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歴史だより

東洋と西洋の歴史についてのエッセイ

≪セリーヌ・ディオンの半生 ジョルジュ=エベール・ジェルマンの本を読んで≫

2021-01-07 18:31:54 | 私のブック・レポート
≪セリーヌ・ディオンの半生 ジョルジュ=エベール・ジェルマンの本を読んで≫
(2021年1月7日)




【ジェルマン『セリーヌ・ディオン』はこちらから】

セリーヌ・ディオン―The authorized biography of Celine Dion



【はじめに】


 現代を象徴する偉大なアーティスト、セリーヌ・ディオン Céline Dionは、どのようにして誕生したのであろうか。
どのような家庭環境の中で生まれ、育ち、いかにして歌手デビューを果たし、スターダムにのし上がったのか。その間に試練はなかったのか。よく見られるアイドル路線に乗っかり、順風満帆の人生であったのか。
このセリーヌが1996年のアトランタ・オリンピックのオープニング・セレモニーで「パワー・オブ・ザ・ドリーム」を歌ったり、世界的興業記録を打ち立てた映画『タイタニック』(1997年)の楽曲にも携わったりした偉大な歌姫であることを思うとき、このアーティストを考えることは、“現代社会”を考えることにもつながる側面があろう。

※なお、この記事は、私のブログ「現代の歌姫、セリーヌ・ディオン」(「歴史だより」2011年7月31日投稿)を加筆・修正したものであることをお断りしておく。




さて、今回の執筆項目は次のようになる。


・現代の歌姫、セリーヌ・ディオン
・セリーヌの生い立ちとデビュー
・ルネ・アンジェリルとの悲恋
・『フレンチ・アルバム』について
・姪カリーヌについて
・セリーヌの好み
・フランス人とシャンソンの傾向
・セリーヌとバーブラ・ストライサンド
・その後のセリーヌ
・あとがき






現代の歌姫、セリーヌ・ディオン


その半生を綴った面白い本に、ジョルジュ=エベール・ジェルマン著(山崎敏・中神由紀子訳)『セリーヌ・ディオン』(東京学参、2000年)がある(以下、ページ数は本書による)。現代の諸相と歴史を映し出す鏡のような存在であるセリーヌ。
この本を読むまで、セリーヌ・ディオンという女性を知らなかったのだと痛感した。ただ単にCDの歌を通してのみ、セリーヌのことをすごい歌手だと思っていたにすぎない。この歌手の生い立ちはもとより、人間性など知る由もなかった。声のすばらしさはCDを通して感じてはいたものの、歌のうまさ、奥深さが何に由来するかなど、思いを致すことはなかった。その歌のうまさはどこから来るのかを考える上で本書は打って付けの本である。
本書は、ひとりの若い女性――自由で、独立心にあふれ、愛情深く、肉体的にも精神的にも健全で、強く、柔軟な女性――の物語である。声の深みを決めるのは、シンガーの生まれ育った環境なのであるという(10頁、530頁)。
それでは、この本によりながら、まず簡単にセリーヌの半生の軌跡を辿ってみよう。

セリーヌの生い立ちとデビュー


セリーヌは、1968年3月30日生まれ(牡羊座)で、14人目の末っ子であった。セリーヌの一番上の姉は22歳年上であった。セリーヌがこの大家族で子供時代を過ごしたことは、その人格形成において決定的要素だった。
2歳の時に自動車事故に遭い、頭が骨折してしまうほどであった。1970年4月30日に起こったこの事故は今でも警察の調書が保存してあり、家族の歴史においても忘れられない出来事である(22頁~23頁、34頁)。
ところで、この大家族の中で、セリーヌに音楽的に影響を与えた人物が存在した。それは、セリーヌ・ディオンの母、テレーズ・タンゲである。テレーズ自身、7歳のときにバイオリンをマスターし、その他、ギター、マンドリンを演奏するのを楽しみとした。そして彼女自身、「ス・ネテ・キャン・レーヴ(ただの夢だった)」や「グラン・ママン(おばあちゃん)」といった曲を書き、娘のセリーヌが歌い、デモテープを作り、レコード会社に持ち込んだりした(35頁~39頁、44頁、130頁)。

セリーヌが12歳のとき、つまり1980年12月5日、5年間のマネージメント契約が結ばれた。このとき、彼女の歌に立ち会ったのが、ルネ・アンジェリルであったのである。
セリーヌは、まだ小柄で内気な少女であった。容姿としては、八重歯があり、あごが突き出ており、まつげがとても濃く、あまり美人ではなかったという。だが、大きくて茶色い、賢そうな素晴らしい目をしていた。彼女の一番好きな歌手は、ジネット・レノであった。

セリーヌは、母が書いた曲「ス・ネテ・キャン・レーヴ(ただの夢だった)」をアカペラで歌った。感情豊かに生き生きと歌い、物まね、コピーでなく、自分自身の歌の世界を創造しており、クリエーターとしての才能を持っていた。
アンジェリルは、自分の目と耳を疑った。少女には、本能、力強い声、存在感など、すべてがあった。そして彼は、ディオン夫人に自分を信頼してもらえるなら、5年のうちにあなたの娘をケベックとフランスで大スターにならせてみせると言った。
そしてデビューした当時の新聞でも、「セリーヌ・ディオン、13歳。新たなるジュディ・ガーランド」(1981年10月31日付、日刊紙『ラ・プレス』)という大きな見出しが載った(131頁~132頁、151頁)。

ルネ・アンジェリルとの悲恋


ところで、セリーヌにとって、このルネ・アンジェリルという男性が、プライベートな面においても、運命の人となる。つまり、ルネはセリーヌにとってマネージャー以上の存在になっていった(163頁)。
セリーヌがまだ18歳のとき、ルネとのうわさが広まった。モントリオールやパリの街角で、腕を組んで歩いているふたりを見たとか、エール・フランスの1等席で手を握っていたりキスしたりしたと、人々はうわさし合った。
ルネは人々が憤慨し、ショックを受けるのを恐れて、ふたりの愛を公表したがらなかった。考えてみれば、ルネは1942年生まれであるから、44歳であり、18歳のセリーヌより、倍以上も年上である(この年齢差は、彫刻家ロダンとカミーユとの恋愛を思い起こさせる)。
セリーヌのマネージャーとなったルネ・アンジェリルとは、どのような人物であったのか。彼は、ショービジネスに関して見聞が広く、経験豊富だった。つまり、エルヴィス、ビートルズ、シナトラ、ピアフ、ストライサンドといったショービジネス界や映画界の大物の逸話をよく知っていた。その上、優秀な戦略家、抜け目のないずるさを持った交渉人、生まれながらのギャンブラーという顔ももっていた(163頁)。さらに2回の結婚経験があり、3人の子供もいたのである。彼の父はシリアのダマスで生まれ、仕立て屋を生業としていた。やがてパリへ、そしてモントリオールへ移り住んだ。ルネはほとんどフランス語しか通じないモントリオールの労働者地区ヴィルレイに生まれた(65頁)。

セリーヌの口から、ルネとの悲恋が語られたのは、1992年9月11日、セリーヌが人気番組の収録を行っていた時のことである。その進行役は、巧みな話術で、相手の急所を確実に突く名司会者だった。
インタビューで家族との関係などについて聞かれたが、その最後に恋愛についても尋ねられた。すると彼女は大粒の涙を流しながら、愛する人はいるがアーティスト生命にもかかわることなので、相手の名前は言えないと答えた。そう言って、セリーヌは泣きじゃくってしまったという。この1年ほど前に彼女は、ひとりで生きていくつもりと公言していたのである。
セリーヌは1968年生まれであるから、当時24歳だったが、彼女はルネを心から愛していた。この番組収録の間、調整室にいたルネも、泣いていた。セリーヌは自分の気持ちを世間に告白したかったが、ルネは二人の関係を秘密にすべきだと主張していた。だから彼女は悲しみ苦しんだ。その苦しみとつらさが、番組収録中に一気に感情の波となってあふれ出てしまったのである。
こんなことがあった年の11月に、ケベック市のキャピトル・シアターが改築され、杮落としのショーが開かれた。そのとき、映画『めぐり逢えたら』のテーマ曲になる予定の歌を聞いて、涙と無縁になろうと決心したという。そのテーマ曲とは、「ホエン・アイ・フォール・イン・ユー」である。この曲は、ナット・キング・コールが歌った名曲で、クライヴ・グリフィンとデュエットすることになっていた。その歌詞には、「恋に落ちた時、それは永遠に続くの」とある。
セリーヌは永遠に変わらぬ愛を唯一信じた。彼女の歌に奥深さと息吹が感じられるのは、その裏側に心の痛みが潜んでいるからかもしれない。実際に彼女はその痛みを嫌というほど味わっているから、歌にもそれが反映されてくる。彼女は歌うことで、自らの心の傷をいやした。彼女にとって歌は、痛みを和らげる良薬でもあった(462頁~464頁)。

『フレンチ・アルバム』について


1995年に発表された『フレンチ・アルバム』は、ジャン=ジャック・ゴルドマンと組んだアルバムである。ルネ・アンジェリルは、このアルバムがセリーヌの作品の中で最高のアルバムだと信じている。セリーヌの歌声に輝きと深みと透明感が最高に現れているのだという。ゴルドマンは、豊かで繊細なニュアンスで、その歌声を生かす方法を見出している。
このアルバムの全曲は、フランス語で歌われている。セリーヌにとって母語である。彼女の英語は驚くほど流暢だが、本当はフランス語を使う方が楽なのである。心や魂を語る時は、詩的な言葉であるフランス語を使う。セリーヌの英語アルバムは、プロデューサーが企画する別世界のものである。そこでは内容よりもサウンドの方が重複されるらしい。この意味で『フレンチ・アルバム』は、セリーヌの心の襞までが表現されているアルバムといえるかもしれない。
ともあれ、1995年、『フレンチ・アルバム』は、ジネット・レノの「ジュ・ヌ・スイ・キュヌ・シャンソン」が1981年に打ち立てた35万枚の記録を数週間のうちに破った。それから1年もたたず、カナダでプラチナを6回獲得し、フランス語のアルバムとしては、レコード音楽史上最大のベストセラーとなった。「愛をふたたび」という曲はヨーロッパ各地において、1995年夏のヒット・ソングだった(538頁~539頁)。

このアルバムのライナー・ノートの中で、蒲田耕二氏は次にように記す(1996年8月19日付)。
日本のシングル・チャートで、セリーヌ・ディオンの「TO LOVE YOU MORE」の外国曲が、No.1になったのは、12年ぶりの快挙であった。同じ頃、フランスでも似たような快挙をセリーヌは成し遂げた。このアルバム『フレンチ・アルバム』の1曲目「POUR QUE TU M’AIMES ENCORE(愛をふたたび)」がフランスで大ヒットし、1995年暮れから1996年の春にかけて、パリのどのFM局にチューニングしても、この曲が流れてきたという。
確かに、「ビューティ・アンド・ザ・ビースト」で、グラミー賞を受賞し、「パワー・オブ・ラヴ」で全米No.1を記録したセリーヌなら、あたり前だと思われるかもしれないが、フランスは規制の多い国だから、ことは単純ではないと蒲田氏はいう。
フランス音楽シーンは日本とは対照的に、外国曲、外国タレント上位だったので、フランス政府は、国産音楽の不振に業を煮やして、1996年1月から規制を厳しくした。つまり、音楽放送の時間数にして40%を強制的にフランス語の歌に割りあてるクォーター制を実施した。しかし、フランス人アーティストの絶対数は足りない上に、クォリティも低かった。放送局も困り果てていたところへ、セリーヌのこのフランス語のアルバムが出現したのである。まさに旱天の慈雨であった。
ところで、フランス人には、フランス語をちゃんとしゃべらない人間を人間扱いしない悪い癖がある。外国人がフランス語をたとえしゃべっても訛があるものだという自明の理すらわかっていない場合がフランス人には多いといわれる。
この点でも、カナダ人歌手のセリーヌがヒットしたことも快挙である。彼女以前にも、何人かのカナダ出身の歌手がフランスに進出したが、メジャーな人気は出なかったらしい。フランス人は相手が英語だとある程度あきらめてしまう。しかし、なまじ自分の言葉であるフランス語がしゃべれて、その発音に訛があると、鬼の首でも取ったかのように、ダサイと決めつけるという。これまた悪い癖である。そこには、自分たちが本家で、旧植民地の人間は分家で下であるという意識も働いているようだ。
ケベック出身のセリーヌにも訛があるらしい。そして母音の発音が明瞭でないとか、語尾の子音が口の中で消えてしまいがちだと、目くじらを立てられたこともあった。それでも、フランス人大衆はセリーヌを支持し、彼女がフランスの音楽シーンを席巻した。その理由をセリーヌの類い稀な歌唱力とスター性に蒲田氏は求めている。

先にも触れたように、セリーヌは12歳のプロ・デビュー当時から天才少女とうたわれた。14歳でヤマハ世界音楽祭で金賞を獲得し、ケベックのレコード賞「フェリックス賞」を15回も受賞した。華々しい経歴である。
歌のうまさでは、マライア・キャリーと並んで世界の双璧だとみなされる。つまり「ナイアガラの南にマライア・キャリーがあれば、北にセリーヌ・ディオンあり」と蒲田氏は象徴的に表現している。ただ、二人の歌の味わいは異なる。マライアは、生き馬の目を抜くニューヨークの明るさ、気風のよさを全身で漲らせるのに対して、セリーヌは、しっとりと詩情に富んだ陰影を隠し味にしている。それはフランスからケベックに移植されたヨーロッパ文化の残り香ともいえるらしい。「TO LOVE YOU MORE」も、そんな彼女の持ち味が発揮された佳曲である。穏やかで品のいいメロディーに彼女の“やさしさ”が美しく生かされているといわれる。
その一方で、アトランタ五輪の開会式で熱唱した「パワー・オブ・ザ・ドリーム」では、彼女の声そのものに、巨大なパワーを感じた人も多かろう。このように力強さも、デリケートなやさしさも多彩に表現できる才能を秘めた歌手、それがセリーヌである。
セリーヌが世界的にブレイクしてから、2枚目のフランス語アルバムが『フレンチ・アルバム』である。これは英語アルバムより、彼女のデリカシーをよりよく表しているアルバムと蒲田氏は評価している。曲とサウンドの底流を形作っているのは、一抹のメランコリーを伴うヨーロッパの美意識であるという。また1曲目の「POUR QUE TU M’AIMES ENCORE(愛をふたたび)」、4曲目の「JE SAIS PAS(私は知らない)」には、クリスタル・グラスの工芸品のような澄んだ音の粒のきらめきが感じられると蒲田氏はライナー・ノートに記している。

ところで、この蒲田氏のライナー・ノートにおいてもセリーヌの母語フランス語と、習得言語としての英語の相違について言及していたが、セリーヌは母語でない英語をどのように習得したのであろうかという疑問がわく。セリーヌは、英語の学習のため、ベルリッツに入学した。1日9時間、週5日間で6ヶ月、みっちりと勉強した。ミュージシャンや歌手が簡単に語学を習得してしまうのには、理由があるらしい。それは音、耳、音楽と関係があるからである。それでもセリーヌにとっては、最初のうちはつらい苦行に近かった(245頁)。
ご存知のように、フランス語には“h”の発音がない。だからフランス語圏の人々は、“h”の発音が苦手であり、セリーヌも例外でなかった。ところが、英語にはとても多く、この“h”の発音が出てくるのである。だから毎朝必ず、次のようなフレーズから英語の授業が始まったそうである。
「ハ、ハ、ハ、ハ、ハウ・ドゥ・ユー・ドゥ? フ、フ、フ、フ、フー・アー・ユー?」、そして「アイ・ハ、ハ、ハ、ハ、ハッド・ア・グレート・タイム」というフレーズである。
これにより、“h”の音が出るようにしていった(357頁~358頁)
セリーヌは一生懸命英語の勉強をして良かったと思った。なぜなら、それにより世界中で歌うことができるようになったから。セリーヌは「人生は面白い。最も困難に思われることこそ、克服した時に深い満足感を得られるものです」と語っている(357頁~358頁)。
もしも、セリーヌが英語を習得することがなかったなら、1996年のアトランタ・オリンピックのオープニング・セレモニーで歌うこともなく、1997年の映画『タイタニック』で「マイ・ハート・ウィル・ゴー・オン」が大ヒットすることもなかった。世界的大ヒットも、個人的な努力に支えられていた。

【CD『フレンチ・アルバム』はこちらから】

フレンチ・アルバム ~D'eux

姪カリーヌについて


偉大なるアーティストには、その人生に“光と影”があるとよく言われるが、セリーヌにとっても、その例外ではない。
歌手としてのセリーヌが大きな喜びを感じることは何であろうか。
最大の喜びは、高く批評されたり、観衆の喝采を浴びることでもない。自分の歌った曲が、人々の生きる糧となったり、和解や愛することのきっかけになったと人々から言われることだという。自分の歌は願いであり、訴えなのだというのである。
歌手という職業は、信念の仕事であるのかもしれない。そういえば、シャンソンのシャルル・トレネは、その信念の人である。というのは、第二次世界大戦中、占領中のフランスでは、武器を奪われ、国民も意気消沈し、不安に駆られていた時に、人々の心に明るさが戻るように、「ヤ・ドラ・ジョワ(喜びがあるさ)」という歌を歌っていたといわれる。愛の力を歌うことで訴えた(336頁)。
今日の世界でも、愛を歌うには、強い信念が必要であることには変わりはない。セリーヌの人格と信念を知るのに、貴重なエピソードが本書に記してある。それは姪カリーヌの病気にまつわる。
セリーヌが囊包線維症に関心を寄せるのには、わけがある。セリーヌには、二人で写っている写真が示すように、かわいらしい姪がいたが、この少女は囊包線維症という不治の小児病にかかっていたのである。
姪のカリーヌに対する愛情から、ケベック、モントリオールで囊包線維症の救済のために、イベントや募金キャンペーン活動を行っているのである。不治の病に苦しむ子供たちのことを歌った曲「メラニー」もよく理解されよう(230頁)。

ところで、この病気は、1938年に初めて確認された恐ろしい小児病である。線維症は、肺、消化器官、涙・汗・唾液を分泌する腺をむしばむ病気で、粘液が肺に生じ、呼吸を妨げる。そして囊包線維症は、粘液が消化に必要な膵臓酵素の流れを妨げ、腸の具合を悪くし、いくら食べても痩せたままで、成長を遅くする病気である。
セリーヌの姉リエットの娘カリーヌが、生後2ヶ月も満たないときに、この病気にかかり、9歳のセリーヌは、衝撃を受け、動転した。
その後、叔母のセリーヌが大スターになった後、5歳のカリーヌは、人生が過酷であることを知っていた。カリーヌは、セリーヌの人生において、現実の厳しさと不当さを示す存在となった(56頁~57頁)。
セリーヌはカリーヌについて、次のように語っている。
「カリーヌには多くのことを教えられたわ。知らず知らずのうちに、あの子は私の目を開かせたの。あの子のおかげで、この世界には苦しみ、悲しみ、不当があることを忘れずにいられる。あの子がいなかったら、世界の隠された面で終わっていたかもしれない。」(80頁)。
ところが、1993年3月3日、そのカリーヌはセリーヌに抱かれて、息を引き取ってしまう。まだ16歳にすぎなかった。
この死は、セリーヌの人生観に影響したことはまちがいない。彼女は次のように語っている。
「人生には危険なことがたくさんあるの。病気や事故など。人間は綱渡りをしているようなものなのよ。運の良い人間と、そうでない人間がいる。高いところにある綱が揺れたら、みんな落ちてしまう。何をもって幸福とし、何をもって不幸とするのかは人それぞれ違うけど、これは人生のミステリーのひとつね。その人の人間性とは何の関係もないのよ。ただ単に運の問題なの。運だけで決まるのよ。」(471頁~472頁)

人生、人間を綱渡りにたとえ、人間が幸福になるか、不幸になるかは、運で決まるという。確かにカリーヌの場合、何の罪もないのに、ただもって生まれた病気という不運によって、短い生涯を終えることになってしまった。この愛らしい姪の死を前にして、自分が華やかなスターとして歩みつつある中で、姪と自分との違いは何かを考えて、つきつめていった場合、その時のセリーヌは、人として運命の違いという答えに辿り着いたのであろう。

セリーヌの好み


ここで話題を明るいものに変えてみよう。例えば、セリーヌが好んだ映画は何であったのであろうか。
それは『フラッシュ・ダンス』であった。この映画は、すべての場面を覚えてしまうくらいに、繰り返し見たという。
ストーリーは、貧しく孤独で美しい娘が、溶接工として働きながら、ブロードウェイの大舞台で踊ることを夢見るといったものである。ある日、ヒロインは、一人の老婦人と出会う。その人はかつてクラシック・バレエ団のプリマだった。その人に、あなたは才能があるから、夢を実現し、成功をつかみなさいと励まされる。「夢をあきらめるのは、死んでしまうことなのよ。」と。
セリーヌは、この映画の物語を愛した。とりわけ、このヒロインの粗削りな才能と狂おしい野心と決然たる自由さに魅かれた。そしてその音楽「ホワット・ア・フィーリング」も気に入り、いつの日か、この曲をステージで歌おうと心に決めた(164頁)。
ヒロインと自らを重ね合わせながら、セリーヌはこの映画を見たのであろう。人生は夢を持って生きることが大切であることをこの映画を繰り返しみながら、動機付けをしていたのであろう。そして自らの夢の実現に向けて、セリーヌはたゆまない努力を続け、現代のスターダムにのし上がっていった。
また、セリーヌは名句集を時折読み、読むたびに新しい発見をするのが好きだという。彼女が気に入っているバルベ・ドールヴィリーの言葉として、「美しくて、愛されている人は、ただの女性になる。醜くて、愛されるようになるにはどうすればいいか知っている人は、プリンセスになる」というのがある(578頁)。努力の人セリーヌは、歌の世界でプリンセスになったともいえる。

フランス人とシャンソンの傾向


実際、セリーヌは、世界中で活躍する大スターとなったが、彼女の人気・不人気もその公演先の“お国柄”に作用されることがままある。
例えば、フランスの場合、フランス人は好きなものの変化を目にすることを、非常にためらう国民性らしい。セリーヌは、12歳でデビューした無邪気な少女というイメージがフランスでできあがると、彼女が大きく変貌し、変身をとげて、何年後かに再びフランスで歌うと、フランス人はかつてのイメージと相いれず、受けつけにくくなるという。
また時代の趨勢というのもある。当時のフランスでは、声量のある女性歌手が好まれなくなり、ささやくような声がはやりだった。豊かな声の歌手は、ミレイユ・マチュー以来、スマートではないと決めつけられていたらしい(私は、ミレイユの歌は大好きなので、この評価は非常に残念に思う)。あるいは、神聖な大歌手エディット・ピアフをまねた冒涜的なクローンと思われていたようだ。ちょっと甘ったるいキャラクターであるブリジッド・バルドーやヴァネッサ・パラディ、クリオ、エルザ、ザズゥなどのかぼそい声が好まれたといわれる(283頁)。

