《『書道全集 中国篇』を通読して 要約篇その10中国10-b》
15中国10 宋Ⅰ続きの要約を掲載する。
徽宗と中国の文化 外山軍治
外山軍治の「徽宗と中国の文化」は、外山軍治『中国の書と人』(創文社、1971年、116頁~137頁)に再録されている。ただ若干、章立てが異なり、「徽宗と中国文化」
一、徽宗と蔡京
二、帝王の奢侈と文化興隆
三、徽宗の文化をつぐもの
となっている。
宋の徽宗ほど皮肉な運命にもてあそばれた帝王もあまり例がない。北宋の第8代の皇帝として、25年間、現世の幸福という幸福を独占したような生活を享楽していたが、靖康2年(1127)、金軍に捕えられ、拉致され、抑留生活を数年送り、帰国の望みも空しく、ついに異境の土と化した。それまでの幸福に比して、晩年はあまりにも悲惨であった。
しかしその不幸の根源は、燕雲の地を遼から奪回するために金軍の武力を利用しようと企て、かえって遼を亡して意気軒昻たる金軍の強襲をうけたことにあると外山はみている。
それは政治に無関心だった徽宗皇帝が一生のうちで初めて示した政治的野望であったが、それが徽宗の身の破滅と、北宋の覆滅とをひき起こした。いわばそれは自業自得ともいうべきもので、徽宗は皇帝としては失格者であった。それだからといって、文化史上における徽宗の功績は少しも輝きを減ずるものではないと外山は評価している。
さて、その徽宗は皇帝としてはどのように歴史上登場したかについてまず略述しておこう。
徽宗は第6代の皇帝神宗の第11子に生れ、元来帝位に即くべく予定されていた人ではなかった。
兄にあたる第7代の皇帝哲宗(1085-1100)が崩じ、これを嗣ぐべき子がなかったので、父帝神宗の皇后の推薦で帝位に即いた。即位後1年余りは、向(しょう)太后の摂政のもとにあっておとなしくしていた。太后は哲宗時代の旧法党と新法党とを調停するために、両党の政治家をまじえて挙用した。しかし太后が崩じると、徽宗は父帝神宗の熙寧時代を崇ぶという意味で崇寧と改元し、新法を採用した。この時宰相として抜擢されたのが、蔡京(さいけい、1047―1126)である。
蔡京は興化仙遊(福建省)の人で、神宗の熙寧3年(1070)に進士に合格した。熙寧、元豊時代は神宗が王安石(1021-1086)を信頼して新法を断行した時代であったが、この間蔡京は新法を遵奉していた。
ところが神宗が崩じて哲宗が即位し、元祐年間(1086-1094)に司馬光(1019-1086)らを用いて旧法を復活する。知開封府の官にあった蔡京は、わずかに5日間で要領よく新法をやめてしまって、司馬光を喜ばせたという。政府当局の政策にしたがって、その身の栄進をはかるのは当時の官界一般の気風であったから、蔡京一人を攻撃するにもあたらないが、それにしても、その立ちまわりはあざやかであった。
そして徽宗親政の時代にはもはや旧法をすてて、新法の遵奉者として徽宗の見出しにあずかった。徽宗は政治の方面では、人物を鑑別する力もなく、全く凡庸な性であったらしいが、その反面文化人としてはすばらしい天分に恵まれ、詩文ともによく書画もなかなかの上手で、しかも帝王らしくその趣味は広く文化の各域にわたっていた。
蔡京もまた文化人としてすぐれた才能を有し、とくにその書は弟の蔡卞(さいべん、1058-1117)とともに、能書の名をほしいままにするほどの人物である。ことに徽宗が21歳の青年天子であったのに比して、蔡京はすでに56歳で、世の中の表裏を知りつくした年輩であった。生来、立ちまわりの巧みな蔡京は徽宗の好むところを察して、好きなようにしむけていったから、徽宗は蔡京が気に入ってこれを寵任した。
崇寧元年(1102)に宰相に起用されてから、蔡京は前後16年近く宰相の地位を保ちえた。
蔡京は旧法党の勢力挽回を恐れ、元祐年間に政局を担当した司馬光らを元祐党籍に入れ、その子孫が栄進の機会をえることを防ぎ、名実ともに新法党の首領たる貫禄を示した。
ところで、蔡京が『易経』にみえる「豊亨豫大」ということばを標語として、これを徽宗にすすめたことは有名である。これは余裕のある、鷹揚な政治、生活をするのがよいという主義である。熙寧以来の革新政治は、政府の収入増加を目的としたものであったが、徽宗時代、政府には5000万貫の余剰金があった。蔡京は徽宗にそれを思う存分に使って、豊かな生活をするようにすすめ、その後の財政の補充については政府の収入を増加させる方針をとった。
これは徽宗が宰相として蔡京を必要とした理由の一半ではあるがすべてではない。他の一半は蔡京が徽宗の趣味のよき理解者であり、しかもその道の器量人であったからである。趣味の人である徽宗は何よりも書画や古器物の鑑賞をともにする人物、つまり遊び相手を必要としたが、蔡京はそれには絶好の人物であった。
さて徽宗のかいた書画に蔡京が題字や跋語をかいていることも決して珍しくない。ことに大観2年(1108)につくられた「大観聖作碑」は徽宗皇帝の御製正書の碑文の上に、臣下である蔡京が行書で堂々と題額をかいている(図117)。これは歴代を通じてその例を見ない破格のことであったが、そこには君臣上下のへだてなく、趣味を同じくする者の、血の通った温かい交わりがあるのみであると外山はみている。
蔡京が徽宗からうけた比類ない恩寵は、このような関係を知ることなしには理解できないとする。つまり徽宗が帝王としての奢侈を行い、風流天子として趣味の生活を送ることができたのは、一つには蔡京との間の、君臣水魚の交わりにおうところが多かった。それがまた当代の文化興隆の機運をうながす原動力となったとみる。
徽宗の奢侈の無軌道ぶりを非難する際に、江南の奇木珍石を船で都へ輸送させた花石綱や、宮殿や徽宗の尊崇した道観の建造、また都城の東北部における万歳山(艮嶽[こんがく])の造営がよく取り上げられる。これらの行為は民衆の生活をふみにじったものとして、後世の不評を買った。ただ、これらの贅沢もその時代の建築や造園の技術の向上に寄与した一面をもっていると外山は指摘し、このような気分のうちにこそ、徽宗の文化が華やかな色彩をみせているのであり、これが内省的だが陰鬱だと評せられる宋代の文化に加えられた、華麗な一刷でもあったという。
そこで、外山は徽宗の奢侈の一翼が美術工芸品の蒐集にむけられていたことについて考えている。徽宗は早くから、全国から書画をはじめ古器物の逸品を蒐集した。崇寧3年(1104)に創設した書画学博士は、内府に収められた書画の鑑識にあたったというが、このような専門家による鑑識は、書画や工芸美術品に対する批判精神の興隆を促すこととなった。その一つの現われを、書画鑑賞の学問や金石学の研究においてみる。それらは必ずしも徽宗の時代に始められたものではなく、その先駆は北宋中期にあるが、一段とこれを発展させ、あるいは集大成したのが徽宗の時代である。
金石学についていえば、仁宗時代に欧陽脩(1007-1072)が、金文および石刻の拓本の蒐集につとめた結果、嘉祐8年(1063)、その拓本に解説を加え、「集古録跋尾十巻」(図5-7)を著わした。中国で、金石学が学問的な基礎を与えられたのはこれがはじめてであった。
その後、欧陽脩の末子欧陽棐(1047-1113)、劉敞(りゅうしょう、1019-1068)、呂大臨(11世紀後半の人)にうけつがれた。こうした金石学に飛躍的進歩を与えたのが、徽宗時代の古銅器蒐集で、その結果、厖大な博古図が著された。これは徽宗が命じて蒐集させた、宮中の宣和殿に蔵していた銅器の図録である。この書物の作者および製作の時期に関しては、宋代目録学者の間に異説が行われて帰一するところを知らなかったが、大観元年(1107)、徽宗が黄伯思(1079-1118)らに命じて勅撰し、さらに宣和5年(1123)以後、宰相王黼
(おうほ、?-1126)に命じて重修したのが、「重修宣和博古図録」30巻であるとされる。
書画の収集とその研究についていえば、『宣和書譜』20巻、『宣和画譜』20巻が今日残っている。徽宗の周囲にあつまった名品がいかに多かったかを教えてくれる。
『宣和書譜』は『宣和画譜』と同時にかかれたもので、宣和庚子(2年、1120)、御製の序があるが、癸卯(5年、1123)にできあがたものとする『四庫提要』の説がよいとする。
そして『四庫提要』はその編者として蔡京、その弟の蔡卞、それから米芾の3人を擬しているが、これも見当を失っていないようである。なおこのほか、米芾の「宝章待訪録」、「海岳名言」などがあり、鑑識も進歩し、書画の議論も進歩していることを知るのである。
外山は「徽宗の文化をつぐもの」と題して、徽宗とその周辺の文化事情を略述している。
宣和7年(1125)、金軍は南下した。徽宗は帝位を皇太子(欽宗)に譲り、開封城から逃げ出した。すでに引退していた蔡京は、国難を招いた6人の国賊の筆頭にあげられ、あらゆる栄誉を奪われ、財産を没収された。そしてその身は今の海南島(広東省)の儋(たん)州へ流されることになったが、配所へむかう途中、潭(たん)州(湖南省)までいってそこで老衰のために死んだ。
金軍の掠奪は書画や書籍の類にまでおよんだ。興味のあることには新法党の象徴である王安石の書いたものには、見向きもせず、徽宗時代に新法党から痛めつけられていた旧法党の人々のもの、たとえば司馬光の『資治通鑑』の板木や、蘇軾、黄庭堅らの文集、書蹟などをよろこんで持ち去ったということであると外山は述べている。
そして金の軍営に捕えられることとなった徽宗は、金軍が欽宗に対してどのような要求を出したと聞いても動じなかったが、彼らが三館(昭文館、集賢館、史館)の書画をさがし求めたと聞いて悄然としたと伝えられる。
そして金国の一隅で捕虜として悲しむべき最期を遂げた徽宗ではあるが、彼の示した文化人としての偉大さは、金の諸帝によっても認められ、第6代章宗は、徽宗に私淑し、明らかにその独特の痩金体をまねている。晩年を不遇に終わった徽宗が大して暗い印象を与えないのは、まことに興味深いことであると外山は感想をもらしている(外山、37頁~44頁)。
契丹・女真・西夏の文字 田村実造
ユーラシアの北方地帯には古来トルコ系、モンゴル系、ツングース系の遊牧・狩猟民族がいて、世界史的役割を演じたが、彼らは多くみずからの文字を創造している。たとえば、トルコ系のトルコ(突厥)文字、ウィグル族のウィグル(回鶻)文字、キタイ族の契丹文字、タングート族の西夏文字、ジュルチェン(女真)族の女真文字、モンゴル族のパスパ文字、マンシュウ族の満洲文字である。これらの文字のうち、最近まで未詳であったのは契丹文字である。
契丹文字の成立については、『遼史』に10世紀前半頃、キタイ族が国家を建てるとまもなく、太祖の耶律阿保機が新しく国字を創案した(920年)とある。人々はこれを契丹大字と呼んでいる。
ついで太祖の弟の迭刺はウィグル国の使者について、その言語文字を習得して契丹小字を作ったと伝えられている。これによると遼国には大字と小字の二種が存在したことが考えられる。
この契丹文字は遼国が亡んだのち金代にもなお重視され、約270余年間にわたって公用された。そしてまた近隣の諸民族にも大きな影響をおよぼし、西夏文字や女真文字はいずれも契丹文字に倣って作られたといわれる。それにもかかわらず、契丹文字がどんな字形のものであるかは十分に知られていなかった。
ところが、1922年熱河省内に駐在していたカトリック司祭ケルヴィンは、東モンゴリアのバリン左翼旗ワール・イン・マンハにある遼の帝王陵である慶陵から契丹字の哀冊(あいさく)二面を発見したため、ここに初めて契丹文字が確認されることになった。
その後1930年の夏、慶陵から契丹字哀冊が二組四面持ち出された。これらの哀冊はその後の研究によって、遼国の道宗と宣懿皇后のものであることが明らかにされた。そのうち道宗の哀冊碑蓋には篆書風の文字が6行6字詰に36字刻まれ、碑身の上面には1135字の契丹文字が37行にわたって刻出されている。
契丹文字について、これまで明かにしえた点を説明してみると、この文字の書法には漢字の篆書、楷書、行書あるいは草書に相当する各種の変化があり、普通には楷書と行書とが並用されている。その構成をみると、契丹字は約300を数える原字(アルファベット)から成っている。
次に女真文字はツングース系のジュルチェン(女真)族が彼らの言語を写すために作製し使用した文字である。女真族は12世紀はじめ満洲のハルビン付近から興って華北を征服し金朝を建てた民族で、女真語はアルタイ語系のツングース語に属し、清朝の満洲語と親縁関係にある。
女真文字には大字と小字がある。大字は金の太祖の命をうけて天輔3年(1119)、完顔希尹がつくったもので、おそらく遼代に用いられた契丹文字を模したものと考えられる。
小字は第3代熙宗の天眷元年(1138)に作られ、皇統5年(1145)以後、金国内に広く使用された。女真族の間では、14、15世紀の明代になっても用いられ、そのため金代から明代にかけての金石碑文や古文書が数多く残存している。現存する女真語および女真字の資料は金石文と文書との二類に大別される。金石文関係の資料としては、楊樹林山頂摩崖碑(満洲、旧奉天省海龍県、金、収国2年[1116])などがあげられる。また文書としては、「華夷訳語」のうち女真館訳語ならびに来文がある。女真文字には表音文字と、発音とは無関係に漢字の形を少し変えて作った表意文字とがあることが知られるが、女真文字はまだ文法上にも発音上にも不明な点が多く、まだ完全に解読されていない。
次に西夏文字についてであるが、これは夏国(首都は寧夏)を興したタングート族がタングート語を写すために作製し使用した文字である。
この文字の起源については諸説ある。例えば、
①夏国の李徳明の創案したのを、その子の李元昊が修正したもの
②李元昊が製して野利仁栄が演繹したもの
③李元昊のとき野利遇乞の創製したものとする。
西夏文字が作られると、それは西夏国内に使用され、西夏字による大蔵経も刊行された。この文字は以後元代まで河西、敦煌地方に用いられたが、やがて廃絶したため、その性質については全く不明であった。
ところが、19世紀末から20世紀初頭にかけ、英仏の諸学者によって初めてこの文字が確認されるに至った。ついで、1907、8年、ロシアのコズロフがカラ・ホト(黒城)において、「番漢合時掌中珠」(西夏字と漢字の対訳字典)をはじめ多くの西夏文献を発掘し、1923年~26年にはスタインも、カラ・ホトや敦煌付近から新資料を発見したので、ここに西夏文字および西夏語に関する研究は一大躍進をとげ、難解な西夏文字もようやく解明の域に達することになった。
西夏文字の構成は漢字の六書に倣っているが、中でも、偏(へん)、傍(つくり)を用いて表わす合成文字が多く、複雑である。例えば、気象、雨を表わす字傍、水、液体を表わす字傍、土、金属、獣、樹木を表わす字傍などの類である。また西夏文字の字体には、篆書体、楷書体、行書体、別体の4種がみられるが、そのうち篆書体が最初に作られたとみられている(田村、45頁~48頁)。
別刷附録 蘇軾 黄州寒食詩巻
《『書道全集 中国篇』を通読して 要約篇その10中国10-a》
15中国10 宋Ⅰ
この巻には宋王朝の北宋の9帝、168年間(960-1127)の書蹟を収めている。
中国書道史10 神田喜一郎
宋王朝はその建国から滅亡に至るまで、およそ320年(960-1279)つづいた。そのうちはじめの168年間は、首都を汴京(べんけい、今の河南省開封)においていた。この時代を北宋とよんでいる。
その北宋168年間を文化史的に通観すると、2つの時期に画することができると神田はみている。その境い目は仁宗の初年とし、太祖、太宗、真宗の3代を前期とし、仁宗、英宗、神宗、哲宗、徽宗、欽宗の6代を後期としている。
この前後両期の文化のうち、北宋の文化としてその特色を発揮するのは、後期になってからのものである。それは前期の文化に反抗し、これを超克することにより、はじめて生じ得たのであった。
ところで、その前期の文化というのは、唐王朝の中葉から五代に至る時代の文化への反動としておこったもので、結局もっとも本来的な北宋文化は、唐王朝の中葉以降に芽ばえた文化が、いわば二重の否定を経過することによって生じたのである。
したがって、北宋の文化を理解するには、大局の上から、この間における文化の推移の事情を知る必要があるという。いったい唐王朝の中葉からは、中国の政治や社会の構造に一大変化が現われてくる。すなわち六朝以来権力を掌握してきた世襲の門閥貴族が、唐王朝の中葉からは、勢力を失いはじめ、かわって新興地主層が新たな社会的勢力として抬頭しはじめ、その子弟は官僚として政治に参与してくる。
この大きな社会的変化に応じて、貴族本位に発達してきた優麗典雅な文化もまた衰退しはじめ、かわって簡素自由な庶民的文化が抬頭してきた。しかしこの新たな文化は、十分な成熟にまで至らぬ間に、唐末五代の戦乱をへて、萎靡沈滞してしまったと神田はみている。
宋王朝としては久しい戦乱ののちにおこって、再び統一国家を完成したわけであるから、自尊の念も強く、最近の庶民中心的な文化を継承するのは、彼らの感情が許さなかったと神田は推測している。
新興の意気にもえる宋王朝が憧憬したのは、かの隆盛を極めた唐王朝の貴族文化であった。したがって北宋の初期の文化は復古的で、豊かな貴族的性格を帯びたものであった。しかしこれは一時栄えるかのようにみえたが、ついに開花するまでには至らなかった。それは当時の社会構造がもはや貴族政治の華やかであった唐王朝の時代のそれとは変化してしまっている以上、大きな矛盾が存し、十分な発展を望めないのは当然であるという。
