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歴史だより

東洋と西洋の歴史についてのエッセイ

≪植物名の由来~中村浩氏の著作より≫

2022-12-25 19:40:02 | ガーデニング
≪植物名の由来~中村浩氏の著作より≫
(2022年12月25日投稿)

【はじめに】


 以前のブログにおいて、次のような書籍を参考に、植物の名称について述べたことがある。
〇田中修『植物のひみつ 身近なみどりの“すごい”能力』中公新書、2018年
〇辻井達一『日本の樹木』中公新書、1995年[2003年版]

 今回のブログでは、植物の名称について、次の書籍をもとに、さらに詳しく解説してみたい。
〇中村浩『植物名の由来』東京書籍、1980年[1996年版]

以前の参考文献は、植物の名称そのものがテーマでなかったが、中村浩氏の本は、文献的にも歴史的にも詳しく説明しているので、教えられる点が多い。
 そのすべてを取り上げることができないので、主に、タンポポ、アザミ、ヨモギ、クズ、アサガオ、ナナカマドについて述べることにする。

【中村浩氏のプロフィール】
・1910年、東京に生まれる。
・1933年、東京大学理学部植物学科卒業。
      東京大学講師、九州大学教授、共立女子大学教授、日本クロレラ研究所副所長、財団法人日本科学協会理事等を歴任。理学博士。
・1980年没。
<主な著書>
・『牧野富太郎植物記』(全8巻、あかね書房)
・『園芸植物名の由来』『動物名の由来』(東京書籍)


【〇中村浩『植物名の由来』(東京書籍)はこちらから】
中村浩『植物名の由来』(東京書籍)





〇中村浩『植物名の由来』東京書籍、1980年[1996年版]

【目次】
植物の名について
植物名のしくみ
和名と漢名
和名と洋名
人名に関連した植物名

<草の部>
1  スミレは旗印の隅入れに由来する名
2  キクの語源はクク
3  フウロソウは風露草ではない
4  マツムシソウは仏具からでた名
5  ホタルブクロは提燈のこと
6  タンポポの名の由来
7  ウリ談義
8  ホオズキは文月にもとづく名か
9  キツネアザミは眉掃にもとづく名
10 ボロギクは襤褸菊ではない
11 ヨメナは果して嫁菜か
12 ツクシ考
13 ヨモギはよく萌えでる草の意
14 クズの名は地名の国栖から
15 ゴマは油を含んだ種子の意
16 ハンゴンソウは煙草と関係がある
17 タムラソウの二つの語源
18 アサガオは朝の美人の意
19 ヒキヨモギは糸を引く意
20 カミエビは酒を醸す意
21 シオデは牛の尾に似た草という意
22 ガガイモの名の起り
23 ユキノシタは雪の下ではない
24 カラスウリは唐朱瓜か

<木の部>
1  アスナロは偽名である
2  ナナカマドは炭焼きにちなんだ名
3  ムラサキシキブの本名はムラサキシキミ
4  ヤシャブシは夜叉ブシではない
5  ゴンズイは五衰の花
6  クチナシは口無しではない
7  ニワトコは庭ツコの転じた名
8  ウグイスカグラは鶯隠れの意
9  アズサよもやまばなし
10 クマザサは熊笹ではない
11 クマシデ、クマヤナギは熊とは関係がない
12 イボタノキ談義
13 ソナレの真意は磯馴れではない
14 シデという名の意味
15 シウリザクラは枝折桜である
16 ウワミズザクラは占いの桜という意
17 マンサクの語源
18 ワビスケは侘しい花ではない
19 サクラの語源
20 ケンポナシは手棒梨

あとがき
索引




さて、今回の執筆項目は次のようになる。


・植物名のしくみ
・タンポポの名の由来
・キツネアザミは眉掃にもとづく名
・ヨモギはよく萌えでる草の意
・クズの名は地名の国栖から
・アサガオは朝の美人の意
・ナナカマドは炭焼きにちなんだ名





