いて、人生教訓を感じるのは、やはり彼女の残光のような人柄であった。」
(宮部みゆき編『松本清張傑作短篇コレクション 中』文春文庫、2004年所収、「書道教授」、124頁~125頁)

書家の石川九楊は、松本清張のこの推理小説について言及している。
「書の評語はごく月並み。書道教授は中年の未亡人。書を習う理由は心を落ち着かせるため。学習材料が王羲之筆「蘭亭叙」。「永字八法」と「八病八弊(はっぺいはっしつ)」を教えられるという設定。いかにもありそうなことが並んでいる。ありそうなことがこうまで完璧に揃うと、逆に現実感を失ってしまう。プロットを夢中で追いかけるタイプの推理小説の設定としては、この方が邪魔がなくて良いのかもしれない。」と記している。
(石川九楊『現代作家100人の字』新潮社、1998年、45頁~46頁)

【石川九楊『現代作家100人の字』新潮社、1998年はこちらから】

現代作家100人の字 (新潮文庫)

かなり手厳しい書評である。
また、石川九楊は松本清張の書についても批評している。松本清張の書風は、平安王朝末期の爛熟の書や絢爛たる桃山、寛永期の和様の命脈を伝えているという。そして、書画「青木繁像」について評している。素人の私などは、その書を達筆でうまいと思うのだが、石川は、<青><清>に俳優のサイン風の通俗的な歪形(ゆがみ)が見通せるといい、内に俗を孕みながら、外側を高貴に飾り立てた書と言えようと、これまた手厳しい評を述べている。
(石川九楊『現代作家100人の字』新潮社、1998年、44頁)。

王羲之の草書「十七帖」について


王羲之の草書「十七帖」の文字群は皆素朴であり、おおらかであり、それでいて雄大であり、いずれの文字の姿も美しい。
王鐸が二王帖と称するものを持っていて、一日はこれを中心として終日臨書をし、翌日は求めに応じて揮毫し、またその翌日は二王帖など習うことを日課としたといわれる。
「十七帖」でどのような筆を使用したかは不明であるが、村上三島は、羊毛のような柔らかい筆ではなく、長鋒でもなく、ある程度、こわい毛の筆であったと想像している。というのは、曲線のたわみが柔らかい毛の筆ででやすい、なまぬるいものではなく、ぐっと張りの強いものを感じるからであるとする。この簡潔さは相当こわい毛でなければ出ないとしている。
(村上三島『独習書道技法講座9 草書・十七帖』二玄社、1984年、33頁)


「蘭亭序」に関連して


大溪は、「町書家の悲劇」と題して、王羲之の「蘭亭序」に関連することを述べている。書とは何かが解っていない書家のことを大溪は「町書家」と呼んで、柳田泰雲という作家を批判している(この書家は金澤泰子の師匠にあたる人物のようである)。
柳田泰雲は、
「羣賢畢至少長咸集
 崇山峻嶺茂林脩竹」を対連として作品にした。
しかしこれでは切れ目で字数が揃わないと批評している。柳田は字数で適当に切って揃えているので、まずいという。
どうしても、「蘭亭序」のこの箇所を書くとしたら、次のように対連にすべきであるという。
①「羣賢畢至少長咸集
  此地有崇山峻嶺」
②もしくは、
「羣賢畢至少長咸集
 此地有崇山峻嶺茂林脩竹」
これらのどちらかであれば、文句はないという。これは脱字ではなく、8字で揃うことを意図して、「此地有」を省略したものである。柳田の作品には、「有」の述語が抜けており、正確には文章として成立しない。述語のない、句だけのこともないではないが、この場合は柳田の文ではない。人の文を借りて書するならば、意味の通るように書くべきであり、それが最低の礼儀であると大溪は主張している。
字が「へた」ならやむをえないが、間違いを書いては駄目で、書家は正しい字を書き、正しく文章も理解せねばならないという。書とは何かが解っていない町書家に、芸術的な書など書けない。もっとも書は芸術である前に文化であり、不見識はいけない。文化にはそれぞれよってきたるべき源があるので、それを理解せよという。
(大溪洗耳『戦後日本の書をダメにした七人』日貿出版社、1985年、88頁~91頁)

【大溪洗耳『戦後日本の書をダメにした七人』日貿出版社はこちらから】

戦後日本の書をダメにした七人

王羲之の書の魅力について


書聖王羲之の書の魅力について、魚住和晃は次のように表現している。
「李柏文書はもとより、楼蘭残紙においても、一字一字を見れば共通点を有するものであったとしても、この字と字との流れという視点においては、ほとんど表現し得ていない。他にほとんど参考にすべき実証資料がないのだから、軽率な断定は許されないが、この二者に比べると、王羲之の書はまさしく飛躍的に洗練されたものである。
そして、喪乱帖(そうらんじょう)、孔侍中帖(こうじちゅうじょう)に見られるあざやかな字間の流れを速度豊かな筆さばきこそが当時における王羲之の書法の傑出した表現力であり、この斬新さが人びとを魅了したものではないかと私は考えている。そうした見方からすれば、一字一字を取り出して組み立てた集字聖教序は、王羲之書法の魅力としては、半減したものであるといわざるをえず、風信帖もまた、このあざやかさを有していない。」

つまり、あざやかな字間の流れと、速度豊かな筆さばきに王羲之の書法の傑出した表現力が現れており、その斬新さに魅了されたという。
(魚住和晃『「書」と漢字 和様生成の道程』講談社選書メチエ、1996年、178頁)

【魚住和晃『「書」と漢字―和様生成の道程』講談社はこちらから】

「書」と漢字 (講談社学術文庫)