宋王朝の建国から約70年をへた仁宗の初年になって、それに対する反抗があらわれてきた。それが新しく政治的に勢力をえてきた官僚、すなわち士大夫を基盤とする革新的で理知的な文化であった。ここにはじめて宋王朝の新しい文化がその特色を発揮するにいたる。
神田は、以上のように北宋時代の文化の大勢を理解している。そしてこれと同じ現象は、書法の上にも明らかに認められるとする。すなわち北宋初期の書法を貫いているのは、伝統主義的精神であり、後期のそれは革新主義的精神であるという。この後期の書法が宋時代の新しい書法として特色を発揮していることも、一般文化とその事情を同じくしている。
宋の太祖趙匡胤はもともと軍人の出身で、五代最後の王朝である後周の恭帝から皇帝の位をうけつぎ、宋王朝を創建すると、これまで軍人の跋扈がいかに弊害の甚だしいものであるかを知っていたので、彼はつとめて軍人の権力をけずり、文治主義政治の確立を期した。
そのあとをついだ太宗、真宗の二代も、同じ方針を持して、北宋の初期は天下泰平、一応の繁栄をきたした。この北宋初期の泰平の世に、書道はいかなる発達を遂げたのであろうかという問いを神田は発している。
宋王朝が天下を統一するに及んで、漸次一般の文化とともに復興してきた。それは主として蜀とか南唐とかいう中原の地から離れて戦乱の災禍を蒙ることの少なかった諸国があいついで宋王朝の版図に帰した結果である。蜀は今の四川省に建てられた国であり、南唐は今の江蘇省の南京を首都として江南一帯を領有していた国である。これらの国は古い文化の伝統が中原の戦乱をよそに、その命脈を保ち、書法においても、いわゆる晋唐の古法が温存されていた。その蜀が宋王朝の版図に帰したのは太祖の乾徳3年(965)で、その時、蜀からは李建中とか王著とかの書道の大家が宋王朝に降ってきた。また南唐が宋王朝に降服したのは太祖の開宝8年(975)、この時、南唐からは徐鉉、蘇易簡という文化人が降ってきた。宋王朝の書道は、こうした人々によって、はじめて開けることになった。
李建中は当時における第一流の書家であった。その筆蹟は今日各種の法帖の中に刻されていて、一応の面目をうかがうことができるが、全く晋唐の古い正統的な書法を伝えたものである。唐の李邕に似ているという批評もあり、また唐の張従申を学んだという説もあるが、その張従申の書というのは王献之を学び、東晋の風尚があるといわれているものである。これらの批評からしても、李建中の書風を推しはかることができる。ともかく李建中の書は温潤にして秀雅な一種の気品をそなえた書である。そして当時の士大夫はあい競って、その書を学んだといわれているから、その影響は大きかった。
そしてこの事実を証明するかのように、彼に少し遅れてほとんど同じような書をかく林逋
(図1-4)が現れている。林逋は西湖の孤山に隠栖して、梅を妻とし鶴を子としたといわれる高士である。その書は宋の時代から李建中のそれを比較し、優劣の論があるが、李建中よりいくらか痩せているところに、おのずから高士らしい特色を発揮しているというのが定評である。
また李建中と同じく蜀から宋王朝に降った王著は、その家は元来長安の名家であったが、唐末、黄巣の乱を避けて、その祖父以来蜀に移り住んでいた。王著の確実な筆蹟は今日見ることができないが、古人の批評に「筆蹟甚だ媚にして家法あり」とあって李建中と同じ書風であったと推測されている。この人は宋の太宗に書技を認められ、とくに翰林院侍書の官をさずかり、太宗の書法を指南した。また太宗の勅命を奉じて『淳化閣帖』を刻しているが、その王羲之、王献之父子の書を中心としているところに、彼の書法に対する見識がうかがえる。なお蜀から宋王朝にきた書道の大家としてはそのほか句中正、張維がいる。
南唐から来た徐鉉は一般には文字学者として知られている人物である。弟の徐鍇もまた学識高く世に二徐と称された。この二徐が仕えた南唐の後主李煜は王羲之の書法の熱心な讃美者であった。その王羲之父子の筆蹟をあつめて「昇元帖」「澄心堂帖」の法帖を刻したことは中国書道史上隠れもない事実である。徐鉉がそうした李煜の好尚の感化をうけていないはずはなかった。この徐鉉も王著とともに宋の太宗の信任をえていた。彼と同じく南唐からきて、宋の太宗の殊遇を蒙った蘇易簡も書法の大家で、その上「文房四譜」(筆・硯・紙・墨のことを書きしるした著書)が残っている。
蜀や南唐からのほかに、いわゆる晋唐の古法は呉越からも多少伝えられた。呉越は五代の時、今の浙江省の杭州に拠った国であるが、宋の太宗の太平興国3年(978)に宋王朝に降った。その時、呉越王の銭氏の一族には、王羲之の書法を善くする者が多く、その蔵する鐘繇や王羲之の名蹟をたずさえて、宋の太宗に献上した。呉越も、蜀や南唐と同じく、唐末五代の戦乱から隔絶していたので、古い伝統が温存されていたのであろう。
中国の古い言葉に「礼失われてこれを野にもとむ」ということがあるが、古い文化が中原に失われて、かえって遠い辺陲の土地に温存されるという現象は古来しばしば見られるところである。
宋の太宗は書法の研究に熱心で、とくに晋唐の古法を愛した。その指導にあずかったのは、前述した侍書の王著である。淳化3年(992)、太宗がその王著に命じて『淳化閣帖』を刻させたことは、中国書道史上画期的な一大事業であった。『淳化閣帖』全10巻のうち、5巻までが王羲之、王献之父子の書で占められている点が注目される。この事実は、この法帖の所収範囲が、時代的には上は漢・魏・六朝の諸名家から、下は唐の張旭、懐素、柳公権の諸家にまでおよぶ広汎なものであったことを想うとき、一層注目に値する。
更に、二王の他の巻においても、その大半は王羲之の流れに属する筆蹟で占められている点を考えると、この『淳化閣帖』の編纂は、明確な一定の基本方針に基づいていると神田はみている。すなわち二王の書をもって、書法の正統であると認め、唐の顔真卿から後の新たな書法は、これを排斥するのである。
新時代の書法の範となるべき法帖を編むにあたってのこのような価値評価と選択原理は、編者王著の見識を物語り、同時に太宗の趣味の趨向をうかがわせるものである。
もっとも『淳化閣帖』に異論の声がないわけではなく、早くも北宋の後期に、米芾や黄伯思からあげられている。事実、この法帖に収められた名蹟中には、その人の真蹟か、疑わしいものも存しているし、また王著の摹刻の技術が必ずしも古人の真をえていないとか、編纂の順序に錯誤のあることも認められ、これらはこの法帖の欠点である。
しかしこうした点に対する論難は、その編纂の基本方針、すなわち二王の書法をもって正統の典型とする態度の可否とはおのずから別個の問題であると神田は断っている。多少の技術的欠陥をもつとはいっても、『淳化閣帖』は重んじられるべき法帖であり、その中国書道史上における意義は大きいとする。
太宗の世に一たび『淳化閣帖』が編纂されると、その影響は目覚しいもので、二王の書法はひろく世に行われるにいたる。そしてその教科書ともいうべきこの法帖はあいついで各地で翻刻された。例えば、今の山西省新絳県にあたる絳州において潘師旦の翻刻したいわゆる「絳帖」、今の湖南省長沙県にあたる潭州で僧希白の翻刻したいわゆる「潭帖」、また元祐年間に劉次荘の刻した「戯魚堂帖」、大観年間に徽宗皇帝の刻した「大観帖」はそのうちの主なものである。まさに太宗は北宋の初めにあたって、その後の書法を『淳化閣帖』によって決定したものといってよい。
こうして北宋の前期においてはもっぱら王羲之の書風が流行したが、しかしこの復古的立場からは、すぐれた書家がほとんど生まれてこなかった。これは先述したように当時の社会構造がかつての優麗な貴族文化を支えていたものとは本質的に異なってしまっていたので、太宗の復古精神はそれが十分に発揮されるような基盤を欠いていたからだと神田は説明している。つまり当時の二王の流行はもともと強力な皇帝権から発している、上からの好尚であり、時代に適合した精神の内奥の自由から生じたものではなかったというのである。そのため、当時の書家の多くは、書技をもって宮廷や官庁に仕える職人となり、徒に技法のみに捉われて個性を失い、形骸だけを追求するコンヴェンショナルな書法に堕した。こういう書風は院体とよばれ、院体をよくした書家には尹熙古、張仁愿、孫崇望がいる。
太宗の世の『淳化閣帖』に始まった王羲之の書風を尊ぶ書の流行は、こういう事情で一世を風靡しながら、結局は結実をみぬあだ花に終わってしまったが、この流行は完全に虚しい狂い咲きであったのではないとも神田はみている。つまりこの流行の意義は小さくなく、この反動的な運動は消極的な面において、貴重な役割を演じたという。これまでの雑多の崩れた書法を一掃し、それに代わって王羲之にすべてを帰向させたということにおいて、その後に続く時代の正しい開花を準備することになったとみる。当時の書法についていえば、古典的形式は崩れ、唐王朝の中葉から現われ始めた新様式も、久しい戦乱に萎靡沈滞して虚しく沈湎していたが、いたずらな低迷を一掃し、その代わりに完成した永遠の古典的形式を世に提示して、その再認識を促し、その出発の基礎として顧みるべき典型を教えたことは賢明な正しい途であったとみる。新様式の確立に必須の破壊と出発の基礎の建設こそ、太宗および『淳化閣帖』の中国書道史上における意義であろうという。
宋初の書道についてもう一つ注意すべきことは、一時篆書家が輩出したことである。篆書を書くことは、唐の中葉に李陽冰が出て復興したが、その後中絶してしまった。しかし五代に、再び篆書の研究が盛んになって、南唐の徐鉉、徐鍇の兄弟、後周の郭忠恕がでた。
だいたい南唐では篆書の研究が盛んで、徐兄弟は後漢の許慎の著わした『説文解字』という古代文字の字書の学に精通し、自らも篆書を善くした。
宋王朝の書といえば、蘇・黄・米・蔡、つまり蘇軾、黄庭堅、米芾、蔡襄の宋の四大家を思いおこす。この4人のうちで、蔡襄は少し先輩にあたり、その上書風も多少異なっている。その生没年は、
蔡襄 1012-1067
蘇軾 1036-1101
黄庭堅 1045-1105
米芾 1051-1107
蔡襄は字を君謨(くんぼ)といい、今の福建省の仙遊県に生れた。仁宗・英宗朝の名臣で、硬直をもってきこえた。その一面、文学にも長じ、書法にも秀でていた。
はじめ周越に書を学んだと伝えられているが、周越の書は筆意姿媚であったという。姿媚とは唐の韓愈が王羲之の書を批評した名高い言葉で、おそらく周越は当時の院体にちかい優美閑雅な書を善くしたと考えられている。
蔡襄も最初はそういう書を学んだのであるが、それからのちに顔真卿の書を学んだ。蔡襄の書として、古来有名なものに「泉州万安橋記」(図16, 17)という石刻がある。万安橋は福建省の泉州府城の東北を流れる洛陽江に架せられた名高い橋である。蔡襄が泉州の役人となったとき、嘉祐5年(1059)にはじめて築いたもので、長さ365丈7尺、幅1丈5尺の石橋という。その石橋の南に、蔡襄みずから石橋の由来を書きしるしたのが、この「泉州万安橋記」という大きな石碑である。この記の文字をみると、その書法は全く顔真卿から来ている。
ところが、東京の書道博物館に蔵する蔡襄の「真蹟謝賜御書詩表」(図8-13)をみてみると、これは全く王羲之の筆法である。しかもこの二つの書はほとんど同じ年代に書かれたものである事実から考えると、蔡襄の書は一律には論じにくいが、今日現存している彼の尺牘(図18-21)などの文字をみてみると、だいたいは王羲之の筆法である。
蔡襄は大きな楷書のみ顔真卿を学んだのであって、他の書はそうでなかったという古人の評があるが、ほぼ正鵠にあたっていると神田はみなしている。
しかしその王羲之の流れをくんだ書でも、当時院体とは違ってなかなか骨力がある。これはやはり顔真卿を学んだためにその弊をよく救うことができたからであろう。
蘇軾は蔡襄の書をもって本朝第一と推奨しているが、宋初以来蔡襄だけの立派な書を書くものは存在しなかったであろう。
宋王朝の真に特色のある本格的な書がおこってきたのは、大体この蔡襄のでた仁宗・英宗の頃からである。この時代には書法ばかりでなく、あらゆる文化の上に新しい気運が勃興してきた。例えば文学の上においては、貴族的な駢儷体の文章や、西崑体の詩が排斥され、清新な韓・柳の古文や杜甫の詩が重んじられるようになり、欧陽脩(図5-7)、梅聖兪らがこれを大いに鼓吹した。
また学問の上においても、これまで行われてきた経書の訓詁学的解釈に重点をおく学風がすたれ、新しく宇宙論や人性論に哲学的思索を展開するにいたる。書道もこうした文化全般の革新的な運動の一環として、これまでの貴族的な王羲之の典型を揚棄しなければならなくなってきたという。
北宋の書は蘇・黄・米の3人によってはじめてその特色を発揮した。この3人はだいたい宋の神宗・哲宗の2代にわたって活躍した。蘇軾がもっとも年長で、黄庭堅がこれにつぎ、米芾はもっとも年少で、蘇軾と米芾は15歳の差であった。
蘇軾はあざなを子瞻といい、今の四川省の眉山県に生まれた。黄庭堅はあざなを魯直といい、山谷の号で知られている。江西省の南昌県に生まれ、その学問文章は蘇軾と伯仲し、もっとも詩に長じた。米芾はあざなを元章といい、号を海岳、襄陽と称した。今の江蘇省の人と称されるが、元来は西域からきた胡人の裔であるという。米芾は蘇軾や黄庭堅と違って、全く書画をもって生命とした純粋な芸術家であった。宮廷に蔵する書画の鑑定家として書画学博士に任じられた。しかしこの蘇・黄・米の3人は互いに親友として一生交際を続けた(もっとも蘇軾が中心で、黄庭堅と米芾とがその羽翼をなした)。
そして3人の書はほとんど趨向を一にしている。これまでの書法にあきたらず、新しく独自の書風を作りだそうとして、色々な古人の書法を研究し、努力を試みた。これまでの書法というと、大別して王羲之の型と顔真卿の型とになる。彼らはこの2つの相反した型を研究してそれを止揚しようとした。作り上げた書風はどちらかというと顔真卿に近いものになっていると神田は評している。
蘇軾はかつて「詩は杜子美に至り、文は韓退之に至り、書は顔魯公に至り、画は呉道子に至って、古今の変と天下の能事とは畢(つく)された」といったことがある。
その顔魯公とは顔真卿のことである。詩は杜甫、文は韓愈、書は顔真卿というのが蘇軾の理想であった。
いずれも唐の中頃に出てそれまで行われていた中世的な貴族趣味の典雅なものに一大革新をもたらした人々である。こうした蘇軾の理想はそのまま黄庭堅や米芾の抱く理想であったとして差支えないが、3人とも決して顔真卿にこだわるところはなかった。彼らに共通した負けぬ気な性格と古今まれにみる天才とは、そんなことは許さなかったという。
蘇・黄・米の3人の書をくわしくみると、それぞれの特色をそなえている。蘇軾の書はいかにも気魄雄大で、そして渾厚の気がうちに深く蔵されている。それに比べて、黄庭堅の書は希峭もしくは峻抜という。一種のけわしさがあり、そして渾厚の気がうすい。
蘇軾も黄庭堅も共に禅学にこって、当時の名僧に参禅したりなどしているが、この禅の修養では、黄庭堅が特に深かったらしく、それからきた鋭い機鋒というようなものが自ら黄庭堅の書にはあらわれていると神田はみている。
そのためか、黄庭堅の書は永く後世まで禅僧の間に喜ばれて、その書風が一つの大きな流れをなした。そしてその余波はひいて日本の鎌倉・室町時代の書風にまでも及んでいる。
米芾の書は、蘇・黄の2人に比べると、王羲之の型をもっとも多く摂取している。ことに王羲之の子の王献之の筆法を学んでいることはほとんど古今の定評となっている。元来米芾は書画の専門家で、したがって書学に造詣が深く、また書技に熟していたことは、何といっても蘇・黄の2人にまさるものがあった。
米芾の書は専門家の本芸であり、蘇・黄の書はいわば文人の余技である。しかしそれだけで直ちに優劣をきめることはできない。この3人に対する品隲は古来いろいろとやかましく論じられている。
ところで蘇・黄・米の3人の書蹟は唐代の名家のように石碑に刻されたものが甚だ少ない。黄・米にはほとんどないといってよい。蘇軾には「表忠観碑」(楷書、浙江銭塘)、「酔翁亭記」(行書、安徽滁州)、「韓文公廟記」(楷書、広東海陽)、「羅池廟記」(楷書、広西馬平)などの諸碑が知られているが、今日存在するものはほとんど後世の重刻である。それらの石碑の原石は、蘇軾の在世中に早くも政治上の理由から破壊の憂き目をみた。すなわち当時は政争の激烈な時代であって、王安石の率いる新法党と司馬光の率いる旧法党とが互いにしのぎをけずって相争い、両党の反目が永く続いた。
蘇軾は旧法党の領袖として活躍したが、新法党が政権を得た時代には圧迫を蒙り、その石碑までも破壊された。したがってまれに破壊をまぬがれた石碑の宋拓本は、貴重とされるのであり、日本の宮内庁書陵部に蔵する「宸奎閣碑」(図37-41)の拓本はその代表的なものの一つである。
もっとも蘇・黄・米の3人の書蹟は、今日真蹟も多く伝わっており、幸い日本には次の名蹟が現存している。
①蘇軾「黄州寒食詩巻」(図32-36)
蘇軾「李太白仙詩巻」(図49-52)
②黄庭堅「王史二墓誌稿」(図58-61)
黄庭堅「李太白憶旧遊詩巻」(図62-68)
③米芾「楽兄帖」(図105, 106)
米芾「真蹟三帖」(図91-96)
米芾「草書四帖」(図97-104)
蘇軾の真蹟を集めて刻した法帖には、古くは宋代に刻された「東坡西楼帖」(図53-56)があり、近くは清初に刻された「晩香堂蘇帖」がある。また米芾の真蹟を集めて刻したものには「白雲居帖」や「英光堂帖」がある。中には真偽の疑わしいものも含まれているが、それらの法帖によって、大体の面目はうかがうことができる。