植物名のしくみ


・植物の名は、千差万別である。
 しかし、自ら一つの規準のようなものがあるという。
①まず第一に、その植物を観察したときに受ける印象を名としたものが多い。
 つまり、その植物のもついちじるしい特徴をとらえて命名されたものである。
 例えば、花の形が鷺が飛んでいる姿に似ているので、サギソウ(鷺草)と命名された。
 胡蝶がとまっている姿なので、コチョウラン(胡蝶蘭)という名が授けられた。
 美しい朱鷺(とき)色をしているので、トキソウ(朱鷺草)と名づけられたりした。
 
 また、葉の特徴をとらえて、ミツバ(三葉)とかウマノアシガタ(馬の足形)と名づけられた。実の形を見て、アケビ(開肉[あけみ]の意)とかクリ(黯[くり]の意)と名づけられ、根の形を見て、ヌスビトノアシ(盗人の足)とか、エビネ(蝦根)などと命名されている。

 むかしの人がその植物を観察して受けた印象も現代の人が受ける印象も、そうたいしたちがいはないから、このような直接印象的な直感的な名というものは、たとえそれが時代と共に多少変形していても、その語源を探索することは、そう困難ではない。
 直感的な名としては、野菜になぞらえた名、例えばコナスビ(小茄子)とかウリクサ(瓜草)というような名や、果物になぞらえたコミカンソウ(小蜜柑草)や日常の食品になぞらえたものなどもある。

②次に多いのが、薬用に用いると有効な植物の名である。
 ゲンノショウコとかズダヤクシュなどは、その例である。
 毒という字を冠したものも少なくない。これはその植物に触ったり食べたりすると危険であるという警告でもあったであろう。
 ドクウツギとかドクゼリなどがこの例である。

③植物の名としては、動物名を冠したものが少なくない。
 (これは人間には食えないという意味あいのものであることが多い)
 スズメノエンドウとかイヌビワ、あるいはヘビイチゴなどがこの例である。
 
④また日常生活に密着した道具とか武器とか染料とか香料を名としたものも多い。
 こうした日常生活に密着した名は、特に古い時代につけられた古名に多いようだ。
 例えば、むかしの道具になぞらえた名としては、ゴキズル、スハマソウ、ツヅラフジ、コリヤナギなどがある。 
 武器に関連のある名としては、マユミ、ウツボグサ、ヤバネカズラなどがある。
 また染料にちなんだ名としては、アカネ、ムラサキ、ベニバナなどの名をあげることができる。
 香料にちなんだ名としては、ジンチョウゲ、ニオイスミレ、オタカラコウなどがある。

※また、文学的な情緒にもとづく名としては、ワスレナグサ(勿忘草)、オモイグサ(想い草)、ワスレグサ(忘憂草)、ミヤコワスレ(都忘れ)、モジズリ(捩摺)などいろいろある。
 この種の名の中には、古い時代の風習や風俗を知らないと理解し難いものがある。
・植物の名には、本名の頭に冠頭語を付したり、語尾に補足語を付したりしたものが多い。
 例えば、ホトトギスの仲間で、山地にはえるものをヤマホトトギスとよんだり、登山道などで見かけるものにヤマジノホトトギスという名を付したり、特に矮性のものをチャボホトトギスといったりするのは、冠頭語を付してその種名を説明したものである。

<植物名の語源探索>
・植物名の語源探索には、古文献を漁ることが必要であるが、単に植物のことだけではなく、古い時代の生活や風習にまで探索の輪をひろげていく必要があるという。
 古い時代に詠まれた和歌なども、植物名の語源を探る一つの手がかりになる。
 こうした和歌の中には、むかしの人々の生活がうたいこまれているからである。
 例えば、「万葉集」の中に、次のような秀歌がある。
  あかねさす紫野行き標野(しめの)行き
    野守は見ずや君が袖振る
 額田王(ぬかたのおおきみ)の詠まれた歌である。
 この歌をみると、当時、紫草を栽培していた天皇の御料地があったことがわかる。
 そこは一般人の立入りが禁止されていた標野という場所があることがわかり、またそこには見張りの番人がいたこともわかる。
 そして当時、ムラサキという染料植物がいかに重要な作物であったかがわかってくる。
 