この魚住の引用にも出てきたように、王羲之にまつわる書に、「集字聖教序」がある。玄奘三蔵は、インドから持ち帰った仏典の訳に、太宗から序文「聖教序」を賜ったが、これを記念して、述聖記と二つの勅答、般若心経を加えて、碑を建立することになった。興福寺の懐仁(えにん)がこれにあたり、宮中に収蔵されていた王羲之の墨跡から序に使われている字を集め(集字)、25年かけて完成したと伝えられる。魚住の評価は低かったが、この「集字聖教序」は、王羲之の書について考える上で、重要である。
たとえば、最澄の「久隔帖(きゅうかくじょう)」の書風は、王羲之の「集字聖教序」の書風によく似ている。このことは王羲之の書を尊重した奈良時代の風潮を、最澄も若い頃から身につけていたことを物語るものとみなされている。
「久隔帖」は最澄自筆の書状としては、現在唯一のものであり、澄みきった韻(ひび)きの高さは格別であるといわれている。
また天平宝字3年(759)、鑑真和尚の唐招提寺創立にあたり、孝謙天皇から勅筆を賜わって、「唐招提寺」と記した木額(もくがく)を作った。その筆法にも、「集字聖教序」のそれに酷似した字が見られることは注目に値する。
(堀江知彦『名筆鑑賞入門 中国風の書―日本の名筆・その歴史と美の鑑賞法』知道出版、1991年、68頁~69頁、78頁~80頁)

【堀江知彦『名筆鑑賞入門 中国風の書―日本の名筆・その歴史と美の鑑賞法』知道出版はこちらから】

中国風の書―日本の名筆・その歴史と美と鑑賞法 (名筆鑑賞入門)

入木道について


王羲之の書が抜きんでて秀れていたことを語る伝説はたくさん残っている。その一つにこんな話がある。王羲之の書を版木に彫ろうとしたところ、墨が木のなかに三分も深く沁みこんだという。筆力が強いからである。
入木(じゅぼく)という言葉がそこから生まれ、人々はいつしか書のことを入木道と呼ぶようになったという話である。
伝説というものには真実の力がこもっている。入木というこの話からも、王羲之の卓抜した筆力が伝わってくる。王羲之の作品に「喪乱帖」という有名な尺牘がある。それは筆力が強く、しかも線が深い。
「喪乱帖」の線には王羲之の深い思いがびっしり詰めこまれていると鈴木史楼は推測している。その「喪乱帖」の初めの方には、戦乱で再び祖先の墓が荒れていると聞いて、なんとも残念でならず、悲しみのあまり、心が砕けるほど辛い思いをしていることを述べている。例えば、「痛み心肝を貫く」とあるところなどを見れば、悲憤に耐えない思いを、その筆は一字一字余すところなく書いていることが感じられる。
(鈴木史楼『書のたのしみかた』新潮選書、1997年[1998年版]、236頁)

【鈴木史楼『書のたのしみかた』新潮選書はこちらから】

書のたのしみかた (新潮選書)




王羲之の書に対する夏目房之介の見方


夏目漱石の孫である夏目房之介は「天才と書聖のちがい」と題するエッセイで、王羲之の書は天才的なひらめきの感じられるものでもなく、見事ではあっても震撼するほどの絶対的価値を感じないと記している。彼にとって、天才的な表現で、絶対的価値のあるものとは、ミロの絵、モーツァルトの音楽、キューブリックの映画、谷岡ヤスジのマンガを指すらしい。
ただ、王羲之の書にも、才気を感じる部分があるという。例えば、「喪乱帖」の「哀」の右のくるりと回る筆の剽軽さとか、「臨」の省略された偏の大胆な太さと旁のやや強気な軽妙さとの対比などを、只者でないと感じるという。しかし、これらの字にビビるほどの天才のひらめきを感じるわけでもないと断りつつも、夏目房之介は次のようにも述べている。
「私の感じる「天才」とはその規範からの逸脱で計られる。だから王羲之について天才のひらめきを考えるのはそもそも天才という存在を可能にする原型そのものに天才を問うようなものじゃないか」と。
(石川九楊編『書の宇宙6 書の古法<アルカイック>王羲之』二玄社、1997年、86頁~87頁)

【石川九楊編『書の宇宙6 書の古法<アルカイック>王羲之』二玄社はこちらから】

書の宇宙〈6〉書の古法アルカイック・王羲之

王羲之の息子王献之について


王羲之の息子(第七子)である王献之も能書家としてよく知られている。父の王羲之を大王、この王献之を小王、父子のことを二王という。
その書に「洛神賦十三行」がある。これは魏の武帝の子曹植(そうち)の洛神賦の一段で、この帖には十三行しかないので、この名がある。特に波法がうまく、スマートで暢びのびしている。総じて貫禄は思慮深い王羲之にあり、王献之は敏感で利巧で才のひらめきがあるので、精彩があると評される。魚にたとえるなら、「羲之が鯛なら、献之は鱸(すずき)である」といわれる。
(鈴木翠軒・伊東参州『新説和漢書道史』日本習字普及協会、1996年[2010年版]、41頁~43頁)

【鈴木翠軒・伊東参州『新説和漢書道史』日本習字普及協会はこちらから】

新説和漢書道史



≪書道の歴史概観 その2≫

2021-02-13 11:50:38 | 書道の歴史
≪書道の歴史概観 その2≫
(2021年2月13日投稿)
 




【石川九楊『中国書史』はこちらから】

中国書史


【はじめに】


 今回は、構想にしたがって、王羲之および「蘭亭序」について考えてみたい。あわせて、欧陽詢、褚遂良の書いた「蘭亭序」、石川九楊の「蘭亭序」に対する評価について記しておく。




さて、今回の執筆項目は次のようになる。


・王羲之について
・「蘭亭序」の系統について
・「神龍半印本蘭亭序」について
・石川九楊の「神龍半印本」に対する評価について
・「蘭亭序 八柱第三本」について
・欧陽詢と褚遂良の「蘭亭序」について