蘇・黄・米の3人は北宋ばかりでなく、中国書道史を通じてみても、第一流の大家である。そうした3人が一時に相並んで出たことは古今まれにみる壮観である。しかしこういう人々の書風が当時必ずしも一般に行われたわけではなかった。当時の士大夫はいずれも書を善くしたが、それらはむしろ王羲之の型の書を書いた。例えば、名高い范仲淹は王羲之の「楽毅論」の筆意をえていたというし、王安石も晋宋人の用筆法をえていたといわれ、また章惇はもっぱら魏晋の諸賢をもって範としていたという。それらの中でもっとも書名の高かった薛紹彭は米芾とならび称された書家であるが、全く旧派の書法である。
こう見てくると、北宋の後期においても、書風の基調はなお王羲之の流れであったことが知られる。典型としての王羲之は否定し去られず、これを新しい時代に即した生きた形姿にもたらすためには、時代に応じた敏感な感受性と、王羲之に対抗しうる他の源泉の発見と、そしてこれを具象化する天才を必要とする。蘇・黄・米の偉大さは、これらを一身に体現したという点にあると神田は考えている。
この三大家は、明敏にも時代の趨勢を洞見し、王羲之に学びつつも、顔真卿を復興し、新たな様式を創造することができたとする。新様式の創始者にして完成者という稀有な天才として、蘇・黄・米の3人を神田は捉えている。
北宋の末に出た徽宗は中国歴代の天子の中でも、もっとも芸術を愛した天子で、書画骨董の大蒐集を試み、自らもすぐれた書画の才能をもっていた。その書ははじめ唐の薛稷を学んだというが、後に独自の一種の書法を完成した。それがいわゆる痩金書である。筆勢勁逸で名高い「大観聖作之碑」(挿26)はその代表的なものである。
この徽宗に仕えて宰相となった蔡京およびその弟蔡卞もすぐれた書技をもっていた。蔡京は書家としても優に蘇・黄・米に雁行するだけの手腕をそなえていたので、いわゆる蘇・黄・米・蔡と並称する場合の蔡は、実は蔡襄ではなくて蔡京のことであるという説さえあるくらいである。
蔡京はあざなを元長といい、蔡襄と同じく福建省の仙遊県の出身である。徽宗期に宰相となり、無節操な政治家として古来悪名高い。しかし書法については、かなり深く研究したのであって、最初は蔡襄について筆法を学び、その後蘇軾とともに唐の徐浩の書を学び、それから沈伝師、さらに欧陽詢に赴いたが、最後に王羲之の書に沈潜するに至ったといわれる。すなわちこの蔡京・蔡卞の兄弟は、蘇・黄・米の3人とは趨向を異にし、王羲之の正統的伝統を守って、しかもよく自家の才腕により、生き生きとした立派な書を作った。蔡京には「趙懿簡公神道碑」があり、蔡卞には「熊公神道碑」(図118, 119)があり、いずれも唐代の名家の風格をそなえている。なお蔡京にはこの他に名高い「元祐党籍碑」(挿52)がある。これは蔡京が新法党に属したところから、司馬光以下旧法党の120人を元祐姦党と称して誹謗し、120人の姓名を書き記して、各地方の官庁に建てたものである。今日そのうちの2つの碑が残っているが、その文字は蔡京の自筆で美しい楷書をもって書かれている。
徽宗や蔡京は後世その悪評があって、そのために書法までもことさらに軽視されているきらいがあるが、これは是正されなければならないと神田は主張している。なお徽宗が書画を奨励し、書画家を保護した結果、書道が盛んになり、またその一面徽宗は書画を作るに必要な筆・墨・硯・紙に贅美をつくしたので、この時代になって俄かに文具趣味が勃興したのも、忘れてならない事実である。
神田は結語として次のように述べている。北宋の書は概観したように、唐末以来、混沌としていた書風を清算して、晋唐の古法を受けつぎ、しかもこれを超克して新たな社会に適合した新様式を創造し、これを確立した。晋唐の書を第一のピークとすれば、北宋の書は自ずからこれとは別個の趣きをもつ第二のピークをなしている。それではこの新しいピークの特色、新様式の新しさはどういうものかといえば、神田は次のように考えている。すなわち書は古くから六芸の一つとして、一般読書人の心得ておらねばならぬ教養であったが、宋代に至るまではそれは知識的な文字の心得という性格の強いもので、立派な書をつくることは、専門家の特技に委ねられていて、一般読書人が、一種の趣味として娯しみにこれをつくるという風はなかった。
唐の中葉以前の書といえば、どこまでも書としての書であることに終始する、一種の純粋書道ともいうべきもので、調和と均整、優麗と典雅とがそこに働らく美学であった。その美しさは優麗を極めながら、反面荘重な、時には冷厳の趣きをさえたたえているのは、こういう事情による。王羲之の流れをさらに進めた初唐の欧陽詢や虞世南らの書はその極限であり、人間性を超越した非情さにして、はじめてよく致し得る美しさの極致であろうと神田は評している。
これに対して、北宋時代に確立された書風は、人間性をうちに蔵し、生き生きとした個性の自由を発揮する書風であって、書をつくるものの精神が自ずからそこにあらわれていると評している。その変遷は社会の構造が推移して、門地にたよる固定的、静止的な貴族の勢力が崩壊し、新興地主層の子弟が官僚として社会の主力を占めるに至った事態に照応していると神田は理解している。
この交替は早く唐の中葉以後に現われ始め、その当時から書道においても前代の非情な形式美に反抗する動きが出てきた。顔真卿はその先駆的存在であった。しかしこの唐王朝の中葉から現れてきた勢力は、唐末五代の戦乱で撹乱され、宋王朝に至ってはじめて決定的なものとなった。つまり宋王朝は一大官僚国家であって、その官僚は地主層の出身の知識階級なのであった。時代は今や自由で動的な知識人のものとなり、彼らは自己の精神の適切な表現を要求した。宋代の文化一般が前代のそれとは異なる自由清新の気をはらみ、理知的な文化になったのは当然であるという。
そして書道についても、もはや一部の専門家だけに委ねられた特殊の技芸に留っていることができず、一般の士大夫、読書人が自由に参与できるような技芸へと転移してきた。宋初における王羲之復古の運動は書の古典的形式を教えることに大きな意味をもっていたが、院体の静止的な硬化した形式主義はもはや一般読書人の清新潑剌な精神を満足させるものではなかった。しかし彼らは院体に不満を覚えながらも、十分に自分の要求を実現する表現形式を見出すことができないでいた。蘇・黄・米の3人は時代のこの要求に答えて自由な個性、人間的な精神を表現するにふさわしい書風を創始した。一般読書人の書道への参加、趣味としての書の開発は蘇軾や黄庭堅が出るに及んで、決定的な解放をみたのであった。
そしてこれこそ宋代の書の新しさであり、書はこの時代から親しみやすい人間的な姿をとって現れることになる。またこのような事態に応じて、書に対する一般読書人の意識、態度に大きな変化が現れ、趣味の対象、鑑賞すべき芸術としての書が成立する。
蘇軾や黄庭堅以来、書芸術に対する自由な批評が多く出てくる。蘇・黄・米の3人にはそうした批評が少なくない。宋代以前の書論というと、たいていは書法の技術に関する議論か、あるいは古人の書法に対する簡単な批評に過ぎなかったのであるが、これ以後もっと自由闊達な芸術批評というような議論が盛んになる。
要するに北宋に入ってはじめて、書はこれまでの特殊技術という性格、あるいは完璧な非情の形式美の追求をやめ、広く一般読書人が参与して、精神的に互いに交わりをとりむすぶ一つの芸術、あるいは自由に娯しんでつくりもすれば味わいもする芸術として成立するに至るのである(神田、1頁~17頁)。
蘇・黄の書法 中田勇次郎
蘇軾の書を鑑賞するには、その生涯を3つの時期に分けて見ることができると中田は主張している。
①第一の時期は若い時から元豊2年(1079)44歳ごろまで
②第二の時期は元豊3年(1080)黄州へ流謫されてから元祐8年(1093)58歳ごろまで
③第三の時期は紹聖元年(1094)、罪を受けて南方に追放されてから没するまで
黄庭堅の言葉によると、蘇軾は若いときに晋の王羲之(321-379)の「蘭亭序」を学んだということである。
今見ることのできる蘇軾のもっとも若いときの書は、「成都西楼帖」(図53-56)に収められている治平元年(1064)12月8日、29歳のときに鳳翔(陝西省)の官舎で書いた故提刑郎中伯挽詞二章であろう。これはいくらか行書のまじった小楷で書かれたもので、黄庭堅の言葉のように、どこかに「蘭亭序」の風韻がうかがわれる。蘇軾は治平4年(1067)に「蘭亭序」の摹刻の跋を書いているから、この前後には「蘭亭序」のよい本を見ていたし、また研究もしていたことと想像される。
「西楼帖」にはこの他にもこれと同じ小字の行楷で書かれたものがかなりたくさん収められている。その中には文同に関する一類のものがある。例えば治平2年(1065)ごろの「文与可画竹賛」、元豊2年(1079)正月の「祭文与可文」がそれである。
文同はあざなを与可といい、詩と楚辞と草書と画の四絶をよくしたといわれる。蘇軾が治平元年(1064)はじめて彼に遇ってから、元豊2年(1079)文同が没するまで、もっとも親しく交際した文人である。
これらの書はいずれもほぼ同じ傾向のもので、その中には行書でかき、やや唐の褚遂良に近いものもあるが、だいたいにおいて「蘭亭序」から生れたものである。
また年記はないがやはりこの時期の作と思われるものに「問養生一首」が「西楼帖」にある。この書は「蘭亭序」の風韻をえている点ではもっともすぐれたもので、やや肉太のよくととのった、おちついたあたたかい感じのする書である。
蘇軾がこんな美しい晋人のような書をかいていたことは、彼の中年以後の書風から考えると想像もできないほどであると中田はいう。
「西楼帖」にはまだこの他に、熙寧10年(1077)の「奉和師中丈漢公兄見寄一首」などがあり、このたぐいの小字の行書または楷書である。
蘇軾はよくこういっている。書を学ぶには小楷からはじめるべきである。行草の基礎は小楷にある。小楷が書けないで行草の書けるはずはないと。これらの例によって考えて見ると、彼の若い頃の書はこのようなおとなしい晋唐の風格を備えた小字の行楷を得意としていたもののようで、これより後の時期における行草の基礎がここに作られていたことは彼の書を鑑賞する上において注意すべきことであるという。
②第二の時期は彼が唐の顔真卿(709-785)を学び、五代の楊凝式(873-954)を学んだ期間で、批評家はこの頃の彼の書を唐の徐浩もしくは李邕に似ているといっている。
この時期に入る前後から、大字の楷書の碑がある。
元豊元年(1078)の「表忠観碑」
元祐6年(1091)の「宸奎閣碑」(図37-41)、「豊楽亭記」(図42-44)、「酔翁亭記」がそれである。
たくましい骨格にゆたかな肉づき、血の通っているかと思われるようなあたたかさ、おおらかな気象が胸を打つように迫ってくる。蘇軾は書には必らず神気骨肉血の5つの要素が必要である。この1つを欠いても書にならないという。まことにその言葉の通りであると中田も共鳴し、これらの碑は顔真卿を学んだものという。
蘇軾は顔碑では「東方朔画賛」を好んだ。黄庭堅も東坡の大字を評して、「東方朔画賛」の筆意をえている。時には技巧のまずいところもあるが、いささかの俗気もないといい、そのにごらぬ美しさをほめたたえている。蘇軾が顔真卿を学んだのは、何よりもその人物がすぐれていることと、書においては二王以来の筆法を一変して、人間性を自然に発露することができたからであるといわれる。
ところで蘇軾は楊凝式を学んだといわれるが、楊の書には今日ほとんど信ずべきものがない。古人の批評によると、その書は天真爛漫であって心のままに筆を走らせ、少しもにごったあとがなかったという。
「西楼帖」に元祐2年(1087)の「郭熙秋山平遠一首」があり、その題語にこの紙はすこぶる楊風子のおもむきがあるという。その前後の書風から想像すると、楊風子すなわち楊凝式のおもむきというのは、筆勢が流動して作者の心が自然のままに清らかに現われうる美しさであろうと中田は推測している。
また蘇軾の書はよく徐浩に似ているといわれるが、彼自身はそういわれるのを好まなかった。李邕に似ているといわれると、それを認めたという。徐浩は彼の用筆の点画が少し露わにあらわれすぎた小字、中字の楷書において、それがみられるし、李邕は彼の柔らかい曲線の美しさと風韻の清らかさをもった行草においてそれがみられると中田はいう。
蘇軾は文章をつくっても、詩をつくっても、水の流れるような自然らしさと意趣のゆたかさがあるが、書においても行草のものには天真の発露したものが多く、そういうものは李邕によく似ていたということはできるという。真蹟では「黄州寒食詩巻」(図32-36)および元祐6年(1091)10月潁州(安徽省)で龍公神に雨乞いをしたときの詩話をかいた「龍公神帖」はそのもっともよい例であるとする。
「西楼帖」にはこの時期にかかれた詩の詠艸が多く収められているが、その中でも行書、楷書のものは徐浩に近く、行草のものは李邕に近いということができる。そしてやはり李邕に近いものの方に彼の天真がよくあらわれているようである。元豊6年(1083)の「調巣生一首」は「寒食帖」に近く、「寒食帖」の書かれた年代を定める規準になる。元祐5年(1090)の「熙寧中軾通守此郡除夜直都庁二首并敍」(図55, 56)はもっともすぐれた作といってよいであろうという。
黄庭堅の言葉によると、蘇軾は酒は好きであったが、あまり飲めない方で、杯に4、5杯でもう酔っぱらってしまい、人の前で遠慮なくごろりと横になると、雷のようないびきをかいてしばらくして目がさめると筆を取って、それを風雨のように走らせて書をかいた。たわむれに書いたものでもすぐれたおもむきがあった。まことに神仙中の人であった。これは今の書家にはとうていまねのできぬところであると黄庭堅はいう。
「西楼帖」の「雨中熟睡詩一首」(図53, 54)は、元豊3年(1080)2月26日、酒のあと熟睡して目がさめてからこの詩をつくって書いたものらしく、このもっともよい実例である。彼はまた、酒を飲むと大草を書いたと自らいっている。「西楼帖」の「梅花七言絶句一首」は、元豊2年(1079)正月20日、蔡州(河南省)から関山をわたる道中、雪に遇ってつくった詩で、これはそのときの酔後の狂草であろうと中田はみている。そして痛快な作であると評している。
③第3の時期の紹聖以後の書はあまり見られない。紹聖元年(1094)4月の「雪浪石盆銘」(図45-48)の痩勁な唐楷をみるようなおもむきは、彼にはやはり晋唐の素質があったと思わざるをえないと中田はいう。
同年4月15日英州(広東省)で「中山松醪賦」を書いているが、それには澄心堂紙、杭州の程奕の鼠鬚筆、李廷珪の墨を用いているのや、同3年正月12日、「宝月塔銘」を撰んで、同じくこの3種の紙筆墨を用いて書き、黄庭堅が跋にその高妙をたたえているのなどは、この時期における快心の作であったであろう。
蘇軾が海南島に流されてからのちの書には、特にすぐれた気象があらわれていたといわれるが、今は信ずべきものは極めて稀で、元符3年(1100)6月の「与夢得秘校札(むとくひこうにあたうるさつ)」(図57)によってその書風をうかがうにすぎず、同年10月の「六榕」二大字の傍額は、老いてなお衰えぬ偉大さをしのぶことができると中田はいう。
蘇軾の書は、はじめ「蘭亭序」に自然の風神を学び、のち顔真卿に人間性の発露を会得して大成したものである。欧陽脩が、書においては人物のすぐれていることが第一条件である、人物のすぐれている人の書だけが永遠に伝わるといったが、この言葉は蘇軾にもっともよくあてはめることができると中田はいう。蘇軾の書を鑑賞するにはその人物のすぐれていたことを、彼の文芸を通して理解することが大切である。蘇軾は宋の名臣であるとともに、文章においては天才的な才能をもってすぐれた作を数多くつくりだし、書においても高い見識をもっていたがゆえに、天下の人々が争ってその書を求めた。
黄庭堅の書の学び方は蘇軾の、水が清らかに渓間を流れて行くような自然らしさに比べて、修行者が嶮岨な急坂をよじのぼって行くようなけわしさがあると中田は喩えている。黄庭堅のもっとも得意としたのは草書である。そこで黄庭堅の草書の学び方を中心にして、その書論を中田は紹介している。
元符3年(1100)2月、56歳のときの「草書巻」の跋に、書を学ぶこと40年といっているから、これから逆算すると、黄庭堅がはじめて書を学んだのは17歳のときである。淮南(安徽省)にあって叔父の李常について学問をし、また孫覚から教えを受けたときのことである。この李・孫の二人はこれから後も彼をよく導き、感化し、蘇軾に紹介するのもこの二人である。
黄庭堅は若いときから草書が好きで、はじめは周越を師とした。周越は仁宗朝のころに書で名を知られた人で、その当時周越に書を学ぶ人は少なくなかった。その書風は王羲之風の保守的なものであったという。黄庭堅が周越に学んでから20年ほどの間は、周越の書風を受けていた時期である。のちに黄庭堅が述懐するところによると、まだ古人の用筆の妙を悟らないで、その一面をうかがうにすぎず、俗気にとらわれて、それを脱けきることのできなかった時期である。
中年になって少し書が進んできた。元豊8年(1085)、虞世南の「道場碑」の題語に、草書のおもしろさは学ぶ人が自分で会得しなければならない。長らく学んでいるうちには、きっと解ってくるという。彼が草書を学んでから30年、元祐6年(1091)、47歳のころ、はじめてその微妙なおもむきを悟ることができた。この時に書いたものは文同の「墨竹枯木図」とならべてもよいと自負している。彼は30年間の精進を秘かに唐の懐素に比べていた。