 もう一つ例がある。同じく「万葉集」の詠人知らずの歌に、
  春日野に煙立つ見ゆをとめ等(ら)し
    春野のうはぎ採(つ)みて煮らしも
というのがある。
 この歌は、“春日野に煙の立つのが見える。娘たちが春の野にヨメナを摘んで煮ているらしいよ”ということであろう。
 当時若菜の一つとしてヨメナ(古名ウハギ)が摘まれて食用にされていたことがわかる。
 さらにヨメナについて調べてみると、当時この草には若さを保つ霊力があるとされていたことがわかるらしい。
 ヨメナ摘みは単なる遊びではなく、今日いういわゆる健康食としての山菜の採集でもあったのであろう。

<和名と漢名>
・植物の名には、学名のほかに、和名と漢名と外国名とがある。
 (理屈からいうと、漢名も外国名にはちがいないが、中国は日本にとって交流の深かった隣国であるから、中国名すなわち漢名は特別に取り扱ったほうがよい)

・漢名をそのまま音読みにして植物名とした例としては、ミカン(蜜柑)、キキョウ(桔梗)、リンドウ(竜胆)、シャジン(沙参)、センキュウ(芎藭)、ボウフウ(防風)、チャ(茶)などをあげることができる。
(これらの名は、漢名からでたもので、日本の言葉ではない)
・漢名の中には、その漢字はいただいたが、その音読みは日本固有のものにしたものもある。
 例えば、カキ(柿[シ])、モモ(桃[トウ])、ウメ(梅[バイ])、サクラ(桜[オウ])などがその例である。

※日本の植物に対し、漢名をどう当てはめるは難しい作業であるが、江戸時代の本草学者たちは勇敢にこの問題と取り組んだ。そして、多くの日本植物に漢名が当てはめられたが、誤りも多かったようだ。
 この誤りを訂正していったのが、牧野富太郎博士や白井光太郎博士らであったそうだ。
 中国の書物に記載されている植物と日本の植物とを丹念に比較して、その漢名が正しいか否かを追跡していった。そして江戸時代に付せられた日本植物の漢名にはいろいろ誤りの多いことがわかってきた。
 例えば、ケヤキというニレ科の木に、“欅”という漢名を宛てるのは誤りであるという。
 この漢名をもつ木は中国にあるクルミ科の樹木であることが示されている。
 また、ハンノキの漢名は“赤楊”とされていたが、これも誤りで別の木であることがわかった。
・インド伝来といわれるシャラノキに“沙羅樹”を宛てるのも誤りで、この漢名をもつ木はインド産の別の木である。また、ボダイジュを“菩提樹”と書くのも誤りで、インド産の本当の菩提樹は別の木である。
・萩という字は日本でつくった字で、秋に花が咲くので“萩”としたものである。
 サカキを“榊”とし、シキミを“梻”とするのも、漢名ではなく日本でつくった字である。
 ツバキの“椿”も日本でつくった字であって、春に花が咲くので椿としたものである。
 ツバキの漢名は山茶である。
(しかし、中国にも椿という漢名をもつ別の植物があるが、これは“チン”と発音する)

※植物名を漢字で書くと、つい誤りをおかすことになるので、植物名は仮名で書くようになった。近頃では、教科書などではカタカナで書くのがふつうとなった。

<和名と洋名>
・植物の名の中には、西洋名がとりいれられて日本名となったものもいくつかある。
 一例をあげると、カミツレあるいはカミルレという植物がある。
 この奇妙な名は、オランダ語のKamilleにもとづく名である。
 カミツレは江戸時代にオランダから渡来し、薬草として栽培されていたものであるが、逸脱して野生化しているところもある。
この草の頭花を摘みとって乾燥したものは、漢方薬店に“カミツレ花”として売られている。発汗、洗眼などに用いられる。カミツレ油という成分を含んでいる。