王羲之について


王羲之(307-365、異説あり)は、東晋の名族、琅邪の王氏の出身で、右軍将軍なる官についたことから、世に王右軍とも称される。王羲之は幼少の頃、汝陰太守李矩の妻である衛鑠(えいしゃく、272-349)を師としたと伝えられる。鐘繇より衛夫人、衛夫人から王羲之にと筆法が伝えられたとする説が残っている。
ところで、王羲之が44歳のとき、右軍将軍、会稽の内史となり任地におもむき、在任4年ののち官を辞し、その後、山水の風光に富む会稽にとどまり、悠々自適の生活を送り、58歳でこの地で生涯を終えた。
書は八分、隷、楷、行、草、章草、飛白の各書体をよくしたと伝えられるが、今日伝存する書跡はすべて楷、行、草の三体に限られる。これらの三体の書体はいかにも貴族的で典雅端正、その人間性から生まれ、縹渺たる仙気を含み、一種の風格がそなわっているとされる。隋唐以来、書聖と仰がれ、その子王献之とともに二王と称され、中国書道の正統となった。
王献之(344-388)は王羲之の第七子で、父を大王と呼ぶのに対して、小王と呼ばれ、父の書より逸気に富み、妍媚な書風を成した。
(平山観月『新中国書道史』有朋堂、1965年[1972年版]、154頁~155頁)

【平山観月『新中国書道史』有朋堂はこちらから】

新中国書道史 (1962年)

さて、中国の書法史において、王羲之の占める位置は重要である。今日、王羲之の真筆は残念ながら地球上に一作も現存していないといわれる。
ひと口に王羲之の書といっても、今日的な立場から見ると、その表現は3つのパターンに分けられる。
①「楽毅論」、「黄庭経」、「東方朔画讃」に見る小さい楷書
 字形が比較的ばったく、起筆が唐代の楷書のように明確でない、いわゆる魏晋小楷に類せられるもの。
②「蘭亭序」に見る行書
③尺牘(せきとく)に見る草書
これら3つが主であるが、もう一つ、いわば合成体ともいうべき王羲之の書のスタイルとして、「集字聖教序」がある。
(魚住和晃『「書」と漢字 和様生成の道程』講談社選書メチエ、1996年、167頁~172頁)

【魚住和晃『「書」と漢字―和様生成の道程』講談社はこちらから】

「書」と漢字 (講談社学術文庫)


このうち、②の「蘭亭序」について詳述しておこう。
永和九年(353)3月3日、東晋の穆宗皇帝のとき、王羲之をはじめ42人が集まり、禊事(けいじ、厄払い)をした。水の流れに觴(さかずき、盃)を流しながら、詩を作った。その時、王羲之が詩の序文を作った。これが「蘭亭序」である。
蘭亭は、会稽郡山陰県の西南20里(約8キロ)あまりに位置する名勝の地である。この会稽郡山陰県は現在の浙江省紹興市で、魯迅の故郷でもある。会稽の名は、夏王朝の創始者である禹王が、浙江、すなわち銭塘江の東にあたるために浙東とよばれるこの地に、天下の諸侯をあつめてそれぞれの政治の成績を採点したことに由来するという。会稽とは、「会(あつ)め稽(かん)がえる」という意味である。その禹王はそのままその地に果て、いわゆる会稽山に葬られたという。伝説時代のことはともかくとして、春秋時代にはこの地方を中心に越の国が建国され、越王勾践と呉王夫差とのあいだに戦われた凄絶な復讐合戦は、「臥薪嘗胆」の故事とともに有名である。秦の始皇帝は、紀元前210年には、会稽山に禹王を祭るとともに、南海にのぞむ地にみずからの頌徳碑を建設した。中国のヘロドトスとよばれる漢の司馬遷は、青年時代におこなった長途の旅行にあたって、会稽にも足跡をしるした。
永和7年(351)、会稽の長官として赴任してきた王羲之が、そこを終焉の地とひそかに心にきめたのも、会稽の自然につよくひかれたためであった。会稽は、都の建康にもけっしてひけをとらぬ文人の中心でもあった。哲学討論ないし機智のさびをきかせた談論、つまりいわゆる清談や、仏典の講釈やらがさかんにおこなわれた。吉川忠夫は、会稽を日本の軽井沢に比している。
(吉川忠夫『王羲之―六朝貴族の世界』清水新書、1984年[1988年版]、36頁~39頁)

【吉川忠夫『王羲之―六朝貴族の世界』清水新書はこちらから】

新・人と歴史 拡大版 05 六朝貴族の世界 王羲之〔新訂版〕

ところで、「蘭亭序」は
「永和九年、歳ハ癸丑ニ在リ。暮春ノ初、会稽山陰ノ蘭亭ニ会ス。禊事ヲ脩スル也。群賢畢ク至リ、少長咸集マル。」という書き出しである。この文章は、28行で、324字であった。
その時に用いた紙は蚕繭紙(さんけんし)という紙で、筆は鼠鬚筆(そしゅひつ)であった。紙は楮(こうぞ)をもって漉いた粗製のものであったが、繊維が光り、紙面が蚕の繭のようだったので、蚕繭紙といわれた。また、鼠の鬚(ひげ)で作った剛い筆であったので、鼠鬚筆といわれた。
王羲之の「蘭亭序」といえば、古来行書の学習の規範として、「集字聖教序」ともに双璧とされている。欧法、褚法、虞法それぞれの「蘭亭序」が伝えられているが、褚遂良書と伝えられる「神龍半印本蘭亭序」が最も好まれる(ただ、この点については、後述するように、石川九楊が異を唱えている。)。細部まで筆路筆鋒が明快で、神経が行き届いているからである。
(吉丸竹軒『楽しく学ぶ 四体蘭亭叙』金園社、2012年、3頁、16頁、20頁)

【吉丸竹軒『楽しく学ぶ 四体蘭亭叙』金園社はこちらから】

楽しく学ぶ吉丸竹軒 四体蘭亭叙 (最高のお手本シリーズ)