元祐初年、黄庭堅ははじめて蘇軾に面会する。この後のことであろう、ある時、蘇軾と銭
勰(せんきょう、穆父)が黄庭堅の草書を観賞したとき、蘇はしきりに賞歎したが、銭勰は一言もいわなかったので、その訳を尋ねると、懐素の「自叙帖」の真蹟を見たならば得るところがあるであろうといった。
黄庭堅はそう言われると心の中では不平であった。しかしこれが後に黄庭堅が「自叙帖」によって草書の妙を悟る機縁になったという。
また徐徳修に与えた草書の跋に、蘇軾と銭勰が彼の草書に俗気が多いのはよくないと批評したことが記されている。黄庭堅は平生もっとも苦にやんでいたのは、この俗気を脱することであった。彼はのちに、彼の元祐時代の書を、まだ俗気の脱けきらないものとして、それ以後の書と区別している。
黄庭堅は紹聖元年(1094)、江西分寧の黄龍山中でたちまち草書の妙を悟った。今までに書いたものは筆鋒があまり現われすぎていてよくない。今ではもう明窓浄几のもと、筆墨の気に入ったものがあるならば、数千字書いても倦まないつもりであるが、まだその機会にめぐまれないという。
同じく紹聖元年(1094)5月および紹聖4年(1097)11月に黄庭堅は「蘭亭序」の跋を書いている。彼は「蘭亭序」から古人の筆意を学んだというが、それはおそらくこの前後の頃のことであろうと中田は推測している。彼は紹聖2年(1095)4月から、元符元年(1098)3月まで黔州(けんしゅう、四川省)に過ごす。この黔州時代の書を、また後にこれ以後のものと区別している。
そして元符2年(1099)6月から同3年12月まで戎(じゅう)州(四川省)に過ごす。この時期になると、前の黔州時代の書をしきりに反省し批判する。
「余が黔南にいたときには、まだあまり字が弱々しいことに気がつかなかったが、戎州へきてからは、前に書いたものをみると、多くは憎らしく、たいてい十のうち三つ四つがややましだとおもうだけである。いまはじめて古人の沈着痛快ということばを悟った。ただこれを理解する人がないだけであるという。沈着痛快とは斉の王僧虔が呉の皇象の草書を批評したことばで、おちついた中に力強いものがつつみかくされた筆意をいうと中田は解釈している。
また「黔中にいたときの書は多くは意のままに曲折して書いていた。意は尽くされていたが、用筆は及ばなかった。戎州へ来て棘(ほく)道(四川省)を通りかかり、舟の中で長年訓練された船頭が舟を漕ぐのを見て、少し書が進むのを覚えた。これからのちは意のままに用筆がともなってきたという。
元符3年(1100)のころの「此君軒詩の跋」に、「ちかごろの士大夫は、古法を会得しているものはほとんどなく、ただ筆を右左ともてあそんで、それを草書といっているだけである。草書はじつは科斗篆隷と法を同じくし意を同じくするものであることを知らないのである。数百年来、ただ張長史(旭)と永州の狂僧懐素とわたくしの三人だけがこの法を悟っている」という。
戎州時代の書は古法の悟得によってまた一歩を進め、草書のわかるのは張旭と懐素と自分(黄庭堅)だけであるという境地に到達したわけである。
建中靖国元年(1101)4月、荊南(湖北省)にあって、「いまから十年前の書をみると、まるで自分が書いたとは思われない。年がよって病気がちで何事も思うようにならないが、ただ書だけはますますよくなるように思われる」という。荊南時代以後、彼が没するまでの5年間、これは彼の最後の円熟した時期ということができる。
黄庭堅がもっとも晩年、宜州(広西省)において、張載熙にあたえた書巻の跋尾の言葉は、その書法を知るのによく要をえている。
「すべて書を学ぶにはまず用筆を学ばねばならない。用筆の法は、筆に二本の指をかけて回腕で書かなければならない。古人がいっているように、掌は虚に、指は実にしなければならない。無名指を筆に倚せると力がでる。古人が書を学ぶにはいつも臨摹ばかりしていたわけではない。古人の書を壁に張りつけて、それをよく観賞し、こころに悟入したならば筆を下すようにする。こうして気分が向いたときに字を習って、それがやがて完成したとき、心の中でよく練りなおして、俗気がすっかりなくなってからはじめて人に見せてもはずかしくないものができる。すべて字を書くときには魏晋の人の書をよく観賞し、これを心に会得すれば、おのずから古人の筆法を知ることができる。草書を学ぶには楷書に精しくなければならない。筆を下すときの裏表を知れば、草書の書きかたはわかる。草書は難しいことはない」と黄庭堅はいう。
ここで中田は黄庭堅の草書について、次のように考えている。すなわちその草書はひたすらな精進と丹練と学問と悟道とによって、元祐時代、黔州時代、戎州時代、荊南時代とそれ以後へと、たえず過去を否定しながら、向上の一路をめざして進展していったもので、晩年の数年に至って、ついに三昧超妙の域に達したと中田は考えている。
黄庭堅が魏晋の書に求めたのは、微細な技術ではなく、魏晋の人の高い心がそのままにあらわれた、にごらぬ美しさであった。彼はそれを逸気と呼んでいる。この逸気は宋斉に承けつがれて唐におよんだ。初唐の四家欧・虞・褚・薛は書法に拘束されてこの逸気は破壊され、徐浩、沈伝師になってほとんど亡んだ。張旭、顔真卿が出でて、はじめて魏晋隋唐以来の超越絶塵のおもむきを備えた。そののち楊凝式がいでて、いくらかそのおもむきを得たが、楷書の基礎をもっていなかった。けれどもその書はすぐれていた。
宋代になると、蘇舜元、舜欽兄弟がこれを承けつぎ、ついで蘇軾が顔・楊を学んでその気骨に近かった。黄庭堅は蘇氏兄弟から古人の筆意を悟り、唐の張旭、懐素、高閑上人に草書の妙をうかがい、さらに秦漢の篆隷にさかのぼって、古人の用筆と筆意を悟ったのである。
黄庭堅の書はその学究と丹練と悟道を身をもって体験しなければ本当に理解することは難しいであろうと中田はいう。深くその書を愛し、深くその義を取るというのが黄庭堅の信念であった(中田、18頁~25頁)。
米芾について 内藤乾吉
米芾が自分の体得した書法の要訣と自分の学書の経歴とを簡単に述べた文(「自叙書学」とか呼ばれている)を書いたものが、「羣玉堂帖」の中の米帖に載っている。
円熟した立派な行書で大書したもので、晩年に近い書と思われるものである(その文は彼の遺文を集めた「宝晋英光集」その他の書にもみえている。徳川末の書家で米芾を学んで一家をなした市河米庵はこの文を注釈敷衍して「米家書訣」という書物を作っている)。
内藤乾吉もこの米芾の「自叙書学」を中心にして、その書について考察している。その文は次のようにある。
「自分は初め顔真卿を学んだ。七、八歳の頃は非常に大きな字を書いたので、一枚の紙にまとまらなかった。後に柳公権の書を見てその緊結を慕い、柳の金剛経を学んだ。やがて柳が欧陽詢から出ていることを知って欧を学んだ。そうするといつしか字が印版・排笇(計算に用いる棒をならべたさま)のようになってくる。
そこで褚遂良を慕い、最も長く習った。また段季の転摺(転は使転の自由なこと、摺は筆が往復重なることであろう)肥美で、八面みな全いのを慕ったが、やがて段が全く蘭亭の筆法から出てきたものであることを覚ったので、遂に法帖をもあわせて見るようになって、晋魏の平淡に入った。鐘繇の四角い字を棄てて、師宜官を手本とした。その劉寛碑を習ったのである。篆書では詛楚文と石鼓文が好きである。また竹簡は竹の聿(ふで)を以て漆で書いたものであり、鐘鼎の銘は古老の点がえもいわれぬことを悟った。書壁の字は沈伝師を主とした。小字は大いに取らない。」
これでみると、幼少の時に顔真卿、柳公権、欧陽詢を習ったのは後世と同じである。柳公権の金剛経は、米芾の習ったのと同じものかどうかはわからないが、近年敦煌から発見されている。
清の翁方綱は、「羣玉堂帖」のこの米書をみて跋を書いているが、それによると段季は唐の元和ごろの人である。師宜官は後漢の霊帝の時の人であるが、、「劉寛碑」というものは宋の趙明誠もその書者を知り得なかったのに米芾がどうして師宜官の書であることを知ったかがわからぬといっている。とにかくこれらの書は今日みることができない。
翁方綱はまた「米芾は褚を学ぶこと久しいといっているが、そこでこそよく晋法を窺うことができたのだ」といっている。
これはもっともな批評であると内藤はいう。だいたい褚遂良の書は「房玄齢碑」や「雁塔聖教序」を見ると、「帖法を碑に入れた」と評する人もあるくらいで、碑書でありながら、欧陽詢や虞世南のそれとは違って、微細な筆意をよく表しており、南朝人の非常に技巧的に発達した書法を残していると内藤はみている。
欧・虞からそういう南朝人の筆意を窺うことはむつかしいが、褚遂良からならばそこへ溯る手がかりになるという。
米芾の書には最後まで褚遂良の筆意が残っていることは両者を比較してみれば気づくという。欧・虞・褚は楷書の完成者であるとされているが、その中で褚の書がもっとも前代の、ことに南朝の法を残していて、六朝へ通じ易いのは、あたかも蘇・黄・米がいずれも晋唐の書を学んで新意を出した点は同じでありながら、古法をもっともよく伝えたのは米であり、米から唐へ、さらに六朝へのつながりを見いだすことが容易であるのと似ていると内藤はいう。
次に米芾は段季の書が蘭亭からきているのを覚って、法帖をも見るようになり、魏晋の平淡に入ったという。
そして翁方綱は、米芾が元豊6年(1083)、33歳の時に書いた有名な「龍井方円庵記」に跋を書いているが、その中で「宋の温革(叔皮)のいうところによると、米芾は元豊中に蘇東坡に会って教えを受け、それから始めて晋人を学ぶようになり、それから書が大いに進んだということであるが、そうするとこの碑の書は米芾が始めて晋人を学んだ時分の書で、その用筆が晋帖の意を得ている」といっている。
「方円庵記」の書はもっとも王羲之の「聖教序」に近いとされる。
また清の王澍(虚舟)は米芾が38歳の時に書いた「蜀素帖」(図88, 89)を評して、「米芾は王羲之の聖教序のことは一言も語ったことがないが、実は蜀素帖の筆法は一筆一筆聖教序から来ている。そうして一向に知らぬ顔をしている」といっている。
「方円庵記」では字の形に至るまで「聖教序」に彷彿たるところがあるが、「蜀素帖」になると、「聖教序」の筆意があってもそれはすでに自己のものとして消化されている。
王澍はそこを見破りえて大いに得意だったわけであると内藤は解説している。
ともかくこの両者を比べてみると、その間における進歩が窺えておもしろいと内藤はいう。
もちろん米芾は「聖教序」ばかりを習ったのでなく、二王をはじめいろいろのものを学んだに相違なく、米芾の41歳以前の書と推定される「叔晦帖」(図91-92)を見ると、我々が今日智永の「真蹟千字文」などから想像する南朝末期あたりの爛熟した巧緻を極めた筆法をすっかり手に入れていると内藤は評している。
そして内藤乾吉は「叔晦帖」の図版解説において、その父・内藤湖南の評に言及している。すなわち父(内藤湖南)はこの三帖(「叔晦帖」「李太師帖」「張季明帖」)の跋を書いたが、その中で「叔晦帖」を評して「智永と虞世南の間ぐらいの書風で、必ずしも二王にばかり拘束されて居らず、駿發秀眉、無双である」といったとしている。
これに対して、息子の内藤乾吉は次のように補足している。
「智永の真蹟本の千字文や虞世南の汝南公主墓誌などと比べてみれば、その然るところがうなずける。この叔晦帖や大行皇太后挽詞を見ると、米芾がいかによく晋唐人の筆法を習得し、その気韻をも得たかがわかる。署名に黻の字を書いているから、四十一歳以前の書である」と(図版解説、173頁参照のこと)。
さて、米芾は二王にとどまることに満足していたのではなく、さらに二王以前の高古な風格を慕った。当時、帝室の外戚であった李瑋という大収蔵家があったが、米芾はその家で二王以外の晋人の真蹟を集めたいわゆる「晋賢十四帖」(あるいは十三帖とも)を見て、それらの書風に傾倒した。
この晋帖のことは米芾の著わした「宝章待訪録」および「書史」のほか、謝安の「八月五日帖」や「秘閣続帖」の米芾の跋にみえている。
米芾はこの帖の書を批評して「宝章待訪録」では、「武帝王戎の書は字に篆籒の気象あり奇古なり」といい、「美なるかな、得て加うべからず」「謝安の帖は字は清古、二王の上にあり、宜べなるかな、子敬(王献之)の帖尾に批せること」と讃嘆の語を発し、「秘閣続帖跋」(『東観余論』に載る)にも、「武帝・王戎・謝安・陸雲の輩は法は篆籒のごとく、体は飛動するごとし」といっている。
ところがこのほかにまだ米芾がこの晋帖のことを草書で書いたものが羣玉堂の米帖に刻されている。
次にその文を引用すると、
「ある好事の家の収蔵している帖に篆籒のような書がある。それからみると二王の書も俗っぽく思えてくる。晋武帝帖がそれである。謝奕は混然天成である。謝安は清邁、まことに子敬の帖尾に批答を書いたのももっともである(下略)」と。
これにより、米芾がいかにこの晋帖に傾倒していたかがわかるし、またその文字は晋帖の字に倣って書いたものであることがわかる。その書は彼の平生の姿を見失うくらいに古雅な味を出したものである。この晋帖はかつて宋の太宗が『淳化閣帖』を作った時に借り上げられたことがあるが、当時編纂者の王著に眼識が無かったため、閣帖にはその中の郗愔の書だけしか採用されなかったのは惜しまれると米芾はいっている。
米芾がこの晋帖をはじめて李瑋の家で見たのは、元祐の初年、35歳頃と推定され、それ以来何とかして手に入れたいと考えていたが遂に及ばなかった。
ただその中の謝安の「八月五日帖」は建中靖国元年(1101)、51歳に至って当時蔡京の所有になっていたのを譲ってもらって宿望の一端を果した。
ともかく35歳頃から見はじめて生涯執心していたこの晋人の書が、米芾の書に影響を与えぬはずはない。その影響を考える鍵になるのが、「羣玉堂米帖」中の米芾がこれら晋人に倣って書いた草書である。この草書がいつ頃の作か不明であるが、まだ謝安の一帖を得ていない時のものと考え、少なくとも51歳以前のものであると内藤はみなしている。
そしてこれに非常に似たところのあるのが、46、7歳頃の作と推定される「草書四帖」(図97-104)である。また李家の晋帖の短評を行書で書いた「李太師帖」(図93, 94)や「張季明帖」(図95, 96)にもその影響が認められるという。「李太師帖」「張季明帖」は何年の書かわからないが、恐らく40歳以後のものであるようだ。
ところで、「草書四帖」は習字のために書いたと考えられるものであり、「李太師帖」、「張季明帖」も率意の書ではなく、これらをもって米芾の本然の姿であるとはいいきれないところがあるが、「草書四帖」より少し前の44歳頃の書と考えられる「楽兄帖」(図105, 106)に至っては、それが尺牘であるだけに、全く経意のあとを感じさせず、渾然天成、米芾の真面目をあらわしたというべきで、内藤はこれを今日見られる米書の最高のものと考えている。そしてこのような書は二王の書のみに汲々としていただけでは到達し得なかったものであろうという。
そして内藤はその「楽兄帖」の図版解説においても、次のように絶賛している。
「「楽兄帖」は米芾の書として、すでに円熟の極致に達したものである。あくまで遒勁秀抜でありながら、米芾の書の特徴である欹側怒張の弊を感じさせず、渾然天成の域に達していて、気品もはなはだ高い」と(図版解説、174頁参照のこと)
米芾の有名な言葉がある。
「自分は壮歳、まだ一家を成すことができなかった時には、人は自分の書を集古字であるといった。これは自分が諸の長処を取り、それを綜合して完成を期したためである。老年になって始めて一家を成してからは、人は自分の書を見ても何を祖としたかを知らぬ」と。
内藤は、これまで述べてきたところでも、米芾のこの言葉がうなずけるという。
さて、米芾の「自叙書学」には、なお「石鼓文」や「詛楚文」などの石刻文字や鐘鼎文字のことを書いているが、これは当時は金石学の盛んな時で、米芾は李公麟その他の収蔵家の金石を見たと『書史』に書いており、これらの金石文字にも関心のあることを示したものである。竹簡のことまで書いているのは、当時漢代の竹簡が発見されたことは、黄伯思の『東観余論』にみえていて有名なことである。米芾も竹簡を得たということで、それに言及している。
次に『書壁』には主に沈伝師の書法を用いたといっているが、沈伝師の書は今日「柳州羅池廟碑」で知られるけれども、その擘窠大字がどんなものであったかは、想像にたよるほかない。『宝章待訪録』や『書史』に、米芾が潭(長沙)に官していた時に、道林寺の四絶堂に沈伝師が詩を杉板に書いたものがあったので、それを借りてきて、半年臨学し、のちに石にも刻させたということがみえる。
また米芾が智永以下14人の書を批評した文の中に沈伝師を評して、「龍の天表に遊び、虎の渓旁に踞まる如し、神清自如、骨法清霊」といっている。
最後に「小字は大いに取らず」というのはどういう意味かはっきりしないが、翁方綱はそれを米芾が小字を軽んじた意にとって、こんなことをいうと後学が学書の順序を無視して勝手な熱をあげ、小楷を棄てて学ばず、もっぱら大行草ばかり書きたがるようになって困ると不満の意を述べている。
以上のほかにも、米芾が自分の学書について述べたものに、
「自分は十歳頃から碑刻を稽古し、また周越、蘇子美(舜欽)の札を学んだ。一家をなしてからは、人に李邕の筆法があるといわれたのを嫌って遂に沈伝師を学んだ。その俗でないのを愛したからだ。自後しばしば王献之の字を改めた。(改は倣の誤りか)その落々不群の意を取ったのだ」というのがある。