セリーヌとバーブラ・ストライサンド


セリーヌが影響を受けたアーティストの中で、最も大きかった人物として、バーブラ・ストライサンドが挙げられる。セリーヌは次のように語っている。
「私は同じ曲をあまり聞かないの。大好きな曲でさえも。アレサ・フランクリン、エラ・フィッツジェラルド、バーブラ・ストライサンド、エディット・ピアフに凝った、という言い方はできないわ。どの曲を聞いたのも、2度か3度ってところだから。それでも彼女たちからは、それぞれ本当に影響を受けたし、彼女たちは私の人生を変えたわ。中でも、ストライサンドに最も影響されたわね。」と(193頁)。
ここにでてくるストライサンドは、映画『追憶』(1973年、アメリカ)の主題歌をその美しい歌声で歌い上げた。「メ~モリ~ズ♪」で始まるその歌は、今ではスタンダード・ナンバーとなっている。またストライサンドは、この映画で二枚目俳優ロバート・レッドフォードと共演し、ファシズムに抵抗し、自らの信念を貫く貧しいユダヤ人の娘ケイティ役を好演した。
セリーヌとルネ・アンジェリルにとって、バーブラ・ストライサンドは世界最大のシンガーとして映っていた。セリーヌには、憧れの人であった(594頁、596頁、607頁)。セリーヌは、バーブラ・ストライサンド主演の映画『マンハッタンラプソディ』の中の曲「アイ・ファイナリー・ファウンド・サムワン」を、1997年度のアカデミー賞の授賞式で歌った(598頁~599頁)。セリーヌの歌とストライサンドの歌とでは、ロマンチックなのは同じだが、セリーヌの歌はもっと陽気で楽しく、若々しいといわれる(597頁)。
アカデミー賞の授賞式のあと、セリーヌはホテルで花束とバーブラ直筆のメモを受け取った。そのメモには、次のようにあった。
「後であのショーのテープを見ました。私の曲を美しく歌ってくれて、どうもありがとう。あそこにいて聞きたかったと願うばかりです。次は一緒にやりましょう。
追伸:あなたの曲が受賞すべきだったと思うわ。あなたってすごいシンガーね」と(599頁)。
アカデミー賞の受賞式をきっかけとして知り合った二人だったが、その後、バーブラは、セリーヌの歌声を評して、次にように話している。
「あなたの声、まるで蝶みたい。とてもしなやかで軽くて。かと思えば、誰も手の届かないところに飛んでいく鳥になるのね」と。(607頁)。
セリーヌはバーブラのことを世界一偉大なシンガーとして尊敬し、バーブラも、セリーヌを素晴らしい声と心の持ち主と認めていた。セリーヌは、バーブラを姉のような存在であると感じた。
そのバーブラ・ストライサンドにも憧れの歌手がいた。それは映画『オズの魔法使い』(1939年、アメリカ)で、わずか16歳で少女ドロシー役を演じたジュディ・ガーランドである。彼女は、主題曲「オーバー・ザ・レインボウ(虹の彼方に)」を歌い、今では永遠のミュージカル・ナンバーになっている。バーブラにとって、ジュディはアイドルであった。だからバーブラは、セリーヌの気持ちがよくわかった。そして、バーブラは、セリーヌをディナーに招待した。こうして、セリーヌは憧れの人バーブラとふたりっきりで会うことができ、夢がまた一つ叶った。
セリーヌは言う。
「憧れや夢がなくては誰も生きていたくない。私もそうよ。それがなかったら、この世で何もやる気がしないわ」と(608頁)。

その後のセリーヌ


1997年の映画『タイタニック』のテーマソング「マイ・ハート・ウィル・ゴー・オン」は大ヒットした。この歌の作曲者はジェームズ・ホーナーである。彼は、以前からセリーヌと組みたがっており、1990年の夏、スティーブン・スピルバーグの映画『アメリカ物語2 ファイベル西へ行く』のために「ドリームス・トゥ・ドリーム」を作曲した。この曲をセリーヌに歌ってほしかったが、レコード会社との取り引きから、スピルバーグはリンダ・ロンシュタットに依頼したといわれる。
その数ヶ月後、セリーヌは、ピーボ・ブライソンとデュエットで、「ビューティ・アンド・ザ・ビースト~美女と野獣のテーマ~」のレコーディングを頼まれて、大ヒットし、アカデミーのベスト・ソング賞を受賞した。若いケベック人セリーヌは一流スター座に押し上げられた(609頁)。

【映画『タイタニック』はこちらから】

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あとがき


以上、ジョルジュ=エベール・ジェルマン著(山崎敏・中神由紀子訳)『セリーヌ・ディオン』(東京学参、2000年)という本を味読しつつ、セリーヌの半生についてみてきた。この本では、1998年3月30日、セリーヌの30歳の誕生日までの半生しか描かれていない(611頁)。したがって、このブログも、1997年公開の映画『タイタニック』までのセリーヌの楽曲にしか言及していない。
それでも、セリーヌの生い立ちや生き方、そして考え方の輪郭は浮かび上がったのではないかと思う。つまり、母親が音楽好きで、セリーヌのデビューにはその母親が深く関わり、その後、公私両面にわたり心の支えとなってくれた最良のパートナーであるルネ・アンジェリルと、二人三脚でスターダムにのし上がった。
セリーヌの生き方としては、常に夢を持ち続けて、前へ前へと進んでいった。そこにおいて、憧れの人の存在が彼女の人生に大きな影響を与えた。セリーヌは、バーブラ・ストライサンドに憧れた。そのバーブラにとって、ジュディ・ガーランドが憧れであった。こうみてくると、ジュディ→バーブラ→セリーヌという、歌を通した“精神的系譜”が存在したことがわかる。いわば“見えない糸”で、この三者がつながり、歌の世界を形成してきたとみることもできよう。
その際、セリーヌは母語をフランス語とするものの、フランス本国でなく、カナダのケベック州出身であることは見逃せない。もしセリーヌが生粋のフランス人だったならば、英語を習得し、英語圏のアメリカへ進出したかは疑問であろう。おそらく、英語をマスターしようとは思わなかったであろう。カナダのケベック州出身であるセリーヌであったから、フランス語圏を飛び越して、英語圏のアメリカへ夢を託し、ひいてはその英語を通して、日本にまで知れわたるアーティストに成長したのではないか。こうした飛躍の舞台裏では、セリーヌ個人のひたむきな努力が存在したのである。

【ジェルマン『セリーヌ・ディオン』はこちらから】
セリーヌ・ディオン―The authorized biography of Celine Dion


≪西岡文彦『二時間のモナ・リザ』を読んで 【読後の感想とコメント】その15≫

2020-12-27 18:02:05 | 私のブック・レポート
≪西岡文彦『二時間のモナ・リザ』を読んで 【読後の感想とコメント】その15≫
(2020年12月27日投稿)

【西岡文彦『二時間のモナ・リザ―謎の名画に全絵画史を読む』はこちらから】

二時間のモナ・リザ―謎の名画に全絵画史を読む



【はじめに】


 今回のブログでは、フィレンツェの持参金について、考えてみたい。
 「モナ・リザ」のモデルとされるリサ・ゲラルディーニの持参金をめぐる問題、つまりリサの父親アントンマリア・ゲラルディーニは持参金をどのように用意したのだろうか、またリサの夫フランチェスコ・デル・ジョコンドは、娘の持参金についてどのように考えていたのか、リサの娘には、修道院に入った者もいたが、リサはどのように娘を見守ったのか。
こうした点の解説は、ダイアン・ヘイルズ氏の本領が発揮されている。「モナ・リザ」の解説本の他の類書には見られない問題をヘイルズ氏は論じている。「モナ・リザ」を見る際に新たな視点を与えてくれることであろう。
 あわせて、フィレンツェ社会の特質についても述べておこうと思う。ヘイルズ氏は、リサの時代のフィレンツェ社会は、男性優位の家父長制社会(patriarchal society, Dianne Hales, Mona Lisa : A Life Discovered, Simon & Schuster, 2014, p.74.)とみている。
 それでは、そのイタリアのルネサンス期の社会と文化の特徴はどのように捉えられるのだろうか。
最後に、この問題を考えるあたり、ピーター・バーク氏の『イタリア・ルネサンスの文化と社会』(岩波書店、1992年)をもとに、ルネサンス期のイタリアの600人の「文化的エリート」、すなわち画家、彫刻家、建築家、人文主義者、著述家などの芸術家、著述家を視野に入れて、検討しておこう。そして、この時代における女性の芸術活動についても触れておこう。

〇Dianne Hales, Mona Lisa : A Life Discovered, Simon & Schuster, 2014.
〇ダイアン・ヘイルズ(仙名紀訳)『モナ・リザ・コード』柏書房、2015年

【Dianne Hales, Mona Lisa : A Life Discoveredはこちらから】

Mona Lisa: A Life Discovered

【ダイアン・ヘイルズ『モナ・リザ・コード』はこちらから】

モナ・リザ・コード




さて、今回の執筆項目は次のようになる。


・フィレンツェの持参金
・アントンマリア・ゲラルディーニとリサの持参金
・リサ・ゲラルディーニとその娘
・男性優位社会のフィレンツェ共和国
・ピーター・バーク氏によるイタリア・ルネサンスの文化と社会研究
・イタリアのルネサンス期の女性の芸術活動






フィレンツェの持参金


フィレンツェの経済社会を考える上で、興味深い章は「6 金銭と美貌」「11 家族の事情」で論じている持参金の問題である。結婚にまつわるトスカーナ地方の言い習わしに、「嫁をもらう人はカネを欲しがる」というのがある。フィレンツェの持参金について、簡単に紹介しておこう。

フィレンツェが作り出した美しい作品として、フローリン金貨がある。それは24金3.53グラムを含む金貨である。この金貨は何世紀にもわたって全ヨーロッパで珍重されてきた。時価は130~150ドルとされる。
フィレンツェでは、フローリン金貨さえあれば、何でも手に入った。
例えば、
・ラバ=50フローリン
・奴隷=60フローリン
・教会の祭壇背後の壁飾り=90フローリン
・紳士用の最高級マント=177フローリン
・大きな屋敷=3万フローリン

結婚には持参金が必要とされた。アントンマリア・ゲラルディーニ(1444年~1525年頃、リサの父親)の時代、新郎側は新婦側からの多額の持参金を期待するようになった。
14世紀から15世紀のフィレンツェで、持参金の額はうなぎ登りになる。1350年には350フローリンだった。しかし1401年には1000フローリンになり、15世紀最後の四半世紀には1400フローリンが相場になった。
貴族の家では、身分の低い階層との結婚を避けたかったから、2000フローリン(およそ27万ドルから30万ドル)を奮発する者もいた。

払う父親からすれば、頭が痛い。娘をうまく嫁がせることが、父親にとって最大の難題だった。高給取りの高級官僚や弁護士でさえ、何人も娘がいたら払うのに四苦八苦だった。
そこで、銀行というシステムを定着させたともいえるフィレンツェは実用的な便法を考案した。モンテ・デッレ・ドティ(持参金の山)と呼ぶ信託預金方式である。あらかじめ預金をしておくと、時間とともに利子でかなり増えていく。その仕組みとは、娘が5歳~10歳になると、父親は60フローリンから100フローリンの間の金額を預金する。銀行は、この資金を市の財政赤字の補塡として運用する。一方、預金者は、その預金が15年後に500フローリン、7年半で250フローリンに膨らむといった具合である。
(ダイアン・ヘイルズ(仙名紀訳)『モナ・リザ・コード』柏書房、2015年、139頁~140頁)

なお、原文では次のように述べている。
Chapter 6: Money and Beauty
“Eccolo!” (Here it is!) the man beside me exclaims as we inch our way
up a stone staircase to the exhibit entrance. “The most beautiful thing
ever created in Florence!”
Suspended within a gleaming sheet of glass, a nickel-sized gold florin
shimmers in a perfectly positioned spotlight. For centuries the shiny coin,
containing 3.5 grams of 24-carat gold (worth $135 to $150 at today’s ex-
change rates), reigned throughout the Western world.
In their hometown, florins could buy anything: a mule for 50, a slave
for 60, a church altarpiece for 90, a gentleman’s cloak lined with the soft
fur of squirrel bellies for 177, a great mansion for 30,000. Everything had
a price ― including a prospective husband.

“Chi to’ donna, vuol danari” goes an old Tuscan dialect saying. He who
takes a wife wants money. As fathers in Antonmaria Gherardini’s time
realized, grooms and their families were demanding more denaro (money
in modern Italian) than ever. Dowry amounts escalated steadily from an
average of 350 florins in 1350, to 1,000 florins in 1401, to 1,400 florins in
the last quarter of the fifteenth century. An aristocratic family, anxious to
avoid the disgrace of marrying below their rank, could end up paying up-
ward of 2,000 florins (the equivalent, depending on exchange rates, of as
much as $270,000 to $300,000).
Fathers were getting desperate. “Nothing in our civil life is more diffi-
cult than marrying off our daughters well”, historian Francesco Guicciar-
dini goused. Even well-paid senior civil servants, lawyers, and university
professors couldn’t afford the exorbitant sums, especially with more than
one daughter at home.
The city that had practically invented banking came up with an in-
genious solutions: a savings fund, called the Monte delle Doti (literally,
Dowry Mountain), in which citizens made an initial investment that
grew substantially over time.
An Italian economist I meet at a group dinner explains to me how the
system worked: A father deposited an amount, ranging at different times
from 60 to 100 florins, when his daughter was five (the average age) or
younger, with exceptions up to age ten. Florence, which used the fund for
its debts and operating expenses, paid interest at variable rates, depend-
ing on how long the money remained in the account. A deposit of 100 flo-
rins, for instance, would yield a dowry of 500 florins over fifteen years or
250 florins over seven-and-a-half years.
(Dianne Hales, Mona Lisa : A Life Discovered, Simon & Schuster, 2014, pp.93-95.)

【単語】
gleam  (vi.)きらめく  (n.)微光、きらめき
shimmer  (vi.)ちらちら[かすかに]光る (n.)微光
mule    (n.)ラバ(雄ロバと雌馬との雑種)
altarpiece  (n.)祭壇のうしろの飾り(reredos)
cloak    (n.)(そでなし)外套、マント
fur    (n.)毛皮
squirrel   (n.)リス(の毛皮)
belly   (n.)腹、おなか
prospective  (a.)予期された、将来の
anxious   (a.)心配な(about)、熱望して、しきりに~したがって(to )
disgrace   (n., vt.)恥辱(を与える)
equivalent  (a., n.)同等の、同等の物、相当する物
desperate  (a.)絶望的な、死に物狂いの、必死の
gouse    (n., vi.)≪話≫不平(を言う)
civil servant 役人、公務員 senior civil servant 古参の役人
exorbitant  (a.)法外な、途方もない
invent   (vt.)発明する、こしらえる
come up with (考えなどを)思いつく、見つける、追いつく
<例文> He came up with a really creative solution to the problem.
     彼はその問題に対する非常に独創的な解決法を見つけた
ingenious (a.)器用な、巧妙な
substantially  (ad.)実体上、大いに
deposit  (vt.)置く、預ける (n.)堆積物、預金
account  (n.)計算、口座
yield    (vt.)産する、(利益を)もたらす

アントンマリア・ゲラルディーニとリサの持参金


ところで、フィレンツェで持参金預金制度(dowry financing)が導入されたのは、1425年である。その後も改定を重ねるが、フィレンツェの家庭の5分の1近くが、この制度を利用した。トルナブオーニ家やストロッツィ家など上流階級の3分の2も活用した。

ただ、アントンマリア・ゲラルディーニが、リサのためにフローリンを預金していたという記録は見つからないようだ。
そこで、ヘイルズ氏は、次のような推測を述べている。
キャンティ地方に平和が戻り、ひところの損失を補塡し、田舎の地所からの現金収入が再び得られるようになって、何とかまかなえそうだという自信を取り戻したか、あるいは、フィレンツェは絶えず戦争に巻き込まれるようになる気配だから、預金しておいても取りはぐれてしまうことを恐れたかもしれないとする。
ゲラルディーニ家にはプライドがあり、名家だけに傲慢なところがあって、一般庶民とは違うという意識が強かった。だから、多くが利用する金融商品に参加することは、いさぎよしとしなかったかもしれないとヘイルズ氏は推測している。

一般に、裕福な家庭では、娘がティーンエイジャーになる前から、将来の結婚相手の打診をこっそりと始める。たいていは、仲人を介してであるが、プロの仲介屋(センサーレ)の場合もあるし、親類に頼むこともある。平均的に言えば、娘が15歳か16歳になる前に相手を決めたいから、リサの父であるアントンマリアもそう願ったに違いない。もし娘が未婚のまま17歳を迎えると、「大惨事(a catastrophe)」だと思ったであろう。

当時のフィレンツェの結婚で愛があるかどうかは関係がないようだ。フィレンツェで問題なのは、「金銭(デナーロ)」のみという厳しい現実があった。もしリサのために十分な持参金が用意できなければ、残るは美しさだけである。
リサ・ゲラルディーニが生まれつきの美女であったかどうかは、判断材料がないとヘイルズ氏は記している。
(ダイアン・ヘイルズ(仙名紀訳)『モナ・リザ・コード』柏書房、2015年、140頁~141頁)

原文には次のようにある。
Florentine dowry financing, established in 1425, underwent extensive
modifications over the years to allow for different contingencies. If a girl
died, the Monte delle Doti repaid the deposit “one year and one day” after
her death. If “spurning carnal wedlock,” she entered a convent to “join the
celestial spouse in marriage” and vowed to be “perpetually cloistered,” the
Monte turned over a much lower “monastic” dowry to the nunnery.
Nearly one-fifth of the heads of Florentine households invested in the
dowry fund ― two-thirds from upper-crust families such as the Torna-
buoni and Strozzi. There is no record that Antonmaria Gherardini ever
deposited a florin on Lisa’s behalf. Perhaps, with the return of peace to
Chianti, he was confident that he could reverse his losses and extract
cash from his country properties. Perhaps he feared that Florence, con-
stantly waging costly wars, would default and not honor its commitments
(which sometimes happened).
Personally, I blame Gherardini pride. The arrogant magnate clan
that had resisted every pressure to behave like ordinary folk would have
balked at partaking of commoner’s cash. For Antonmaria, refusing to in-
vest may have seemed a matter, like so much else, of family honor. None-
theless, he may have begun to worry as Lisa approached adolescence.
Affluent parents of preteens began sending discreet signals to the
families of prospective suitors, often via an intermediary ― either a sensale
(professional matchmaker) or a mezzano (a relative of one of the fami-
lies). Like other fathers, Antonmaria would have wanted to finalize a be-
trothal by the time. Lisa reached fifteen or sixteen. Once an unmarried
girl passed seventeen, she risked being written off as “a catastrophe.”
Love had nothing to do with this harsh reality. What mattered, as
always in Florence, was denaro. Without enough money, Lisa’s future
might depend on a currency more valuable but more volatile than florins:
beauty.

Lisa Gherardini may or may not have been born beautiful…
(Dianne Hales, Mona Lisa : A Life Discovered, Simon & Schuster, 2014, p.95.)

【単語】
modification  (n.)修正
contingency   (n.)偶発事件
wedlock    (n.)結婚(生活)
perpetually   (ad.)永久に、絶え間なく
cloister    (vt.)(修道院などに)閉じ込める (n.)修道院
upper-crust  (a., n.)上流階級(の)、貴族階級(の)
confident  (a.)確信している、自信のある
affluent (a.)富裕な  (n.)豊富
volatile   (a.)揮発性の、一時的な、はかない

持参金の支払いは、分割払いも可能であった。あるいは、積立金が満期になる時期まで待ってもよかった。
リサが、デル・ジョコンド家に入ったあとも、父アントンマリアは条件変更交渉を続けたようだ。1495年3月5日、リサの父は公証人の事務所で署名した。つまり、キャンティにあるサン・シルヴェストロの農地の名義を、リサの夫フランチェスコ・デル・ジョコンドに変更した。アントンマリアとしては、先祖伝来の不動産を失ったので、残念だったかもしれない。

ただ、ヘイルズ氏はこの点に関して、コメントしている。
花嫁の父アントンマリアは、革新的な「現金に代わる現物支給」を成し遂げ、意気揚々と事務所を出て、自宅に引き揚げたのではないかとする。というのは、特上とは言えない農地で埋め合わせして、裕福な義理の息子を婚姻によって、手に入れたからである。いわば、「エビでタイを釣る」快挙を成し遂げた(Lisa’s father had bagged one of matchmaking’s biggest jackpots: a wealthy son-in-law.)と思ったとヘイルズ氏は想像している。アントンマリアは“してやったり”と思ったというのである。
(ダイアン・ヘイルズ(仙名紀訳)『モナ・リザ・コード』柏書房、2015年、177頁)

Dowries were paid only after a marriage was consummated, often in a se-
ries of payments or when the funds in the Monte delle Doti had matured.
As Lisa Gherardini began her life within the del Giocondo household,
her father kept his part of the bargain. On March 5, 1495, Antonmaria
Gherardini, in the office of his notaio, signed over the San Silvestro farm
in Chianti to Francesco del Giocondo.
Although he might have rued the loss of any family property, I can see
the father of the bride walking home through the streets of Florence and
reflecting on what a coup he had pulled off. As a hard-nosed business-
man, Francesco del Giocondo would have considered himself the craftier
negociator, but the vir nobilis had struck the better bargain. In exchange
for a penniless daughter and a modest farm, Lisa’s father had bagged one
of matchmaking’s biggest jackpots: a wealthy son-in-law.
Perhaps a sly grin inched onto his lips ― the telltale smile of a
Gherardini.
(Dianne Hales, Mona Lisa : A Life Discovered, Simon & Schuster, 2014, p.122.)

【単語】
consummate (vt.)成就[完成]する (cf.) consummate a marriage初夜を過ごす
mature   (vt., vi.)熟させる[する]、満期になる
bargain   (n.)契約、取引、安い買物
notaio    (イタリア語)公証人
sign over  =sign away(権利・財産などを)署名して処分する、(~を人に)売り渡す
rue    (vt., vi.)悔む、悲しむ
reflect   (vi.)熟考する、回想する(on)
coup    (n.)一撃、大成功
pull off  (難事・悪事などを)うまくやりとげる、(賞などを)取る
hard-nosed  (a.) ≪話≫頑固な、抜け目ない
crafty (a.)(通例-er型)悪賢い、ずるい(sly, wily)(◆cunningより策略に富む)
struck   (v.)<strike(vt.)打つの過去分詞 
(cf.)strike a bargain売買(契約)を成立させる、もちつもたれつにする
bag   (vt.)袋に入れる、しとめる、≪俗≫(悪意なく)失敬する
matchmaking  (n.)結婚仲介、試合の組み合わせ (cf.) matchmaker 結婚仲介人、仲人
jackpot  (n.)積立て賭け金、積立て賞金
sly    (a.)ずるい、陰険な
grin   (n.)にやにやと笑うこと、(歯が見えるくらい)にこっと笑うこと
telltale  (a.)自然にあらわれる、隠しきれない (n.)告げ口する人、暴露

リサ・ゲラルディーニとその娘


ところで、フィレンツェの持参金問題について付言しておくと、1511年4月22日、最高議決機関シニョリーアは、過剰な持参金を支払い悪習が近年は目に余るようになってきたとして、規制しようと動きだす。持参金状況はエスカレートして、3000フローリンという巨額まで出現した。娘の結婚相手の社会階層を下げて嫁にやるか、修道院に入れてしまうかする親が増えてきたようだ。そこで新たな法律は、フィレンツェ市民の持参金上限を1600フローリンと定めた。

この新法は、ほぼすべての家庭に影響をもたらした。ゲラルディーニ家(つまりリサの実家)も、デル・ジョコンド家(つまりリサの嫁ぎ先)も例外ではない。
持参金が用意できなければ、婚儀は成立しない。社会でも認知されない。リサの2人の妹カミッラとアレサンドラも、修道院に行かざるを得なかった。そこには、アントンマリア・ゲラルディーニの妹(つまりリサのおばさん)も籍を置いていて、みな修道女(シスター)になった。修道院の名はサン・ドメニコ・ディ・カファッジョ(のちサン・ドメニコ・マリオ)である。
(場所は受胎告知教会と市の外壁との間の、さびれた場所。ここで暮らしているのは、おおむね良家の子女だったが、資産には恵まれない家庭も多かった)
リサの夫フランチェスコは先を読む父親だったようだ。リサの娘カミッラ(1499年生まれ、リサ20歳ときの娘)のために、持参金1000フローリンを別枠で取って置き、修道院に行く場合の200フローリンも考慮に入れていた。
フランチェスコは商人として成功していたし、ある程度の政治権力も持っていた(それにリサの血筋からすると、かなり上玉の結婚相手を射止められる可能性があったとヘイルズ氏は推察している)
だが、1511年、フランチェスコとリサのデル・ジョコンド夫妻は、12歳の娘カミッラを叔母や大叔母と同じドメニコ会の修道院に入れている。その動機は分からない。

ここでヘイルズ氏は想像している。
フランチェスコが適切だと思える結婚相手を見つけられなかったためか、あるいは、彼が業界から閉め出された可能性も考えられるとする。また、リサの立場から想像すると、修道院に入れば、カミッラは精神的な深い達成感を得ることができ、世迷いごとを超越し、心の安寧や人生の意義を摑めるという考え方があったのかもしれないとする。

いずれにせよ、カミッラの修道院への持参金は編み籠に入れられ、最低限の衣類とともに運ばれた。
母親のリサは毎日カミッラのことを思っていただろう。できるだけ頻繁に修道院に足を運んだことだろう。娘カミッラをサン・ドメニコに預けた理由がどのようなものであったにしても、リサはいくらか後悔していたかもしれないと、ヘイルズ氏は想像をめぐらしている。
(ダイアン・ヘイルズ(仙名紀訳)『モナ・リザ・コード』柏書房、2015年、263頁~266頁)

On April 22, 1511, the Signoria tackled a troubling civil and family matter:
“the reprehensible habit, introduced here not long since, of giving large
and excessive dowries.” The situation had indeed gotten out of hand, with
dowries soaring as high as 3,000 florins. An increasing number of fami-
lies either had to marry a daughter beneath their station or consign her to
a religious life. To prevent further “inconvenience and injury”, a new law
set a maximum of 1,600 florins on the dowries of every “daughter of a
Florentine citizen.”
This issue struck home in just about every household, including those
of the Gherardini and del Giocondo. With no dowries, no suitors, and no
acceptable place in society, two of Lisa’s sisters had had no choice but to
enter a convent. Joining their aunt (Antonmaria’s sister), they took vows
at Suor Camilla and Suor Alessandra (their birth names) in the Convent
of San Domenico di Cafaggio (later known as San Domenico del Ma-
glio), located in the open countryside between the church of Santissima
Annunziata and the city walls. Its roster of nuns came mainly from fami-
lies with noble bloodlines but less-than-notable means.
Francesco del Giocondo, a foresighted father, had set aside funds for
a dowry for his oldest daughter,. Camilla ― 1,000 florins for marriage, 200
florins for entry to a nunnery. Given his professional and political stand-
ing, along with Lisa’s Gherardini pedigree, the girl should have attracted
a reputable suitor. But in 1511, instead of negotiating a marriage alliance,
Lisa and Francesco placed the twelve-year-old in the same Dominican
convent as her aunts and great-aunt.
We do not know the reasons why. Perhaps Francesco could not ar-
range an advantageous union. Perhaps the market had closed him out.
But the decision strikes me as more Lisa’s than Francesco’s. While his
sons claimed his priority, Francesco would have trusted their mother to
choose what was best for his daughters…
Perhaps Lisa focused on another possibility. Once fatta monaca (made
a nun), Camilla might attain profound spiritual fulfillment and a sense of
peace and purpose transcending mere mortal concerns…
Her mother would have been thinking of Camilla every day and vis-
iting the convent whenever possible ― if only to glimpse her daughter
through an altar grille at Mass. Whatever her motives for placing Ca-
milla in San Domenico, Lisa would soon have reason to second-guess her
decision.
(Dianne Hales, Mona Lisa : A Life Discovered, Simon & Schuster, 2014, pp.185-187.)