「蘭亭序」の系統について


藤原鶴来は、伝存する「蘭亭序」を次のように大別している。
①欧陽詢の臨書系統に属する定武本
②褚遂良の臨書系統に属する神龍半印本
③虞世南の臨と伝えられる張金界奴本
④馮承素(ふうしょうそ)の臨と伝えられる馮承素本
⑤その他、太宗から潘貴妃(はんきひ)に贈った「賜潘貴妃本蘭亭序」や、洛陽宮本(らくようきゅうぼん)などがある。
①の定武本は不鮮明ではあるが、高雅で骨力に優れているのが特徴である。②の神龍半印本は、点画が鮮明で爽快、筆勢が盛んで神彩がある。肉筆の感が強いから初学者の学習に恰好であるとされる。帖の首と尾に「神龍」の半印があるので、この名がある。
③の「張金界奴本」は精刻で鮮明で、末尾に「臣張金界奴上進」の七字があるのでこの名がある。神龍半印本にも似ており、筆路が明らかで精彩があるから、初学者にも習いやすい。北京でこの双鉤塡墨(籠字にとって墨をうずめたもの)が発見され印行されている。
(藤原、1927年[1981年版]、59頁~61頁)


④馮承素の臨と伝えられる馮承素本について、佘雪曼が、少し異なった解説を加えている。
馮承素は褚遂良と年輩が近い。彼は弘文館の搨書(とうしょ)人の代表で、また立派な摹印の技術をもっていた。その摹製の方法は、まず用紙を原本の上におき、各々の字の輪郭をとって、濃淡を見比べながら、墨をぬる。一毫といえどもおろそかにせず、原本と極めて真にせまったものとする。こうした摹本の一つは、神龍の小印を押してあり、唐摹と断ずべき一確証であるとされる。
神龍は中宗の年号であって、中宗は太宗の孫、高宗の子である。太宗が弘文館の摹本を皇子たちに分かち賜ったとき、高宗はそのうちの一本をもらっているはずであり、伝えて中宗に与えられ、一顆押された。そこで「神龍本」とよばれたとする。
ところで、唐の高宗のとき、懐仁和尚が王羲之の行書を集めて、「大唐三蔵聖教序」つまり「集字聖教序」をつくった。「蘭亭序」は行書の龍で、字数も最も多いので、採選のもっともよい対象であった。この「集字聖教序」と「蘭亭序」各本と同一の字を比較検討すると、欧陽詢の定武刻本や、宋人重摹の虞世南臨本、褚遂良臨本よりは、馮承素摹本の神龍本の字形に相合し、姿態は真にせまっており、懐仁の採ったところの祖本であると佘雪曼は主張している。
(佘雪曼編『書道技法講座7 行書 王羲之』二玄社、1970年[1982年版]、2頁~4頁)

【佘雪曼編『書道技法講座7 行書 王羲之』二玄社はこちらから】

蘭亭叙[行書/東晋・王羲之] (改訂版 書道技法講座 7)

ところで、正倉院の宝庫には「東大寺献物帳」という目録がある。その中に、王羲之の書法二十巻というものがある。各巻いずれも上に「搨(とう)」と書き添えられている。このことから、王羲之の真筆そのものではなく、写しであったことがわかる。
この写しの方法は、真跡の上にごく薄い紙を載せ、原本の文字を一字一字輪郭どりをし、その輪郭の中に、原本の墨色を忠実に模して、墨を埋めてゆくものである。こうしてできた写しのことを「双鉤塡墨本(そうこうてんぼくぼん)」という。「搨」ということばはそれを意味している。
これらの双鉤本二十巻は、弘仁11年(820)10月3日に宝庫から出たまま、ゆくえを失ってしまったという。ただ、「喪乱帖」(御物)と「孔侍中帖」(九月十七日帖ともいう)」(前田育徳会蔵)という双鉤本は、書法二十巻の一部がかろうじて残ったものと想像されている。
(堀江知彦『書道の歴史』至文堂、1966年[1981年版]、10頁~12頁)

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書道の歴史 (1963年) (日本歴史新書)

「神龍半印本蘭亭序」について


北京の故宮博物院の「蘭亭序」の唐摹本の一本、蘭亭八柱第三帖にあたる横巻は、神龍の印があるので、神龍本とも呼ばれている。
松井如流は、この神龍本が一番王羲之の原本にもっとも忠実なものと考えている。その理由として、次の3点を挙げている。
①この神龍本は、鋒先きが鋭く且つ筆勢の勁い点を指摘している。王羲之は「蘭亭序」を書くのに鼠鬚筆を用いたと伝えられるから、その書はおそらく鋭い鋒先きを示していたにちがいなく、その上「喪乱帖」などの古い搨本の鋒先きの鋭い書であることをあわせて思うべきであろうとする。こうした点からしても、八柱第一帖(張金界奴本)、同第二帖よりも、この第三帖が優っていると松井は考えている。また、「定武本」などの鋒先きのあらわれていないもののほうが、いかにも古い趣を持っているかのように昔から言われてきたが、王羲之の真蹟は決してそんなものでなかったといってよいと主張している。
②「蘭亭序」に文字を訂正したところが数箇所あるが、神龍本では墨の濃淡によってはっきりさせている点を挙げている。原本は必ずしもそうではなかったであろうけれども、訂正の箇所をわかりよくするために、特に意を用いたものと推測している。
③「崇山峻領」の崇字について、注目して、検討している。つまり、崇字を書くのに、縦に一直画を書き、それを中心にして八を書く、あたかも小字のように見え、それに横画を添えて、山カンムリとしている。山カンムリを書くのに、「蘭亭序」の崇字のように小字に一横画を添える書き方をしているものに、唐の太宗の書「温泉銘」がある。「巌虹曜巌」の巌字の山カンムリがそれである。このことから、太宗が日頃から熱愛してやまなかった「蘭亭序」の崇字を思い出して、このように書いたのではないかと推察している。この神龍本は、王羲之の原本に忠実に摹取した証左であるという。このような理由から、神龍本をもっとも尊重されるべきであると松井如流は主張している(松井、1977年、106頁~108頁)。
筒井茂徳は、「張金界奴本蘭亭序」「神龍半印本蘭亭序」「定武本蘭亭序」の三本のうち、「神龍半印本蘭亭序」を底本としている。その理由として、「三本のうち、筆路が最も見やすく、筆遣いの細部にいたるまで克明に見え、行書の手本としてふさわしいからである」と述べている。
(筒井茂徳『行書がうまくなる本 蘭亭序を習う』二玄社、2009年[2013年版]、7頁)