米芾が王献之をよく学んだことは周知のことである。また米芾が徽宗の勅命で書いた小楷千字文の跋に、「自分は幼時より顔真卿の行書を学んだが小字には留意しなかった」といっており、『海岳名言』にも「顔真卿の行書は教うべし、真書は俗品に入る」といっている。
ことさらに古法を無視した顔の楷書は好まなかったにちがいないが、当時の人々とともに、顔の行書はよく習ったのである。米芾の「評紙帖」などは顔法から来ていると、董其昌は評している。
董其昌は晋人の古法を得ることに努力したことは米芾と同様で、またそういう点では米芾以後の第一人者であるから、米芾を理解することももっとも深いといわれる。
したがって董其昌の「画禅室随筆」には米芾に関する批評が非常に多く、米芾を知るにはもっともよい手引きとなるものである。
董其昌は米芾の小楷を批評して、「米芾の行書は世間に伝わって、晋人の書と競争する位だが、しかし米芾の平生自負するところは小楷であったのではないか。それを大事にしてむやみに書かなかったので筆蹟が稀れなのであろう」といっている。
大体、米芾の得意は大中字の行草で、小楷書などは大したものではないという批評が昔から多いので、董其昌のこの言葉は、それに対する啓蒙の意もあるようだ。とにかく米の小楷は決して隅におけるものではないと、内藤はみなしている。
米芾は、「自分の小行書には大字のようなのがある。人に与える場合にはそういうのは書かぬが、自分の家に蔵している真蹟古帖の跋尾には往々そういう字を書いた」といっているが、これは自分が人にやる字は大中字の行書ばかりだから、世人は自分の小行書のうまさは知るまいが、実は小字でも大字同様にうまいのだということである。小行書も人が知らぬくらいであるから、小楷などはさらに知られなかったようだ。
一般的に宋代は行書時代であるとされるが、米芾のような文人生活では小楷を書く必要はあまりなかったであろう。また書を求める人の方でも、小楷の面白さなどは理解せず、行書の大きな派手なのを好んだことは今日と同様であったのだろうと内藤は推測している。
米芾は晩年に書画学博士となったとき、王羲之の「黄庭経」のように書けという徽宗の命令で千字文を書かされた。その跋に、「黄庭経のように千字文を書けとのありがたい御命令ですが、私は幼少より顔行を学びましたけれども、小楷にはついに留意いたしませんでした。(下略)」と書いているが、小楷に留意しなかったというのは天子に対する遠慮もあるのであろうという。
ところで米芾の小楷は今日法帖の中には、この千字文をはじめ、二、三のものがあるが、真蹟本としては、「大行皇太后挽詞」(図107, 108)と、「崇国公墓誌」とがある。挽詞は51歳の書であるが、これは米芾の小楷の最上のものとされている。
「大行皇太后挽詞」は朝廷に上ったものであるから、米芾としては最も慎重に書いたはずで、これが彼の謹厳な楷書の極致である。欧・虞のような四角ばった楷書ではないが、欧・虞より以前をねらった米芾としては、欧・虞のような方正な楷書は書かなかった。米芾は楷書が書けぬという論は、後世の方正な楷書を見た目からいうことであると内藤は解説している。
この点董其昌は、「小楷は非常にむつかしい。法帖を臨するものは只だ形骸を得るだけであるから、益々真のものから遠ざかる。古人の真蹟を見ないので、神化から隔たるからであろう。宋では唯だ米芾だけが真の小楷を解した。」といっている。内藤はこの董其昌の言葉を至言であるとしている。董其昌も米芾同様に晋唐の真蹟を数多く見たので、米芾がよくわかったわけである。
一方、「崇国公墓誌」は米芾の57歳没年の書である。これは挽詞などよりは気楽に書いたものであろうが、どこか頽然たるところが感じられると内藤は評している。
米芾は随分口が悪く、前人の書に対して遠慮のない悪罵を浴びせている。それらも米芾の書を知る参考になるし、また米芾がどんな書蹟を見たか、また蔵したかも参考にする必要があるが、紙幅の都合のため内藤は割愛している。
要するに米芾は蘇東坡、黄山谷とともに宋代の革新派の書家とされる。そこに彼の書道史上における大きな意義がある。同時に彼は古法追究家としても宋代の第一人者である。米芾の書が学ばれ易くして学び難いゆえんである。内藤は古法追究家としての米芾にもっとも興味を感じているので、上記のような米芾論を述べてきたという(内藤、26頁~36頁)。
《『書道全集 中国篇』を通読して 要約篇その9中国9》
10中国9 唐Ⅲ・五代
10中国9には唐の玄宗の天宝元年から五代周世宗の末年に至るまで218年間(742-959)の書蹟を収めている。
中国書道史9 神田喜一郎
唐王朝はその建国(618)以来、強大な国家をつくりあげ、華やかな文化を発達させてきたが、第7代目の皇帝玄宗の世に至って、安禄山の大乱(755-763)は、唐王朝の基礎を揺すぶり、唐王朝の歴史も黄金時代から没落時代に突入する。
もっともそうした徴候は、安禄山の大乱に先立って、玄宗が太平に酔うて政治に倦みだした天宝の初年(742)から、すでに萌していたと神田はみている。つまり安禄山の大乱はこれを皮相的にながめると、突如として起きたものではあるが、その起こるべき素因は、はやく黄金時代の末期に醞醸されていたとする。そう見てくると、唐王朝の没落時代はこれを天宝の初年にまで遡らせるのが妥当であると考え、この天宝の初年をもって、時代を画し、『書道全集』の巻を新たにしたと説明している。
この唐王朝の160余年に亙る没落時代は、唐王朝の滅亡とともに、そのまま直ちに五代(908-959)に連接し、約50余年続いた。
唐王朝の没落時代から五代の混乱時代に至る210余年は、中国の歴史の大きな転換期であった。政治、経済、社会、文化など、あらゆる方面において、中国が中世から近世へと大変革を遂げた時期である。六朝以来久しく政権を掌握してきた門閥貴族は、この時期の初めから勢力を失墜しはじめ、中央では宦官が横暴をきわめ、地方では藩鎮が跳梁をほしいままにし、唐王朝の政治構造が変わってしまった。
その結果、新たに社会的勢力として抬頭してきたのが新興地主層で、その子弟は文官登用試験制度の成立発展にしたがって、官僚として政治に参与することとなり、今までの貴族に代わって文化の担い手となった。この新しい文化の担い手は、古い貴族本位の文化にあきたらず、自らの趣味に合致した自由で清新な文化の創造に邁進した。
しかしその一方において、永い伝統をもつ貴族文化も、そう簡単には衰退せず、むしろ一般的には新興文化よりも、かえって広く深く根を張っていた。この新旧二つの文化が互いに交錯し、反撥しあっていたのがこの時期の大勢であった。
唐末の乾符2年(874)に起こった黄巣の叛乱が大きな打撃を与えて、続く五代の混乱時代は、文化の空白時代であったともいいうる。ただ蜀とか南唐とか、遠く中原から離れて戦乱の災禍を蒙ることの少なかった諸国には、古い文化の伝統が温存され、それがやがて宋王朝に引き継がれることになった。
中国の書法は王羲之父子をもって最高の権威とする。こうした信念ははやく王羲之の生存当時から形成されつつあったが、その後ますます確乎なものとなった。しかし唐の大儒韓愈(768-827)に至って、王羲之の書を罵って「俗書」と貶しつけた。それは彼の名篇「石鼓歌」に見える。
もっともこうした王羲之の書に対する反撥は、はやく六朝時代からあるにはあったようだ。
南斉の高帝に仕えた張融がその一人である。高帝が張融に向かって「お前の書は骨力があるが、惜しいことに王羲之・王献之の筆法がない」といったのに対し、「王羲之・王献之の書に、臣の筆法のないのこそ残念です」と答えたという。
張融は草書を善くし、平生みずから誇っていたと伝えられるが、この言葉から察して、二王の書に反撥を感じていたことが想像できる。しかし六朝から唐王朝の中頃までは、たまたま張融のような者が出ても、それは単独の個人的な感情にとどまり、多くの人々の間に共感となることはなかったと考えられる。それに対して、韓愈が王羲之の書を「俗書」と罵ったのは、必ずしも彼の独自の感情や識見から出たのではなくて、その時代には王羲之の書に対する反撥的な精神が汎く識者の間にみなぎっていて、当時の進歩的な識者の意見を韓愈が代弁したものと神田はみなしている。
それでは何がそうした王羲之の書に対する反撥的な精神を生長させたのであろうかという問いに答えている。韓愈は王羲之の書を「俗書」と罵った理由を、王羲之の書は「姿媚を
趁う」たからだと説明している。姿媚とはみずから容姿をかざることである。これを言い換えると貴族的な典雅ということになると神田は解釈している。王羲之の書を産み出した社会的基盤は、いうまでもなく中世の貴族社会であった。その貴族の没落した時代において、王羲之の書が喜ばれなくなったのは当然であると神田はみる。これはひとり書のみにとどまらず、かの六朝以来貴族政治の華やかであった時代に栄えた駢儷体の詩も、同じことであった。
そして杜甫は駢儷体の詩の改革を試み、韓愈は駢儷体の文の改革を試みた。書にも改革運動の起こらないはずはなく、実際の技法の上において、王羲之の典型を破ろうとする、一種の革新書派ともいうべきものが、駢儷体の詩文の改革などと一連の文化運動として既に早くから発生していたと神田は考えている。
その急先鋒となったのは、はやく玄宗の開元の末(740頃)に没した張旭であるが、その後をうけて、革新派の書を一応大成したのが名高い顔真卿である。
顔真卿は唐王朝に忠勤を擢んでた一代の名臣である。玄宗の天宝14載(755)、安禄山が叛乱をおこした時、当時平原の太守をしていた顔真卿は、義兵を挙げ、唐王朝の危機を救い、その頽勢を挽回したばかりでなく、その後、徳宗の建中2年(781)に李希烈が叛乱をおこした時にも、身を挺して敵中に臨み、ついに李希烈のために殺された。まことに正義感の強い、剛直な人物であった。
そうした彼の気質からいっても、王羲之の書のような貴族的な書は韓愈のいったように姿媚なものに映じたに相違ないと神田はみている。
顔真卿は貴族的な書に反撥して、強烈かつ厳粛に主体的なものの表現を指向した。
彼の書蹟として今日伝わるものには、次のようなものがある。
①「千福寺多宝塔碑」(図12-17) 天宝11載(752)
②「東方朔画賛碑」 天宝13載(754)
③「祭姪文稿」(図18-21) 乾元元年(758)
④「祭伯文稿」(図22, 23) 乾元元年(758)
⑤「争座位帖」(図24-31) 広徳2年(764)
⑥「郭氏家廟碑」(図34, 35) 広徳2年(764)
⑦「麻姑仙壇記」(図38-43) 大暦6年(771)
⑧「宋璟碑」(図48, 49) 大暦7年(772)
⑨「顔氏家廟碑」(図56-59) 建中元年(780)
その他、色々有名なものが多く、はやく宋代には顔真卿の書蹟ばかりを輯めた「忠義堂帖」が刻されたほどだが、大体上記のものが代表的な傑作である。この中で、祭姪・祭伯の二文稿と「争座位帖」とは極く率意の間に書かれた行書で、他のものが正々堂々と書かれた楷書であるのと著しい対照をなしている。
次にその書についての幾つかの批評を紹介しておく。例えば、古人の批評に、
「点は墜石(ついせき)のごとく、画は夏雲のごとく、鉤(こう)は屈金のごとく、戈(か)は発弩(はつど)のごとく、縦横、象(かたち)あり、低昻(ていごう)、態あり」という。
一点一画、ことごとく男性的な重みと剛気とが満ち溢れていて、しかもその中にどこか渾樸なところがあり、そこに独自の特色を発揮しているという。
しかしときに剛気が過ぎると、「荊卿、剣(つるぎ)を按じ、樊噲、盾(たて)を擁し、金剛、目を瞋(いか)らし、力士、拳を揮うがごとし」という酷評の出てくるほど、いかにも武張って風韻の乏しいものとなってくる。
これは彼が意識的に王羲之の雍容典雅な典型を極力破ろうとした結果で、したがって王羲之の典型を奉ずるものから見ると、顔真卿の書は全く鼻もちのならない、いわゆる剣抜弩張の態に映じるという。実際、南唐の後主李煜などは「書法は顔真卿が出て始めて壊れた」と慨嘆している。
それに反して、革新書派の流れを汲む宋の蘇軾は、「詩は杜子美に至り、文は韓退之に至り、書は顔魯公に至り、画は呉道子に至って、古今の変と天下の能事とが畢(つ)くされた」といっている。顔書に最上級の讃辞を惜しまない。詩文の改革を試みた杜甫や韓愈を讃美する蘇軾としては当然であるといえる。
ともかく顔書は、王羲之の書と対蹠的な関係に立つもので、そう見てくると、色々毀誉褒貶はあっても、顔真卿は中国書道史上、王羲之以来の大家と称して差支えないと神田はみなしている。
そして神田は次のような問いを発している。この顔真卿の書は根本的にはその人間としての気質にもとづいて出来たものであるにしても、すべての技法までが彼の独自の発明としてよいであろうかと。つまり顔真卿の書の技法の独自性について問題としている。
古来の伝説によると、彼は張旭について書法を学んだという。またそうしたことを彼みずから書きしるした「十二意筆法記」という一文も存在する。しかしこの文章は偽作であろうと神田はみている。
顔真卿と張旭との直接的な関係があったかどうかは不明であるし、それよりも彼の書法の源流としては、いわゆる北碑が考えられるのではあるまいかと神田は考えている。現に清朝の学者の中には、顔書の源流として楷書には東魏の武定5年(547)に建てられた穆子容の書という「太公呂望表」やさらに遡って北魏の神亀3年(520)の高植の墓誌を、行書には名高い北魏の張猛龍の碑の後にある行書を指摘する者もある。
また楊守敬は、隋の丁道護の書いた「啓法寺碑」(7巻図14-17)を顔書の祖としている。神田自身も、顔書には明らかに北魏から来たと思われる筆法が認められるとし、その気分にも何か共通したものが感じられるという。もともと顔氏は山東臨沂の出身で、晋の南渡とともに一時江南に移ったこともあったが、顔真卿の五世の祖である顔之推から北朝に仕えた名家で、顔真卿には北朝人の血が流れていたことは確かである。
現に顔真卿の三世の祖である顔師古の書いた「等慈寺碑」(7巻図82, 83)は唐初に書かれたものであるが、どちらかといえば北朝の風が濃く、顔真卿が北碑に学ぶところがあったと考えても、大過はないものと神田は考えている。
また玄宗時代の書壇の動きとして、漢代に行われた隷書や、さらに遡って古い時代の篆書を書こうとする人が出てきた。隷書は初唐の欧陽詢も好んで書いたらしいが、玄宗の時代になって俄然これが流行しはじめた。玄宗も隷書を喜び、多くの隷書の碑を書いている。唐代の隷書の名家というと、韓択木、蔡有鄰、李潮、史惟則の4人を挙げることになっているが、これらの4人はだいたい開元・天宝から、大暦あたりまで生存していた。その他にも、この時代には徐浩(図6, 7)のような隷書の名家が出ている。篆書については何といっても李陽冰(図1-3)を第一の大家とする。
ところでこうした篆隷書家の出現したのも、革新書派の誕生と一脈あい通じたところがあるといわれる。革新書派の精神には王羲之以前に還れ、といった者があったが、これはこの時代におこった文学の改革にしても、その標榜するところは復古主義であった。駢儷体の文章の打倒を大声疾呼した韓愈が、先秦への復古を旗印としたが、そうした精神から書において、古く篆隷にまでさかのぼろうとする者が出現しても、不思議ではないと神田はみている。
実際、当時の篆隷書家の多くは革新書派の陣営から出ているし、それが証拠に、李陽冰にしても、徐浩にしても、いずれも革新書派の顔真卿と意気投合した間柄であった。特に李陽冰は顔真卿と昵懇で、顔真卿の書いた碑には、多く李陽冰が篆額を書いている。そして二人とも革新書派の開祖張旭から筆法を受けたという伝説がある。
この点神田は真偽はしばらく措いて、ともかくそうした伝説が生まれたところに意味があるとする。また実際、顔真卿は李陽冰の影響をうけ、その楷書に篆法を用いたと思われるところがある。例えば、「顔氏家廟碑」などはその一例である。そして清の王澍は草書にも篆法が応用されていると説くだけでなく、顔真卿が「むしろ樸なるも華なることなく、むしろ拙なるも巧なることなき」は、彼が篆籒の正法を心得ていたからであると論じ、この点、顔真卿は秦の李斯、漢の曹喜いらいの第一人者であると賛めている。
ともかく、篆隷書家の出現と革新書派の誕生とは、あい離しては考えられないもので、この関係こそ、当時の新しい書法を理解する重要な関鍵であると神田は考えている。
唐の中葉、顔真卿によって華々しく展開されてきた革新書派の運動は、一時旧派を駆逐するかのように見えたが、その陣営に顔真卿に並ぶだけの大家もなく、後継者も振わず、萎靡沈滞してしまった。もっとも顔真卿の当時、彼と並び称せられた大家に、徐浩(図6-11)と懐素(図72-81)とがあった。徐浩はその書が「怒猊(どげい)の石を抉り、渇驥の泉に奔る」が如くであると評され、当時から有名であったが、実は名声ほどのこともないと神田はみなしている。というのは、革新書派に属しはしたものの、その書は旧派に近く、顔真卿の書に見るような堂々たる気魄に乏しいという。
また懐素は草書の専門家で、その「自叙帖」(図72-75)のような、自由奔放を極めたところは、いかにも革新書派の陣営中の人と首肯されるが、その書はもともと王羲之の法度に準拠したもので、顔真卿のように正面から王羲之に反撥したものではなかった。
このように徐浩にしても懐素にしても、その力量はともかくとして、いわば新旧両派の中間に位し、純然たる革新書派ではなかったと神田はみている。