・洋名が、そのまま日本名として通用しているものは、園芸植物に多い。
 例えば、コスモスは学名の属名 Cosmosをそのまま和名としたものである。
 ダリアも学名の属名 Dahliaをそのまま和名としている(正しくはダーリアというべきらしい)。
 これにもテンジクボタン(天竺牡丹)という和名がつけられているが、一般的に用いられていない。ダリアの原産地はメキシコであるから天竺というのはおかしいが、江戸時代の本草学者が、この植物が天竺から来たものと思いちがいをしたようだ。
 アネモネも学名の属名 Anemoneをそのまま和名としたもので、ギリシャ語のアネモ(anemo)からでた名である。アネモとは風のことである。アネモネとは“風の娘”の意味である。
 ジギタリスもまた、英語名と学名の Digitalisをそのまま和名にしている。
 英語では別名フォックス・グローブ(foxglove)というが、これを直訳したキツネノテブクロ(狐の手袋)という和名もある。
 Digitalisとはdigitからでた言葉で、指のことをさしている。花冠の姿が指に似ているので、キツネノテブクロという名がつけられたようだ。
(しかし、一般には、この名はあまり通用していない)

<人名に関連した植物名>
・植物の名には、人名に関連したものがいろいろある。
 特に学名には、著名な植物学者や名高い園芸家などの名を冠したものが多数ある。
・テイカカズラというキョウチクトウ科の蔓植物は、初夏のころ、芳香を放ち旋回する白花を開くが、このテイカカズラという名は、確証はないが定家葛で、鎌倉時代の歌人藤原定家を記念して、つけられた名であるといわれている。
・著名な植物学者を名としたものでは、有名なシーボルトを記念した名であるシーボルトノキという名の木がある。
 この木は長崎鳴滝のシーボルトの邸宅の跡に植えられていたのでこの名がつけられたというが、あまり多くはない珍しいものであるそうだ。
 また、アジサイの学名をヒドランゲア・マクロフィラ・オタクサ(Hydrangea macrophylla var. Otaksa)というが、このオタクサは、シーボルトの愛した日本女性“お滝さん”こと、本名楠本滝さんを記念してつけられた名であるといわれている。
 余談になるが、シーボルトはその邸宅に一羽の鸚鵡を飼っていて、これに“お滝さん”という名を憶えさせていたという。この“オタキさん”が、いつしか“オタケサン”に変化して、鸚鵡に人語を憶えさせるとき“オタケサン”といわせるようになったという。
 お滝さんは、もと長崎丸山の遊女で、源氏名を其扇(そのおぎ)といった由だが、シーボルトに愛されたばかりにアジサイに名を残したり、鸚鵡にまでその名をよばれるとは、たいした果報者である、と著者はいう。
 牧野富太郎先生は、シーボルトがアジサイの学名にお滝さんの名を付したことについて、
“神聖な学名に自分の情婦の名をつけるとはけしからんことだ”と憤慨しておられたそうだ。
 その牧野先生自身も、笹の新種に自分の愛妻の名を付して、スエコザサ(寿衛子笹)と命名し、学名もササ・スエコアナ(Sasa Suekoana)とされているという。
※愛妻や恋人や情婦の名を後世に残しておきたいというのは人情であろうが、後世の人にとっては、無縁の人の名を憶えさせられることは、全く迷惑なことといわなければならない。公共性ということを考えるならば、学問に私情をさしはさむことは考えものである、と著者はコメントしている。
(中村浩『植物名の由来』東京書籍、1980年[1996年版]、20頁~36頁)