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行書がうまくなる本[蘭亭序を習う]


石川九楊の「神龍半印本」に対する評価について


北京故宮博物院に「蘭亭序」の墨跡本「八柱第一本(張金界奴本)」、「八柱第二本」、「八柱第三本(神龍半印本)」が所蔵されている。
近年の書道界では「八柱第一本」と「八柱第三本」を高く評価する傾向があるが、「八柱第三本」を評価するのは誤りであると石川は主張している。「馮承素摹本」と題され、「神龍半印本」と通称される墨跡本「八柱第三本」は、書としての体裁すらなさない、まったくひどい代物であると断言している。
墨跡本の「八柱第一本」と「八柱第三本」を、双鉤塡墨とみなしている。つまり、文字を敷き写して、輪郭を先に写し取り、後にそのカゴ取りした中を墨で塗りつぶすことによってつくられたものである。

①「八柱第一本」は、多くの初唐楷書書法つまり三折法も姿を見せるが、一部に初期六朝書法つまり二折法で書かれた痕跡があり、また隷書体の残渣をとどめる箇所もある。この意味において、三者の中で、最も王羲之時代に近い書きぶりを残した双鉤塡墨の書跡であるとみなしている。
②「八柱第二本」は、まったく古法・二折法の姿を見せず、初唐代以降の新法・三折法以降の書で、おそらく臨本であるという。文字構成の点から見て、翁方綱や啓功が唱える米芾作の臨本である可能性は十分あると同意している。
③「八柱第三本」は、二折法・古法についての理解も、また書や文字についても理解の浅い者になるものである。つまり、「八柱第一本」や「八柱第二本」と比較対象にもならない拙劣な双鉤塡墨であると石川はみなしている。
書は「筆蝕」を読むところからしか明らかにならないという石川の持論から判断する限り、上記のような評価を「蘭亭序」の「八柱第一本」「八柱第二本」「八柱第三本」に対して下している。
繰り返すが、現在、一般に書道界は、北京故宮博物院に所蔵されている墨跡本「八柱第三本(神龍半印本)」を高く評価している。しかし、石川九楊はこの説はどう考えても理解できないと主張している。つまり、「八柱第三本」を評価する書家は、その書を「読ん」でいないと批判している。「書を読む」とは、「筆蝕」を読むことであり、筆跡から、字画を描いている時の力の入り方、抜き方、その速度、展開を順に追っていくことを意味する。
「八柱第三本(神龍半印本)」については、伝えられる拓本(刻本)の方が、墨跡本より書の質がましであるというが、墨跡本「八柱第三本」は「奇想天外のヒゲ蘭亭」と名づけて、石川は低く評価している。
筆跡(ふであと)を辿り、筆蝕を読んでいくと、この書が双鉤塡墨本で、原本にワクをとり、墨を塗り込めてつくったとしても、原本の文字の形の意味を十分に解さずにつくり上げたものであることは、明らかであるとする。
なぜ書家が、それを「軽快なリズムで書き進む鋒先の動きが自由で華麗だ」とほめる気が知れないという。ピンピンとひげのように細く長くなった起筆や撥ねなど部分の動きだけをつまみ食い的に目をとめて、その印象を語っているにすぎず、書字の骨格を追わず、その筆蝕を読み込んでいないからだという。
たとえば、「蘭亭序」の「永和九年歳在癸丑暮春之初會」の13文字を検討すると、「暮」字について、次の点を指摘している。
「八柱第三本」の「癸」が細く、「丑」で極端に太くなり、「暮」で中程度に戻っており、その落差が評価できない。つまり統一と脈絡を欠いていて醜いという。また、「暮」字の上の「日」部の囲みの太さと下の「日」部との落差が不自然である。拓本の「神龍半印本」ではこれほどの落差はない。このように、石川は検討している。
「八柱第三本」は、中国の政治家である郭沫若、中国書法家協会の会長の啓功が一定の評価をした。この「八柱第三本」重視説は、その評価を無批判に追随する書道界の一部の性向と書を読み込む眼の未成熟とが生んだ珍奇な現象であると石川はみなしている。中国の言説は絶えず政治的であるので、その判断は慎重にすべきであるとも警告している。
そして、石川は、「八柱第一本(張金界奴本)」は、六朝書法と楷書書法の合成体(サイボーグ)であるとし、また宋代米芾の臨本かともいえる「八柱第二本」を出色としている。
(石川九楊『中国書史』京都大学学術出版会、1996年、105頁、110頁~112頁、115頁~117頁、123頁~124頁)