【単語】
tackle  (vt.,vi.)タックルする、(問題に)取り組む
reprehensible (a.)非難すべき
get out of hand  手に負えなくなる
<例文> The fire got [became] out of hand.その火事の勢いは手に負えなくなった。
soar  (vi.)舞い上がる、(物価などが)急に上がる(◆主に新聞語法)
marry beneath one’s station  身分が下の人と結婚する
 (cf.)⇔marry above one’s station身分が上の人と結婚する、身分不相応な結婚をする
consign  (vt.)委託する、引渡す、発送する
injury  (n.)損害
struck(v.)<strike(vt.)打つの過去(分詞) (cf.)strike home致命傷を与える、急所を突く
suitor (n.)原告、懇願者、求婚者
vow  (n.)(神にかけた)誓い、誓約 take vows修道生活に入る、修道士[女]になる
roster  (n.)(勤務)名簿、名簿に載っている人々
foresighted  (a.)先見の明のある
nunnery  (n.)女子修道院
alliance  (n.)同盟、姻戚関係
great-aunt (n.)大おば(祖父母の姉妹=grandaunt)
fulfillment  (n.)遂行、実行、達成
transcend  (vt.,vi.)超越する、しのぐ
glimpse   (vt.,vi.)ちらりと見る
grille    (n.)(窓などの)鉄格子
second-guess (vt.)あと知恵を働かす、結論を修正する

男性優位社会のフィレンツェ共和国


イタリアのさまざまな都市国家には、国王や公爵が君臨し、プリンスがいて、少数で例外
的ではあるものの、女性も権力を継承し、あるいは新たに権力を得て、直接にあるいは父親や配偶者の力を借りて、影響力を行使した。
だが、フィレンツェ共和国は男性優位社会で、状況が異なったとヘイルズ氏はみている。
フィレンツェには芸術界の天才がひしめいていたし、大物商人がたくさんいたし、有能な人文学者も数多くつどっていた。ある歴史家は、「女にとって、西欧のなかでもフィレンツェに生まれるのは、不幸きわまりないことである」と表現している。

フィレンツェの女性は二級市民でしかなく、固定資産を購入することができなかったし、参政権はなかった。またオフィスを開くことができず、大学に通えず、医学や法律を学ぶことができず、ギルドに入れてもらえないし、経営することも認められず、一人暮らしも許されなかったそうだ。

女性の知性を高く評価する詩人や哲学者がいたにしても、男性に従属する状況をくつがえせるほどの論はなかった。
中産階級の女性なら、重労働からは解放されるものの、家庭内の小さな宇宙に閉じ込められ、全エネルギーを家事、主人、育児に費やす。豊かな家庭の女子は家に幽閉されたような状態で、貞節を守った。そして父親の野心的な結婚戦略の「質ダネ」になってごく若いうちに嫁に行くか、婚期を逸すれば修道院に入って笑いものになることを避けるか、さもなければ、経済的に干上がるしか、選択の余地はない。裕福な家のお嬢さんともなれば、年齢が二倍もある男性と結婚するので、4分の1ほどが未亡人になったといわれる。
リサ・ゲラルディーニのようなフィレンツェの女性は、生まれてから死ぬまで男性に依存していなければならなかったとヘイルズ氏は述べている。

ルネサンス期のイタリアは、男性優位の家父長制社会(patriarchal society)だったといわれる。一般的には、息子の誕生のほうが歓迎され、男の系列で家系が受け継がれていく。ビジネスにしても農地にしても、男が引き継ぐ。男の役目は一族の威信を高めるとともに、息子がいれば、優良で筋のいい家のお嬢さんをかなりの持参金つきで嫁に迎える点にある。
(ダイアン・ヘイルズ(仙名紀訳)『モナ・リザ・コード』柏書房、2015年、113頁、132頁)

原文には次のようにある。
Lisa’s addition to the rolls of Florentine citizens may have been marked
less formally. As new fathers had for centuries, Antonmaria Gherar-
dini would have selected a bean ― white for a girl rather than black for a
boy ― and dropped it into a designated receptacle, possibly at or near the
Baptistery. Sometimes fathers didn’t bother to acknowledge the birth of
a daughter. In this patriarchal society, families exulted more in the arrival
of a son, who could continue the male line, take over the business or farm,
and increase a clan’s prestige and wealth by acquiring a well-bred bride
with a sizable dowry.
(Dianne Hales, Mona Lisa : A Life Discovered, Simon & Schuster, 2014, p.74.)

≪訳文≫
リサがフィレンツェの住民に加わったことは、すぐに公表されたわけではあるまい。何世紀にもわたって父親がやる習慣に従って、アントンマリアも女の子だから白い豆を選び(男の子なら黒い豆)、所定の場所(おそらく洗礼堂の近く)の容器に入れた。女の子の場合、このしきたりを省いてしまう父親もいる。男性優位の家父長制社会だったから、一般的には息子の誕生のほうが歓迎され、男の系列で家系が受け継がれていく。ビジネスにしても農地にしても、男が引き継ぐ。男の役目は一族の威信を高めるとともに、息子がいれば、優良で筋のいい家のお嬢さんをかなり持参金つきで嫁に迎える点にある。
(ダイアン・ヘイルズ(仙名紀訳)『モナ・リザ・コード』柏書房、2015年、113頁)


ピーター・バーク氏によるイタリア・ルネサンスの文化と社会研究


ピーター・バーク氏は、『イタリア・ルネサンスの文化と社会』(岩波書店、1992年)の「第三章 芸術家と著述家」において、ルネサンス期のイタリアの600人の「文化的エリート」、すなわち画家、彫刻家、建築家、人文主義者、著述家などの芸術家、著述家を視野に入れて、検討している(67頁~140頁)。

創造的エリートは偶然的な分布ではなく、地理的な偏りを示している。イタリアを7つの地域に分けると、その出身地は、トスカーナが約26パーセント、ヴェネトが23パーセント、教会国家が18パーセント、ロンバルディアが11パーセント、南イタリアが7パーセント、ピエモンテが1.5パーセント、リグーリアが1パーセントである。
(他の7パーセントはイタリア外の出身。残りの5.5パーセントは不明)
このように、トスカーナ、ヴェネト、教会国家、ロンバルディアの4つの地域が、芸術家と著述家を多く輩出している。

また、視覚芸術に携わるエリートの比率も地域によって差異を示している。トスカーナ、ヴェネト、ロンバルディアでは視覚芸術が支配的である。一方、ジェノヴァと南イタリアでは著述家の方が優勢である。つまり出身地は、個々の人物が創造的エリートの仲間入りをする上でだけでなく、どの分野に属するかにも影響を及ぼした。

そして成功した芸術家や著述家になる機会(少なくとも600人の文化的エリート)は、個人が生まれた共同体の規模にも影響された。約13パーセントのイタリア人が、人口1万人あるいはそれ以上の都市に住んでいたが、それらの都市からは少なくとも60パーセントの創造的エリートが輩出された。
ローマ出身のエリートが少ないことは、強調されてよい。この時代には、たった4人のローマ出身の芸術家しかいなかった(ルネサンスにおけるローマの重要性は、創造的な個人をイタリアの他の地域から引き寄せたパトロネージの中心地としての重要性であった)。
この当時ローマはイタリアで8番目の都市にすぎなかったとはいえ、それより小さな都市であったフェラーラでさえ、15人の創造的エリートを生み出し、さらに小さなウルビーノでさえ7人を生み出している。
例えば、ウルビーノの人口は5000人にも満たなかったが、この町からは、歴史家ポリドーレ・ヴェルジル、画家のラファエッロなどが生まれている。建築家ブラマンテもこの町の近郊で生まれた。

次に出自について、みておこう。
創造的エリートの出自は、地理的にばかりでなく、社会的にも偏りをもっていた。彼らの57パーセントの父親の職業は不明なので判断には慎重を要するようだが、残る43パーセントは、かなり限定された社会環境の出身者で占められているという。
当時のイタリアの住民の大多数は農民であったが、創造的エリートのうちで、農民出身者と確認できるのは7人だけである。
残る美術家のうち、114人が職人と店舗主の子供、84人が貴族の子供、48人が商人と専門的職業人の子供である場合が多い。このコントラストは著しいそうだ。

少なくとも96人の美術家が職人や店舗主の家系出身である。そこでこのグループをさらに分類すると次のようになる。
手工芸者の息子の場合、その職種が絵画や彫刻に近いほど、美術家になる機会は多かった。
26人は美術とは関係なく、仕立屋[サルト](アンドレア・デル・サルトの場合)であったり、鶏肉商[ポッライウォーロ](アントニオ・デル・ポッライウォーロの場合)であった。34人の場合は、美術と間接的な関係があり、父親は大工、石工、石切職人などである。36人は、ラファエッロの場合にように、美術家の息子であった。美術が家族を通じて受け渡されたことは明らかである。ミラノなどで活躍した彫刻家のソラーリ一族は少なくとも5代にわたって名が知られ、そのうち4人は、創造的エリートの仲間入りをしている。
こうした美術家一族の数の多さは強調に値し、イタリア・ルネサンスの美術家をとってみると、その約50パーセントは美術に携わる親類縁者をもっている。例えば、マザッチョの場合、彼の兄ジョヴァンニは画家で、ジョヴァンニの2人の息子、その孫、曾孫もすべて画家であった。ティツィアーノにも画家の兄と息子がいた。ティントレットには2人の画家の息子と画家の娘マリエッタがいた。

それでは、これらの美術家の家系はどんな意味をもっているのだろうか。
ピーター・バーク氏は社会学的に説明している。
ルネサンス期のイタリアでは絵画や彫刻は、雑貨商や織物業と同様、家族的職業であった。
美術家が自分の子供に家業を継がせようと望んだ証拠も残っている。例えば、美術家が自分の息子に古代の有名な芸術家の名前をつけている。建築家ヴィンチェンツォ・セレーニは息子にヴィトルヴィオ[ウィトルウィウス]という名をつけ、息子は希望通り建築家に成長している。
組合(ギルド)の規約も、親方の親類の入会費を減免して家業の存続を支援している。親方はまた親族を労賃を支払わずに徒弟として雇うことができた。
また、創造的エリートの約半分の美術家が美術家の親類をもっていたことが知られる。しかし、文学と学問の場合には、家族的なつながりは弱く、4分の1強まで下がるようだ。

こうした美術家の地理的・社会的出自に関する情報は、なぜイタリアで美術が繁栄したのかを説明する上で助けになると、ピーター・バーク氏はみている。
社会的な力が偉大な芸術家を産み出すことはないにしても、社会的な障害が芸術家の産出を邪魔することはありうる。
イタリアを含む近世初期のヨーロッパでは、貴族と農民という二つの対極的な社会階級に属する有能な男性が、芸術家となる上で、大きな障害に直面した。
まず、貴族の場合、良家出身の才能ある子供が画家や彫刻家になることは難しかった。というのは、彼らの親がこれらの手仕事を下等な職業と見なしたからである。
ヴァザーリはその『美術家列伝』で、親が反対した話をいくつも伝えている。次のような例を挙げている。
① ブルネッレスキの場合
父親は自分と同じ公証人になるか、曾祖父のように医者になることを望んだ。だから、フィリッポが芸術に熱中することを「非常に不快に思った」という。

(cf.)ここで、レオナルド・ダ・ヴィンチの父親セル・ピエロ[1427-1504]も公証人であったことが想起されることに注意しておこう。

私のブログ≪西岡文彦『二時間のモナ・リザ』を読んで 【読後の感想とコメント】その4≫(2020年11月1日投稿)において、レオナルドの謎としては、鏡面文字の謎の問題について、北川健次氏の著作を参考に解説した。
北川氏は、次のような推察をしていたのが思い出される。代々公証人の家柄であり、フィレンツェ政府の公証人まで務めた野心家の人物ならば、子を自らの後継者とするのが、普通であるが、しかし、そうはせず、画工という、未だ職人としての不安定な立場に甘んじなければいけない職業の方に息子を進ませた。
(このあたり、レオナルドの画才に驚いた父が、息子の才能を開花させるために、友人のヴェロッキオの門を叩いたという話がある。北川氏は、その説を採らず、それは後世という結果論から逆回ししたものとみなす)

息子が算術の計算に長けており、利発な面を幼い頃から発揮していたのに、父セル・ピエロに、ある断念があったと北川氏は想像していた。北川氏は、むしろ公証人という職業の具体的な内容の中にあるとみている。公証人は、法律や個人の権利に関する事実を、公に証明するための書類を作成する仕事である。もし、レオナルドがその頃すでに鏡面文字しか書けず、それが既に矯正不可能なまでに身についてしまっていたとしたら、公証人として記さねばならない重要な書類は、無用物と化してしまう。その上、意固地なまでに自分の欲する事のみに専念する性分が、その頃すでに芽生えていたならば、父としても断念せざるをえなかったのではないかと想像していた。
(北川健次『絵画の迷宮』新人物往来社、2012年、15頁~42頁)

【北川健次『絵画の迷宮』新人物往来社はこちらから】

絵画の迷宮 (新人物往来社文庫)

話をバーク氏に戻そう。
② アレッソ・バルドヴィネッティの場合
家業が代々商人だったため、アレッソは「商人になることを望んでいた父親の意に反して」絵画の道に進んだといわれる。
③ 都市貴族の息子であったミケランジェロの場合
ヴァザーリは、彼の父はミケランジェロが芸術家になることを「おそらくは」古い家柄にふさわしくないと考えていた、と述べている。
しかし別のミケランジェロの弟子は、ミケランジェロの父と叔父は芸術を嫌い、息子が芸術家になることを恥に思った、と述べている。

次に、もう一方の社会階級である農民の場合は、彼らの息子が美術家や著述家になることは難しかった。たとえ、そういう職業が存在することを知っていたとしても、必要な修業の機会をつかむことが容易にはできなかったためである。
ただ、農民出の美術家については、伝説めいた話が伝えられている。
① 14世紀の偉大な画家ジョットの場合
羊飼いの少年だった頃、岩に石片で素描しているところを通りかかった画家のチマブーエに発見されたと伝えられている。
この話はギベルティによって語られ、ヴァザーリはそれを踏襲している。
② アンドレア・デル・カスターニョの場合
家畜の世話をしていた時に、岩に羊を描いているところをあるフィレンツェ市民に見出され、町に連れて行かれたといわれる。ヴァザーリは、たぶんこの市民はメディチ家の人であったとつけ加えている。
③ ドメニコ・ベッカフーミの場合
「羊番をしながら、小川の砂べりに棒で絵を描いていた時に」地主に才能を見出され、シエナに連れて行かれたという。
④ アンドレア・サンソヴィーノの場合
「ジョットと同じように家畜番をしながら、地面に見張り中の動物の絵を描いている」ところを見出され、修業のためにフィレンツェに連れて行かれた、と述べている。

こうした幼少期に関する神話を額面通り受け取ってはならないが、これらの伝説は才能に恵まれた貧しい子弟に対する当時の人びとの理解のしかたを表わしていると、バーク氏はみなしている。
(ちなみに、画家フラ・アンジェリコと人文主義者ジョヴァンニ・アントニオ・カンパーノは、貧しい子弟にとっての伝統的な階梯、つまり僧院に入った)

貴族や農民の子弟とは異なり、美術家の子弟はこうした親の反対や障害にぶつかることはなかった。彼らの多くは、子供の頃から父親の仕事を観察しながら、見よう見まねで、自然に技術を身につけていった。

この時代に視覚芸術が繁栄するためには、職人たちが集中して居住していること、つまり都市的環境が不可欠であったとバーク氏は理解している。
15~16世紀においてヨーロッパで最も高度に都市化された地域は、イタリアとネーデルラント地方である。実際、この二つの地域から大多数の重要な芸術家が輩出した。

そして、バーク氏は、美術家が育つのに最も好都合な環境について考えている。ナポリやローマのように商業やサーヴィス業が盛んな都市よりも、フィレンツェのような手工業生産の盛んな都市であったとする。また、ヴェネツィア美術がフィレンツェ美術を追い抜くのは、ヴェネツィアが貿易から産業に転じた15世紀の末になってからのことであった。

文学や人文学(ヒューマニズム)、科学において貴族や専門職業人の子弟が優位だった理由を説明することは、難しいことではない。大学で教育を受けるには、徒弟修業よりずっと高い費用がかかった。職人の子が著述家や人文主義者や科学者になることは、農民の子が美術家になるのと同じくらい難しかった。ただ、次のような例も見られる。医師のミケーレ・サヴォナローラ(著名な説教僧の父)は織物職人の息子であり、詩人ブルキエッロは大工職人の息子であった。

社会的に見ると、創造的エリートは一つではなく、二つに分けられるとする。つまり、美術家グループは職人階層から人材を補給し、文学者グループは上層階級から人材を補給した。
ただ、美術における主要な革新的芸術家の出身階級は職人ではないとバーク氏は断っている。ブルネッレスキ、マザッチョ、レオナルドはいずれも公証人の息子である。そしてミケランジェロは都市貴族の出身である。
すなわち、新しい潮流の創造に最も大きな貢献をなしたのは、地元の職人的伝統と関わりの薄かった、社会的および地理的な意味でのアウトサイダーたちだったと、バーク氏は指摘している。
(ピーター・バーク(森田義之・柴野均訳)『イタリア・ルネサンスの文化と社会』岩波書店、1992年、67頁~79頁、134頁~135頁)

【ピーター・バーク『イタリア・ルネサンスの文化と社会』岩波書店はこちらから】

イタリア・ルネサンスの文化と社会 (NEW HISTORY)

イタリアのルネサンス期の女性の芸術活動


ピーター・バーク氏は、イタリア・ルネサンス期の芸術家と、著述家といった「文化的エリート」に占める女性について言及している。
600人のうち、女性はたった3人だけである。その3人とは、ヴィットリア・コロンナ、ヴェロニカ・ガンバーラ、トゥッリア・ダラゴーナである。3人はすべて詩人で、すべてルネサンスの末期に登場した。
こうした偏りは、心理学的に、子どもを産む能力に代わりに与えられた男性の創造力と説明されたり、あるいは社会学的に、男性支配社会における女性の諸能力の抑圧と説明されたりする。しかし、イタリア特有のものでも、この時代に限られたものでもない。

ただ、興味深いことに、社会的障害が通常よりもいくらかでも軽いときには、女性の芸術家や著述家が出現しやすいという現実が見出されるという。
たとえば、画家の娘はしばしば絵を描いた。ティントレットの娘マリエッタは肖像画を描いたことが知られている。ただし確実にマリエッタのものとされる作品は1枚も残っていない。
その他に、ヴァザーリは次のような修道女について述べている。すなわち、ウッチェロにアントニアという娘がおり、彼女は「素描が巧みであった」が、カルメル会の修道女になったという。
修道女は、聖女として知られているカテリーナ・ダ・ボローニャのように、しばしば写本彩飾の仕事に携わった。また、ボローニャで活動したプロペルツィア・デ・ロッシという女性彫刻家もいた。ヴァザーリは、彼女の伝記を書き、彼女をカミッラやサッポーのような古代の才能ある女性と比較している。
(ピーター・バーク(森田義之・柴野均訳)『イタリア・ルネサンスの文化と社会』岩波書店、1992年、67頁~68頁)

【ピーター・バーク『イタリア・ルネサンスの文化と社会』岩波書店はこちらから】
イタリア・ルネサンスの文化と社会 (NEW HISTORY)


≪西岡文彦『二時間のモナ・リザ』を読んで 【読後の感想とコメント】その14≫

2020-12-25 18:20:04 | 私のブック・レポート
≪西岡文彦『二時間のモナ・リザ』を読んで 【読後の感想とコメント】その14≫
(2020年12月25日投稿)


【はじめに】


 今回のブログでは、「チェチーリア・ガッレラーニの肖像」「ジネヴラ・デ・ベンチの肖像」「ミラノの貴婦人」といったレオナルドが描いた肖像画について、ヘイルズ氏がどのように解説しているのかを、紹介してみたい。
 「モナ・リザ」とともに、これらのレオナルド作品が、四分の三正面像であった点について、西岡文彦氏の著作を通して、振り返ってみたい。あわせて、田中英道氏と佐藤幸三氏が「ジネヴラ・ベンチの肖像」について、どのように解説しているのかも、述べておこう。

〇Dianne Hales, Mona Lisa : A Life Discovered, Simon & Schuster, 2014.
〇ダイアン・ヘイルズ(仙名紀訳)『モナ・リザ・コード』柏書房、2015年

【Dianne Hales, Mona Lisa : A Life Discoveredはこちらから】

Mona Lisa: A Life Discovered

【ダイアン・ヘイルズ『モナ・リザ・コード』はこちらから】

モナ・リザ・コード




さて、今回の執筆項目は次のようになる。


・「チェチーリア・ガッレラーニの肖像」と「モナ・リザ」
・「四分の三正面像」としてのレオナルド作品
・チェチーリア・ガッレラーニについて
・ジネヴラ・デ・ベンチについて
・田中英道氏と佐藤幸三氏による「ジネヴラ・ベンチ」の解説
・「ミラノの貴婦人」について






「チェチーリア・ガッレラーニの肖像」と「モナ・リザ」


「チェチーリア・ガッレラーニの肖像」(=「白貂を抱く婦人像」)と「モナ・リザ」について、ヘイルズ氏は次のように述べている。

In Milan, Leonardo had painted his portraits of Ludovico Sforza’s mis-
tresses on walnut, a dense, hard wood. But in Florence, he stuck with the
local artists’ preference: poplar. (Canvas had not yet become popular in
Italy, except in Venice.) The thin-grained plank he selected, sawn length-
wise from the center of the trunk, was trimmed to about 30 inches high
by 21 inches wide. To prevent warping, Leonardo painted on its “outer”
rather than “inner” face. Instead of the standard primer of gesso, a mix of
chalk, white pigment, and binding materials, he applied a dense under-
coar with high levels of lead white (detected in modern chemical analysis).
From his favored apothecaries, Leonardo would have purchased pre-
cious dyes, such as cinnabar, red as dragon’s blood, and brilliant blue ul-
tramarine from the exceedingly rare and costly lapis lazuli stone. As he
preferred, he would mix the rich colors with oil, slower to dry than the
eggs he had used for tempera paints in Verrocchio’s studio and more
suited to the subtle shadings that he alone among Florentine painters had
mastered.
(Dianne Hales, Mona Lisa : A Life Discovered, Simon & Schuster, 2014, p.158.)