顔真卿の後、その正統を承けたエピゴーネンとしてわずかに気を吐いたのは、名高い柳公権(図82-91)一人である。古来、顔真卿と併せて顔柳と称せられ、この二人の書の特徴を表わして、顔筋柳骨という言葉のあるのも当然である。その一代の傑作「玄秘塔碑」(図84-89)は、まことに顔真卿の諸碑と頡頏するに足るものであると神田は高く評価している。しかしこの柳公権に継ぐものは出なかった。
革新書派がこういう中途半端な姿で挫折してしまう一方、旧派の書は一般的には汎く行われた。しかし旧派にもこれというほどの大家は出ず、新派以上に振わなかった。その中でやや注目すべきものとして、張従申と沈伝師の2人を挙げることができる。
張従申は顔真卿と時代を同じくしたが、顔真卿とは違って王羲之の典型を墨守し、古来の伝統を維持した。「李玄静碑」(図4, 5)は代表作で、温潤極めて気品の高い書である。一方、沈伝師は韓愈の撰文になる「柳州羅池廟碑」(図104, 105)の書者として名を知られているが、その書は初唐の欧陽詢や虞世南の遺韻を具えている。なお旧派に属する書家として、呉通微(図96, 97)を挙げることができる。役所風の書で、当時から院体と評されたほど、芸術味に乏しい書をかいたが、一般にはその書は喜ばれた。
ともかく顔真卿の後、革新書派に柳公権が出たのを除くと、新旧両派ともに一代の巨匠というべきものが出ず、書法は唐末になるにしたがって衰微し、五代に至って、その極に達した。五代では楊凝式(図110, 111)が大家とされているが、その書は古来の伝統を無視した詭険はなはだしいものであったと神田は低くみている。
ただその破格のところに天真縦逸の妙があるとして、宋代になって喜ばれ、特に蘇軾、黄庭堅、米芾が推称し、中国の書法に与えた影響には看過できないものがあるという。
いわゆる禅僧の墨蹟のごとき、楊凝式が俑をなしたといえないこともないとしている。しかし五代の書道として、南唐とか蜀にはかえって古来の書法の伝統が温存され、また文墨趣味が流行した。
この蜀と南唐について、その地域的特色を次のように神田は略述している。つまり蜀はもともと重畳たる山嶽で囲まれた別天地でいつも戦乱の際には中原から避難者が聚ってきた。その中には文化人も多く、それに土地が肥沃で物産が豊かであったから、そうした文化人の蜀に定着する者が少なくなく、この地には中原の戦乱を余所に文学や芸術が発達した。
また南唐はその国主の李璟、李煜が風流人で、晋人の名蹟をあつめて「澄清堂帖」を刻したことは名高い事実である。宋代になって最初に書法の復興を見たのはたいていはこの南唐や蜀から帰服した文化人の手によったものであった。
このように神田は、唐の中葉五代にかけての中国書道史を概観して、唐王朝の書法は全く竜頭蛇尾に終わり、最初の華々しさにもかかわらず、最後は惨憺たるものであったと結論づけている。
これは結局その国力の盛衰と歩調を同じくしたもので、国力の衰えるところ、ひとり文化のみが繁栄するはずはない。それに中国の社会の根底から動揺したことは、書道の向かうべき方途を混迷に陥らせ、それがまた書道の発達を甚だしく阻害したという(神田、1頁~9頁)。
顔真卿の書学 青木正兒
顔真卿の血統は曽祖父勤礼以来、能書家ぞろいで、勤礼は篆籒(てんちゅう)の書に工みで最も訓詁に精しく、祖父昭甫も訓詁に明らかで篆籒草隷に工みであり、父惟貞も草隷を以て著名であったという。
伯父元孫は「干禄字書」の著者として有名であるが、彼もまた草隷を善くした。顔真卿は早く父を失ったので、この伯父および兄の允南から教育を受けた。允南も草隷の書に工みであったというから、顔真卿の書学はまずこの両人によって啓蒙されたといわれる(なお、ここに「隷」というのは楷書のことである)。
顔真卿は長じて官遊するに及び、30歳余りの頃、長安と洛陽とで草書の名人張旭について筆法を学んだ。この事に関して顔真卿自ら「述張長史筆法十二意」(「書苑菁華」巻19)を著して、その始末を詳述している。これによれば、顔真卿はまず長安において張旭に師事したが、彼はただ興に乗じて、草書を3枚なり5枚なり書いて見せるばかりで、筆法については何も言って聞かせなかった。その後京兆府醴泉県の尉の官を授けられ(天宝元年[742]、34歳)、やがてその職を罷めて閑地についたので、洛陽に滞在中の張旭を訪ね、1月余り逗留して、筆法を請うた。
すると遂にある日、次のような要訣を語って聞かせた。「余は筆法を母の従兄弟に当る陸彦遠(虞世南の甥陸柬之の子に当る)から伝授された。彦遠が曰うには、吾甞て筆法を褚遂良に問うに、褚が曰く、用筆は須らく『印モテ泥ニ印ス』(封印をする泥の上に印を押す)如くすべきであると。幾ら考えても其の意味が分らなかったが、後に江中の島に於て沙平らかに地浄らかなるを見て、字が書きたくなったので、鋭く尖った物の先で書いて見た。すると其の勁険の状は鋭いうちに優しさがあったので、是より用筆は『錐モテ沙ニ画ス』(キリで沙に書く)如くにして蔵鋒(穂先を中にかくす)せしむれば、画(かく)が沈着するものであると悟った。そして其の筆を用いるに当っては常に其れをして紙背に透過せしめるように心掛ける、是が成功の秘訣である。真書も草書も用筆は悉く此のようにすることが其の道の奥義である」と。
顔真卿は謝して退き、これより書道研究の妙を得て、此に5年であるが、真書も草書もきっと成果を得られるであろうと自信を以て記している。
さて、以上のような筆法の要訣は真草を通じてのことであるが、実技として顔真卿が張旭から学び取ったところは、主として草書の法であったであろうといわれている。もっとも顔真卿は張旭の真書についてもその優秀なることを称して、「懐素上人草書歌序」(文集12)に「楷法精詳、特に真正と為す」といっているが、張旭の楷法の現存している「郎官石記」を見ても、顔書への影響は顕著でないと青木はみている。
だから顔が張から学び取ったところは主として草書の法であり、真書においては「印印泥」「錐画(すいかく)沙」つまり「蔵鋒」の妙諦と、「透過紙背」の要訣とを教えられたので、これが他日顔書を大成する根底をなすものであったと青木は推測している。
ここで青木は顔真卿の書に対する評を紹介している。
例えば、宋の米芾は顔の早年の書を称して、「顔真卿は褚遂良を学んで後自ら一家を成したもので、醴泉の尉たりし時の石刻(「醴泉令徳政碑」をさす)及び麻姑山記は皆褚の法である」(「海岳題跋」)と評している。
醴泉の碑は今見られないが、宋代の「金石録」にも「筆法は魯公の他の書と類せず」といってあるし、天宝元年34歳の書で、張旭に筆法を授かる前のものらしいから、あるいは米芾が鑑識したように褚書を学んでいたかもしれないという。
さて降って、清の翁方綱は隋の「賀若誼碑」(7巻図9)は論じて「下顔書を開くもの」(「復初斎文集」21)と為している。
青木はこれに対して、顔の「千福寺多宝塔碑」(図12-17)は幾分これに似た所があるが、他の碑は似ていないという。
次に康有為は東魏の穆子容の「太公呂望碑」を以て顔書の本づく所と論じている(「広芸舟双楫」4)。青木はなるほどこれには類似するものが相当あるとしている。
・「多宝塔碑」(44歳書)、「東方朔画賛」(46歳書)、「謁金天王神祠題記」(50歳書)、「鮮于氏離堆記」(54歳書、図32, 33)、この10年間の書は似ているといえば、似ていると青木はいう。つまり勿論他人のそら似かもしれないし、そう簡単に顔書の本づく所と断ずるわけにもゆくまいが、この期間の顔書は一つの類型をなしているというのである。その書風は褚遂良でもなく張旭でもないが、顔真卿独得のものでもなかったであろうともいう。それで康有為が提唱する東魏の穆子容という説も出たのであろうが、東魏まで持って行くのは少し縁が遠いと青木はみなしている。
そこで青木なりに考え直してみると、張旭の「郎官石記」を肉太くして力を入れたら、「多宝塔碑」や「東方朔画賛」のような字になるのではあるまいかと想像し、その本づく所はやはり張旭であったかもしれないという。
さてこの一類の書風の次に来る顔書は何か。この点について、青木は顔書を列挙しつつ、その特色を述べている。
・次に来るのは、「郭敬之廟碑」(56歳書)、「顔勤礼神道碑」(図54, 55、58歳ないし60歳書)の一類である。その特色としては、横筆の力を抜いて軽く書き、竪筆との強弱の調子
が面白く取れて、顔書としては最も軽妙な筆法である。この一類は前期の力一杯の書風から漸く変ぜんとする、転換期にあるものと青木はみなしている。
・次に「臧懐恪碑」(62歳書?)、「八関斎会報徳記」(図52, 53、64歳書)、「宋璟碑」(図48, 49, 64歳書)、「元結墓碑」(64歳書?)が又一類となす。これは前期の筆法を持続しつつ、横筆と竪筆との強弱の調子をさほど付いていない。
・最後に「玄靖先生李含光碑」(69歳書)、「顔氏家廟碑」(図56-59, 72歳書)、「自書告身」(図60-65, 72歳書)の一類がある。老熟の極、生拙に至ったともいうべき書風で、おおむね筆は円く、力強い中に柔らかみを持っている。
このように顔真卿が張旭に法を問うてから後の真書は大体この4期に分けて類型を求めうると青木は考えている。①44~54歳、②56~60歳、③62~64歳、④69~72歳。ただ必ずしも時期と類型とは一致しないと断っている。
その著しきものは、例えば「大字麻姑仙壇記」(63歳書、図38-41)は、時期よりすれば「八関斎会報徳記」や「宋璟碑」より前で第3期に属するが、書風はこの期の他の碑と似ず、むしろ「顔氏家廟碑」に類して末期の類型に属する。
また「馬璘碑」(71歳書)は「顔氏家廟碑」より1年前で、末期に属するにもかかわらず、書風は「顔氏家廟碑」とは大分違って、むしろ第2期の「顔勤礼碑」と似たところがあるという。
この点に関して、おそらく書く時の意図や気分や、用いた所の筆の条件によるものであろうと青木は述べている。
次に青木は顔書の特色について考察している。その特色として、力強いことが指摘されるが、力強いにも色々ある。そこで唐の杜光庭の「字書優劣体意」(「書苑菁華」19)に「遒婉(しゅうえん)」二字で之を評してあるのは最も要を得ているという。遒とは健であり、勁である。婉とは順であり、美である。即ち力強いうちに柔和な美しさがあることである。つまり強いといっても、骨硬くないのである。
だから、これを欧陽詢に比較して「欧は勁を以て勝り、顔は円を以て勝る」(清の梁巘の評)と評され、「顔は其(王羲之)の筋を得、柳は其の骨を得たり」(南唐李後主の評)とも評されている。しかるにその具体的な筆法からみると、古法の革新であるといわれる。宋の蘇東坡は「顔魯公の書は雄秀独出し、古法を一変す」(「題唐代六家書後」)といい、また「書の美なるは顔魯公に如(し)く莫し、然れども書法の壊は魯公より始まる」(「漁隠叢話前集」巻3)という。
それならばその変化はどのような点にあるかというと、元の遠裒(ほう)は「顔太師に至り、一変して方整規矩と為る」(「佩文斎書譜」10)という。つまり字の右肩を揚げることなく、正方形に近き姿勢に書いたことである。
清の王澍はさらに詳しくこれを説明している。
「魏晋以来、書を作る者は多く秀勍(しゅうけい、しゃんとしたさま)を以て姿を取り、敧側(きそく、肩上りにかたむくこと)もて勢を取る。独り魯公に至りて、巧みを使わず、媚びを求めず、簡便に趨(おもむ)かず、重複を避けず、規縄規則して(型通りきちょうめんに書いて)、独り其の拙を守り、独り其の難きを為す」(「竹雲題跋」巻4)という。これは顔真卿の忠直古拙な性格によるのであろうが、しかしまた彼が企てた所は書体の復古にあったので、真書の中に隷書の法を雑えたからであると青木はいう。
このことは早くから宋代の『宣和書譜』(巻3)に、「篆籒分隷よりして下を兼括して同じく一律と為す」と説破している。このような傾向は「大字麻姑」(63歳書)、「八関斎」(64歳書)あたりから顕著となり、末期の「玄靖碑」(69歳書)、「顔氏家廟」(72歳書)などに至って、最も露骨であると青木は解説している。
次に顔書筆法の特色として、「蚕頭燕尾」という成語が有名であるが、この点について説明している。この成語は米芾の『海岳名言』や『宣和書譜』にみえる。「蚕頭」とは竪筆の頭が稜角をなさずして、円く蚕の頭のようになっていることである。
米芾が評して「顔書の頭は蒸餅(饅頭)の如く、大いに醜悪にして厭う可し」(「清河書画舫」の顔真卿の条)と誹っているのも、これをさすようである。
そして「燕尾」とは捺(なつ、八の字の右のハネのような筆法)の筆先が燕の尾のように二つに分れていることである。この筆法は「大字麻姑」以後、「顔氏家廟」などの書に最も多く現れている。
蚕頭は筆の穂先を中に隠してしまうから団子のようになるので、これも「蔵鋒」の結果であり、燕尾は筆を一度強く押さえ止めてから軽く跳ねるから二つに分れるので、「透過紙背」の余勢である。
次に草書は張旭の法を学んで別に一機軸を出したものである。もとより顔書の本領は真書にあり、真書の筆力をもって草書を作ったところにその妙味があるといわれる。顔真卿は晩年草書の名人たる僧懐素と洛陽で逢い、その草書を称賛して「懐素上人草書歌序」(「文集」12)を作り、懐素が直接張旭に師事しえなかったことを惜しんでいる。時に顔真卿は70歳ばかり、懐素は40数歳であったようだ。
懐素は張旭の弟子鄔彤(おとう)の弟子で、顔真卿と同門の後輩なのである。この時懐素は顔真卿に逢って法を聞いたことをその「蔵真帖」(図80)に記して、「斯(こ)の法を聞いて得る所有るが若(ごと)し」といっている。
この折、両人が語り合った草書の秘訣は、「竪牽(じゅけん)」(立に引く棒)の筆法についての説であって、懐素はその師鄔彤から授けられた説として「古釵脚」(古かんざしの足)のようにすべきであると告げた。
顔真卿はこれに対して「屋漏痕」(壁につたわる雨漏のあと)のようにしたらどうだと、いったので、懐素はひれ伏して感嘆したという。これは当時茶人陸羽の話した懐素伝に出ている有名な話である。この屋漏痕をしのばせる筆法は、顔真卿の「裴将軍詩」(図70, 71)の「軍」の字や、「瀛洲帖」の「耳」の字などの竪牽において見出される。
概して顔書には純粋の草書は少なく、草書の間に真書行書を雑え、骨力を加えて妙趣をなしているものが多い。
「修書帖」「文殊帖」「守政帖」「広平帖」などは皆これであるが、その最も奇なるは「裴将軍詩」のように、草書中に隷書を雑えたものもある。
しかし何といっても、顔書の本領は楷書にあり、草書には余り自信が持てなかったようだ。だからその「草篆帖」に自ら嘆じて、かつて張旭の伝授は受けたけれども、「分無くして遂に佳なる能わざるを自ら恨むのみ」といっている。それで真書と草書との中間、すなわち行書がむしろその性に合った体であったように見受けられる。評者はいう「魯公の書、真は草に及ばず、草は稿に及ばず」(「虚舟題跋」家廟碑の条)と。「稿」とは「祭伯文稿」(図22, 23)、「祭姪文稿」(図18-21)、「与郭僕射書(争座位帖)」(図24-31)の三稿をさすものとされている。これらは文章の草稿であるから、工みに書こうとする意志無くして、自然の妙趣の出ているところが尊く、全文ほとんど行書で書かれている。それは顔真卿にとってこれが最も手馴れた書き良い書体であったからであろうと青木はいう。
その他、「与蔡明遠帖」(図66, 67)、「送劉太沖序」(図68, 69)は意識的に工みを用いた書であるが、これもまた独得の筆法をもって奇を出した行書の妙蹟であると青木は評している。よって顔書において草は行に及ばずといいうるとし、その行書を評価している(青木、10頁~15頁)。
懐素の書とその影響 中田勇次郎
今日、伝わっている懐素の書には、次のようなものがある。
1.「自叙帖」(図72-75)
2.「聖母帖」(図76, 77)
3.「草書千字文」(図78, 79)
4.「蔵真帖」(図80)
5.「律公帖」(図81)
6.「苦筍帖」(挿31)
7.「食魚帖」(挿32)
その他、法帖に刻されたものなどがあって、その数は乏しくないが、その中には真蹟かどうか疑わしいものが多いといわれる。懐素の書が実際どのようなものであったかは必ずしも明確にされているとはいえない。そこで懐素の書について述べられたなるべく古い、確かな文献にもとづいて、その書風を推定してみることによって、その真相を明らかにすることが、中田の本稿の目的である。
懐素は唐代において、張旭についで草書の工みなことによって名を知られていた。張旭の草書が詩人杜甫によって詠じられているように、懐素の草書も当時の多くの人々によって歌詩に作られ、現在伝えられているものがある。すなわち王邕、竇冀(とうき)、魯收、朱逵、戴叔倫、任華などにはいずれも「懐素上人草書歌」と題する作がある。
「自叙帖」には張謂、盧象、許瑶の詩句、李舟の文の断章が載せられている。これ以外にも銭起の「送外甥懐素上人」、蘇渙の「懐素上人草書歌、兼送謁徐広州」があり、また敦煌文書にも「懐素上人草書歌」の書かれたものがある。また李白の作と伝えるが実は五代の斉己一派の偽作とされている「懐素上人草書歌」がある。これも懐素の書を観賞した実録に準じて参考することができる。宋の王象之の「輿地紀勝」巻56によると、その当時39人名士たちが彼の草書を詩に詠じて称賛したという。
これらの詩のうち、王邕、竇冀、魯收、朱逵、戴叔倫の五首は懐素の郷里、永州零陵県において、ほぼ同じ頃に作られたようである。時に王邕は永州の太守であり、竇冀と戴叔倫は御史の官であった。