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中国書史

「蘭亭序 八柱第三本」について


「蘭亭序 八柱第三本」について、内藤乾吉は次のように解説している。
清内府旧蔵で、三希堂法帖第三冊および蘭亭八柱冊第三に刻されたものの原本であるが、それ以前にも刻本がいろいろある。
「式古堂書画彙考」「大観録」に著録されている。帖首と帖尾に、「神龍」という印の半分ずつがあるので神龍本または神龍半印本と呼ばれている。「式古堂書画彙考」には、縫に貞観、紹興の印があるといい、「大観録」にも貞観神龍の唐璽、紹興の宋璽ありといっているが、写真版で見る限りでは紹興の印はあるが貞観の印は認められないという。
刻本によっては、貞観や開元の印があるのもあるが、元の郭天錫の跋からヒントを得て偽作したものであろうと内藤乾吉はみている。
米芾の「書史」に、「古帖で貞観と開元の印を同用したものは一つもない、それは貞観の時のものが武后時代に宮外へ流出したが、開元の時に買上げに応じたものはみな貞観の印を切り取って出したからだ」といっている。これから考えても、貞観、神龍、開元と印が揃うのはおかしいことになると内藤乾吉は推察している。
ところで、張彦遠の『歴代名画記』の「敍古今公私印記」にも、貞観、開元の印は著録されているが、神龍の印は載せていない。郭天錫は張彦遠が捜訪し尽さなかったのであろうとしているが、これが果して神龍の時のものかどうかは疑問であるという。
また「唐模蘭亭」と題して、その下の縫上に押された模糊とした印を「式古堂書画彙考」には「神龍書府」と読んであるが、この点も疑問であるという。というのは、もしそう読めるならば、神龍の印が半分切れた縫上に「神龍書府」の全印があるのはおかしいから、これは神龍半印よりさらに後の偽印ということになるからである。翁方綱はこれら諸印はみな後人が加えたものだとしていると内藤乾吉は解説している。
さて、「蘭亭序八柱第三」は、三希堂法帖に「馮承素書」と題してあるが、これは郭天錫の跋に馮承素等の搨書人の双鉤塡墨と鑑定しているのによって、馮承素の書ときめてしまったのであろうと内藤乾吉は推測している。
これに反して翁方綱は、刻本神龍本を褚臨原本ではないけれども、褚臨系統であるとしている。

ところで、この本と褚臨黄絹本と内藤は比較して、次の点を指摘している。
①「和暢」の和字の口が、曰のようになっている点、娯字の女の横画に遊絲のある点など、相似たところがあるけれども、書風に黄絹本ほどの古気はない。
②この本には黄絹本には見られない羣字の雙杈や崇字の冗点があるところを見ると、むしろ搨書人の双鉤塡墨の系統と見るべきではないかという。ただ、この本は「八柱第二」と同様に、形の悪い字やなまくらな筆が多く、終わりの方はことに悪い。
唐初の宮廷の搨書人の作った双鉤塡墨本ならば、これほど形が崩れているはずはないから、この本は遥かに時代の降った模本と見るべきであると内藤はみている。そしてその点からいっても、神龍の印が中宗の時のものであるとは受け取りにくいという。
以上が、内藤乾吉の「蘭亭序八柱第三」に対する解説である。
(神田喜一郎ほか編『書道全集 巻4』平凡社刊、1965年、162頁~163頁)


ところで、石川九楊によれば、初唐代楷書以降の三過折法は、起筆・送筆・終筆を、「トン・スー・トン」と描き出す。「八柱第一本(張金界奴本)」は、第12行の「悟言一室之内」の「一」を描く筆触は、起筆+
送筆+終筆という構造は成立しておらず、古い六朝書法に従って書かれており、軽く触れるだけの起筆から、送筆とも終筆とも分化できないプロセスで描き出されており、「スー・グー」である。
いわば、時間と空間の分化の未成熟な筆触上で「アルカイックな豊潤さ」が感じられ、通俗的に表現するなら、「ぽってり蘭亭」と石川は呼んでいる。
(石川九楊『書とはどういう芸術か』中公新書、1994年、116頁~118頁。石川九楊『中国書史』京都大学学術出版会、1996、118頁~120頁)。

【石川九楊『書とはどういう芸術か』中公新書はこちらから】

書とはどういう芸術か―筆蝕の美学 (中公新書)

 前述したように、「蘭亭序」は永和九年(353)に会稽内史をつとめる王羲之が、三月三日の節句に曲水の宴を催し、そのときに作られた詩を集めて、自からその序文を著したものである。あまりの名品としての名高さに、唐太宗は策をめぐらしてこれを手に入れ、ついには死後も自身の陵墓である昭陵に副葬品として納めさせたといういわく因縁つきのものであるが、この「蘭亭序」は時の名手、欧陽詢、虞世南、褚遂良の各家に臨書による模本を作らせており、さらには完璧な写し取りである響搨本も作らせているので、それらを底本とした伝本は数多く残存する。
いま一つは尺牘(せきとく)で、草書が中心である。
もう一つ、いわば合成体ともいうべき王羲之書のスタイルがある。それが「集字聖教序(しゅうじしょうぎょうのじょ)」である(魚住、1996年、167頁~172頁)。
また、定武本と神龍本の「蘭亭序」について神田喜一郎も言及している。定武本は唐の太宗の勅命によって、欧陽詢がつくった模本を石に刻したが、その石が五代の戦乱に際し、一時行方不明になっていたが、宋初、河北省の正定にある定武というところから発見された拓本であるとする。
一方、神龍本は、欧陽詢と相並ぶ書道の大家褚遂良が、唐の太宗の命によってつくった模本から出たもので、神龍という印が押されているから、この名があると神田喜一郎は解説している。また、神龍は、先述したように、唐の中宗の年号で、太宗の死後になる。そこで、この神龍本は、則天武后の時に、太宗の墓をあばいて、そこに葬られた「蘭亭序」の原本を取出し、それを褚遂良が模したのであるというような説もあることを紹介している。(神田喜一郎『墨林閒話』岩波書店、1977年[1978年版]、49頁~54頁)

【神田喜一郎『墨林閒話』岩波書店はこちらから】

墨林間話

欧陽詢と褚遂良の「蘭亭序」について


「蘭亭序」について王羲之が書いた肉筆は今は何も残っていない。私達が見ている神品の誉れが高い「蘭亭序」は、王羲之が書いた肉筆はないが、初唐の三大家の欧陽詢、褚遂良が写し取ったものが残っている。しかし欧陽詢と褚遂良の「蘭亭序」は趣きが異なっている。欧陽詢の方は深い静かな線で、沈着とみえ、褚遂良の方は明るく暢びやかな線で、痛快であるといわれる。二人の「蘭亭序」の書きぶりには、彼らの楷書の名品として知られている「九成宮醴泉銘」と「雁塔聖教序」の姿がおのずと浮かんでくるという。
(鈴木史楼『書のたのしみかた』新潮選書、1997年[1998年版]、233頁~234頁)