【単語】
walnut  (n.)クルミ
warp  (vi.)反る (vt.)反らせる、ゆがめる
pigment  (n.)顔料、絵の具
apothecary (n.)薬屋、薬剤師
cinnabar  (n.)辰砂(しんしゃ)、鮮紅色、朱
lapis lazuli  (n.)ラピスラズリ、瑠璃色、群青色
tempera   (n.)テンペラ画[絵の具]

≪訳文≫
レオナルドはミラノに滞在している間に、ルドヴィーコ・スフォルツァのために、愛人の肖像画を描いたが、そのときは硬いクルミの板を使った。だがフィレンツェでは、多くの画家が好んで使うポプラ板に固執した(カンバスは、イタリアではヴェネツィア以外では普及していなかった)。木目が薄く、幹の中心に近い柾目(まさめ)の板を選び、タテ75センチ、ヨコ52.5センチほどの大きさに切る。レオナルドは表ではなく、裏側に描く。そのほうが反りにくいからだ。普通はジェッソという、チョークに白い塗料を混ぜた下地を塗って発色をよくするのだが、レオナルドは鉛白を厚く塗った(最近の化学分析によって分かった)。
 彼は、高価な顔料や塗料を、なじみの薬剤師から購入していた。たとえば、「ドラゴンの血」と呼ばれる鉱石から採られる濃い赤のシナバー(辰砂[しんしゃ])、貴石ラピスラズリから得られるきわめて稀少で高価だが明るいブルーのウルトラマリーンなどだ。レオナルドは、これらの顔料をオイルで混ぜ合わせた。これは、卵で溶くテンペラより乾きが遅い。レオナルドもヴェッキオ宮殿のときにはテンペラを使ったが、オイル混合の手法を巧みに使いこなせる画家は、フィレンツェではレオナルド・ダヴィンチだけだった。
(ダイアン・ヘイルズ(仙名紀訳) 『モナ・リザ・コード』柏書房、2015年、226頁~227頁)

【コメント】
「チェチーリア・ガッレラーニの肖像」は硬いクルミ(walnut)の板を使った。「モナ・リザ」は、周知のように、ポプラ(poplar)板に描かれた。フィレンツェでは、多くの画家がポプラ板を好んで、カンバスは、イタリアではヴェネツィア以外では普及していなかったと但し書きをつけている。
レオナルドは反りにくいからという理由で、裏側に下地として鉛白を厚く塗って描いたという。
そして、レオナルドは濃い赤のシナバー(辰砂、cinnabar)や明るいブルーのウルトラマリーン(brilliant blue ultramarine)などの高価な顔料は、なじみの薬剤師(apothecary:薬屋、薬剤師)から購入していた。これらの顔料を、卵で溶くテンペラと違い、オイルを混ぜ合わせて、巧みに使いこなしたそうだ。

「四分の三正面像」としてのレオナルド作品


続けて、ヘイルズ氏は次のように記している。

At the very center of the composition, Leonardo would place Lisa’s
heart, framed in the pyramid of her torso rising majestically from the
base of her folded hands and seated hips to the crown of her head. As
he did for his portraits of the self-proclaimed tigress Ginevra de’ Benci
in Florence as well as for Il Moro’s mistresses in Milan, Leonardo chose
a forward-facing three-quarter pose. Firmly grounding Lisa in a pozzetto
(“little well”), a chair with a stiff back and curved arms, he instructed her
to twist into a contrapposto pose, her right shoulder angled backward and
her face turning in the opposite direction.
(Dianne Hales, Mona Lisa : A Life Discovered, Simon & Schuster, 2014, p.159.)

≪訳文≫
「モナ・リザ」の絵の中心部はリサのトルソー(体のボディ部分)で、前面で組んだ両手の上部にピラミッドのようにそびえ、頭部につながる。全体の構図は、それまでにレオナルドがフィレンツェで描いた「メストラ」を自認するジネヴラ・デ・ベンチとか、ミラノで作成した「イル・モーロ」ことルドヴィーコ・スフォルツァの愛人チェチーリア・ガッレラーニの肖像と同じように、真正面向きではなく、四分の三ほど斜(はす)に構えている。レオナルドはリサを、背が固く丸みのある肘掛け椅子に正面向きにすわらせ、少し体をひねって右肩を後ろに引き、顔を反対方向に向かせた。
(ダイアン・ヘイルズ(仙名紀訳) 『モナ・リザ・コード』柏書房、2015年、227頁)

【コメント】
〇「ジネヴラ・デ・ベンチの肖像」~「メストラ(tigress)」を自認
〇「チェチーリア・ガッレラーニの肖像」(=「白貂を抱く婦人像」)
 ~ミラノで作成した「イル・モーロ」ことルドヴィーコ・スフォルツァの愛人
〇「モナ・リザ」

全体の構図は、3枚とも、真正面向きではなく、四分の三ほど斜に構えている(a forward-facing three-quarter pose)点で、共通しているとダイアン・ヘイルズ氏も指摘している。
西岡文彦氏は、「四分の三正面像」と称して解説していた。
〇西岡文彦『二時間のモナ・リザ―謎の名画に全絵画史を読む』河出書房新社、1994年、162頁~169頁を参照のこと
〇西岡文彦『謎解きモナ・リザ』河出書房新社、2016年、180頁~184頁の「肖像画 三つの顔の向き」を参照のこと

例えば、西岡文彦『二時間のモナ・リザ―謎の名画に全絵画史を読む』(河出書房新社、1994年)の第三部に相当する【第三の回廊 絵画史のスペクタクル】、第十一章から第十三章のうち、「第十二章 『モナ・リザ』誕生」では、『モナ・リザ』が誕生する前史について、人物画、南北ヨーロッパの精神風土などを中心に解説していた。
 たとえば、正面像(フロンタル)・側面像(プロフィル)・斜方像(四分の三正面像)といった3種類の人物画があるが、四分の三正面像は、ヨーロッパ北方絵画の中心、フランドル地方で創始された。作例としては、ヤン・ファン・アイク『妻の肖像』(1468年、ブリュージュ市立美術館)、ボッティチェルリ『メダルを持つ若者の肖像』(1475年頃)は、イタリア最初期の斜め向きの肖像画として貴重である。『モナ・リザ』は、この角度で描かれている。
 ヨーロッパの気風は、北のゲルマン気質において現実主義的、南のラテン気質において理想主義的とされている。「南」の温暖で平穏な地中海気候は、古代ギリシアの哲学やイタリア絵画の理想主義を生んだという。これに対して、「北」の寒冷で不順な気候は、屋内での内省的な思考と、現実的な観察眼を形成し、北方絵画の現実主義を生んだといわれる。
こうした南北ヨーロッパの精神風土の違いを反映して、肖像画の好みにも相違がみられる。すなわち、「南」のイタリアの肖像画は、永遠のイメージをたたえた側面図としてのプロフィルを好んだ。一方、「北」のフランドルの肖像画は、自然な四分の三正面像としてのアングルを好むことになった。
 側面像(プロフィル)でありながら、ポライウォーロの『婦人の肖像』(1475年頃、ウフィッツィ美術館)は、人間としての生命感がみなぎっており、モデルは笑いをこらえているようにさえ見える。
画中の人物の存在感と生命感の点で、絵画史上最高の表現は、『モナ・リザ』において示されているが、ポライウォーロの魅惑の微笑は、『モナ・リザ』の神秘の微笑を予見していると西岡氏は高く評価している。

 ところで、50歳を目前にしたレオナルドが、ミラノからフィレンツェに帰った。この時期、フィレンツェで着手されたのが、『モナ・リザ』である。レオナルドが絵画の理想とした薄暮の光景に描かれた画面は、ボッティチェルリのヴィーナスがルネッサンスの青春を象徴していたように、その黄昏(たそがれ)を象徴していると西岡氏はみていた。
この薄暮の光景に、「北」伝来の四分の三正面像で、油彩の写実を凝らして描かれたのが、『モナ・リザ』である。イタリア・ルネッサンスは、その「南」ならではの「永遠」の相を刻みつつ、かつていかなる絵画作品も得たことのない、生命感を獲得することになる。

西岡氏によれば、人物画は顔の向きで3種類に大別されるとする。
① 正面像~真正面から描く。フロンタル
② 側面像~真横から描く。プロフィル
③ 斜方像~顔を斜めから描く。こちらは採用する頻度が多い角度をとって、四分の三正面像と呼ばれることが多い。
※画中の顔の向きによって、人物画は、その印象を一変する。

① フロンタルについて
フロンタルとは、礼拝像のための、「聖なる角度」である。
神か、聖母か、聖人か、ともかく礼拝や祈りの対象になる人物を描く際の視点である。王族といえど、一個人が、この正面像で描かれるケースはほとんどない。
フロンタルの作例としては、ウェイデン『キリスト像:ブラック家祭壇画』(中央部)(1452年頃)が挙げられる。
② プロフィルについて
プロフィルは、古来のメダルの伝統を持つ、「永遠なる角度」である。
個人の風貌を永遠の中に刻み込む様式で、イタリアの個人肖像画は、これを基本様式にしている。
作例として、ピエロ・デラ・フランチェスカ『ウルビーノ公夫妻の肖像』(1485年頃)が挙げられる。
③ 四分の三正面像について
四分の三正面像は、「自然なる角度」である。
 人物が最も自然に描けるのが、この角度である。
 ヨーロッパ北方絵画の中心、フランドル地方で創始された。
 作例としては、ヤン・ファン・アイク『妻の肖像』(1468年、ブリュージュ市立美術館)。  
 また、ボッティチェルリ『メダルを持つ若者の肖像』(1475年頃)は、イタリア最初期の斜め向きの肖像画として貴重である。
 なお、『モナ・リザ』は、この角度で描かれている。

真正面からの直視は、人に威圧感を与える。真横からの横顔は、顔の形は明示できるが、親密感は抱かせない。互いに、やや斜めに向き合う角度が、話も人柄もいちばん伝わりやすいといわれる。これは、絵に描かれた顔も同じで、モデルの人柄を自然に伝えるには、四分の三正面像が最適であると、西岡氏は主張している。
これに比べれば、フロンタルもプロフィルも、不自然そのものであるという。
(肖像画に、この不自然なプロフィルを好んだ点で、イタリア絵画は、古来のメダルの伝統もさることながら、その永遠への憧憬を物語っているようだ)
(西岡文彦『二時間のモナ・リザ』河出書房新社、1994年、162頁~169頁)

【西岡文彦『二時間のモナ・リザ―謎の名画に全絵画史を読む』はこちらから】

二時間のモナ・リザ―謎の名画に全絵画史を読む

【西岡文彦『謎解きモナ・リザ』河出書房新社はこちらから】

謎解きモナ・リザ (河出文庫)

チェチーリア・ガッレラーニについて


レオナルド・ダヴィンチ(仙名訳ではこのように表記)が1482年にフィレンツェを離れてミラノに向かった。
そのミラノにおけるルドヴィーコ・スフォルツァの絵画における最初の要望は、愛人チェチーリア・ガッレラーニの肖像を描くことだった。
(レオナルドは、おそらくフィレンツェではチェチーリアのような女性には出会ったことがなかったとヘイルズは推測している)

〇レオナルド「白貂を抱く婦人像」(1490年頃 チャルトリスキ美術館)
そのチェチーリア・ガッレラーニは、どのような女性だであったのだろうか。
チェチーリアは、シエナからミラノに赴任していた大使のお嬢さんである。父は彼女が7歳のときに亡くなった。頭のいい女の子で、6人の兄弟がいた。みな、レベルの高い教育を受けた。
チェチーリアは10歳のとき、名家の息子と婚約した。持参金の一部を納め、カップルは公式に成立した。
(だが、肉体的な接触はなく、やがて婚約は解消された)

チェチーリアは詩人としても優れていたし、楽器演奏に秀で、歌唱も巧みだった。会話力も抜群で、ラテン語による演説も得意な才女だったそうだ。
また10代のときに、ルドヴィーコ・スフォルツァの目に止まった。ルドヴィーコが招き入れ、田舎に愛の巣を作った。ほどなく壮大な屋敷カステッロ・スフォルセスコにスイートルームを与えられた。1489年に16歳で妊娠した頃には、ミラノ宮廷でスーパーウーマンになっていた。

ただ、ルドヴィーコ公は友好関係にあるフェラーラ公のお嬢さんベアトリーチェ・デステ(あのイザベラ・デステの妹)と婚約していた。気乗りがしないために結婚式を何回も先延ばししていた。しかし、宮廷内では愛人チェチーリアに対する風当たりが強まってきた。

チェチーリアの肖像を描く立場のレオナルドは、面倒な三角関係に巻き込まれたようだが、持ち前の機転と分別ぶりを発揮した。肖像画の制作を進めるとともに、1491年のルドヴィーコ公の結婚式を思い切り派手なものに演出したといわれる。

ここでヘイルズ氏は、チェチーリア・ガッレラーニと、ジネヴラ・デ・ベンチの肖像を比較している。
両者とも、四分の三ほど斜め向きのポーズである。チェチーリアの場合、上げた視線を画面の外に向け、まるで部屋に入って来た恋人に向けている感じであるとヘイルズ氏は表現している。その衣装は控えめだが、冴えないものではなく、かなり思い切った出で立ちで、メッセージ性を持たせている。
また、金色っぽい白テンを抱き、ベールをかぶり、黒いヘッドバンドをはめ、長いネックレスを首に巻いたうえ、ゆるく胸に垂らしている。
(後宮に幽閉された側室の拘束感が表現されているという解釈もある)

二つの肖像画の大きな相違点として、ジネヴラの方は清純さが感じられるが、チェチーリアの方は色気を発散している点をヘイルズ氏は指摘している。チェチーリアはほっそりした白テンを抱えて右手でなでているが、この動物はイスラム教徒のムーア人を象徴しているともいわれている。そのテンのギリシャ語は、彼女の名前に音が似ている。

レオナルドが描いた写真のような肖像画は、この女性の生涯を巧みに捉えたものである。当時の画風としては斬新だった。ミラノの宮廷詩人は、次のように評した。
「天才レオナルドの絵筆は、チェチーリアの美しさをあますところなく描き出し、彼女の瞳の輝きは、陽の光さえさえぎってしまう」
(ダイアン・ヘイルズ(仙名紀訳)『モナ・リザ・コード』柏書房、2015年、129頁~132頁参照)

なお、原文は次のようにある。

Leonardo might never have met a woman quite like Cecilia in Florence.
The daughter of an ambassador from Siena who died when she was
seven, the bright little girl, along with her six brothers, received an out-
standing education. At age ten she was pledged to the son of a prominent
family. Although part of the dowry was paid and the couple was officially
betrothed, the union was never consummated, and the arragements
eventually dissolved.
Cecilia, an accomplished poet, musician, and singer and a clever
conversationalist who could deliver orations in Latin, caught the eye of
Ludovico Sforza. With a wave of his royal hand, he set the teenager up
in a bucolic love nest. Before long the girl, lauded as “bella come un fiore”
(beautiful as a flower), relocated to a suite of rooms in the immense Ca-
stello Sforzesco. By 1489 the pregnant sixteen-year-old had ascended to
“dominatrice della corte di Milano”(the woman who dominated the court
of Milan).
In a not-at-all-minor complication, Duke Ludovico happened to be
engaged to Beatrice d’Este, the daughter of an important ally, the Duke
of Ferrara. When he repeatedly postponed his nuptials with the young
woman he described as “piacevolina”(just a bit pleasing), a polite way of
saying “plain,” the lords and ladies of the court blamed “quella sua innamo-
rata”(that beloved of his).
Caught in the middle of this love triangle, Leonardo would have had
to rely on his ample reserves of charm and discretion while painting Ce-
cilia’s portrait at the same time that he was planning spectacular festiv-
ities for several weddings, including the Duke’s marriage to Beatrice in
1491.
As with his portrait of the self-proclaimed tigress Ginevra de’ Benci,
Leonardo chose an unconventional three-quarter view, with Cecilia’s ap-
praising eyes looking outside the frame of the picture as if her lover had
just entered the room. Rather than appear demure or drab, she makes a
bold fashion statement. Her gold frontlet, tied veil, black forehead band,
and draped necklaces, art critics observe, suggest the restrained captive
status of a concubine.
Unlike the antiseptic Ginevra, Cecilia sizzles with an erotic charge.
With her right hand, in a curiously suggestive gesture, Cecilia strokes
a sleek ermine (white weasel), a symbol of Il Moro, whose many titles
included the honorary Order of the Ermine, and a play on the Greek
word for ermine, similar to her name. The animal cradled in Cecilia’s
arms also captures the essence of the man to whom she is bound, sex-
ually and socially ― a predator with a vigilant eye and menacing claws
splayed against her red sleeve.
Leonardo’s almost photographic portrayal of an animated moment
in this woman’s life represented something radically new among paint-
ers of the time. Milan’s court poets praised “the genius and the hand of
Leonardo” for so adeptly capturing “beautiful Cecilia, whose lovely eye /
Makes the sunlight seem dark shadow.”
(Dianne Hales, Mona Lisa : A Life Discovered, Simon & Schuster, 2014, pp.87-88.)

【単語】
pledge  (vt.)誓約させる、質に入れる
betroth  (vt.)婚約する ⇒ be betrothed to ~と婚約している
conversationalist  (n.)話上手の[好きな]人
oration   (n.)(風格ある)演説、弁論
bucolic   (a.)いなか[田園]の
laud   (vt.)賛美する、称賛する
ally   (n.)同盟者[国]、援助者
nuptial  (n.)(通例pl.)結婚(式)
discretion (n.)思慮、分別
tigress   (n.)雌のトラ
demure   (a.)まじめな、しかつめらしい、取り澄ました
drab    (a.)淡褐色の、単調な
frontlet   (n.)(動物の)前額部、ひたい飾り
captive   (a.)捕虜にされた、魅惑された
antiseptic   (a.)防腐の、非人間的な、気迫を欠いた
sizzle    (vi.)かんかんに怒る
sleek     (a.)つやつやした、なめらかな
ermine   (n.)白テン(の毛皮)
weasel   (n.)イタチ
cradle   (vt.)揺りかごに入れる、育てる
predator  (n.)捕食動物、略奪するもの
vigilant  (a.)警戒している、油断のない
splay  (vt., vi.)外へ広げる[がる]

【補足】ベアトリーチェ・デステとイザベラ・デステとレオナルド
のちに、1497年1月に、ミラノに思いもかけない事態が発生した。
ルドヴィーコ公爵夫人のベアトリーチェ・デステが、22歳(満21歳)の若さで急死した。晩餐会の最中に倒れて陣痛が始まり、胎児は死産で、ベアトリーチェも直後に亡くなった。イザベラ・デステは、この公爵夫人の姉である。レオナルドが1499年12月にミラノを離れて、マントヴァに立ち寄った際に、イザベラ・デステは歓待した。その代わりに肖像画を描いて欲しいと要望した。レオナルドはとりあえずスケッチをし、いずれ描くと約束した。
(ダイアン・ヘイルズ(仙名紀訳)『モナ・リザ・コード』柏書房、2015年、198頁~200頁比較参照のこと)

ジネヴラ・デ・ベンチについて


時代は少し遡るが、レオナルドは徒弟期間を終えたのちも、ヴェロッキオの下で働いた。
1474年ごろ(レオナルド作品の年代にはいくつもの説があるとヘイルズ氏は断っている)、レオナルドははじめての肖像画を描いた。これが最初の名画とされる。モデルはジネヴラ・デ・ベンチ(1457年ごろ~1520年)である。彼女はフィレンツェの美女で、リサ・ゲラルディーニより20歳ほど先輩である。

実家は裕福な特権階級で、ジネヴラはそこのお嬢さんだった。祖父は、コジモ・デ・メディチに用立てる銀行の頭取である。父は人文学者のインテリで、銀行マンで、メディチ家に継ぐ資産家だったそうだ。
ジネヴラと6人の兄弟たちは、ベンチ家の大邸宅で、家庭教師による教育を受けた。10歳になると、ジネヴラは修道院の寄宿舎で勉強を続けた。
 16歳のころ、ジネヴラは修道院学校をやめて、衣服商人と結婚した。ロレンツォ・デ・メディチをはじめ、多くの文人たちがジネヴラの美しさや頭のよさを称えた詩を詠んでいる。思いを寄せる男性は多くいた。ベルナルド・ベンボもその一人である。ベンボは、
ヴェネツィアからフィレンツェに大使として赴任していた中年の既婚者であった。メディチ家が開いた馬上槍試合の折に、ジネヴラを見そめた。ベンボはジネヴラを公の場でアテンドする役を申し出た(これは、プラトニックなルネサンス式のお遊びだった)。

レオナルドにジネヴラの魅力的な肖像を描いてもらおうというのは、彼女の夫の発想ではなく、ベンボのアイディアだったとヘイルズ氏はみている。
(似たようなケースとして、「モナ・リザ」の注文者の別説を指摘している。つまり、何年ものち、リサ・ゲラルディーニの美しさに魅されたロレンツォ・デ・メディチの末っ子が、レオナルドに肖像を描いてもらうよう取り計らったという説がある)。
また、ベンボはさらに、ジネヴラを称える10編の詩を作るよう、メディチ家の文学サークルで提案して賞金を出したという。

 ところで、ジネヴラは、この時代の女性としては珍しく自らも詩を書いた。断片的に残った詩の中に、「ごめんあそばせ。あたしは、暴れトラなの」という一句がある。
レオナルドの未完の肖像画を見ると、このメストラの不思議な魅力がうかがい知れるとヘイルズ氏は捉えている。
ヘイルズ氏は、そのジネヴラの印象を記している。
・自尊心は強そう
・非のうちどころがない美貌
・くっきりした二重まぶたにネコのような瞳
・冷徹で強烈な視線
・憂いを含んだ表情
・肌理(きめ)の細かい肌
・長い巻き毛が白い額にかかる

背景には、西岡文彦氏も指摘するように、人物の素性を物語る要素が描き込まれている。
ビャクシンという針葉樹の木は、イタリア語では「ジネプロ」といい、彼女の名前ジネヴラと音が似ている。
(西岡文彦『謎解きモナ・リザ』河出書房新社、2016年、52頁~53頁)
「彼女のとげとげしい性格を尖った葉っぱで象徴しているのかもしれない」とヘイルズ氏はみている。

また、絵の裏には意味深長な紋章が描かれている。ビャクシンの小枝を月桂樹が包み込むような図柄である。これはジネヴラをベンボが保護している象徴とも、ヘイルズ氏は受け取っている。そして、「彼女の持ち味は美にあり」という書き込みがあると付記している。
(ダイアン・ヘイルズ(仙名紀訳)『モナ・リザ・コード』柏書房、2015年、94頁~96頁参照)

原文には、次のようにある。
Even after finishing his own professional apprenticeship, Leonardo con-
tinued to work with Verrocchio. Around 1474 (a date, like so many in his
career, still in dispute) the young artist began his first portrait ― and his
first masterpiece. Its subject, Ginevra de’ Benci (c.1457-1520), another
donna vera of Florence, was born about twenty years before Lisa Gherar-
dini into immense wealth and priviledge. Her grandfather had served as
general manager for the bank of his friend Cosimo de’ Medici. Her father,
a humanist intellectual and art patron as well as a banker, reported a for-
tune second only to that of the Medici.
In the stately Benci palazzo, Ginevra and her six brothers received a
superb education in literature, mathematics, music, Latin, and perhaps
Greek. At ten, after her father’s death, Ginevra continued her studies as a
boarding student at one of Florence’s exclusive convents, Le Murate (for
the “walled-in ones”), renowned for its nuns’ exquisite embroidery and
angelic singing.
At about age sixteen, Givevra left the convent school to marry a cloth
trader. Young humanists, including Lorenzo de’ Medici, wrote verses in
praise of her beauty and wit. She also attracted a devotee whom she may
or may not have welcomed: Bernardo Bembo, the married, middle-aged
Venetian ambassador to Florence, who first beheld the young beauty at a
Medici joust.
Despite a wife and son in Florence and a mistress and love child else-
where, Bembo threw himself into a public courtship of Ginevra ― a not
uncommon and completely platonic Renaissance diversion. He, rather
than Ginevra’s husband, may have hired Leonardo to capture her allure
in a painting. (Many years later, some believe, a similarly smitten admirer
of Lisa Gherardini ― none other than the youngest son of Lorenzo de’
Medici ― may have urged Leonardo to paint her portrait as a similar trib-
ute.) Bembo also commissioned ten poems in Ginevra’s honor by mem-
bers of the Medici literary circle.
Like only a few women of her day, “La Bencia” wrote poetry her-
self, but only one enigmatic fragment survives: “I beg for mercy, and I
am a wild tiger.” Leonardo’s unsettling painting captures the tigress’s mys-
tique: a proud and perfect head, heavy-lidded feline eyes, an icy and un-
flinching gaze, a brooding expression, skin smoothed into perfection by
his own hand. Masses of the ringlets that would become his trademark
twirl around her pale face, ser against the background of a juniper tree ―
ginepro in Italian, a play on her name and perhaps her prickly character as
well. On the portrait’s reverse, Leonardo painted a “device”, an emblem of
laurel and palm enclosing a sprig of juniper ― a poetic representation of
Bembo entwined with Ginevra ― and an inscription, VIRTUTEM FORMA
DECORAT (She adorns her virtue with beauty).
(Dianne Hales, Mona Lisa : A Life Discovered, Simon & Schuster, 2014, pp.59-60.)