ある日、太守の出席した宴会の満座の中で懐素が得意の草書を揮毫し、観賞した名士たちはその巧妙さに感嘆して詩を賦したのがこれであるといわれている。朱逵の詩句には「今、年が若くてもこのように草書が工である」とあり、この時懐素はまだ年少であったことがわかる。このことがあったのは前後の事情から推察すると、およそ8世紀の中頃だという。また李白の詩にも、「少年上人は懐素と号す。草書は天下において独歩と称した」とあるが、これも彼が年若くして草書をよくした事実があったから、このように歌われたのであろう。
陸羽の「唐僧懐素伝」によると、懐素は故郷に住んでいた時、家が貧しくて字をかく紙がなかったので、芭蕉を万株余り植えて紙の代りとした。それでも足りなくなると、漆器の盤にかき、また漆器の四角い板にかいたが、余りしばしばかいたので、盤も板もみなすりへって穴があくほどになったという。
また李肇の「唐国史補」によると、懐素は草書を好んで草書三昧を得、使い古した筆が山のように積もったので、それを山の麓に埋めて筆冢と名づけたという。また懐素が貧困と苦闘の中で30年間、書に精進してはじめて一家をなしたという説もある(「山谷題跋」巻2)。これらの記録から想像すると、懐素は年少の頃からよほど草書に苦心したものと思われる。
そして「唐僧懐素伝」によると、懐素は従兄弟の鄔彤から王羲之の悪溪、小王、騒労の三帖を授かり、張旭の古釵股の法を教えられた。晩年、顔真卿に逢い、草書の法は師から授けられる以外にみずから体得しなければならないことをさとされ、屋漏痕の法を聞いて感服した。
そこで彼は自分の体得したところを告げて、「わたくしは夏の雲の奇峯の多いのを見ていつもそれを手本としています。夏の雲は風によって変化し一定の勢がなく、また壁拆(へきたく)の路に遭うて一々自然です」といったので、顔真卿はまたこれに敬服したという。
中田は、この説には伝説的なにおいがないでもないが、懐素の書が魏晋の伝統的な書法を盲目的に守るものではなく、みずから新しい書風を開拓していったものであることを認めている。懐素が夏雲の変化する自然らしさを学んだことは有名な逸事となり、彼の書法はのちに「壁拆の法」と呼ばれるようになった。
懐素は酒を愛し、酔うと好んで草書をかいた。酒は一日に九酔するという大酒ぶりであり、酔っぱらうと、寺の壁、里の牆、衣裳、器皿など手当たり次第に書をかいた。竇冀の詩句に、「気分が湧き、興に乗ってくると、数十間の長廊の白壁に、多くの観衆の中で酒に半ば酔ったかと思うと、忽ち三声五声かけごえをかけて、壁一面に縦横に幾字となく揮毫した」という。
銭起の詩句に「狂い来って世界を軽んじ、酔裏に真如を得た」というように、陶酔の境に入ってはじめて書くことができた。許瑶の詩句に「酒に酔うてくると二行三行とかくが、醒めてしまうともう書けなかった」というから、酒がなくては字が書けなかったようである。
懐素が酒を愛し、草書を好み、酔中に狂書した状態は、張旭と全く趣を一にしている。「自叙帖」に李舟の言葉をあげて「むかし張旭が字をかくと、当時の人々はこれを張顚といった。今、懐素が字をかくと、これを狂僧という。狂をもって顚につぐのであるから、誰も異存はないであろう」という。後に懐素は張旭とあわせて「張顚素狂」と呼ばれる。
唐の中頃から魏晋の書風が衰微して新しい書風が起こってきた。張旭は楷書においては正統な書風を守っているが、草書においては奇怪狂逸な新書風をつくり出したと伝えられる。懐素は張旭の草書の狂逸さを受けついだといわれる。
魯收の詩句に懐素の言葉を引いて、「転腕して拘わることなく、大いに王羲之の筆陣図を笑う」というが、これは晋人の古法を嘲笑し、しりぞけた言葉である。
竇冀の詩句に「狂僧が翰を揮うときは狂であり且つ逸であり、独り天機に任せて格律を摧く」という。これも意のままに筆を揮って古い技法を破ったことを述べたものである。
戴叔倫の詩句に「古法をことごとくよくし、新しい書法にも十分余裕がある」といい、許瑶の詩句に「志は新奇にあって定まった法則はない」という。要するに懐素は魏晋の古い書法をよく学んだ上、そこから脱却し、酔中の率意の書によって古法に拘束されない新書風をうちたてたものであろうとする。
懐素の書風は当時の詩人たちによってもっとも美しく表現された。「自叙帖」の中にかかげられた張謂の「奔蛇走虺、勢が座に入り、驟雨旋風、声が堂に満つ」、王邕の「寒猿が水を飲んで枯藤を撼(ゆる)がし、壮士が山を抜いて勁鉄を伸ばす」は、よく懐素の草書の形似を表わしている。魯收の詩に「ときに興が湧き起ると、筆を執って縦横にかきなぐる。手を動かすとともにうなりを立てて風が吹き起り、壁の上には龍蛇がほとばしり飛びまわる。つづけさまに数行かいても筆勢はなおつづいたままで、藤の蔓が宙にかかったままでちぢまって珍しい節ができたかと思うと、またさらりと切り放たれて雲が湧きおこり涛がたちさわぎ、またときにはくじけて毫髪を縈(めぐ)らす」という。
戴叔倫の詩に、
「はじめは破体から風姿を変えてゆき、一つ一つが花をさかせてのどかな春の景色をひろげるが、忽ちにして壮麗なすがたが枯渋になり、龍がおどり蛇がとぐろをまき、獣が屹立する。馬がかけるように筆を走らせ字をかいてゆく。満座の人々は固唾をのんで筆のあとも追いつけないほどである。心と手とがたがいによく呼吸をあわせて、いやがうえにも筆勢がおもしろくなり、その変ったふしぎな形状がかえって、おもむきがあるように見える。人々がこの書のおもしろさはどこにあるのかとたずねると、懐素は自分にははじめからわからないと答えた」という。
これらの詩の言葉から、中田は懐素の書風の特色を、次のように想像している。つまり連綿体の草書がかかれ、文字の形は大小長短斜正さまざまであり、その速度はきわめて早く、筆の渇れたところはとくに美しい趣を生じ、全体からみて、自然のままに、古い技法にとらわれないで、しかもいささかのすきまもなく、ただひたすらにはげんだ多年の修練によって、いわゆる草書三昧の妙境に至ったと中田はみている。現存する懐素の書の中では、「自叙帖」が比較的これらの条件にかなうものといってよいとする。
ただし懐素の書については、古来痩肥の二説がある。宋の李之儀の言葉によると、懐素の書は肉が多く、その当時において憨肥和尚というあざながあり、細い文字は彼の本色ではないという。
ところが黄庭堅は懐素の草書は痩せたところが工であり、張旭は肥えたところが工であるという。先に引用した詩において、多く懐素の枯渋さを賞美しているところから考えると、中田は痩せている方が本当のように考えている。
ところで、大暦12年(777)、懐素は洛陽において、ときに刑部尚書であった顔真卿に逢い、尚書司勲郎の盧象、小宗伯の張謂が懐素の草書を詠じた詩を示し、序を請うた。顔は懐素のために「懐素上人草書歌序」をかいた。顔は懐素の草書を見て、むかし張旭と近くに住居したとき筆法を教えられたことを思い出し、もし張旭がまだ生きていて、懐素を紹介することができたならば、きっと入室の弟子になったにちがいないと歎服した。
この頃、京華において懐素の草書を見て詩を詠じたものも少なくなく、その一つに任華の大作がある。
「朝には王公大人の馬にのり、暮には王公大人の家に宿る。人々はわれがちに素地の屏風をつくり、白壁を塗りなおす。白い壁は日の光にかがやき、素地の屏風が夜の霜をうけて、今か今かと師が揮洒するのを待ち受けている。やがて駿馬が師を迎えて表座敷に師が座ると、黄金の盆(はち)にかぐわしい酒が盛られる。十盃、五盃、だんだん意識が朦朧としてくる。百盃からのちになるとはじめて顚狂になり、一顚一狂、意気があがり、大きく数声叫ぶと、臂をまくりあげて、忽にして千万字を揮毫する。ときには一字二字の長さが一丈二尺にも及ぶ」という。
懐素が郷里において、書いたときと同じように、この時の状況は手に取るように歌われている。この詩のおわりに、
「狂僧よ、狂僧よ、君はいかにすぐれた芸能をもっていても、それを紹介する人がなければならない。君の名は礼部の張公(謂)が君を引っぱってこなければ、どうしてこんなに博まることができたであろうか」といって結んでいる。張謂が懐素を紹介したことによって、その名声があがったことがこれによってわかるという。
懐素が没してからのち、唐末五代においても懐素の草書を詠じた詩人は少なくなかった。今残っているものに、貫休の「懐素上人草書歌」があり、韓偓に「草書屏風詩」がある。
懐素の郷里には彼を記念するためにその遺蹟が保存された。晩唐の裴説に「懐素台歌」がある。それには、「わたくしは古人の名を呼ぶ。鬼神よ、耳をそばだてて聴けよ。杜甫、李白、懐素よ。文星、酒星、草書星よ。永州の東郭には奇怪がある。筆塚、墨池の遺蹟が残っている」と歌う。
懐素台、一に懐素塔ともいう、ここは懐素が草書をかいたところ、筆塚と墨池があり、彼の遺蹟として後世の地志にみな記されている。
懐素の生存した頃から唐末にかけて、僧侶の中に草書をよくするものが多く現れた。高閑はその一人で、古文家として名高い韓愈が「送高閑上人序」を作り、その草書の妙を評論したことはよく知られている。その他、跫光、貫休、亞棲も草書をよくした。
宋の劉涇が「書詁」(『宣和書譜』巻19)にこの5人の僧侶の草書を批評して、
「懐素は玉のごとく、跫光は珠のごとく、高閑は金のごとく、貫休は玻璃のごとく、亞棲は水晶のごとくである」という。
懐素の書は玉のごとしというからには、さだめし温潤なものであったであろうと中田は想像している。
五代におけるもっともすぐれた書家とされている楊凝式は、今日ではその信ずべき筆蹟が乏しいけれども、米芾の言葉によると、その書は天真爛漫で縦逸な点においては、顔真卿の「争座位帖」(図24-31)に似ているというから、やはり懐素と同じ系統の書風であったとみられる。
かつて楊守敬は、楊凝式の「神仙起居法」(図111)を批評して懐素から脱胎したといったのは、懐素の影響を認めたからであろうと中田はみている。
宋代になると、欧陽脩およびそれをめぐる人々の間に、文芸における磊落さを尊ぶ傾向が著しくなってきた。文人の中に酒を愛し、率意の草書を好むものが現れた。蘇舜欽は最も懐素を好んだ一人であり、酒に酔うと草書をかき、人々は争ってその筆蹟を伝えたといわれる。今、彼の「南浦帖」を見ると、やはり懐素を学んだことがよく認められる。その家には「自叙帖」の真蹟を蔵し、その巻首の六行を補書したのも蘇舜欽である。
また、蘇軾は李邕、顔真卿から出て個性的色彩の強い書風を作り出したが、その行雲流水の情意は懐素と一味通ずるものがあり、酒興に乗じてかいたもの、例えば「西棲帖」の梅花絶句のようなものは、よく懐素の風格を得ているといわれる。
黄庭堅は晩年になって蘇舜欽の書を見て古人の筆意を悟り、張旭、懐素、高閑によって草書を学んだ。黄庭堅の一跋に、余と永州の酔僧(懐素)のみがよく草書の妙を知っているといい、彼がもっとも傾倒したのは懐素であったと中田はみている。その作の中では「李太白憶旧遊詩巻」(15巻図62-68)が懐素を学んだ好例であるとみなしている。また姜夔の『続書譜』の説によると、黄庭堅は蔵真(懐素)の草書三昧を得たといわれるが、彼の時から古意が失われて書風が一変したといっている。
南宋と元代においては、懐素を学んで名を知られたものはほとんど見られず、ただ金の章宗朝の士大夫の間に懐素の書を習う者がいたようである。
明人の多くは晋唐と宋とを併せ学んで、その上に自己の個性を完成するのが通例である。彼らが概して草書を愛したのも、草書がもっともよく個性を表現するからであろう。董其昌の言葉によると、この時代において懐素の書を学んだもので、本格的な趣を得ているものはきわめて稀である。徐有貞、祝允明、張弼、莫是龍たちはそれぞれ懐素を手に入れているし、豊坊もその一斑を得ているが、しかし狂怪怒張のすがたとなって、その本旨を失っている。
張旭に対して懐素があるのは、ちょうど絵画において董源に対して巨然があるようなもので、衣鉢相承け余恨がなく、みな平淡天真をもって本旨としている。
懐素の書が狂逸であることは、すでに唐代の人が認めている通りであるが、明代の文人の草書は懐素が狂逸でありながら、古意を失っていないのに比べると、全く無軌道の個性的な書をかいたものが多かったと中田はいう。
その中にあって董其昌の平淡天真の説は、懐素の夏雲奇峯の自然さから生れでた草書三昧の境地をもっともよい意味において理解した言葉であろうとする。董其昌の「行草書巻」の巻末の狂草はまさに「自叙帖」に倣って揮毫したものとされる。
明末清初における傅山、王鐸などの草書は、無軌道ぶりをさらに徹底したもので、懐素の書風とは一層変化したものになっている。それから清代を通じて、懐素のような狂草をかく人はほとんど跡を絶ったとみている。
要するに懐素の書は各代各人により多少の変遷はあるが、文人の率意の草書の規範として、後世にながく影響を及ぼしたと中田は考えている。
最後に日本において懐素がいつ頃から学ばれたかについて述べているが、実はそれは明らかでないという。平安時代の初期において、入唐の僧空海が草書をよくし、その当時狂逸と批評されたが、まだ懐素の書風を承けているとは中田には思えないという。
醍醐天皇の「白楽天詩句」(12巻図2, 3)は懐素を学んだという説があるが(内藤湖南の説)、この書巻の酒字の筆法はいわゆる折釵股と呼ばれているものではないかと疑われるもので、日本における張顚素狂の書風を得ているものの無類の逸品であろうという。
「賀歌切」(12巻図61-63)、「綾地切」「絹地切」(12巻図64)に見られる草書には、唐に流行していた草書の風が背景をなす点もあるが、懐素の影響を直接受けているものではないと中田はみなしている。
何よりも日本においてもっとも懐素の影響を受けたものとして特筆すべきは、江戸の僧侶良寛であろうという。良寛は「自叙帖」を学び、また「草書千字文」を学んだといわれる。その書は董其昌のいわゆる平淡天真の趣を得た点においては明人を凌ぐほどのものがあるといえ、今なお日本の多くの人々の崇尚を集めている。懐素の書風は良寛和尚を通じて日本の好事者に浸潤し、その生命を保っていると中田は述べている(中田、16頁~22頁)。
浮図と経幢 塚本善隆
浮図あるいは浮屠、仏図は普通には仏陀と同じ梵語Buddhaの音訳とされている。ところが、亀茲の鳩摩羅什が405年に長安で訳した「智度論」などには、これを塔の意味に用いている。少なくとも華北では、5世紀からすでに塔を浮図と呼んでいた。塔はStupaの音を略して移したもので、元来仏陀の遺骨あるいは髪爪などをおさめた特殊な建造物で敬慕礼拝の対象となったものである。
仏教教義の発達、仏像の製作普及に伴って塔にも著しい変化発達があった。とくに中国伝来の仏教の主流となった大乗経では不滅の仏が永住する荘厳華麗な高層宮殿としての塔が盛んに説かれた。
諸仏典は塔の造営や供養の功徳を強調している。仏の遺骨遺品をもたぬ中央アジアや中国に仏像をもった仏教が興隆する時、ことに聖人賢者をまつる廟をもった中国で、仏像をまつる廟としての塔(塔廟という)が建立されるのはむしろ当然であった。
このような仏像をまつった塔廟をとくに浮図というようになったものか、あるいはインドでは仏の塔のほかに、阿羅漢の塔や居士の塔もあったので、とくにBuddha-Stupaという合成語が行われ、その西北インドや中央アジアの俗語が浮図と音訳されたものかもしれないと塚本は推測している。
さて塚本が本稿でとりあげた浮図は、中国の金石学者が注意した一類の石造浮図である。仏寺の中心的建物として造られた数百尺の大塔ではない。こんな大建築は莫大な費用と工人とを要し、士庶の手にあうものではない。一方、造塔の功徳を信ずる士庶の仏徒は造像と同様にその力に応ずる石の浮図、塔の第一層に仏像をまつり、その外壁に石浮図造立の銘記を刻んだ高さ10尺内外の塔廟をつくって仏に捧げるようになった。金石書の著録によると、大体において石浮図の建造は造像が盛んになってきた北魏にはじまり、唐に盛んとなり、その玄宗時代まで続くが、この後にはほとんど見られない。
次に金石書にのせた石浮図を抄録しているが、中でも房山雲居寺にある石浮図を現地について調査したという。
唐 王激石浮図銘 景雲2年(711)
唐 田義起造七級石浮図頌 太極元年(712)
それらは7層あるいは9層の塔の最下第1層が板石で囲んだ仏室をなして内に釈迦あるいは阿弥陀の三尊像がつくられ、その対面が入口をなして二王を配し、また一面外部に造浮図の銘記がほられている。
次に経幢は、ほぼ則天武后の時代から現われ、開元・天宝時代に石浮図とともに多く造られたが、石浮図が姿を消す中唐以後、宋元時代まで引き続いて、造立されて中国の仏教石刻界をにぎやかすものである。造像や石浮図と同様に華北に多いが、その普及度は頗る高い。多くは八角の柱の各面に経ならびに建立の縁由を刻んだもので、その柱はふつう蓮華台上に建てられ、頭に蓋をもつ。経は、般若心経、金剛経、弥勒上生経、父母恩重経などがあるが、咒(陀羅尼、真言)が多く、とくに仏陀波利が伝訳した仏頂尊勝陀羅尼経が圧倒的に多く(図108)、これを尊勝幢子とも称している。
そもそも仏典の幢は梵語のDhvajaを訳したもので、幢幡とも熟字する。仏・菩薩などの側にその威徳を示すために建てられた柱である。
さて、各面に経を刻した石幢が多数造られたのは中国仏教界の特異の現象であるが、塚本はなぜこのような経幢が則天武后時代頃から盛んに造られ出したのであろうかという問いに対して、次の3点の回答を述べている。
①第1には、幢のことをしきりに述べている華厳経も観無量寿経も、唐の初頭から盛んに行われ則天武后時代にとくに普及した点を挙げている。華厳経による華厳宗は則天武后時代に大成し、観無量寿経を中心とする浄土教は高宗時代の善導によって大成し盛行された。仏の周辺を荘厳しあるいはその威徳を顕彰するために幢が捧げられることを説いている経によって信仰が盛んに鼓吹された時代に幢の製作がおこるのは不思議でないと塚本は考えている。