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書のたのしみかた (新潮選書)



≪書道の歴史概観 その1≫

2021-02-13 11:31:31 | 書道の歴史
≪書道の歴史概観 その1≫
(2021年2月13日投稿)
 




【石川九楊『中国書史』はこちらから】

中国書史


【はじめに】


 以前の私のブログで、中国と日本の書道史について考えてみた。
 再録するにあたり、見出しと参考文献のリンクを貼ってみた。次のような構想で述べてみたい。









<中国の書>
・書について
・中国書道史について
・行書の起源と完成について
・王羲之について
・「蘭亭序」の系統について
・「神龍半印本蘭亭序」について
・石川九楊の「神龍半印本」に対する評価について
・「蘭亭序 八柱第三本」について
・欧陽詢と褚遂良の「蘭亭序」について
・「蘭亭序」と松本清張の推理小説について
・王羲之の草書「十七帖」について
・「蘭亭序」に関連して
・王羲之の書の魅力について
・入木道について
・王羲之の書に対する夏目房之介の見方
・王羲之の息子王献之について
・六朝代から初唐代への転移の構造について
・二折法から三折法へ
・唐の太宗と書
・唐の太宗と書家たち
・初唐の三大家について
・欧陽詢の貧相醜顔について
・欧陽詢の影響
・明朝体という活字と欧陽詢について
・欧陽詢に関連して
・写経体と中国の書家(智永、欧陽詢、虞世南)について
・結構法と欧陽詢、顔真卿の書
・褚遂良について
・褚遂良の「雁塔聖教序」について(補足)
・褚遂良臨模本について
・初唐の三大家の書について
・楷書について
・初唐の三大家の書と筆について
・「永字八法」について
・「千字文」について
・「書法流伝之図」について
・顔真卿について
・向勢と背勢について
・則天武后(623~705)の書について
・懐素の「自叙帖」について
・唐代の書の特徴について
・唐代から宋代へ
・中国の書の歴史の見方について
・唐の四大家の楷書について
・宋の四大家について
・蘇軾の書について
・蘇軾と墨
・蘇軾と「東坡肉(トンポーロウ)」
・黄庭堅の書について
・米芾の毒舌について
・宋の四大家の書について
・宋代の朱熹の書について
・元代の書について
・元代から明代へ
・清朝の康熙帝の書について

<日本の書>
・日本の書について
・王羲之と『万葉集』
・石川九楊の『万葉集』論
・空海は王羲之の書をいつどこで体得したか
・空海の「灌頂記」について
・飛白の書について
・空海の語学力について
・空海の書について
・大岡信の空海評
・伝嵯峨天皇宸筆「李嶠百詠断簡」について
・「伊都内親王願文」について
・梅から桜へ
・仮名について
・小野道風と和様
・小野道風について
・石川九楊の日本書史の見方について
・西郷隆盛の書について
・夏目漱石(1867-1916)の書について
・漱石・子規の書に対する石川九楊の評価
・漱石・子規の書に対する石川九楊の評価
・漱石と日展
・会津八一(1881-1956)と書の評
・会津の書と絵についてのエピソード
・三島由紀夫(1925-1970)の書について
・川端康成(1899-1972)の書について
・中村不折(1866-1943)と書
・内藤湖南(1866―1934)の書について
・小林秀雄(1902-1983)の書について
・星新一(1926-1997)と習字について
・大石順教(1888-1968)と口書きについて
・ダウン症の女流書家・金澤翔子について
・青山杉雨(1912-1993)という書家
・紫舟という書家

<書について考える>
・日本人、中国人の国民性の相違と書に対する評価について
・書の見方・鑑賞について
・ギリシャ美術と書
・「気韻生動」について
・参差(しんし)について
・章法とは
・石川九楊にとって書のうまさとは何か
・書のうまさとは?
・「永字八法」について
・石川九楊の中国書史と日本書史の基本的理解について
・中国と日本の書について
・漢字文化圏における書の担い手について
・中国の書と日本の書の相違について
・日本と中国の漢字の筆順
・中国と日本の書の相違点
・日本と中国の書道展の相違について
・書はどこまで国際的に理解できるか
・「書は人なり」という言葉について
・現代日本書壇とその批判について
・書は線の美か
・国際的な書とは

<むすび>





さて、今回の執筆項目は次のようになる。


・書について
・中国書道史について
・行書の起源と完成について






中国の書


書について


文字である漢字を芸術にまで高めた書の歴史について考えてみたい。
漢字は単なる伝達手段であるだけでなく、書という線の美しさを表現する芸術の素材でもある。中国から伝来した書法は、多くの日本人の心を捉えて魅了した。中でも聖武天皇と光明皇后の書は注目しうる。
こうしたテーマを考える際に格好の本がある。魚住和晃『「書」と漢字―和様生成の道程』(講談社選書メチエ、1996年)などである。これらの本の内容を紹介しながら、漢字と書の関係、書の歴史について述べてみたい。

【魚住和晃『「書」と漢字―和様生成の道程』講談社はこちらから】

「書」と漢字 (講談社学術文庫)

中国書道史について


書は文字を素材として、中国に発達した特殊な芸術であるといわれる。書は、線の持つ特殊の美の総合表現であるともいえる。線の特質は、形としての役割を演ずるばかりでなく、線の太細勁軟、筆圧の軽重、運筆の遅速による持ち味、形にみる力の均衡、さては結体章法などが独自の書風をなす源泉である。
中国において書が芸術として発達した主因は、中国の文字すなわち漢字そのものの持つ特性にあった。その書の美が、どのように実現展開したかをみるのが、書道史であろう。
(平山観月『新中国書道史』有朋堂、1965年[1972年版]、1頁~2頁)

【平山観月『新中国書道史』有朋堂はこちらから】

新中国書道史 (1962年)