タンポポの名の由来


・タンポポという名は、妙なひびきをもつ日本名である。
 大和言葉としては異質のものである。
 このため、この名の由来については、外来語説が有力であったが、最近になって、やはりこの名は日本名であることに落ち着いたようだ。
・タンポポの花は、見た眼に美しく人目をひくはずであるが、「万葉集」や「古今集」などでは、でてこない。また「枕草子」や「源氏物語」にも見当たらない。
 タンポポの名があらわれてくるのは、江戸時代になってからである。
(したがって、タンポポは古い時代には稀であったか、あったとしても、ある地方に限られていたものらしい。)

・日本で万葉仮名を用いた最古の辞書である「和名類聚抄」(930年代)には、蒲公草(ホコウソウ)の名が掲げられ、古名で多奈(タナ)または布知奈(フジナ)とよばれていたことが記されているが、これがタンポポのことではないかという意見もあった。
(しかし、この蒲公草はタンポポではなく、ホウコグサ(漢名、蓬蒿[ほうこう])かタビラコ(田平子)ではなかったか、と著者は考えている)

※ホウコグサというのは、今日いうハハコグサ(母子草)のことである。
 古くはオギョウまたはゴギョウ(御形)とよんだキク科の植物で、春の七草の一つに数えられている。
 タビラコというのは、同じく春の七草の一つであるホトケノザのことである。
 今日いうホトケノザとは全く別物である。
 春の七草をうたった歌として知られる、
  セリ、ナズナ、オギョウ、ハコベラ、ホトケノザ
    スズナ、スズシロこれぞ七草
という歌にでてくるオギョウまたはホトケノザ(タビラコ)が蒲公草であるらしい。

・タンポポの名の由来であるが、これについては、今日までいろいろな説がある。
 
①大槻文彦博士の「大言海」には、“タンポポの古名タナなり、タンはその転にて、ホホは花後のわたのほほけたるより云ふかと云ふ”とある。
 そして、“タナは田菜の意ならんか”とものべられている。
 タナ(多奈)という名は、930年代に刊行された「和名類聚抄」にでてくる名であるが、これを田菜とするならば、水田などによくはえる春の七草の一つであるタビラコのことではないか、と著者は考えている。著者は、田菜はタンポポではないとする。
 だから、大槻文彦博士の田菜説は疑わしいという。

②次に、タンポポという名は漢名に由来するとする説がある。
 与謝野寛氏の「満蒙遊記」には、“タンポポのことを中国では婆婆丁(ホホチン)と呼んでいるが、古代には香気を意味する<丁>が上におかれて丁婆婆(チンホホ)と呼ばれていた。このチンホホが日本に伝わってタンポポになったものであろう”と記されている。
 この説は面白いが、古代中国でタンポポのことをチンホホとよんでいた時代は漢時代と考えられるので、万葉時代よりははるかに古い時代である。
 タンポポという呼び名は日本でひろまったのは江戸時代になってからであるから、与謝野氏のチンホホ説は、時代があまりに離れすぎている、と著者はコメントしている。
 したがって、この説は納得し難いとする。
(「花の文化史」(中央公論社)の著者春山行夫氏もこの説を疑問としている)

③牧野富太郎博士は、フランス語に由来するタンポポ説を主張している。
 「牧野新日本植物図鑑」によると、“タンポポの語源はおそらく<タンポ穂>の意で、球形の果実穂からタンポポを想像したものであろう”とのべている。
 タンポとは、布で綿をくるんで丸めたもので、拓本などに用いる道具である。
 牧野博士は、晩年、この説を固執していたそうだ。

※しかし、著者はこの説はこじつけのように思われるという。
 このタンポという異国調の名はフランス語のtampon(砲口の塞[せん])から起こったものといわれ、革あるいは布に綿などを包んでまるくしたものをいう。
 稽古用に使用する槍の先にタンポをつけたものをタンポ槍とよぶのも、この砲口の塞にするタンポに似ているためといわれる。
 しかし、タンポポの果実穂はこのタンポ槍よりも、むしろ毛槍に似ている。
 “紀州の殿様、お国入り、毛槍をふりふりヤッコラサのヤッコラサ”というわらべ歌にでてくる、あの毛槍である。
 (とすれば、“タンポ穂”といわずに、“ケヤリッ穂”とでもいいそうなものである。)
 著者は、この牧野博士のタンポ説は納得できないとする。