【単語】
convent  (n.)女子修道院
boarding  (n.)寄宿 (cf.) boarding school寄宿学校
exquisite  (a.)精巧な、極めて美しい
devotee  (n.)心酔者、熱愛者
diversion  (n.)注意をそらすこと、気晴らし、娯楽
allure   (n.)魅力
smitten  (v.)<smite(vt.)強打する、打ちのめす、魅するの過去分詞
enigmatic  (a.)不可解な
tigress  (n.)雌のトラ
unflinching  (a.)しりごみしない、断固たる
brooding   (a.)気をめいらせる、憂鬱にさせる
twirl    (vt.,vi.)くるくる回す[る]、ひね(く)る
juniper   (n.)ネズ、トショウ(杜松)
prickly   (a.)とげの多い、≪話≫おこりっぽい、厄介な
sprig   (n.)若枝、小枝

≪訳文≫
レオナルドはプロとなるための徒弟期間を終えたのちも、ヴェロッキオの下で働いていた。1474年ごろ(彼の仕事に関する年代にはいくつもの説があって、断定できないものが多い)、彼ははじめての肖像画を描いた。これが最初の名画で、モデルはジネヴラ・デ・ベンチ(1457ごろ~1520)。フィレンツェの美女でリサ・ゲラルディーニより20歳ほど先輩だ。実家は裕福な特権階級で、彼女はそこのお嬢さんだった。祖父は、コジモ・デ・メディチに用立てる銀行の頭取。父は人文学者のインテリで、画家のパトロンもやった銀行マンで、メディチ家に継ぐ資産家だったと言われる。
 ベンチ家の大邸宅で、ジネヴラと六人の兄弟たちは、最高の家庭教師による教育を受けた。文学・算数・音楽・ラテン語、それにギリシャ語も学んだかもしれない。父が亡くなったあとも、10歳のジネヴラは勉強を続け、ムラーテ(壁に囲まれた、の意)という名の修道院の寄宿舎で、精巧な刺繍や天使のような歌を学んだ。
 16歳のころ、ジネヴラは修道院学校をやめて、衣服商人と結婚した。ロレンツォ・デ・メディチをはじめ、多くの文人たちがジネヴラの美しさや頭のよさを称えた詩を詠んでいる。思いを寄せる男子は目白押しだったが、彼女のタイプもいたし、嫌いな性格の者もいた。ヴェネツィアからフィレンツェに大使として赴任していたベルナルド・ベンボは中年の既婚者で、メディチ家が開いた馬上槍試合の折にはじめてジネヴラという若い美女を見そめた。
 彼の妻子はフィレンツェに滞在していたが、彼にはほかの愛人と隠し子もいた。彼はジネヴラを公の場でアテンドする役を申し出たが、これはほくあるケースで、あくまでプラトニックなルネサンス式のお遊びだ。レオナルドにジネヴラの魅力的な肖像を描いてもらおうというのは、彼女の夫の発想ではなく、ベンボのアイディアだったようだ(似たようなケースとして、何年ものち、リサ・ゲラルディーニの美しさに魅されたロレンツォ・デ・メディチの末っ子が、レオナルドに肖像を描いてもらうよう取り計らった、という説がある)。ベンボはさらに、ジネヴラを称える10編の詩を作るよう、メディチ家の文学サークルで提案して賞金を出した。
 この女性、いわば「ラ・ベンチア」は、この時代の女性としては珍しく自らも詩を書いたが、ごく一部が断片的に残っているだけだ。たとえば、こんな一句がある。「ごめんあそばせ。あたしは、暴れトラなの」。レオナルドの未完の肖像画を見ると、このメストラの不思議な魅力がうかがい知れる。自尊心は強そうだが、非のうちどころがない美貌、くっきりした二重まぶたにネコのような瞳、冷徹で強烈な視線、憂いを含んだ表情、肌理(きめ)の細かい肌、やがてレオナルドが得意とするようになる長い巻き毛が白い額にかかっている。背景には、ビャクシンという針葉樹の木々が描かれている。イタリア語ではジネプロで、彼女の名前ジネヴラと音が似ているし、彼女のとげとげしい性格を尖った葉っぱで象徴しているのかもしれない。絵の裏には意味深長な紋章が描かれている。ビャクシンの小枝を月桂樹が包み込むような図柄で、これはジネヴラをベンボが保護している象徴とも受け取れる。そして書き込みがあり、彼女の持ち味は美にあり、と記されている。
(ダイアン・ヘイルズ(仙名紀訳) 『モナ・リザ・コード』柏書房、2015年、94頁~96頁)

田中英道氏と佐藤幸三氏による「ジネヴラ・ベンチ」の解説


レオナルドの肖像画「ジネヴラ・ベンチの像」(42×37㎝、ワシントン、ナショナル・ギャレリー、表記法は田中英道氏に従う)を見ると、女性個人の性格がまず人を打つ。娘時代の終わりに近い女性の、聡明さと一途な性格がその眼や口もとから見てとれる。背景にはネズの樹が茂り、彼女の内面の豊かさを示すかのようであると田中氏は述べている。
それは気品のある姿で、魅力にあふれた像である。
(しかし、その図像から女性というものの普遍性を見出すことは困難だともいう)

レオナルドに影響を受けたラファエロの、次の婦人像は「ジネヴラ・ベンチの肖像」の延長線上にあるという。
〇ラファエロ「マッダレーナ・ドーニの肖像」(フィレンツェ、ピッティ美術館)
〇ラファエロ「一角獣を抱く女性像」(ローマ、ボルゲーゼ美術館)
これらの作品の彼女らの性格描写でほとんど完結しているという。ただ、これらは美化されているとはいえ、このレオナルドの貴婦人像のような理想化の度合いが少ないと評している。

また逆に次の作品になると、その理想化が性格描写を摘んでしまい、「美人画」に堕してしまう傾向があるとする。
〇ラファエロ「ラ・ヴェラータ」(フィレンツェ、ピッティ美術館)

さて、レオナルドが風景の意味を重視する傾向は、「ジネヴラ・ベンチの肖像」にもっともよくあらわれているとされる。
この女性の肖像の背後に鬱蒼としげるネズの樹は、ローマの方言でジネヴラと呼ばれるものであり、この女性の名を象徴させたものである。それは絵の裏に描かれている棕櫚と月桂樹の環のなかのジネヴラの小枝とも関連している。また、この絵の裏には、「美が徳を飾る」というラテン語の文字が書かれているが、まさにこの女性は、フィレンツェの徳と美の二つを兼ね合わせもった女性であった。
彼女はフィレンツェ商人アメリゴ・デ・ベンチの娘である。16歳のとき、後にロレンツォのもとでフィレンツェの長官になるルイジ・ニッコリーニと結婚している。
彼女の祖父は、1443年、フラ・フィリッポ・リッピに自分の建てたムラーテ尼院の祭壇画を依頼している美術愛好家である。そして、父アメリゴは、フィチーノの主宰するプラトン・アカデミーに出席し、フィチーノにプラトンの写本を贈呈している。
このような環境に育った彼女には、ロレンツォ・デ・メディチから二つのソネットを献じられている。

ロレンツォが、ジネヴラの家にいた叔母にあたる23歳の女性に恋をしてスキャンダルになったとき、ジネヴラもフィレンツェから逃げ出さざるをえなかった。ロレンツォは、ジネヴラに自分を怒らないくれ、疑わないでくれと懇願し、彼女の「やさしい心情」「慈悲ぶかい気持」に訴えている。

そのやさしさは、画面から直接感じられないかもしれない。表情には微笑もなく、ただ聡明さだけが感じられる。だが、もし9センチほど切られた下部に、柔和な両手が描かれ、右手が胸のひらきをそっと抑えるような仕草をしているとしたら、そのいささか堅い調子はやわらいでいたにちがいないと、田中英道氏は想像している。
(ウィンザー王宮図書館にある銀筆のデザイン「女性の手」21.5×15㎝は、その下の部分を予測させるものといわれている)

このジネヴラの兄のジョヴァンニとレオナルドとは深い関係にあった。書物とか地図とかをお互いに貸し合う仲であった。さらにレオナルドは、未完成の「三王礼拝」図をこの家に託すほどのことまでしていた。
(「三王礼拝」図は、ジョヴァンニの息子アメリゴ・ベンチの家にあったとヴァザーリは伝えている)

妹ジネヴラの1474年の結婚式のために、この肖像画をレオナルドが描いたという推測も充分可能であると田中氏はみている。画面からいっても、まだ若い緊張した筆致が消えない頃の作品であるからと、その理由を述べている。また、この家族がメディチ家に近かったことは、レオナルドがこの頃、その周辺にいたことを証拠だてているようだ。
(田中英道『レオナルド・ダ・ヴィンチ 芸術と生涯』講談社学術文庫、1992年[2004年版]、62頁~65頁、74頁、266頁)

【田中英道『レオナルド・ダ・ヴィンチ 芸術と生涯』講談社学術文庫はこちらから】

レオナルド・ダ・ヴィンチ 芸術と生涯 (講談社学術文庫)

佐藤幸三氏も、この「ジネヴェラ・デ・ベンチの肖像」(表記法は佐藤氏のそれに従う)について、言及している。
「ジネヴェラ・デ・ベンチの肖像」は、もともと長方形の絵であったが、下の部分4分の1ほどが切り落とされたという(ワシントン、ナショナル・ギャラリー蔵)。いつ頃、なぜ、手の部分が切断されたかは謎であるといわれる。その肖像が完成していたら、現在、ウィンザ―城王室図書館蔵の「手の習作」のような手が描かれていたことだろう。
もともとこの絵は長い間ベンチ家にあったが、1733年、リヒテンシュタイン家の財産目録が公表されたとき、下部が切断されたこの作品が含まれていたという。「リヒテンシュタインの貴婦人」とも呼ばれていたが、1967年、ワシントンのナショナル・ギャラリーがリヒテンシュタイン家から購入し、現在に至っている。

また、ダ・ヴィンチの同僚ロレンツォ・クレディの「ジネヴェラ・デ・ベンチの肖像」が、ニューヨークのメトロポリタン美術館にある。その肖像画には手が描かれている(ただし、レオナルドのデッサンの手の形とは異なる)。

さて、ジネヴェラ・デ・ベンチとは、どのような女性だったのかという点について、次のように佐藤氏は説明している。
ベンチ家は代々メディチ銀行の総支配人を務めた。豪華王ロレンツォの時代、当主はアメリーゴ・デ・ベンチであった。長男はジョヴァンニ、長女はこの絵の主人公ジネヴェラ(ママ)であった。
ベンチ家はダ・ヴィンチの父ピエロにとって大事な顧客であり、ダ・ヴィンチもしばしば父とともにベンチ家に出入りした。
佐藤氏も述べているように、ダ・ヴィンチとジョヴァンニは年齢もあまり変わらず、二人はすぐに親しくなった。ベンチ家の人々も、ダ・ヴィンチを歓迎したようだ。それは娯楽の少なかった時代、リラを弾きながら、詩を吟じるダ・ヴィンチの美声に感動したからであった。
ヴァザーリが記すように、≪彼はまたもっともすぐれた吟誦詩人でもあった≫。この席には、ジネヴェラもいたことだろうと佐藤氏は推測している。
(佐藤幸三『モナ・リザはなぜルーヴルにあるのか』実業之日本社、2011年、123頁~128頁)

【佐藤幸三『モナ・リザはなぜルーヴルにあるのか』実業之日本社はこちらから】

[カラー版]モナ・リザはなぜルーヴルにあるのか (じっぴコンパクト新書80)

「ミラノの貴婦人」について


「ミラノの貴婦人」(ラ・ベッレ・フェロニエーレ[La Belle Ferronnière])という肖像画をめぐっても、ミステリーがあるとダイアン・ヘイルズ氏は記している。
これはレオナルドがミラノのルドヴィーコ・スフォルツァの愛人チェチーリア・ガッレラーニの肖像を描いた板と同じ木から取られた板に描かれている。

美術史家たちは最初、このモデルはフランス国王の愛人ではないかと見ていた。この女性はやがて金物細工師と結婚したので、フェロニエーレ(金物商)と呼ばれていたようだ。
だがのちに、モデルはルクレツィア・クリヴェッリ[Lucrezia Crivelli]だと判明した。この女性はミラノのベアトリス公爵夫人の侍女(女官)で既婚だが、のちに別の公爵の愛人になった。

この肖像も、やや斜めの構図(the three-quarter pose:四分の三正面像)である(レオナルドのトレードマーク[hallmark]になっている)。
また、その衣服の複雑な模様やリボンの結び方も、レオナルドの特徴を示している。それにもかかわらず、レオナルドの作を疑う者もいまだにいる。

ヘイルズ氏が、この肖像画をルーヴル美術館で最初に見たとき、モデルの決然とした視線(unflinching gaze)に取り憑かれたという。
そして、次のような疑問を呈して、回答を本書では保留している。
・レオナルドの意図はどこにあったのか。
・彼女はどうしてこのように鋭い目つきをしているのか。レオナルドの受け取り方のせいなのか、それとも彼女がレオナルドをそのような視線で眺めたのか。

原文には次のようにある。

Another mystery revolves around a painting called La Belle Ferron-
nière (the beautiful ironmonger’s wife), which Leonardo painted on a
panel cut from the same tree used for Cecilia’s portrait. Art historians
at first thought the model was a French king’s lover, who happened to be
married to an ironworker. Later she was identified as Lucrezia Crivelli, a
married lady-in-waiting to Duchess Beatrice of Milan, who became an-
other of the Duke’s mistresses.
Some still question the attribution, despite such Leonardo hallmarks
as the three-quarter pose and the intricately patterned and ribboned
dress, a testament to the artist’s wondrous way with fabrics. But what
captivated me when I saw the portrait in the Louvre was the sitter’s un-
flinching gaze. What was it about Leonardo and the ladies he chose to
paint that brought out such intensity? Was it the way Leonardo looked at
women or the way looked at him?
(Dianne Hales, Mona Lisa : A Life Discovered, Simon & Schuster, 2014, p.105.)

【単語】
・ironmonger (n.)金物商、鉄器商人
・hallmark  (n.)特徴、目印
・flinching  (a.)ひるまない、決然とした、しり込みしない、断固たる
・intensity  (n.)激しいこと、熱心さ
(ダイアン・ヘイルズ(仙名紀訳)『モナ・リザ・コード』柏書房、2015年、155頁参照のこと)


≪西岡文彦『二時間のモナ・リザ』を読んで 【読後の感想とコメント】その13≫

2020-12-24 18:04:41 | 私のブック・レポート
≪西岡文彦『二時間のモナ・リザ』を読んで 【読後の感想とコメント】その13≫
(2020年12月24日投稿)

【西岡文彦『二時間のモナ・リザ―謎の名画に全絵画史を読む』はこちらから】

二時間のモナ・リザ―謎の名画に全絵画史を読む



【はじめに】


 今回のブログでは、レオナルドとチェーザレ・ボルジアとマキャヴェリとの関係について、ヘイルズ氏の著作を通して、考えてみたい。
これら三者をみる場合、次の点に注意しながら、ヘイルズ氏の著作内容を紹介したい。
・レオナルドとチェーザレ・ボルジアとの出会いは、どのようなものであったのか。
・レオナルドは、チェーザレ・ボルジアの下でどのような仕事をしたのか。
・チェーザレ・ボルジアやマキャヴェリは、どのような特徴をもつ人物として、捉えられているのか。
・レオナルドとマキャヴェリとの関係は、どのようなものであったのか。
・マキャヴェリの『君主論』は、どのような状況下で書かれたのか。

〇Dianne Hales, Mona Lisa : A Life Discovered, Simon & Schuster, 2014.
〇ダイアン・ヘイルズ(仙名紀訳)『モナ・リザ・コード』柏書房、2015年

【Dianne Hales, Mona Lisa : A Life Discoveredはこちらから】

Mona Lisa: A Life Discovered

【ダイアン・ヘイルズ『モナ・リザ・コード』はこちらから】

モナ・リザ・コード




さて、今回の執筆項目は次のようになる。


・レオナルドとマキアヴェッリ
・レオナルドとチェーザレ・ボルジアとの1499年の出会い
・レオナルドとチェーザレ・ボルジアとの1502年の出会い
・チェーザレ・ボルジアとレオナルドとマキアヴェッリ 
・マキャヴェリと『君主論』







レオナルドとマキアヴェッリ


1482年、レオナルドは、フィレンツェを離れてミラノに移住し、約20年近く、ほぼ人生の3分の1をミラノで過ごすことになる。ミラノでは、野心的なパトロンだったルドヴィーコ・スフォルツァ公の下で才能を開花させる。数学などの勉強に熱中し、ヘリコプターや戦車の原型を考案した。絵画の分野では、名画「最後の晩餐」を仕上げた。
しかし、1499年、フランス軍がミラノを占領し、レオナルドは逃亡し、1500年、フィレンツェに戻る。

その後の数年の出来事をダイアン・ヘイルズ氏は次のように述べている。
Then history turned on a ducat. A French invasion of Milan forced
Leonardo to flee to Florence in 1500. Over the next few feverish years, he
would join the employ of the infamous Cesare Borgia, collaborate with
Niccolo Machiavelli, spar with the upstart sculptor Michelangelo, mourn
his father’s death, attempt unparalled artistic feats, and suffer ignomin-
ious failures. Through these years and beyond, he lavished time ant at-
tention on the one portrait he would keep with him for the rest of his
life ― Lisa Gherardini’s.
(Dianne Hales, Mona Lisa : A Life Discovered, Simon & Schuster, 2014, p.7.)

【単語】
ducat  (n.)(歴史)ダカット金貨(中世イタリアで用いられた金貨)
 (cf.) turn on a dime (車で)急に曲がる、急に変わる dime (n.)(米国・カナダの)10セント硬貨
invasion  (n.)侵入、侵略
flee    (vi., vt.)逃げる
feverish  (a.)熱のある、熱狂的な
employ  (n.)使用、雇用 (vt.)雇う
infamous (a.)悪名の高い(notorious)
collaborate (vi.)共に働く、協力する
spar (vi.)こぶしで折合う、口論する(with)
upstart (n., a.)成り上がり者(の)
mourn  (vi., vt.)悲しみ嘆く、喪に服す、哀悼する
unparalled (a.)匹敵するものがない、無比の、前代未聞の
feat   (n.)行為、功績、離れ業
ignominious  (a.)恥ずべき、不名誉な、卑しむべき
beyond  (ad.)(時間的に)より後に、ほかに、さらに
lavish   (vt.)惜しまず与える、浪費する (a.)気前のよい、浪費的な
attention  (n.)注意(力)

≪訳文≫
そのとき、歴史は転換点を迎えた。フランスがミラノに侵攻して来たため、レオナルドは1500年にフィレンツェに逃げ戻った。それから数年の激動期に、レオナルドは評判の芳しくないチェーザレ・ボルジアに雇われたり、ニッコロ・マキアヴェッリに協力したりした。台頭してきた若手の彫刻家ミケランジェロと論争もしたし、父の死にも遭遇した。壮大な作品にも取り組んだが、大きな挫折も体験した。このころを境にして、彼は以後、一つの肖像画に執心し、終生、手を加え続ける。リサ・ゲラルディーニのポートレートだ。
(ダイアン・ヘイルズ(仙名紀訳)『モナ・リザ・コード』柏書房、2015年、25頁)


リサが生きていた時代のフィレンツェには、芸術の巨匠たちが綺羅星のように輝いていた。ミケランジェロ、ボッティチェリ、ラファエロ、ペルジーノ、フィリッポ・リッピらの画家や彫刻家が腕を競ってひしめいた。
レオナルドとリサの時代、フィレンツェは、ほかの分野でも傑出した人材を輩出した。絶大な権力を誇っていたロレンツォ・デ・メディチ(その息子がジュリアーノで、前回のブログで見たように、リサと同い年であった)、カリスマ性を持っていたドメニコ修道士のサヴォナローラ。そして、チェーザレ・ボルジアとニッコロ・マキアヴェッリである。

そして、英文にあるように、1500年にフィレンツェに逃げ戻り、それから数年の激動期に、レオナルドは、様々な体験をした。
〇評判の芳しくないチェーザレ・ボルジアに雇われた
〇ニッコロ・マキアヴェッリに協力した
〇台頭してきた若手の彫刻家ミケランジェロと論争もした
〇父の死にも遭遇した
〇壮大な作品にも取り組んだが、大きな挫折も体験した

こうした時期に、レオナルドは、一つの肖像画に執心し、終生、手を加え続ける。リサ・ゲラルディーニのポートレート、つまり「モナ・リザ」であると、ヘイルズ氏は理解している。

さて、ヘイルズ氏は、チェーザレ・ボルジアとニッコロ・マキアヴェッリについて、次のように紹介している。

During Leonardo’s and Lisa’s lifetimes, larger-than-legend characters
strutted across the Florentine stage: Lorenzo de’ Medici, whose magnif-
icence rubbed off on everything he touched. The charismatic friar Savo-
narola, who inflamed souls before meeting his own fiery death. Ruthless
Cesare Borgia, who hired Leonardo as his military engineer. Niccolo
Machiavelli, who collaborated with the artist on an audacious scheme to
change the course of the Arno River.
(Dianne Hales, Mona Lisa : A Life Discovered, Simon & Schuster, 2014, p.6.)

【単語】
strut  (vi.)気取って歩く (n.)気取った歩きぶり
Ruthless  (a.)無情な、残酷な
hire   (vt.)雇い入れる
collaborate (vi.)共に働く、協力する
audacious  (a.)大胆な、恥知らずの
scheme   (n.)概要、図式
course   (n.)進路、水路

≪訳文≫
レオナルドとリサの時代、フィレンツェはほかの分野でも傑出した人材を輩出した。ロレンツォ・デ・メディチは絶大な権力を誇っていた。カリスマ性を持っていたドメニコ修道士のサヴォナローラは、最後には絞首刑に処せられるが、民衆を動かして「宗教改革」に挺身して殉じた。ひところレオナルドを軍のエンジニアとして雇い入れたローマの政治家チェーザレ・ボルジアは、無慈悲な策士として名高い。政治思想家ニッコロ・マキアヴェッリは、レオナルドを巻き込んで、アルノ川の流れを変えようという大事業を考えたことがある。
(ダイアン・ヘイルズ(仙名紀訳)『モナ・リザ・コード』柏書房、2015年、23頁~24頁)

ローマの政治家で、無慈悲な策士として名高いチェーザレ・ボルジアは、ひところレオナルドを軍のエンジニアとして雇い入れた。そして政治思想家ニッコロ・マキアヴェッリは、レオナルドを巻き込んで、アルノ川の流れを変えようという大事業を考えたことがあると説明している。

レオナルドとチェーザレ・ボルジアとの1499年の出会い


The two may have first met in Milan in 1499, when Cesare Borgia rode in
triumph with the French king Louis XII into the conquered city. There
he could have beheld Leonardo’s masterpieces, including his imposing
model for Il Cavallo, his matchless Last Supper, and his designs for for-
tresses and weaponry. For his part, Leonardo would undoubtedly have
heard of the Borgia pope’s son Cesare and his reputation as “a blood-
thirsty barbarian” who once had the tongue of a Roman satirist who in-
sulted him cut out and nailed to his severed hand.
Tall, with massive shoulders tapering to a wasp waist, the warrior
prince merged a sophisticated intellect with a sociopath’s penchant for
unspeakable violence. Appointed a cardinal as a teenager, he renounced
his crimson robes at age twenty-two to replace his murdered brother as
gonfaloniere and captain-general of the Papal States. (He remained the
prime suspect in the assassination.)
(Dianne Hales, Mona Lisa : A Life Discovered, Simon & Schuster, 2014, p.149.)