平山観月は中国書道史のおよその流れを次のように要約している。つまり、上古(秦より以前)に端を発した中国書道は、中古(秦漢から唐)にはいって漢末に大成し、晋魏に興り、唐にいたって整い、近古(宋から明まで)にはいっては、北宋においてくずれ、それ以後、近世(清代以後)を含めて衰退したと平山はみている。
書道の隆昌をみるのは、国家興隆のときであり、またその萎微沈滞をみるのは、国力衰退のときである。まさに書は人をあらわすと同時に、時代の精神、民族の特性を表現するものであるとみる(平山、1965年[1972年版]、21頁~26頁)。

行書の起源と完成について


一般的推論として、古文から篆隷が生まれ、隷書から楷書、楷書の速書きから行書、行書の略化から草書が生まれたであろうということになっていた。しかし20世紀になって漢代の木簡が楼蘭で発見され、この説はくつがえってしまった。
楷、行、草の三体はいずれも漢代に萌芽して漢末には完成していたが、その成立の順序は、草、行、楷と考えられるようになった。
この点を詳述すると次のようになる。漢代の隷書の特長は「曹全碑(そうぜんひ)」のように、横画の終筆を右にはね、のびのびとした流麗な波勢を長くつくっていることにある。隷書をより平易に便利に速く書きたいという要求から略化が進み、草体が生まれていった。木簡の資料が示すように、一字一字独立したいわゆる章草(しょうそう)とよばれる草書が前漢時代にすでにできていた。これは隷書の波勢をまだ残していた。これがさらに波勢を省略して下に続ける工夫が重ねられて、後漢の初めには今日の草書が確立された。
行書の成立は草書よりずっと遅れているが、漢末には完成している。行書も隷書を簡易にしたものといわれている。楷書は行書よりさらに遅れて、漢隷が波勢を失って次第に楷書の姿をあらわしたのは、漢末から三国時代のころであると考えられるようになった。
ともあれ、行書は書をより速く、より書きよく、より能率的なものにしたいという実用上の要求から、点画を続けたり、省略したり、時には筆順を変化させたりして、できあがった書体である。
たとえば、点画が省かれる場合、「雲」や「草」という字では、「雨」の左右の点や「くさかむり」を二つの点にしたり、「然」や「馬」などでは点を三つにしたり、ときには一本の線にしたりする場合がある。
行書・草書の筆順について補足しておくと、たとえば、「禾(のぎへん)」は、楷書では縦画は第三画であるが、行書では第一画からすぐ縦画に続き、その終筆から横画に続くように書く。そのほうが上から字が続いてきたときに縦の流れが出るし、また速く書け、しかも自然なのである。このように行書では筆順が変わる。
草書になると、点画の省略がいっそう激しくなり、形そのものが変わってしまう。たとえば、「人偏(にんべん)」「彳(ぎょうにんべん)」「氵(さんずい)」「言(ごんべん)」はみな同じ形に書かれる。このように、草書では部首の扁(へん)や冠(かんむり)などのほとんどが、何種類のものを同じ形に書く。たとえば、唐の孫過庭の撰書として「書譜」がある。これは草書の経典であるばかりでなく、その内容の書論は、六朝以来の諸家の書論を集大成したものである。その「書譜」の中の「断可極於所詣矣」の部分について、「詣」の字は、「臨」とか「治」とかいろいろ読まれている。この点、松井如流は「孫過庭考」において、ヘンは言ベンで、「詣」が正しいものとみなしている。その理由は、「書譜」の中に散水を棒のように書いたものはなく、また「臨」と見ることは無理があると主張している。
(松井如流『中国書道史随想』二玄社、1977年、193頁、204頁~205頁)

【松井如流『中国書道史随想』二玄社はこちらから】

中国書道史随想 (1977年)

ところで、隷書や楷書は一点一画を幾何学的に組み立てているので、厳正な整斉美を感じさせる。だから、行書や草書のような流動の美はあまりあらわれない。行書はすらすらと続けて書くから、筆脈が自然に紙面にあらわれ、点画や形に円味が多くなって、自由さと流麗さが加わり、流動感の強いものになっている。
漢代に萌芽して漢末には定形化したと思われる行書は、六朝時代になって、書聖・王羲之の出現によって、完成をとげるにいたった。王羲之は楷行草の完全な普遍的様式化に心血をそそぎ、端正典雅な書風を樹立した。その貴族的気品の高さは、宮廷を中心に中国の人々に愛され、日本においても書法の典型として今日に及んでいる。
王羲之の行書としては、「蘭亭序」、唐の僧懐仁が王羲之の書を集めてつくった「集字聖教序」、そして「興福寺碑」が名高い。「集字聖教序」は、行書の基本的用筆を理解するための千古極則であるといわれる。
行書の古名蹟を見ると、それなりの特徴をもっている。王羲之の「蘭亭序」は、背勢ですっきりとして清冽(せいれつ)そのものであり、唐の顔真卿の「争座位稿」は、向勢で素朴剛健、情熱がほとばしっているといわれる。また唐の太宗の「温泉銘」や「晋祠銘」になると、博大敦厚、悠々としてせまらざるものがあると評せられる。
(上條信山『現代書道全書 第二巻 行書・草書』小学館、1970年[1971年版]、12頁~13頁、19頁、26頁)

【上條信山『現代書道全書 第二巻 行書・草書』小学館はこちらから】


現代書道全書 第2巻 改訂新版 行書・草書

中国の書道の歴史を振り返ってみた場合、魏に鐘繇、東晋に王羲之、王献之の父子、北魏に鄭道昭が出て、中国書道の最高峰を形成した。清朝の阮元の「南北書派論」によれば、後漢の末から三国魏のころまでは、書風上に著しい区別がないが、六朝南北朝に至って書に南北の別ができ、呉・東晋・宋・梁・陳などは南派で妍妙、それが多くの法帖に伝わり、魏・周・斉・隋は北派で拙朴、そしてそれらが多くの石碑に残されているとする。
(平山観月『書の芸術学』有朋堂、1965年[1973年版]、144頁)

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書の芸術学 (1964年)