④著者の見解
 そこで、いよいよ結論であるが、タンポポという名は、古名のツヅミグサから出た名である、と著者は考えている。
 上田万年博士の「大日本国語辞典」には、“ツヅミグサはタンポポ(蒲公英)の異名”とでている。
 このツヅミグサという名の由来についてであるが、ある学者は、咲きかけた花あるいは閉じかけた花の形が鼓の形に似ているから、この名があるとしているが、著者はそうではないと考えている。
 著者は、タンポポの語源については、柳田国男先生の著作の中にあるのではないかと考え、文献をしらべている最中、名古屋市の今井彰という民俗学の研究者から、宮崎修二朗著「柳田国男とその原郷」(朝日選書)にタンポポのことがでていると、教えを受けたそうだ。
 この本には、“タンポポといえば、鼓を打つときのタン・ポンポンという音からの連想に由来し、あの茎の両端を細かく裂いて水につけると、反りかえり放射状にひろがった両端がちょうど鼓の形になったからだ”と書かれてある。
 著者は、タンポポの花茎を用いて、さっそくこの実験をこころみたが、まさしく柳田先生のいわれるように、鼓形となったので、この説を正しいと思うようになったらしい。

※タンポポの名の由来は、その古名ツヅミグサからでたもので、鼓の音タン・ポンポンに由来するものと考えている。
 タンポポの花を用いた子供の遊びで、鼓の形をつくって興じ、タンポンポンとよんでいたものが、いつしかタンポポになったものであろうとする。
(著者は栁田先生からは親しく教えを受けた一人であるそうだ。その労作からいろいろと教えを受けることができることをまことに有難く思っているという)
(中村浩『植物名の由来』東京書籍、1980年[1996年版]、62頁~66頁)

キツネアザミは眉掃にもとづく名


・キツネアザミというキク科の植物があるが、その名の由来について述べている。
 まずはじめに“アザミ”(薊)という名についてであるが、牧野富太郎博士の著書には、その語源についての説明は見当たらないそうだ。
 大槻文彦博士の「大言海」には、“アザミ草というが成語にて、刺多きをあざむ(惘)意にてもあるか”と記されている。
 しかし、アザミ草についての詳しい説明はない。
・著者は、“アザミ”という名詞は、“アザム”という動詞と関係があるという。
 “アザム”という言葉は、“アサマ”から転訛したもので、“傷む”とか“傷ましい”の意である。
 アザミは刺が多く、これに触れると痛いので、アザム草とよばれ、これが転訛して“アザミ”となったものであろう、という。
 “アザム”という言葉には、“驚きあきれる”とか、“興醒める”とかいう意味もある。
・「浜松中納言物語」には、“驚きあざむ気色も見せず”という表現がある。
 また、「徒然草」にも、“これを見る人嘲りあざみて、世の痴者(しれもの)かな云々”という記述もある。
 これらはいずれも“驚きあきれる”とか、“興醒める”とかいう意味であろう。
 他人を嘲笑することを“あざわらう”というが、この言葉も“あざみわらう”の変化した言葉であるそうだ。

・「神代記」に、“猿田彦神”に向ひて、<天鈿女乃露其胸乳、抑裳帯於臍下而笑噱向立>という記述があるが、“笑噱”は、“あざみわらう”であろう。
 また、“あざける”という言葉も、“あざわらう”の変化した言葉であるようだ。
 同じく「神代記」に、“天孫見其子等嘲之曰、云々、吾田鹿葦津(あたかあしづ)姫愠(いかりて)之曰、何為嘲妾乎”という文章にある“嘲る”も、“あざみわらう”ことであろう。
・さて、アザミの花は、美しいので、これを手折ろうとすると刺にさされて痛いので驚きあきれ、興が醒めるということかもしれない、と著者は考える。
 つまり“アザミ”とは、“驚きあきれる草”とか、“興醒める草”とかいう意味と考えている。
(中村浩『植物名の由来』東京書籍、1980年[1996年版]、75頁~77頁)