【単語】
rode    (v.)<rideの過去 ride(vi., vt.)乗る
triumph  (n.)勝利、得意の様子 in triumph意気揚々と
beheld  (v.) <beholdの過去分詞 behold (vt., vi.)(じっくり)見る、注視する
imposing (a.)堂々とした
matchless  (a.)無数の、無比の(unparalleled)
for one’s part 自分としては、自分に関する限り(as far as one is concerned)
blood-thirsty (a.)血に飢えた、残虐な
satirist   (n.)風刺作家、皮肉屋
insult   (vt.)侮辱する
cut out   切取る、切離す
nail    (vt.)釘を打つ (n.)釘、つめ
sever   (vt.)分離(切断)する
taper   (vi., vt.)次第に細くなる[する] (cf.) tapering (a.)先細の
wasp   (n.)スズメバチ →wasp waist (コルセットなどで締めつけた)とても細い腰
     (cf.) wasp waisted (a.)細腰の
merge  (vt.)溶け込ませる、合併する
sociopath (n.)[精神医学]反社会的行為者(psychopath)
penchant  (n.)(フランス語より)(他人には好まれない)強い好み、趣味、傾向(for)
unspeakable (a.)言うに言われない、言語道断な、ひどい
cardinal   (n.)[カトリック]枢機卿(深紅色の衣・帽子を着ける)、緋色 (a.)主要な、緋色の(scarlet)
renounce  (vt., vi.)放棄する、捨てる
crimson  (n., a., vt., vi.)深紅色(の)[にする、なる]
replace   (vt.)取って代る、交代させる
murder  (vt.)殺害する
gonfaloniere (イタリア語 ゴンファロニエーレ)「旗手」
 ルネッサンス期のイタリアで用いられた政治的な称号。集団のリーダーが就任する職であり、その集団の旗を指すイタリア語gonfalone(ゴンファローネ)に由来する。
つまり、中世イタリアの都市国家における最高執政官の称号。一般には中世ヨーロッパにおいて軍旗あるいは国旗の守護者をさしたが、フィレンツェその他のイタリア都市では、市政上の特別の機能を有した。
captain-general  (n.)[軍事]総司令官、提督
the Papal States 教皇領(教皇が統治した中部イタリアの地域[752年~1870年])

≪訳文≫
レオナルドとチェーザレ・ボルジアの出会いは、1499年のミラノが最初だったと思われる。ローマ教皇庁軍を代表するボルジアはフランス王ルイ12世とともに戦勝側として制圧したミラノに乗り込んだ。そこでボルジアは、レオナルドの数々の名作を目にした。騎馬像の粘土模型や、「最後の晩餐」、およびレオナルドが設計した砦や兵器などだ。レオナルドのほうでも、教皇アレクサンデル6世の息子で「蛮勇」を振るうチェーザレ・ボルジアの風評は聞き及んでいたに違いない。ローマの辛辣な皮肉屋が彼を批判したというので、この男の舌を切り取り、同じく切断した男の腕に釘で打ち付けた、というエピソードが伝えられている。
 武将チェーザレ・ボルジアは長身で肩幅が広く、腹も締まっており、優れた知性と言語に絶する凶暴で反社会的な悪趣味を合わせ持っていた。10代のうちに早くも枢機卿に任命されたが24歳でその地位を捨て、暗殺された兄に代わって教皇庁軍の旗手になり、提督に昇格した(暗殺の主犯だと見なされている)
(ダイアン・ヘイルズ(仙名紀訳)『モナ・リザ・コード』柏書房、2015年、213頁)

レオナルドとチェーザレ・ボルジアの出会いは、1499年のミラノが最初だったとヘイルズ氏はみている。ボルジアは、騎馬像の粘土模型や、「最後の晩餐」、およびレオナルドが設計した砦や兵器といったレオナルドの名作を目にしたようだ。
教皇アレクサンデル6世の息子であるボルジアの「蛮勇」ぶりを伝えるエピソードも、ヘイルズは書き足している。そして、その容貌と性格についても、的確に叙述している。

ところで、塩野七生氏は、チェーザレ・ボルジアについて、「第九章 チェーザレ・ボルジア」において、次のように述べている

「マキアヴェッリはチェーザレに、自分の夢の具象化を見出したのであろう。美男で鋼鉄製の鞭のような肉体をもち、立居振舞は若さに似ず、威厳と気品にあふれている。愛されるとともに怖れられ、征服した領土には略奪を許さず、ときを置かずに統治の策が実施される。すべての面で従来の考えから自由であり、その一例をあげれば、傭兵制度を信用せず、国民皆兵制度の導入を実行に移しつつある。そして、決断力に富み、武将としても優れ、かつ戦略的頭脳をもち、人の思惑など気にしない貴族主義者。」
(塩野七生『わが友マキアヴェッリ フィレンツェ存亡』中公文庫、1992年、287頁)

マキアヴェッリがその『君主論』で、チェーザレ・ボルジアに、君主の象徴を見たことはよく知られている。塩野氏は、チェーザレ・ボルジアとマキアヴェッリを、「これ以上マキアヴェッリ的な君主もいないと思われる君主と、マキアヴェリズムの創始者」として捉えている。
(塩野、1992年、286頁)

【塩野七生『わが友マキアヴェッリ』はこちらから】

わが友マキアヴェッリ フィレンツェ存亡―塩野七生ルネサンス著作集7―

レオナルドとチェーザレ・ボルジアとの1502年の出会い


レオナルドとチェーザレ・ボルジアとの1502年の出会いについて、ヘイルズ氏は次のように述べている。

At his first meeting with Cesare Borgia in 1502, in a candlelit chamber
in the ducal palace of Urbino, his latest conquest, Leonardo coolly ap-
praised the man once hailed as the most handsome in Europe. Three red
chalk sketches capture his first impressions of his new patron: a jowly
face, coarsened features, heavy-lidded eyes. A thick beard covered the
pustules caused by syphilis, the “the French disease” that had spread through
the peninsula after Charles VIII’s invasion. By day Cesare took to wear-
ing a black mask.
It’s not clear exactly how Leonardo ended up in Cesare’s employ. Per-
haps the Florentine Republic volunteered his services as a token of good-
will to a predatory tyrant who posed a constant threat to its security.
Perhaps Il Valentino simply demanded the expertise of the man he con-
sidered the most brilliant engineer of his day.
(Dianne Hales, Mona Lisa : A Life Discovered, Simon & Schuster, 2014, p.150.)

【単語】
candlelit  (a.)ろうそくの明かりで照らされた
ducal   (a.)公爵(duke)の
coolly  (ad.)涼しく、冷静に
appraise (vt.)評価する
haile  (vt., vi.)~と呼んで迎える、称賛する
jowly  (a.)あごの
coarsen (vt., vi.)粗野にする[なる]
lidded  (a.)[複合語で]~のまぶたの
beard   (n.)ひげ
pustule  (n.)(医学)膿疱、いぼ
syphilis  (n.)梅毒
peninsula  (n.)半島
by day  昼[日中]は
end up   ついには~することになる、最後には~に落ち着く、ことになる
volunteer  (vt.)自発的にする
as a token of  ~のしるし[証拠]に
goodwill  (n.)好意、親善、友好
 (cf.) promote goodwill between Japan and the USA 日米の友好を促進する
   pay a goodwill visit to Norway  ノルウェーに親善訪問をする
predatory  (a.)略奪する(predacious)
tyrant   (n.)暴君
expertise  (n.)専門的技術、熟練
brilliant  (a.)輝かしい、立派な、才気縦横の

≪訳文≫
レオナルドは1502年、チェーザレ・ボルジアが制圧したばかりのウルビーノで、はじめて会った。場所は公爵の館で、ロウソクの灯った部屋だった。ボルジアはヨーロッパきっての美男子ともてはやされることもあるが、レオナルドは冷静に対応した。赤いチョークでスケッチした三枚の絵が残っていて、それがボルジアの特徴を捉えている。尖ったあご、荒々しい風貌、まぶたがくっきりと深い目だ。濃いひげが、梅毒(「フランス病」と言われた)でできたあばたを隠している。この病は、シャルル八世のイタリア侵略以来、イタリア半島に蔓延していた。やがてボルジアは、黒いマスクで顔を覆うことになった。
 どのような経緯で、レオナルド・ダヴィンチがボルジアの下で働くことになったのかは、定かではない。一つ考えられるのは、フィレンツェは凶暴な暴君チェーザレ・ボルジアが侵略してくる気配が濃厚なため、懐柔策の一環としてレオナルドを親善大使として派遣することにしたという説。あるいは逆に、ボルジアのほうで、当代きっての優れたエンジニアと目されていたレオナルドを所望したという見方もある。
(ダイアン・ヘイルズ(仙名紀訳)『モナ・リザ・コード』柏書房、2015年、215頁)

レオナルドとチェーザレ・ボルジアは、1502年、ウルビーノで、はじめて会ったようだ。赤いチョークでスケッチしたレオナルドの絵が残っている。尖ったあご、荒々しい風貌、まぶたがくっきりと深い目といった、ボルジアの特徴を捉えている。
なお、ヘイルズ氏は、ボルジアが黒いマスクで顔を覆うことになった理由についても触れている。そして、レオナルド・ダ・ヴィンチがボルジアの下で働くことになったのかは、定かではないと断りつつ、二つの説を紹介している。

チェーザレ・ボルジアとレオナルドとマキアヴェッリ


チェーザレ・ボルジアの下で働くことになったレオナルドについて、ヘイルズ氏は次のように叙述している。

The morning after their meeting in Urbino, Cesare Borgia disappeared.
“Where is Valentino?” Leonardo asked in his notebook.
The dark prince had absconded to Asti to meet with King Louis XII
of France, leaving a letter, a passport of sorts, that opened all doors to
“our most excellent and most dearly beloved friend, the architect and gen-
eral engineer Leonardo da Vinci… commissioned to inspect the build-
ings and fortresses of our states.” In a sartorial tribute, Cesare presented
him with one of his capes, long and green, cut “in the French style.”
Wrapped in this smart cloak, Leonardo threw himself into his as-
signment with the vigor of a man half his age. Rising with the dawn, he
rode through Cesare’s newly occupied territory. At each thick, castellated
fortress wall, he held up his quadrant to measure its height and peered
through his thick-rimmed round spectacles to record his observations
more precisely. The meticulous engineer paced out the length of moats
and inner courtyards and checked with his compass the direction of
nearby towns. Every now and then he paused to make a quick sketch in a
palm-sized notebook hanging from his belt.
In October 1502, the priors of Florence’s ruling Signoria, anxious for
news, dispatched their most adept diplomat to Borgia headquarters in
Imola: thirty-three-year-old Niccolo Machiavelli, a small-boned man
with short chestnut hair, a pert nose, and a smirk he couldn’t quite dis-
guise. Like many, I had thought of Machiavelli solely as a writer whose
name served as a byword for political cunning. But for fourteen years, the
devoted civil servant held various diplomatic and administrative roles in
his hometown, including Second Chancellor of the Florentine Republic.
Machiavelli, the political mastermind, and Leonardo, the polymath ge-
nius, holed up for the winter truce in Imola’s ducal palace. I imagine the
two cervelloni (“big brains” or intellectuals) passing long evenings before a
blazing fire, glasses of vin santo in their hands, talking late into the night
about all manner of things. Leonardo, his eyes weary after a day of work-
ing on an intricate map of Imola, would have appreciated Machiavelli’s
sharp eye and even sharper tongue.
(Dianne Hales, Mona Lisa : A Life Discovered, Simon & Schuster, 2014, pp.151-152.)

【単語】
abscond  (vi.)逃亡する、姿をくらます
of sorts  おそまつな、一種の、いわば
commission (vt.)委任(任命)する
inspect   (vt.)調べる、視察する
sartorial  (a.)仕立(屋)の
tribute   (n.)みつぎ物、贈り物
cape   (n.)肩マント、ケープ
wrap   (vt., vi.)包む、おおう
cloak  (n.)外とう、マント
throw  (vt.)注ぐ、(金・精力を)注ぎ込む(into, at)
assignment (n.)割当 ≪米語≫任務
vigor    (n.)活気、精力、活力
rode   <(v.)rideの過去 ride (vi.)(馬などに)乗って行く
castellated  (a.)城郭風の、城の多い
held up   <hold up 持ち上げる
quadrant   (n.)四分儀、四分円
peer    (vi.)じっと見る(at, into, through)
meticulous  (a.)いやに念入りな、細部に気を配った
pace   (vt.)歩測する(out)
now and then  ときどき(occasionally)
prior  (n.)修道院の副長、小修道院長、[古]プライア(中世フィレンツェ共和国などの行政府の長)
dispatch  (vt., vi.) 急派する、派遣する
chestnut  (n., a.)クリ色(の)
pert    (a.)なまいきな、粋な、小ぶりな
smirk   (n., vi., vt.)にやにや笑い[う]
disguise  (vt.)変装する、見せかける、(感情を)偽る
solely   (ad.)単に、全く
byword   (n.)悪例、決まり文句、代名詞
mastermind (n.)指導者、主謀者
polymath   (n.)博識家
truce    (n.)休戦、中止
cervelloni  →(イタリア語)(cf.)cervello[チェルヴェッロ]脳みそ
intricate  (a.)入り組んだ、複雑な
appreciate  (vt., vi.)評価する、正しく理解する、~のよさを味わう

≪訳文≫
ウルビーノで話し合った翌日から、イル・ヴァレンティーノことチェーザレ・ボルジアの所在が分からなくなった。
「ヴァレンティーノは、どこに行ってしまったんだ?」
と、レオナルドはノートに記している。
 神出鬼没のボルジアは、フランス王ルイ12世に会うため、密かにイタリア北部のアスティに赴いていた。だが、レオナルド宛ての手紙と、パスポート的な書類が用意されていた。レオナルドに対する呼びかけの賛辞として、「最も才能に溢れた親愛なる友、建築家であり、万能エンジニアのレオナルド・ダヴィンチへ」とあり、「わが領土内の建造物、城砦への立ち入りを許可」するという通行証を添付していた。支給衣類としては、自分の持ちものだったフランスふうの長くて緑色のケープを分け与えた。
 レオナルドはこの見栄えのいいコートを羽織り、自分の半分ほどの年齢の若いボルジアのために、張り切って仕事に取り組むことにした。夜明けとともに起き、ボルジアが新たに領土に加えた場所を、ウマに乗ってまず視察することから始めた。城砦の厚くて凹凸のある壁を、四分儀という機械を使って高さを測り、厚い縁の丸眼鏡で子細に観察し、その結果と感想をノートに記載した。レオナルドは几帳面なエンジニアだったから、壕の長さや中庭の広さを歩測で計測し、近くの町の方角を磁石で確認した。ところどころで足を止め、ベルトにぶら下げた手のひらサイズのノートにスケッチした。
 1502年10月、フィレンツェの最高議決機関シニョリーアの幹部たちは、異変に気づいて心配になったため情報を伝えようと、イモーラにあるボルジアの司令部に使者を送った。派遣されたのは、33歳のニッコロ・マキアヴェッリだった。痩せた小男で、短い茶色の髪、小さくまとまった鼻、つねにニヤついたような表情を見せている男で、変装はしにくい。多くの人が彼は著作に励んだ思想家だと認識しているのではないかと思うし、私も同じだった。マキアヴェッリの名前は政治的な陰謀を企てる権謀術数の代名詞だからだ。ところが実は、彼は14年にわたってフィレンツェで公務員をやっていて、副市長格まで務めた官吏だった。

政治的な画策を得意とするマキアヴェッリと、博識な天才レオナルド・ダヴィンチという二人の「知の英雄」は、冬の城砦で暖炉を囲みながら、食後酒ヴィンサントを注いだワイングラスを手に、夜も遅くまで話し合ったのではないかと思う。レオナルドは昼間にイモーラの地図づくりの仕事をやってくたびれていたが、マキアヴェッリの熱のこもった眼差しと、それ以上に熱心な口調で気を引き締められた。
(ダイアン・ヘイルズ(仙名紀訳)『モナ・リザ・コード』柏書房、2015年、216頁~217頁)

チェーザレ・ボルジアの下でのレオナルドの仕事ぶりを列挙してみると、次のようになる〇ボルジアが新たに領土に加えた場所を、ウマに乗ってまず視察する
〇城砦の厚くて凹凸のある壁を、四分儀という機械を使って高さを測る
〇厚い縁の丸眼鏡で子細に観察し、その結果と感想をノートに記載する
〇壕の長さや中庭の広さを歩測で計測し、近くの町の方角を磁石で確認し、ノートにスケッチする

一方、1502年10月、フィレンツェの最高議決機関シニョリーアの幹部たちは、イモーラにあるボルジアの司令部に使者を派遣した。その人物こそ、33歳のニッコロ・マキアヴェッリであった。その容貌について、ヘイルズ氏の描写が興味深い。
「痩せた小男で、短い茶色の髪、小さくまとまった鼻、つねにニヤついたような表情を見せている男で、変装はしにくい」という。
マキアヴェッリといえば、政治的な陰謀を企てる権謀術数の代名詞といったイメージが強いが、実は、14年にわたってフィレンツェで公務員をやっていて、副市長格まで務めた官吏だった。

マキアヴェッリと、レオナルド・ダヴィンチという「知の英雄」が、冬の城砦で暖炉を囲みながら、食後酒ヴィンサントを手に、夜も遅くまで話し合ったのではないかとヘイルズ氏は想像している。

マキャヴェリと『君主論』


その後のマキアヴェッリの辿った生涯と『君主論』についても、解説しておこう。
『君主論』の訳者池田廉氏は、1513年の連座事件について説明している。つまりマキアヴェリは、反メディチ派の陰謀が発覚して、まきぞえを喰ったという。
実際、陰謀家が将来味方についてくれそうな人物を物色して、マキアヴェリの名前をメモに残していて起きたことだったようだ。「バルジェッロの庁舎」と呼ばれる公安局の牢獄に入れられ、縄で吊るされて拷問にあったという。明らかに冤罪ではあったが、釈放は2週間後だった。
それも、教皇ユリウスが永生きしていたら、その獄中生活はさらに長引いただろう(ユリウスは、教皇の平均在位期間10年を終えるとあっけなく急逝した)。
メディチ家出身のジョヴァンニ(前回のブログで言及したジュリアーノの兄)が、新教皇レオ10世になると、大赦令が出て出獄が許された。
マキャヴェリは、近郊のサンタンドレア・イン・ペルクッシーナの父の山荘に引きこもった。両親はすでに亡く、家庭には妻と10歳にも満たない息子たちがいた。当時の生活の模様は、親友ヴェットーリ宛ての手紙(『書簡集』1513年12月10日付)に詳しいという。
通説によれば、マキャヴェリは一気呵成に、1513年7月から12月にかけて、わずか5カ月のうちに、『君主論』を書き上げたとされる。
(マキアヴェリ(池田廉訳)『君主論』中公文庫、1975年[2002年版]、219頁~221頁)

【マキアヴェリ(池田廉訳)『君主論』中公文庫はこちらから】

君主論 - 新版 (中公文庫)

この1513年の連座事件について、ヘイルズ氏も次のように言及している。

In his bucolic refuge outside of Milan, Leonardo might not have heard of
the assassination plot against Giuliano de’ Medici that was uncovered in
February 1513. One of the captured conspirators, bargaining for his life,
produced a list of twenty leading citizens likely to support the rebels if
they had succeeded. Among those named was Leonardo’s former com-
panion and colleague Niccolo Machiavelli, who was flung into jail and
tortured with six excruciating drops from the dread strappado.
“I have borne them so straightforwardly that I love myself for it and
consider myself more of a man than I believed I was,” Machiavelli later
wrote to a friend. But he also realized that any admission of guilt would
have meant an immediate death sentence ― the fate of two others charged
in the conspiracy.
Begging Giuliano de’ Medici, as town governor, for mercy, Machiavelli
composed a poem that describes “the pain of six drops clawing into my
back” and prison walls crawling with lice “so big and fat they seem like but-
terflies.” If Giuliano ever saw the verse, he ignored it. Machiavelli remained
in the “stomach-turning, suffocating stench” of his vermin-ridden cell.
(Dianne Hales, Mona Lisa : A Life Discovered, Simon & Schuster, 2014, p.198.)

【単語】
bucolic  (a.)いなか[田園]の
assassination (n.)暗殺
plot    (n.)陰謀、(小説の)筋、プロット
uncover  (vt.)おおいを取る、暴露する
conspirator (n.)共謀者
bargain for   ~を期待する、~を当てにする
companion (n.)連れ、友人
colleague  (n.)同僚、仲間
flung    <(v.)flingの過去分詞 fling(vt.)投げる、(人を獄に)ぶち込む
torture   (vt.)拷問にかける
excruciating  (a.)ひどく痛い、苦しめる
strappado  (n.)つるし刑(昔の刑罰・拷問;罪人[容疑者]をロープでつり上げたのち落とし、地面に落ちる直前で止める刑)
borne   <(v.)bearの過去分詞 bear(vt.)耐える
straightforwardly  (ad.)まっすぐに、正直に
admission  (n.)入場、承認、自白 (cf.)admission of guilt 罪の自白
sentence   (n.)文、判決 (cf.)death sentence 死刑
conspiracy  (n.)共謀、陰謀
beg    (vt., vi.)請う(for)、物ごいをする
mercy   (n.)慈悲、あわれみ、(死刑予定者に対する減刑による)赦免の処分
claw    (vt., vi.)(つめで)かく  (n.)(鳥獣の)つめ、(カニの)はさみ
crawl   (vi.)はう
verse   (n.)詩の一行、(詩の)節
suffocate  (vt.)窒息させる、呼吸困難にする
stench  (n.)悪臭
vermin  (n.)害虫(ノミ、シラミなど)
ridden  (v.)rideの過去分詞「捕らわれた、とりつかれた」の意の結合辞を作る (a.)~に悩まされた、苦しめられた
cell   (n.)小室、独房、細胞

≪訳文≫
ミラノ郊外の田園に逃避していたレオナルドは、1513年2月に発覚したジュリアーノの暗殺計画は耳にしていなかったかもしれない。逮捕された共謀者の一人は、命と引き替えに反逆者たちがもしも成功した場合、彼らを支持してくれそうな20人の市民リーダーの名簿を用意した。その名前のなかには、レオナルドの以前の友人で仲間だったニッコロ・マキアヴェッリも入っていて、彼は投獄され、恐ろしい吊るし刑の拷問を6回も体験させられる責め苦を味わった。これは後ろ手に縛られて宙吊りにされて落下させられるバンジージャンプ的な刑だ。
 「私はその試練を耐えた自分自身がいとおしく、自分が考えていたよりはるかに立派な男だと考える」とマキアヴェッリはのちに友人に書き送っている。彼は、罪を認めればすぐに処刑になると認識していたからだ。ほかの二人は、罪を認めたために処刑された。
 都市国家の統治者であるジュリアーノにマキアヴェッリは刑の軽減を嘆願する一方で、「私の背中に傷みをもたらした6回の吊るし刑」と「大きく太ってまるでチョウのような」シラミが這っている獄中の壁を描く詩を創った。もしジュリアーノがこの詩を見たとしても、彼は無視したことだろう。マキアヴェッリは、ノミやシラミだらけの小部屋の「胃がねじれて息が詰まりそうな悪臭」のなかに閉じ込められたままだった。
(ダイアン・ヘイルズ(仙名紀訳)『モナ・リザ・コード』柏書房、2015年、279頁)

1513年2月に発覚したジュリアーノの暗殺計画に連座して、逮捕されたマキャヴェリの獄中の模様を、ヘイルズ氏は、資料を用いて、よりリアルに描写している。
さらに、続けて、マキャヴェリが『君主論』執筆にいたった経緯について、次のように述べている。

As part of its boundless exultation, the town granted amnesty to all
prisoners. Blinking in the brightness of the day, Machiavelli limped past
the jubilant crowds into lifelong exile on a small family property in the
countryside seven miles south of Florence. He would loathe every minute
of his banishment.
“Caught in this way among the lice,” the political mastermind wrote,
“I wipe the mold from my brain and relive the feeling of being ill-treated
by fate.” That fall, drawing on the experience he had shared with Leo-
nardo during Cesare Borgia’s bloody campaign, he began a treatise that,
as one of my college professors liked to quip, “put the science in political
science.” In a burst of inspired writing, Machiavelli finished The Prince by
the end of 1513. (Although copies of the manuscript circulated for years,
the book itself wasn’t published until 1532.)
The author initially intended to dedicate the work to Giuliano de’
Medici, a gesture that he hoped might ingratiate him to the new regime.
But once again, fate didn’t turn out the way he had hoped. The new Pope’s
brother had decamped for Rome.
(Dianne Hales, Mona Lisa : A Life Discovered, Simon & Schuster, 2014, pp.199-200.)