②第2には、隋唐に入って経を石碑に刻して保存する事業が盛んに行われたことを指摘している。経を碑に刻むことが流行していた時代に現れた幢に刻経が結びつくのも、文字を神聖視する中国では自然な進みであろうとする。
③第3に、唐代は五台山信仰が盛んな時であったことと関連するという。中国仏教界第一の霊地五台山の霊験に結びついた伝訳縁由をもって尊勝陀羅尼が盛んに流布された。この尊勝陀羅尼経は、次のような霊験説話を伴って弘まったようだ。つまり五台山に現に在住するという文殊菩薩を拝もうとはるばる印度から来た仏陀波利は、山で一老人から、今の衆生の罪を救うのは仏頂尊勝陀羅尼のみであり、この経を将来して漢土に弘めて衆生を利し幽冥を済ってこそ、文殊菩薩にもあえるとさとされたという。その尊勝陀羅尼経は、「この陀羅尼を書写して高幢上に安ずれば、遥かにこの幢を見る者、近づいて幢影を身にうけるもの、風に吹かれた幢上の塵を身にうける者、すべて罪業を消滅して苦界に落ちることを免れる」と説いている。
石幢は比較的容易に造り得るものであるから、経幢とくに尊勝幢子の出現盛行が中国仏教界に起こったのであると塚本は解説している。
このように唐の経幢は石浮屠と同様に聖地や仏寺に建てて仏に捧げ、一切衆生の救済を期するものが多かったが、次第に個人の墳墓に建てる墳幢が造られ、とくに宋元時代には僧の墓標として建てられる経幢が多くなってきているという。
また本書に掲げられた顔真卿の「八関斎記」(図52, 53)を刻した八角柱も経幢の類というべきものであると塚本は説明している。この「八関斎会報徳記」(大暦7年[772])は、高さ1丈1尺を越える八角柱、すなわち幢の各面に行28字5行に、顔真卿の撰文正書を刻んでいるものである。そもそも八関斎会とは、在家の仏教信者が一日一夜を限って八戒を受持し、仏事に専念する特別修道会であると塚本はその図版解説で記している(塚本、23頁~26頁、162頁)。
唐代の用筆法 中田勇次郎
唐代は書法のもっとも発達した時代であり、それに関する著述も少なくない。例えば、唐の韋続の「墨藪」、宋の朱長文の「墨池編」、陳思の「書苑菁華」にその大部分がまとめられている。
この時代の初期から中ごろまでには魏晋以来の書風が盛んに行われたが、張旭、顔真卿が出るようになって書風が一変した。この時代におけるこの種の著述のほとんどすべては、魏晋以来の伝統的書法の伝授口訣のたぐいで、中ごろ以後に起った新書風について述べたものは、ほとんどないといってもよい。
これらの著述の作者には、例えば唐太宗、虞世南、欧陽詢などのような名家の名が充てられているが、実際においてはこれらの人々が自分で著わしたかどうかは疑わしい。おそらく多くは後人が名家の説を祖述して、一家の流儀を立てるための秘伝書としてつくりあげたものと中田はみている。
これらの著述を内容の上から大別すると、書法を述べるにあたって、その精神的修養の面を併せて論じたものと、技術的な面だけを解いたものとがある。技術的な面を解いたものは、執筆法、運筆法、筆勢、点画、間架結構など多方面にわたっている。
中田は、以下、その概要を述べている。
唐太宗には論書、筆法、指意、筆意(墨池編)と筆法訣(菁華)があり、虞世南には、筆髄(墨藪、墨池編)がある。唐太宗の筆法(虞世南の筆髄、契妙の条の一部分と同文)に字を書くときには目をそらさず耳を傾けず、無念無想になって、すなおな心と和らいだ気象をもってすればよい字がかける。心が正しくなければ字はゆがむし、気象が和らいでいなければ字はひっくりかえるといい、書道は深奥なもので、心に悟るところがあってはじめて書けるもので、技術だけで書けるものではないと述べている。
唐太宗の筆意には宋の王僧虔の筆意賛と同文の部分があるが、書を学ぶことの難しさは、神彩(精神のあらわれ)を第一とし、形質(技巧の生みだしたもの)を第二とし、これを兼ねたものが古人に及ぶことができるといい、心をして筆を忘れ、手をして書を忘れしめる境地を説いている。
孫過庭の「書譜」は、唐代の書道の概論としてもっとも信頼することができ、またもっともすぐれたものである。これにも魏晋の書道の本義を説き、心と手、精神と技巧が両つながら、すぐれたものをよいとし、高い精神が熟した技巧をともなって、入神の妙境に到達することを説いている。
唐代の書道の根本精神は、斉梁の書論の伝統を承けていると思われるもので、唐太宗、虞世南および孫過庭の三家の説のひとしく説いているところは心手合一の境地である。
欧陽詢には伝授訣、用筆論(墨池編)、八法(菁華)、三十六法(書法鉤玄)がある。伝授訣に、はじめて字を書くときに大切なことは、筆が円正であり、気力を重んずることにある。文字は形がよく調い、長短疎密が中和し、遅速肥痩がかたよらず、自然なすがたを備えているのをよいとするという。
やや時代は下るが、徐浩に「書法論」がある。それには初学においては筋骨を第一としなければならない。筋骨がなければ肉のつくところがない。筆を用うるには蔵鋒でなければならない。筆鋒が蔵されていなければ字に欠点が生ずる。欠点がなくならなければ字にならない。字形は疎密大小いずれに片寄ってもよくない。筆勢は徐捷平側いずれに偏してもよくないという。
両説ともにやはり魏晋の古法を守っているものと解されるもので、書法における自然中和の道を説いている点は同様である。
また李華の「論書(菁華)」に、大抵、字は拙でもよくないし、巧でもよくない、現代風でもよくないし古風でもよくない、華実が相半するのがよいのであるという。これも自然中和の道と類似した考え方から出たものであろうと中田はみている。
以上、唐代における書法の一特色として、調和された美しさを完成することが一つの規範となっていたと中田は考えている。
さて技術の面においては、唐太宗、虞世南いずれにも虚掌実指の説をあげているのが注目される。これは指に力を充実し、掌中に鶏卵1個ほどの空間をおく(盧雋の臨池妙訣)法であって、唐代において尊ばれているのみならず、後世にも書法の要訣として重んじられている。
もう一つ、徐浩の書法論にも述べられている蔵鋒の法(出鋒に対して用いられる言葉で、筆鋒を露出させないようにかく法)は、この時代においてよく説かれるところである。晋の王羲之の書法の一つとして、虚掌実指についで重要なものとされている。後世では清の王澍がこれについて詳細に論じた説があり、翁方綱が晋法といって尊んだのも、この法である。
技術に関してもっともまとまった説を立てているのは張懐瓘である。彼には玉堂禁経、用筆法、書訣(墨池編)があり、また用筆十法(菁華)があり、著者不明の翰林密論二十四条用筆法(菁華)も彼の説に基づいている。
玉堂禁経によると、字をかくには第一に用筆、第二に筆勢、第三に結法を学ぶ。この三つを兼備してはじめて字が書けるようになるとした。
用筆の法としては、「永字八法」をあげている。この法は側勒弩趯策略啄磔(弩は努、略は掠とかくものもある)の八つの書法を示したもので、もとは隷書から起り、後漢の崔瑗(子玉)から鐘繇、王羲之以下ずっと伝授されてきたもので、これによれば、あらゆる文字がかけるという。
筆勢としては、鉤裹勢などの五勢をあげ、用筆として頓筆など九用をあげ、偏傍筆画における筆勢の相違を、烈火、散水など十一条についてのべ、結裹法として十種の結体の法を説いている。
以上の中、「永字八法」はその伝承についてのいろいろな説があり、またその解釈についても諸家の相異なった見方があって、楷書の書法の根本原則として後世にもっとも重んじられるところとなった。
李陽冰に筆法(墨池編)があり、点画方円の法を要説しているのは張懐瓘の筆勢の説とほぼ近いものである。また李陽冰の著書とされている「翰林禁経」には九生法(菁華)がある。これは筆紙硯水墨手神目景の九つのものにおいてみな生新であることを尊ぶ説で、孫過庭の「書譜」の五合五乖の説とともに、用いる材料や書くときの心理環境との関連において説かれている点がおもしろいと中田はいう。
顔真卿には述張長史筆法十二意(墨藪、墨池編)がある。顔真卿が張旭から十二の筆意すなわち平直均密鋒力軽決補損巧称を授かったことを述べたものであるが、これは張彦遠の「法書要録」に載せられている梁武帝の「観鐘繇書法十二意」と同じもので、張旭がこれを手に入れて顔真卿に伝えたということになっている。
唐の後半になると、精神的修養の面を説いたものは、柳公権の心正しければ筆正しというような言葉も伝わってはいるが、概して少なくなり、主として執筆法に関する秘伝が多くあらわれてきている。韓方明の授筆要説は筆管を把る五つの方法について述べたもので、日本の空海の書訣に執筆法および使筆法を説いているのはこれに基づいたものであるとされている。
張旭、顔真卿が出た頃から魏晋の書風が次第に衰微して、また別に新しい書風が起こってきた。魏晋の書風は典型を尊んだので伝授口訣を必要としたが、新しい書風は師授のほかにみずから体得することを尊んだので、従来の伝授口訣の形式によって相伝することはほとんど行われなくなったと見えて、そういうものは稀である。
顔真卿は褚遂良から伝えられた錐もて沙に画し、印もて泥に印する蔵鋒の法を陸彦遠に学んだといわれるが、彼の蔵鋒はいわゆる古法のそれとは異なり、さらにその上に高い忠誠の気象を盛り上げて新しい書風を作り出した。顔真卿には屋漏痕の法があったといわれ、その作の中では極めて特殊なものに属する「裴将軍詩」(図70, 71)が例としてあげられるのが普通であるが、この法は宋の姜夔の説によると起筆と止筆の痕跡がないように書く法であり、これを清の康有為の説のようにまた蔵鋒と解するならば、彼の他の作にも通ずる全般的な特性として見ることもできるであろうと中田は述べている。
張旭と懐素は酔中の率意の草書によって新しい書風を作りだした。張旭には折釵股、懐素には壁拆の法があったといわれる。折釵股は張旭の草書帖、例えば長尾雨山旧蔵の真蹟巻の道字、観字、耳字に見られるような釵脚の形をした筆法を指すものであろうが、姜夔の説によると、屈折するとき円にして力のあるようにする法であり、釵股というのは李陽冰の篆書を批評するときに用いられているように、篆書の法を意味するものであるところから考えると、張旭の草書に篆書の法が応用されていたことを示すものと中田は解している。
また懐素の壁拆は屋漏痕に対して壁の裂目を意味するものであろうが、同じく姜夔の説においては、布置の技巧の見えないようにする法という。これはおそらく懐素の連綿遊絲の草書における筆路の自然さを示したものであろうとする。
屋漏痕、折釵股、壁拆いずれも物象によって特有の技法を示したのであろうが、同時にそれぞれの作者の用筆全般における特殊な性格を表わしたものと中田は解している。
唐代における書の技術は、伝統的書風と革新的書風の流潮に伴ない、互いに相違しているが、伝授口訣の形式によって伝えられた伝統的書風に関する記録が大部分を占め、新しい書風に関するものは大体この程度のもので、それも唐代においてよりもむしろ次の宋代において多く論じられることになる(中田、27頁~29頁)。
五代の文化と書 那波利貞
大唐290年間が終わると、五代十国の時代の群雄割拠の時代が続く。短くみて54年間(907-960)、長くみて約80年間(907-979)諸国が興亡し、主権の所在からみると乱世であるが、必ずしも年々随所で戦いがあり、四民が流離狼狽していたわけでない。長年平和の存続した国々では、72年間平和の呉越、61年間平和の南漢、39年間平和の南唐などである。
所々地域的に無戦状態が連続し、国庫が充実し、平和な国々が出現したので、地方的に文化地帯が発生し、これら諸君主中に風流文雅な人々が輩出した。例えば、南唐は烈祖李昪(りべん)、中主李璟(りけい)、後主李煜(りいく)3代39年の国であるが、その根拠地が六朝文化の栄えた金陵(南京)で、山川風物の美と君主の好尚の風流優雅と相まって、隋唐文化の継承地、宋元文化の先駆地たる観を示した。
李璟・李煜ともに詞の作家として傑出していた。そして後主李煜の妻昭恵皇后周娥皇は29歳で若死し、これを哀惜した後主が皇后愛用の琵琶と合葬したといわれるが、非常な才女で学者であり、書史に通じ、歌舞をよくし、琵琶の名人で南唐第一流の音楽家であった。
また南唐は五代列国中最も多数の画家の出た国であった。北宋の山水画家の李成、范寛と並べて三大山水画家とされる巨匠董源もその前半生は南唐人であった。
南唐で絵画が栄えたのは、その天然の風土山川景物の優雅な沢国水雲郷の地の利がそうさせたこともあるが、同時に君主の保護奨励に負う所が多大で、後主李煜は早くも画院という絵画奨励の政府機構を設置して、北宋代に有名な宣和画院設置の先鞭を付した。
南唐宮中は書籍美術工芸品の襲蔵に富み、これらには印影を押捺し、書道に巧みな宮中女官保儀の黄氏という女性が保管整理に任じ、同時にこの教養ある宮女は後主の風流文雅の話相手でもあった。
後主は多趣味でかつ凝り性の人で、宮中所属の製紙工に命じ、桑皮を材料として優秀な紙を造らせた。これが有名な澄心堂紙である。これは単に良質の紙というよりか、むしろ美術工芸品というべきもので、中国として空前絶後古今第一等のもので、烈祖(李昪)の書斎の雅名から命名された。北宋版の書籍にはこれを使用したものがあることを明の王世貞はいっているが、宋の欧陽脩の『新五代史』、宋の『淳化閣帖』の印刷にもこれが用いられた。
また大唐末の製墨の名人奚鼐(だい)の子の奚超は、その子奚廷珪と中原の兵乱を避けて金陵に移住したが、南唐宮廷に仕え、李氏の姓を賜りて、李廷珪と称し、その兄弟とともに、製墨法に中国空前の新法をはじめた。耿氏、盛氏とともに製墨家として知られ、この三家の精製による南唐の墨は空前の名声を伝えている。
このような紙や墨の優品の製出と相表裏して書道も能筆家が多いといわれる。殊に中主、後主の側近者はこれに秀でた。中主李璟は晋の羊欣の筆法を学んで楷書を巧にし、その筆致は積学の致す所で遇合の規矩に非ずといわれ、呉越国主銭鏐(りゅう)、後梁太祖の臣の薛貽矩(せついく)、後唐の豆盧革、王仁裕、後漢の楊邠と伍して五代の楷書の第一流である。
後主もまた書道の名人で、大唐の柳公権の筆意を慕いて堂に入る技力があり、筆や紙帛にかかわりなく意の如く揮毫し、当時「撮襟書」といわれ、また喜んで顫(せん)掣の勢すなわち顫筆の書を作るのでその形状より「金錯刀」という世評を得、「書述」1巻の著書がある。
楷書も巧であるが、特に行書に勝れ、痩硬の筆を揮うて名人であるが、字に窮谷の道人、酸寒の書生の気を帯びて富貴の味がなかったともいわれる。
北宋宮中にもその行書の春草賦、浩歌行など24種の傑作が伝えられて珍重されたという。
ところで大唐末から梁、唐、晋、漢、周に歴仕し、北宋の欧陽脩が評して五代の間独りこの第一流の人ありといった楊凝式は、晋の王羲之、王献之の書を究めて遂にこれを超逸し、その草書は大唐の顔真卿の行書と比肩するにたるといわれ、後主に仕えた潘佑と相並んでともに五代第一流の書家である。楊凝式の草書の「古意帖」、楷書の「韭花帖」、行書の「乞花帖」は宋代にも有名である。
さて南唐の宮中には魏の鐘繇、晋の王羲之以来の墨蹟を多数に蒐蔵して、前述の宮女黄氏が保管係に任じられたが、中主の保大7年(949)の吏部尚書徐鉉に命じて、これらの収蔵多数名人の墨蹟を編して模勒上石して「昇元帖」という法帖を刊行したが、これが北宋の『淳化閣帖』に先立つ集帖の最初のものといわれる。また後主の時代に大唐の賀知章の臨写した晋の王羲之の「十七帖」を模勒上石して「澄心堂帖」と名づくる単帖の法帖を刊行した。
単一個人の墨蹟のみを法帖とする単帖は五代以前の好尚で、多数人の墨蹟を編する集帖は北宋以後の好尚であるから、この南唐の両帖の刊行は隋唐中世風の好みにより、宋元近世風の好みに移行する過渡期の現象であると那波はみている。
次に南唐の南に鄰した呉越国は、太祖銭鏐、世宗銭元瓘、成宗銭弘倧、忠遜王銭弘倧、忠懿王銭弘俶の五主の国であるが、その首都銭塘(杭州)も文化の一中心地で、山川景物の優美和暢は金陵に伯仲し、太祖武肅王銭鏐は書道を愛し、吟詠を好み、文武の教養高く、子孫に詩賦を諷誦させ、あるいは自作自書の詩を将吏に与え、前述したように楷書に秀でていた。詩人で書家である餘杭生まれの羅隠と文墨の交厚く、また胡琴の名手で単に一武弁の徒ではない。羅隠は行書を巧にして大唐人の典型であり、学殖あるため、唐末乱世の浅陋な気風に影響されなかった。
そして忠懿王銭弘俶はもっとも翰墨を喜び、書は顚草すなわち大唐の書家張旭の風の狂い書きの草書を善くして、斡旋盤結の妙を得た。宋に帰順するや、宋の太宗皇帝は使者を遣わして求めさせたところ、王は絹本の旧筆蹟を贈ったので、太宗は大いに悦び、玉製の硯、黄金の手箱、象牙管の筆、蜀の良紙を賞賜してこれに酬いたという。
五代の間、今日の湖北省荊州府、湖南省長沙府、浙江省杭州府、福建省福州府、広東省広州府などにそれぞれ荊南、楚、呉越、閩および殷、南漢の国々が割拠して、政教の地方的中心を並存したことは、宋特に南宋以後の華南地方開発の素地を培ったのである。
要するに五代は必ずしも乱世暗黒の時代ではなく、各地に文物が栄えて、隋唐文化の余芳を継承して、残燈掉尾の光明を放つと共に、宋元文化の先駆黎明の曙光を兆し、また華北の文化を華南地方に伝播する機ともなり、中世期より近世期へと推移変化する中国文化の接続聯絡時代として重要な意義があったと那波は考えている(那波、30頁~36頁)。
別刷附録 顔真卿 争坐位稿