【単語】
boundless  (a.)限りない
exultation  (n.)歓喜、有頂天
amnesty   (n., vt.)大赦(する)
Blink   (vi., vt.)まばたきする[させる]
limp   (vi.)足を引きずって歩く、よろめいて歩く
past   (prep.)[時]~を過ぎて [場所]~のそばを通り過ぎて
jubilant  (a.)喜びに満ちた、歓声をあげる
crowd  (n.)群集、人込み
lifelong  (a.)一生続く、終生の
exile    (n.)追放、流刑
property   (n.)財産、所有地
loathe   (vt., vi.)ひどくきらう
banishment (n.)追放(期間)
mastermind (n.)すぐれた指導者、主謀者
mold   (n.)型、かび
relive   (vi.)生き返る (vt.)再び体験する、追体験する
ill-treat  (vt.)冷遇[虐待]する
treatise   (n.)論文
quip    (vt., vi.)皮肉を言う、からかう
burst   (n.)破裂、突発
circulate  (vi., vt.)めぐる[らす]、流布する[させる] (~の間に)読ませる
initially  (ad.)最初に
dedicate  (vt.)捧げる、(自著を)献呈する
gesture  (n.)身ぶり、宣伝的行為
ingratiate (vt.)気に入るようにする
decamp  (vi.)野営を引払う、逃亡する

≪訳文≫
 お祝いの一環として、すべての囚人が恩赦を受けた。陽光のまぶしさに目をしばたたきながら、マキアヴェッリは歓喜に満ちた人混みのなかを、足を引きずりながら通り過ぎ、フィレンツェの南10キロあまりの田舎の小さな終(つい)の棲家(すみか)に戻った。彼はこの受刑体験にうんざりしていたことだろう。
彼は、次のように書き残している。
「このようなシラミとの共同生活で、私は脳を抜き取られた状態で、運命によって不当な扱いを受けた体験を悔やんでいる」
 その秋、チェーザレ・ボルジアの血なまぐさい戦争の最中、レオナルドとともに体験した状況をマキアヴェッリは論文にまとめ始めた。私の恩師である大学教授の一人が皮肉っていたが、うっぷんを晴らすかのようにマキアヴェッリは、「政治学のなかに科学を投入して政治科学を創設」した。マキアヴェッリは1513年の末ごろ『君主論』を書き上げた(原稿は数年にわたって回し読みされたが、本としては1532年まで刊行されなかった)。
 彼はこの著作をジュリアーノに献呈するつもりだったが、彼の本音は、新政権に気に入られたいという期待感だった。だがまたもや、運命は彼が望んだ方向には動かなかった。新教皇の弟ジュリアーノは、密かにローマへ逃亡してしまったからだ。
(ダイアン・ヘイルズ(仙名紀訳)『モナ・リザ・コード』柏書房、2015年、280頁~281頁)

マキャヴェリは、恩赦を受けて、フィレンツェの南10キロあまりの田舎の終の棲家に戻った。彼はこの受刑体験にうんざりしつつ、1513年の秋、チェーザレ・ボルジアの血なまぐさい戦争の最中、レオナルドとともに体験した状況をマキアヴェッリは論文にまとめ始めたとヘイルズ氏はみている。
(ヘイルズ氏の恩師によれば、マキアヴェッリは、「政治学のなかに科学を投入して政治科学を創設」したという)
マキアヴェッリは1513年の末ごろ『君主論』を書き上げた(原稿は数年にわたって回し読みされたが、本としては1532年まで刊行されなかった)。
 マキャヴェリはこの著作をジュリアーノ(前回のブログで言及したリサと同い年のメディチ家のジュリアーノ)に献呈するつもりだったようだ。
ちなみに、その年1513年9月24日、レオナルドは、ジュリアーノ・デ・メディチに取り立てられ、ローマに向かい移住するが、1516年3月17日、ジュリアーノ・デ・メディチは死去してしまう。そしてその年の秋、64歳のレオナルドはフランス国王フランソワ1世の庇護でフランスに移住することになる。
(ダイアン・ヘイルズ(仙名紀訳)『モナ・リザ・コード』柏書房、2015年、282頁~293頁参照のこと)


≪西岡文彦『二時間のモナ・リザ』を読んで 【読後の感想とコメント】その12≫

2020-12-23 18:30:16 | 私のブック・レポート
≪西岡文彦『二時間のモナ・リザ』を読んで 【読後の感想とコメント】その12≫
(2020年12月23日投稿)

 【西岡文彦『二時間のモナ・リザ―謎の名画に全絵画史を読む』はこちらから】

二時間のモナ・リザ―謎の名画に全絵画史を読む



【はじめに】


前回のブログまでは、「モナ・リザ」の制作年代について、ダイアン・ヘイルズ氏の著作を紹介してきたが、今回のブログでは、正式にその内容を紹介してみたい。
 その構成に沿った形で、ゲラルディーニ家、ダティーニ夫妻の生涯、リサ・ゲラルディーニの祖父と父親、ダ・ヴィンチ家とレオナルド、リサとジュリアーノに焦点をしぼって、述べてみたい。

〇Dianne Hales, Mona Lisa : A Life Discovered, Simon & Schuster, 2014.
〇ダイアン・ヘイルズ(仙名紀訳)『モナ・リザ・コード』柏書房、2015年

【Dianne Hales, Mona Lisa : A Life Discoveredはこちらから】

Mona Lisa: A Life Discovered

【ダイアン・ヘイルズ『モナ・リザ・コード』はこちらから】

モナ・リザ・コード




さて、今回の執筆項目は次のようになる。


・ダイアン・ヘイルズ氏の著作と訳者の紹介
・「モナ・リザ」モデル問題に対するヘイルズ氏の見解
・フィレンツェにおけるリサ・ゲラルディーニのゆかりの場所
・ゲラルディーニ家について
・ダティーニ夫妻の生涯の一端
・リサ・ゲラルディーニの祖父と父親
・ダ・ヴィンチ家とレオナルド
・リサとジュリアーノ






ダイアン・ヘイルズ氏の著作と訳者の紹介


「著者ノート(AUTHOR’S NOTE)」(11頁~13頁)にも著者ダイアン・ヘイルズ氏自身が記しているように、この本は名画「モナ・リザ」のモデルが、イタリア・フィレンツェの絹商人フランチェスコ・デル・ジョコンドの妻リサ・ゲラルディーニ(1479~1542)であるという前提にまとめられている。
「モナ・リザ」という絵のことは、だれもが知っている。しかし、リサ・ゲラルディーニが、どのような女性であるのかを知っている人はほとんどいない。

この女性のことを追いかけるために、些細な事実でも拾い上げようとしたとヘイルズ氏は述べている。絵画や歴史ばかりでなく、社会学、女性学などの分野のエキスパートから話を聞いている。学術書はもちろん古文書までひもといたそうだ。そして、ジャーナリストとして、記者魂の大原則(現場を足で歩く)[a reporter’s most timeless and trustworthy tool: shoe leather]を実践したと自負している。

リサ・ゲラルディーニという普段着の生身の女性は、歴史からちっぽけな存在である。しかし、一般市民レベルのほうが、時代の状況を正しく反映しているといわれる。つまり、凡人のほうが、世の中の姿を映し出す鏡の役割を果たしている。
リサ・ゲラルディーニは、古くからの名門ゲラルディーニ家に、フィレンツェで生まれた。15歳で、年齢が倍も違うやり手の商売人と結婚し、6人の子どもを産み、享年63歳で亡くなっている。彼女が生きた時代は、フィレンツェの歴史の中でも、激動期だった。政争の時代を生き、目覚ましい芸術作品を生んだルネサンス期を体験し、経済的な繁栄と破綻をくぐり抜けてきた。リサは西欧文明の黎明期を生きた。

この本には、衣服、家屋、祭り、日常的な風習など、リサが生きていた時期の習慣も書き込まれている。そして娘、主婦、母親、女あるじとしての女性の生き方を、立体的に描いている。

さて、ダイアン・ヘイルズ(Dianne Hales)氏は、アメリカのカリフォルニア州在住のノンフィクション・ライターである。
「ニューヨーク・タイムズ」などのさまざまな新聞・雑誌に寄稿し、「レディーズ・ホーム・ジャーナル」などの編集にもたずさわっているそうだ。
前著『世界で最も美しい言語・イタリア語(La Belle Lingua : My Love Affair with Italian, the World’s Most Enchanting Language)』で、イタリア大統領から名誉勲章を贈られたという。
一方、訳者の仙名紀(せんな おさむ)氏は、1936年東京生まれの翻訳家である。上智大学新聞学科卒業後、朝日新聞社に入社し、主として出版局で雑誌編集にたずさわったという。訳書に、『文明』(N・ファーガソン、勁草書房、2012年)などがある。

訳者仙名紀氏の「訳者あとがき」(363頁~365頁)によれば、ダイアン・ヘイルズ氏の本書を次のように評している。
「この本の著書ダイアン・ヘイルズが私と同じくジャーナリストで、「これでもか」という徹底的な掘り下げ取材で、中世ルネサンス期のフィレンツェを浮き彫りにしようという姿勢と努力に、共感した」(363頁)
著者ダイアン・ヘイルズ氏はアメリカのジャーナリストであるが、中世ルネサンス期のフィレンツェを徹底的に掘り下げて調べあげ、その像を浮き彫りにしようとしている。

この本は、三本柱で構成されている。
① 名画「モナ・リザ」のモデルとして最有力視されているリサ・ゲラルディーニという「微笑」の持ち主。その個人情報ばかりでなく、彼女の家系ゲラルディーニ家の系譜
② それに夫である裕福な絹商人フランチェスコ・デル・ジョコンドの家系
③ それに絵画の作者レオナルド・ダ・ヴィンチの系譜
以上の三本である。訳者仙名氏は、さらに一本柱を加えて、四本柱だという。
④ 著者ダイアン・ヘイルズが、現代のリサーチャーとして割り込んできて、得意のイタリア語でインタビューをし、古文書まで読み込んでいること
これら四本柱が小説ではなく、実録の「モナ・リザ・コード」とも言えそうな謎解きの面白さを立体的に構成していると仙名氏は絶賛し、「この本には、入れ込んでしまった」と述懐している。

ちなみに、【目次】は次のようになっている。


ダイアン・ヘイルズ(仙名紀訳)『モナ・リザ・コード』(柏書房、2015年)
【目次】
著者ノート
1 これぞ生身のモデル
第Ⅰ部 ゲラルディーニ家の血筋(紀元前59~1478)
2 心の炎
3 顔のない声
4 「だれが幸せになれるか......」
第Ⅱ部 フィレンツェのある女性(1479~99)
5 ルネサンス期の娘
6 金銭と美貌
7 結婚仲介業
8 商人の妻
第Ⅲ部 新しい世紀(1500~12)
9 新時代の始まり
10 肖像画の制作が進行中
11 家族の事情
第Ⅳ部 メディチ家の勝利(1513~79)
12 立ち上がるライオン
13 死の大海
第Ⅴ部 世界で最も有名な絵画
14 マダム・リサの冒険
15 最後の微笑
訳者あとがき
関連年表





さて、モナ・リザのモデルと目されるリサ・ゲラルディーニは、500年も前の人物であるが、ダイアン・ヘイルズ氏の言う「生身の人間」として3D的に存在している。そして当時の風習や環境や文化が、この本では細かく再現されている。
すばらしい芸術が開花したフィレンツェ黄金時代のリプレーが紙の上で展開されている。
訳者仙名氏の印象としては、「モナ・リザ」のモデルとされるリサ・ゲラルディーニは、「とってもいい人」であるとする。肖像画では語りかけたいような口元を見せている。しゃべってはくれないので、タイムスリップして会ってみたいという。レオナルド・ダヴィンチという天才も、「いい人」だと思えるそうだ。ただ、天才の気まぐれがあって、付き合いにくいかもしれない。
ただ、「いい人じゃない」人物も、あまた出てくる。悪名高いチェーザレ・ボルジア、狂気の修道士ジローラモ・サヴォナローラなど。

この本の魅力は、スタティックな「モナ・リザの履歴書」に終わっていないところであると訳者仙名紀氏は強調している。
(アメリカでは、この本は高く評価され、アマゾンUSの「ベストブック・オブ2014」の100冊のうちの1冊に選ばれた)
(ダイアン・ヘイルズ(仙名紀訳)『モナ・リザ・コード』柏書房、2015年、363頁~365頁)

※この訳本に対するコメントを記しておくと、訳文は読みやすい。
「主な登場人物」「モナ・リザ家系図」「モナ・リザの時代のフィレンツェ地図」そして巻末には「関連年表」もきちんと訳出されている。ただ、訳本は、原書に付された註釈、参考文献がすべて省略され、索引がないのが惜しまれる。また、原書も訳本も美術書ではないので、レオナルドやラファエロなどの図版がないのも残念である。
なお、訳本には、数字などに若干の誤植があり、注意を要する。

「モナ・リザ」モデル問題に対するヘイルズ氏の見解


ヘイルズ氏も、「モナ・リザ」のモデルについて、一通り触れている。たとえば、レオナルドの母のイメージではないかとするフロイト説、自画像説、助手のサライ説などである。
しかし、リサ・ゲラルディーニだという見方は、長いこと有力だったが、この可能性が次第に高まってきたことを強調し、この本の大前提としている。
やはり、この10年(ママ)ほどの間に発見された、先の16世紀の書物の欄外メモを重視する。つまり、フランチェスコ・デル・ジョコンドの妻の肖像画のことや日付が書き込まれている点を証拠とみなす。

この芸術作品のモデル探しなど、本質的な問題ではないという人もいる。名画「モナ・リザ」のすばらしい美しさは、モデルがだれであるかという問題を超越しているとする意見にもうなずける。
しかし、ヘイルズ氏は、リサ・ゲラルディーニの実像を探り出せば、この肖像画を鑑賞するに当たって新たな次元を付け加えてくれることになると主張している。ヘイルズ氏自身も、「モナ・リザ」の見え方が以前とは変わってきたと述懐している。
むかし「モナ・リザ」を見たときには、憂いを含んだ微笑みを眺めても、絵は無言だったそうだ。ところがいまでは、フィレンツェ生まれのルネサンス期の絹商人の妻という姿が見えてくる。そして、愛すべき母親、敬虔なクリスチャン、しっかりした自我を持った像もうかがえるという。

ちなみに、英文では次のように述べている。
The Mona Lisa, I agree, ultimately remains what it is: a masterpiece
of sublime beauty. Ant yet my quest to discover the real Lisa Gherar-
dini has added new dimensions to my appreciation of the portrait. Once
I saw only silent figure with a wistful smile. Now I behold a daughter
of Florence, a Renaissance woman, a merchant’s wife, a loving mother, a
devout Christian, a noble spirit.
(Dianne Hales, Mona Lisa : A Life Discovered, Simon & Schuster, 2014, p.9.)

また、額縁の外で展開されたリサの実像を知ると、次のようなことが可能になるという。
・中世と現代を隔てている壁を取り払うことができる
 (opens a window onto a time poised between the medieval and the modern)
・栄華をきわめていたフィレンツェの華やかな鼓動も感じられる
 (a vibrant city bursting into fullest bloom)
・人間の可能性を大きく押し広げた文化の様相も分かってくる
 (a culture that redefined the possibilities of man ― and of woman)

リサ・ゲラルディーニが亡くなる1542年までに、フィレンツェの黄金時代は過ぎ去ってしまう。20年ほどの間に、デル・ジョコンド家も斜陽になるが、一族の家系図は、連綿と続いている。
(リサの孫娘は次世代を残し、以後、500年あまりにわたって一族は継続している。なかでも著名な一族は、ギチアルディーニ家である。家系研究家のドメニコ・サヴィーニが、リサの末裔を15世代まで詳しく追跡した。2007年に発表)

(ダイアン・ヘイルズ(仙名紀訳)『モナ・リザ・コード』柏書房、2015年、26頁~27頁参照のこと。Dianne Hales, Mona Lisa : A Life Discovered, Simon & Schuster, 2014, p.9.)

フィレンツェにおけるリサ・ゲラルディーニのゆかりの場所


ヘイルズ氏は、フィレンツェの地で、リサ・ゲラルディーニのゆかりの場所を3つ挙げている。
① スグアツァア通り(Via Sguazza)
リサ・ゲラルディーニが生まれた通りであるが、現在は薄汚く、何の痕跡もない

② デラ・ストゥーファ通り(Via della Stufa)
リサ・ゲラルディーニが大人になってから、かなりの時間を過ごしたが、なんの名残もない

③ サントルソラ修道院(the Monastero di Sant’Orsola)
終の棲家(ついのすみか)とした宗教施設だが、なにも残っていない。つまり、リサが人生最後の時期を過ごした宗教施設は、ナポレオンの侵略によって、ほかの修道院と同じ運命をたどり、軒なみ潰されてしまった。
1800年代に入ると、フィレンツェの修道院の跡地は、たばこ工場になり、さらに大学の講堂に転用された。1980年代には、市の警察が軍の兵舎に仕立て直した。サントルソラは破壊こそ免れたものの、荒れるにまかせて放置され、廃墟と化した。また、墓石や墓地の土砂も、埋め立てに使われた。
(修道院の廃墟で、リサの遺品(とりわけ遺骨)が見つかる可能性は低いようだ)

(ダイアン・ヘイルズ(仙名紀訳)『モナ・リザ・コード』柏書房、2015年、347頁~349頁、Dianne Hales, Mona Lisa : A Life Discovered, Simon & Schuster, 2014, p.247.)


ゲラルディーニ家について


ヘイルズ氏は、「第1部 ゲラルディーニ家の血筋(紀元前59~1478)」において、リサ・ゲラルディーニが誕生する1479年より前のゲラルディーニ家の歴史について概説している。

とりわけ、ゲラルディーニ家とダティーニ家のつながりに注目している。
プラートの商人フランチェスコ・ダティーニ(1335~1410)とマルゲリータ(1360~1423)の夫妻は厖大な文字資料を残したことで知られている。
15万通の手紙と500冊あまりの出納帳や販売台帳、300もの捺印証書、何千もの伝票や領収書、小切手類という具合で、18世紀以前のイタリアで個人が残した資料として最大規模に達する。
(イギリスの伝記作家アイリス・オリゴ(イリス・オリーゴとも表記される、1902~88)の作品に、フランチェスコ・ディ・マルロ・ダティーニの生涯を描いた『プラートの商人』(1957年、邦訳は白水社)は有名である)

リサ・ゲラルディーニ(1479~1542)が生まれたのは、マルゲリータ・ダティーニが1423年に死んでから、56年も経ってからである。ただ、このマルゲリータという女性は、実はゲラルディーニ家の出であった。ゲラルディーニ家には、14世紀に暗い歴史があった。マルゲリータの母方の祖父ペリッキアは、マルゲリータが生まれた1360年に、フィレンツェ政府の転覆を図ったかどで、死刑判決を受け、流刑に処せられた(のちに刑は取り消される)。ペリッキアの娘が、ディアノーラ・ゲラルディーニである。その夫が1360年に反逆罪で処刑されてしまうが、同年にマルゲリータが末娘として生まれたのである。
マルゲリータは、1376年に、トスカーナの都市プラートの商人フランチェスコ・ディ・マルロ・ダティーニと結婚したのである。

ところで、マルゲリータが夫に送った手紙は200通を超えるが、そのなかで「私は自分のなかにゲラルディーニ家の血が流れていることを、ひしひしと感じます」と述べている。
妻マルゲリータは、そのころの女性としては異例なことだが、文章の書き方を独習し始めた。それまで夫に手紙を出すときは、代筆を頼んでいた。マルゲリータの自筆の手紙として現存する最も古いものは、1388年、28歳のときのものである。当初の手紙からは、書くことへの挑戦がかなり困難だったことが分かり、努力の跡が見て取れるようだ。筆跡が安定してくるにつれて、マルゲリータの個性あるいはゲラルディーニ家の一員らしさが文面に覗いてくるようになるという。
この点について、ヘイルズ氏はコメントしている。代筆を頼むと、プライバシーを保てないが、そこだけではない。文章の書き方を学ぶと、決然とした姿勢を見せられ、知性と能力があることを実証し、自由な思想と、自由に発言できる女性に変身したことが見せられるとマルゲリータは考えたとヘイルズ氏は推測している。

歴史家バーバラ・タックマンは、マルゲリータを「反乱的な性格を持った若い奥方」と呼んでいる。ヘイルズ氏も、マルゲリータのことば遣いから、ゲラルディーニ家の特色である「激情」が内部で煮えたぎっている様子がうかがえるとする。
生粋のトスカーナ女の特質は、「元気溌剌、知的で、実際的で、エネルギーに満ち、貪欲で意志が強い」とヘイルズ氏は述べている。
マルゲリータについて詳しく知ることができれば、縁者であるリサ・ゲラルディーニについても分かってくるのではないかという見通しを持っている。
そもそも以前から、学者たちの間では、商人の妻であるリサが従来の女性の枠を破ってかなり活発に活動して点に注目すべきだと注意を喚起していた。
そこで、ヘイルズ氏が関心を持ったのは、中世の標準的な女性像の殻からはみ出したリサの「ゲラルディーニ家らしさ」が、レオナルド・ダ・ヴィンチのモデルになることと関係があったのではないか、という点である。リサ・ゲラルディーニは、紙に書いた文字は残していない。つまり、肖像の顔は無言のままだ。逆に、マルゲリータの手紙はたくさん残っているが、顔は不明であると述べている。
(ダイアン・ヘイルズ(仙名紀訳)『モナ・リザ・コード』柏書房、2015年、4頁、53頁~56頁、64頁~65頁参照のこと)

ちなみに、原文には「3 顔のない声(Chapter 3: A Voice Without a Face)」に次のようにある。
Even before I made the connection between
the Gherardini and the Datini, scholars had urged me to learn
more about the exceptionally forthright merchant’s wife whose letters
shattered the silence that had long shrouded women’s lives. But what
intrigues me most about this medieval Everywoman is the “Gherardi-
ni-ness” she shares with Leonardo’s model.
Lisa Gherardini, who left not a single word on paper, forever remains
a face without a voice. Margherita, the prolific correspondent, haunts me
as a voice without a face.
(Dianne Hales, Mona Lisa : A Life Discovered, Simon & Schuster, 2014, p.30.)

また、ヘイルズ氏は、フランチェスコ・ダティーニとマルゲリータの夫妻は、フランチェスコ・デル・ジョコンドとリサ・ゲラルディーニ夫妻と重ね合わせられそうな気もするという(そして、現代の夫婦像にも、かなり共通点がある)。
ダティーニは、リサ・ゲラルディーニの夫フランチェスコ・デル・ジョコンドと似たところがある。野心的で強欲で、機を見るのに敏だった。ダティーニは敏腕のやり手で、威張り散らし、買い叩き、法をかいくぐり、限界ぎりぎりまで価格交渉を詰め、ときに難題まで吹っかけた。いわば仕事中毒の商売人であった。つねにテンションが高いけれど、「メランコニア(malinconia: 淋しがり屋)」の面もあった。
一方、マルゲリータは、怒りっぽい夫を「落ち着くことを学びなさいよ」とたしなめ続けた。いわゆる中世の配偶者としては、「従順な妻」という典型から外れていた。彼女も少女時代は短気だったが、やがて自信に満ちた有能な女性に変身し、夫がひんぱんに荒れるので、叱責を繰り返した。マルゲリータは、夫と自分の人生をよい方向に持って行くために努力した。
(ダイアン・ヘイルズ(仙名紀訳)『モナ・リザ・コード』柏書房、2015年、56頁~57頁)

ダティーニ夫妻の生涯の一端

 
このダティーニ夫妻の生涯の一端を紹介しておこう。
家庭内で、ある事件が起きる。
1392年、ダティーニは57歳のとき、20歳の奴隷女性との間に婚外子をもうける。そして、いつもながらの手際のよさを見せて、今回も結婚相手の男性を見つけて、かなりの持参金を付け、奴隷の身を解放してやる。習慣に従って乳母もあてがった。たいていは1年半から2年で乳母は去るのだが、6年もお手伝いとして一緒だった。これもマルゲリータとしては許せなかったようだ。
しかし、1398年、婚外子で6歳になったその子を、里親である乳母が、プラートに連れて来る。その時、マルゲリータは38歳になっていたが、自分が産んだ子どもがいなかったので、許す気になったようだ。自宅で歓待し、まるで自分の子であるかのように、夫の不倫の子に深い愛情を注ぐようになる。

夫のダティーニの方も、その娘のために、1000フローリンの持参金を用意した。これがフィレンツェの裕福な商人にとっての標準額だった。花婿としては、信頼するパートナーの息子を選んだ。
1406年におこなわれた結婚式で、その娘がまとった衣装は、プラートでは史上空前の豪華なものだと噂された。
豪華な式の最後に、トスカーナ地方のしきたりに習って、マルゲリータが花嫁に男の赤ん坊を抱かせ、靴のなかにフローリン金貨を忍ばせた。子宝と富を授かるように、という願いからである。
(リサ・ゲラルディーニの母親も娘のために同じような儀式をやったのではないかとヘイルズ氏は推測している。また、のちにリサ・ゲラルディーニも結婚後に、夫の先妻の男の子バルトロメオを継子として迎えいれている)

その4年後、1410年、夫ダティーニは息を引き取る。その遺言によって「愛する妻」には、年額100フローリンの年金と家屋を残した。そして孫娘が生まれたら、持参金として1000フローリンを持たせることにした。またダティーニの遺言によって、大邸宅とすべての資産(7万フローリン[1000万ドルあまりの巨額])は孤児財団に寄付したという。
(ダイアン・ヘイルズ(仙名紀訳)『モナ・リザ・コード』柏書房、2015年、66頁~72頁)

リサ・ゲラルディーニの祖父と父親

 
1423年に、マルゲリータが亡くなってから、リサ・ゲラルディーニが生まれるまでには、半世紀ほどの期間がある。
この間に、フィレンツェでは、3つの家族(ゲラルディーニ、ダヴィンチ、デル・ジョコンド)が将来の一翼を担う存在として、頭角を現してくる。
コジモ・デ・メディチの統治の下で、フィレンツェはヨーロッパで最も豊かな都市国家に成長した。

リサ・ゲラルディーニの祖父ノルド・ディ・アントニオ・ゲラルディーニ(1402~1479)は、1402年にキャンティ地方で生まれた。彼はなんとかして都会に出たいと画策した。親類の女性マルゲリータ・ダティーニが死んでから11年後の1434年、ノルドは弟とともに、祖父だった反乱の徒ペリッキア・ゲラルディーニの行動にあやかって、思いも寄らないことに挑戦した。コジモ・デ・メディチがひろころ恐れられていた有力者だった二人に、庶民としてフィレンツェに来てフィレンツェの特権を享受しないか、と声をかけてくれたからだった。
そのようなきっかけがあったにもかかわらず、ノルド・ゲラルディーニは、繁栄するフィレンツェの恩恵にはあずかれなかった。フィレンツェの経済を牛耳っているのは人口の2割を占めるエリートで、彼らが富の8割を支配していた。ノルドは田舎の地主だったが、これだけでは貴族ふうの体面を保つ生活水準を維持していくことさえ困難だった。
ノルドが妻リサ(この名前が、最初の孫娘に引き継がれる)と4人の子どもたちのために購入可能な家は、パリオーネ・ヴェッキオ(現デル・プルガトリオ通り)の狭い道に面したおんぼろ家屋くらいだったという。
(近くには羊毛を洗浄する工場があり、納税申告書の中で悪臭がひどくて、このあばら屋をあきらめて借家に移り住む、と記している)

そのノルド・ゲラルディーニも、マルゲリータ・ダティーニと同じく、サンタマリア・ヌオーヴァの慈善病棟で、惨めな最期を迎えた。ノルドは、遺言を残し、おそらく感謝の気持ちから農地をこの施設に寄付している(あるいは、フランチェスコ・ダティーニと同じく、自らの魂に永遠の輝きが宿ることを願ったためかもしれないともヘイルズ氏は想像している)。
ノルドのほかの遺産は、長男アントンマリア・ディ・ノルド・ゲラルディーニ(リサの父、1444~1525年ごろ)に与えられた。一族の命運は、アントンマリアにゆだねられた。アントンマリアは3回の結婚(1465年、1473年、1476年)をし、リサがフランチェスコ・デル・ジョコンドと結婚するお膳立てをした父親である。

公式の記録によると、1472年に28歳になったアントンマリア・ディ・ノルド・ゲラルディーニは、単に「公人(ヴィル・ノビリス)」と記されている。それが意味するところは、ラテン語の素養があり、調停者あるいは裁判に携わった場合にはラテン語が使うことができ、少なくとも自分の資産を管理できる程度の算数ができるという証明であるようだ。
「ジェントルマン」は、職業を持たない習慣で、フィレンツェのエリートの3分の1ほどは、アントンマリアと同じ手合いである。アントンマリアの場合は、貸家の家賃収入と、フィレンツェの南30キロほどにあるポッジョ地方にあるサンドーナという小さな町のマナハウスを含む地所からの収入で暮らしていた。

アントンマリアの肖像は発見できなかったとヘイルズ氏は記している。
ヴェネツィアの画家ティントレットが描いたフランチェスコ・ゲラルディーニ家の容貌の特徴が共通しているとすれば、リサの父は、次のような容貌をしていたのではないかと想像している。
貴族的な風貌をしていて、頰骨が高く、鼻が長く、傲慢そうな口元で、あごひげをきちんと刈り込み、姿勢がよく、肩幅が広い。インテリ紳士だったとすれば、人文学者アルベルティが規定したように、「町をよく歩き、乗馬をたしなみ、話術にたけている」といった三つの特質で秀でていたと推測している。これらの三つの要素を兼ね備えていたとすれば、一族の期待を担う財政面での健全さも期待できたであろう(具体的に言えば、まず有利な結婚条件を引き出せることをさす)

1465年、21歳のアントンマリアと、フィレンツェの名家令嬢リサ・ジョヴァンニ・フィリッポ・デ・カルドゥッチの婚儀が執りおこなわれた。だが夫人は出産時に亡くなってしまう。
(当時としては決して珍しいことではなく、トスカーナでは女性の4人に1人が、出産時に命を落とした)
だが、男やもめとなっても、若ければ気を取り直して再婚するのが普通だった。1473年、アントンマリアはフィレンツェで「最も美しい花」の一つと呼ばれた女性カテリーナ・ルチェライに惹きつけられた。当時、ルチェライ家は押しも押されもしない富豪になり、豪邸に住んでいた。
15世紀になると、当主のジョヴァンニ・ディ・パオロ・ルチェライ(1403~81)は、フィレンツェで3番目の金持ちにランクされていた。そしてジョヴァンニは、1466年、自分の子どもを、フィレンツェで最大の家柄メディチ家と結び付け、結婚による絆づくり(パレンタード、parentado)に成功した。その結婚の費用総額はなんと1185フローリンにも達した。
(ルチェライ家は、染料で膨大な利益を生み、一族の名もその染料の名前にちなんで、「オリチェライ」と呼ばれるようになり、なまってルチェライという家名になったらしい)

そうした富豪ルチェライ家の娘カテリーナに、アントンマリアは求婚した。彼はこのルチェライ家との姻戚関係になれば、上流階級の香り付けができ、商売面でもプラスになると踏んだにちがいない。
1473年、結婚し、ほどなくして妊娠するものの、またしても新妻が出産時に亡くなってしまう。アントンマリアは再び若い配偶者を失って、悲しみのどん底に落ち込んだ。
(ダイアン・ヘイルズ(仙名紀訳)『モナ・リザ・コード』柏書房、2015年、4頁、73頁~74頁、88頁~93頁)

1476年、アントンマリアは、3度目の妻ルクレツィア・ダ・カッキアと結婚する。新婦の出身地は、ゲラルディーニ家の地所の近くにあるキャンティ地方の名家である。年齢は21歳で、適齢期の上限だった。だが不幸な結婚歴を体験している32歳のアントンマリアとしては、ルクレツィアと結婚できる最善のチャンスだと見ていた。
アントンマリアは新婦とともに、悪臭が漂うスグアッツァ通りにある安い借家に落ち着いた。しかし2年後の1478年、メディチ銀行のライバルであるパッツィ銀行が音頭を取るフィレンツェの不満分子がクーデターを起こす。このパッツィの反乱によって、アントンマリアの家計は大打撃を受け、ゲラルディーニ家の未来にも暗い影を落とすことになった。

教皇シクストゥス4世は、傲慢なメディチ家を追い落とそうとし、ナポリ王に応援を要請し、フィレンツェの南方から進軍させた。その間、畑の作物を焼き、家々を略奪した。ゲラルディーニ家の地所では、水車小屋に乱入して、穀物を奪った。
アントンマリアは、税の申告書に、次のように、いらだたしげに記載している。
「やつらは戦争好きで、おかげで私には収入がなくなった。家は焼かれ、品物は壊され、小作人や家畜もいなくなった」

このように、1478年4月26日に起きたパッツィの反乱は、フィレンツェと教皇庁・ナポリ連合軍が交戦する事態となり、ゲラルディーニ家にも大きな影響を与えたのである。
1478年の暮れ、妻ルクレツィアが妊娠すると、アントンマリアにはまた心配の種が増えた。もし生まれて来る赤ん坊が女の子で無事に育ったとしても、誕生の時から積み立てるべき持参金など、準備できそうにないからである。当時、父親が娘の持参金を用意することは絶対的な義務だと考えられていた。
娘がどれほどの美貌でも、スタイルが抜群でも、持参金がなければ人生を謳歌できず、修道院の壁の内部で過ごさざるを得ないことを、アントンマリアは憂慮した。彼の妹も、そのような運命にあった。
だが、娘リサの運命がまるで違ったものになるとは、その時点では想像もできなかった。
年が明けて、1479年6月15日に、アントンマリアとルクレツィアのゲラルディーニ夫妻の間に、女の子が生まれた。リサ・ゲラルディーニである。
洗礼登録簿を目にすると、「モナ・リザ」のモデルが、にわかに生身の人間に感じられるようになった(The donna vera had never seemed more real to me.)と、ヘイルズ氏は述懐している。
(ダイアン・ヘイルズ(仙名紀訳)『モナ・リザ・コード』柏書房、2015年、101頁~113頁。Dianne Hales, Mona Lisa : A Life Discovered, Simon & Schuster, 2014, p.74.)

ダ・ヴィンチ家とレオナルド

 
ヴィンチ町(ママ)出身のダ・ヴィンチ家は、由緒ある家系でもなければ、貴族でもなかった。しかし、代々「公証人(notaio)」という司法官吏を務めていた。フィレンツェ執政官(シリョリーア)の雇員だった者もいる。その孫で同じ名前を名乗るピエロも同じ職業を継ぎ、尊称セルを冠して呼ばれた。

セル・ピエロ・ダヴィンチ(1427~1504)は、若いころトスカーナ地方を広く歩き回り、不動産譲渡証書の記録を取ったり、遺言の控えを保存したり、契約書を作成したり、商業・法律上の手助けをした。
だが、セル・ピエロはもっと大きな野望を持っていた。しかし、婚外子の父親だったから、それが昇進の妨げになることは、阻止しなければならなかった。

カテリーナという田舎娘が、1452年4月15日に男の子を産んだ。洗礼名はレオナルドである。
その直後、セル・ピエロはフィレンツェに行き、家格が釣り合う同じ公証人仲間の娘で、16歳のアルビエーラ・アマドーリと結婚した。

セル・ピエロの父は地方の地主だったから、持参金を工面して、カテリーナを地元の陶器窯元で働いている男と結婚させたものと見られている。数年のうちにカテリーナはまた出産した。
納税申告書によると、レオナルドは「婚外子」とあり、祖父母および叔父のフランチェスコと暮らしている、と記載されている。
(young Leonardo, listed as “non legittimo,” was living with his paternal grandparents and his uncle Francesco.)

不倫の子を引き取って育てるのはイタリアでは、ごく一般的であったようだ。だが実際には、「私生児」はさげすまれた。レオナルド・ダヴィンチも大学には行けなかったし、医学や法律は学べなかったにちがいない。父や祖父の職業、公証人も継げなかった。

フィレンツェは、訴訟好きな都市国家だった。だから、公証人や弁護士のような法律に関する職業が医者や外科医の10倍も多かった。
セル・ピエロ・ダヴィンチは、息子レオナルドに見切りを付けたとヘイルズ氏は明記している。

セル・ピエロは法務省(現バルジェロ美術館)の近くに事務所を開いてから数か月後、彼はラルゴ通り(現カーヴール通り)にあるメディチの宮殿を公式に訪れて離別のあいさつをした。彼は60年近くも公証人を務めてきた有能な官吏である。単に記録を残すだけでなく、計理士、司法士、投資顧問など万般の仲介者として腕を振るっていた。それらを通じて、セル・ピエロは富裕な都市国家フィレンツェの商業や官僚機構、エリート家族、宗教組織をスムーズに動かす潤滑油のような役割を果たしていた。

セル・ピエロが亡くなったとき、フィレンツェのある詩人は、こう称賛した。
「最も法律に精通した人物を選ぶとすれば、ピエロ・ダヴィンチを措いてほかにはいない」

セル・ピエロの最初の夫人アルビエーラは、金髪でおとなしいレオナルドをかわいがったと言われる。しかし、1464年、出産時に亡くなってしまった。後妻にフランチェスカ・ランフレディーニを迎える。彼女も、スタンダールの表現を借りれば、息子レオナルドは、「私生児だけど、とてもかわいい」と記していた。だが、1473年、やはり出産時に亡くなってしまった。

ヴィンチの町(ママ)に住んでいたレオナルド少年は、イタリア語の読み書きは習ったにちがいない。聖書やダンテの「神曲」のかなりの部分を暗唱した。そして数学や科学の基礎も勉強した。
だが、ルネサンス期のインテリにとって必須だったラテン語は、マスターできなかった。レオナルドは左利きだったが、家庭教師は右手で書くよう矯正しなかったので、右手使いにはなれなかったとヘイルズ氏は述べている。

レオナルドは、幼少のころから自然環境のなかで学んだ。レオナルドの少年時代は、一人ぼっちだったが淋しくなかったのではないかと想像される。ノートにこう書き記している。
「一人でいるときは、完全に自分自身でいられる。でもほかの人と一緒だと、半分しか自分自身ではいられなくなる」
(”When you are alone, you are completely yourself,” he would write in his notebooks, “If you are accompanied by even one other person, you are but half yourself.”)

好奇心が旺盛な少年は野山を歩き、動物や小川の生き物の動きに魅せられた。
わずか16歳だけ年上だった叔父フランチェスコを質問攻めにしたのかもしれない。
「鳥は、なぜ飛べるの?」
「水はどうして滝になって流れ落ちて、岩の間で渦を巻くの?」
レオナルドはウマ好きであった。
「ウマが駆けるとき、どうして蹄が空中を飛んでいるように見えるの?」
こうした疑問を抱いたのであろうレオナルドは一生、答を求め続け、目にするものをスケッチし、想像力を羽ばたかせた。

レオナルドのおじフランチェスコは、レオナルドのスケッチを父親に見せたことだろう。1460年代、父セル・ピエロは息子のスケッチを持って、フィレンツェで繁盛している工房の経営者ヴェロッキオに見せた。ヴェロッキオはひと目でレオナルドの才能を見抜き、徒弟にして教育することにした。
ティーンエイジャーだったレオナルドは、ヴィンチの町(ママ)を離れ、商業と文化の中心地フィレンツェに向かった。そして再び郷里に戻ることはなかった。
(ダイアン・ヘイルズ(仙名紀訳)『モナ・リザ・コード』柏書房、2015年、75頁~77頁。Dianne Hales, Mona Lisa : A Life Discovered, Simon & Schuster, 2014, p.45, p.46.)

リサとジュリアーノ


最後に、リサ・ゲラルディーニと、メディチ家の同い年のジュリアーノとの関係をみておこう。

  With a leader’s dispassionate scrutiny, Il Magnifico had once ap-
praised his three sons: Piero, who would succeed him, was stupid;
Giovanni, who would become pope, smart; his youngest child, Giuliano,
born the same year as Lisa Gherardini, sweet. A tutor described the baby
of the family as “vivacious and fresh as a rose… kind and clean and bright
as a mirror… merry, with those eyes lost in dreams.”
Did Giuliano and Lisa Gherardini know each other as children? The
dreamy-eyed boy could have made her acquaintance as they curtsied
and bowed through the town’s intertwined social spheres during his fa-
ther’s reign. Their families were linked by marriages to Rucellai kinsmen:
Giuliano’s aunt Nannina had wed Bernardo Rucellai; Lisa’s father, his
cousin Caterina. Novelists, weaving tales more of fancy than fact, have
conjured a friendship between Lisa Gherardini and Lorenzo de’ Medici’s
daughters, who were close to her in age, and a secret adolescent romance
with Giuliano.
Lisa would certainly have seen Lorenzo’s sons. The Medici brothers ―
sweet Giuliano, luckless Piero, and chubby Giovanni, appointed the
youngest-ever cardinal in 1492 at age thirteen ― regularly appeared at
civic festivals and the grandiose processions of Il Magnifico’s final years.
As she had been taught, Lisa would have cast down her eyes in their ―
or any male’s ― presence, but she might have snatched quick glimpses
at Giuliano, the striking lad who had inherited his father’s charismatic
charm and his namesake uncle’s good looks.
Did he notice her? If Lisa was indeed bellissima, as Vasari described her,
all the young men would have. Steeped in humanist romanticism, Renais-
sance swains loved loving fair maidens ― if only from afar. Regardless of
whether he and Lisa met as teenagers, Giuliano would later forge a tie both
to Lisa’s husband, Francesco del Giocondo, and to Leonardo da Vinci.
As Il Magnifico’s era ended in 1492, another began. The Italian explorer
Christopher Columbus discovered what he thought were islands off the
coast of India and launched the Age of Exploration. The del Giocondo
silkmakers also were looking to new horizons.
(Dianne Hales, Mona Lisa : A Life Discovered, Simon & Schuster, 2014, pp.100-101.)

【単語】
dispassionate  (a.)冷静な、偏見のない
scrutiny    (n.)精査、吟味
appraise   (vt.)評価する、鑑定する
sweet    (a.)甘い、親切な、優しい
vivacious   (a.)活発な、陽気な
curtsy    (n., vt.)(婦人がひざを少し曲げてする)お辞儀、会釈する
intertwine   (vt., vi.)からみ合わせる[合う]
conjure    (vt., vi.)魔法[手品]を使う
adolescent   (a., n.)青年期の(人)
chubby    (a.)丸々と太った
cast down   (視線などを)下に向ける、~に落胆する
snatch    (vt.)ひったくる、強奪する、(機会をのがさずに)急いで取る
glimpse   (n.)ちらりと見ること
lad     (n.)少年、若者
namesake   (n.)同名者、ちなんで名づけられた人
steep  (vt., vi.)浸す[浸る]、没頭させる(in)
swain    (n.)恋人、いなかの若者
maiden    (n.)乙女、未婚女性
from afar   遠方
forge     (vt.)鍛えて~をつくる、(関係・友情を)築く
launch    (vt., vi.)始める、進水させる
exploration  (n.)探検

≪訳文≫
「イル・マニーフィコ」ことロレンツォ・デ・メディチは、冷静に息子たちを洞察していた。長男ピエロはいずれ自分を継ぐことになるに違いないが、アホ。次男ジョヴァンニは頭がよく、教皇になる器、末子のジュリアーノはリサ・ゲラルディーニと同い年で、やさしい性格。家庭教師はジュリアーノを、こう描写している。
「活発で、バラのように新鮮、……やさしくて、清潔で、鏡のように明るい。……陽気で、瞳は夢見がち」
幼少時代、ジュリアーノとリサ・ゲラルディーニは面識があったのだろうか。「イル・マニーフィコ」の統治時代に、どこかの上流社会の集まりで、面と向かったリサが膝を曲げてお辞儀をした可能性はある。この両家は、ルチェライ家との婚姻関係を持つという共通項がある。ジュリアーノの叔母ナニーナは、ベルナルド・ルチェライと結婚している。リサの父アントンマリアは、そのいとこに当たるカテリーナと結婚した。小説家は現実よりもファンシーなプロットを考えるもので、ロレンツォ・デ・メディチの娘たちはリサ・ゲラルディーニと年が近いので、仲よくなってリサとジュリアーノが幼い恋をしたというストーリーも考えられる。
 リサは、ロレンツォ・デ・メディチの息子たち――やさしいジュリアーノ、不運だったピエロ、1492年に13歳という史上最年少で枢機卿になった小太りのジョヴァンニ――確かに会ったことがあると思われる。「イル・マニーフィコ」の晩年、町を挙げてのお祭りや行進に、彼らもひんぱんに顔を出していたからだ。リサは教えられた通り、男性の前では目を伏せていただろうが、ジュリアーノの姿もちらちら盗み見たに違いない。彼は父親の持つカリスマ性を継承していたし、名前をもらった叔父の美貌も引き継いでいた。
 では、ジュリアーノはリサの存在に気づいていただろうか。もしヴァザーリが言うようにリサが人目を惹くほどの美人であれば、若い男がみな注目していたはずだ。ルネサンス期はロマンティックな時代だったから、青年たちは美女好みだった。――たとえ、遠くから眺めるだけでも。ジュリアーノとリサが10代のころに出会っていなくても、ジュリアーノはのちにリサの夫になるフランチェスコ・デル・ジョコンドおよびレオナルド・ダ・ヴィンチと、結びついていく。

「イル・マニーフィコ」の時代は1492年に終わりを告げるが、同じ年に新たな時代の夜明けが始まる。イタリアの探検家クリストファー・コロンブスが新大陸を“発見”し、彼はこれがインド沖の島々だと誤認したが、「大航海時代」の幕開けだった。絹織物業者フランチェスコ・デル・ジョコンドも、新たな水平線を目指していた。
(ダイアン・ヘイルズ(仙名紀訳)『モナ・リザ・コード』柏書房、2015年、148頁~149頁)

「イル・マニーフィコ」ことロレンツォ・デ・メディチの末子であるジュリアーノはリサ・ゲラルディーニと同い年であった。また、このメディチ家とゲラルディーニ家という両家は、ルチェライ家との婚姻関係を持つという共通項がある。ジュリアーノの叔母ナニーナは、ベルナルド・ルチェライと結婚したそうだ。前述したように、リサの父アントンマリアは、そのいとこに当たる、富豪ルチェライ家の娘カテリーナと結婚したことがあった。リサの周りには、フィレンツェの名の知れた人びとが多くいた。
ジュリアーノはリサの存在に気づいていただろうかと、ヘイルズ氏も問いかけている。たとえ、遠くから眺めるだけでも、ジュリアーノとリサが10代のころに出会っていなくても、ジュリアーノは、のちにリサの夫になるフランチェスコ・デル・ジョコンドおよびレオナルド・ダ・ヴィンチと、結びついていく。