ヨモギはよく萌えでる草の意


・ヨモギは、日本では古くから知られ、古代の人たちの生活に食用の山菜として、また医療用の薬草として密接な関係にあった植物である。
 しかし、その語源については、今日まで明らかにされていないそうだ。
・「牧野新日本植物図鑑」には、“ヨモギの語源は不明”とされている。
・大槻文彦博士の「大言海」には、“ヨモギは善燃草(よもぎ)の義”とでている。

・なるほどヨモギは、モグサの原料として灸治に用いるので、“燃える”ということに関連があるように思えるが、ヨモギが医療に用いられたのは、かなり後のことで、それ以前の古い時代にすでにヨモギの名があったのではないか、と著者は考えている。
・著者によれば、ヨモギは、“よく萌えでる草”、つまり“善萌草(よもぎ)”ではないか、という。
 ヨモギは地中に地下茎を伸ばして蔓枝を生じ、旺盛に繁殖する。
 畑地にいったん侵入すると、その駆除に苦労するほど繁殖力が強い。
 早春、枯草の間に勢いよく緑の若芽を伸ばすヨモギは、まさに“よく萌えでる草”の名にふさわしいとする。

・ヨモギの別名には、エモギ、サシモグサ、サセモグサ、サセモ、シカミヨモギ、タハレグサ、フクロイグサ、モグサ、ヤキクサ、ヤイグサ、ヤイバグサなどいろいろあるが、文学的によく知られている名は、“サシモグサ”であるようだ。

・大槻文彦博士は、“サシモグサは注燃草(さしもぐさ)の意、注(さ)すとは点火(ひつくる)のこと、モは燃やすの語根”と説明している。
 著者は、“サス”とは、“発(さ)す”で生い出ずの意、“モ”は萌ゆの意と解釈する。
 したがって、サシモグサは、“発萌草(さしもぐさ)”であると考えている。

・「百人一首」にえらばれている藤原実方朝臣の有名な歌に、
  かくとだにえやは伊吹のさしもぐさ
    さしもしらじな燃ゆる思ひを
 というのがあるが、このばあいはサシモグサはすでに灸治がはじまっている時代で“燃える”という言葉に関連させて詠みこんでいる。
 サシモグサを詠んだ歌はこのほか、
  下野や標地(しめぢ)が原のさしもぐさ
    己が思ひに身をや焼くらん
 また、
  あぢきなや伊吹の山のさしもぐさ
    己が思ひに身を焦がしつつ
というのもある。
 ※これらの歌にみられる伊吹山は、近江国の伊吹山(胆吹山)ではなく、下野国の伊吹山をさすものといわれている。
 この下野国の伊吹山にはヨモギが群生していて、灸治の原料としてその採取がさかんに行われていたらしい。

・「百人一首」の中にもう一つ藤原基俊の歌として、
  契りおきしさせもが露を命にて
    あはれことしの秋もいぬめり
 というのがある。この“させもが露”というのは、“サセモグサにおいた露”という意であり、サセモグサというのはサシモグサの別名である。
(中村浩『植物名の由来』東京書籍、1980年[1996年版]、97頁~99頁)

クズの名は地名の国栖から


・クズ(葛)の正しい呼び名は、“クズカズラ”であるといわれている。
 カズラとは蔓草のことで、その語源は「神代記」に、“伊弉諾(いざなぎ)神の黒き御鬘(かつら)の化して蒲萄(えびかづら)となりしに”と記されていることによるとされている。
・さて、“クズ”という名であるが、大槻文彦博士は、“クズは国栖という地名に関連がある”と示唆している。
・牧野富太郎博士はこの説をとり、“一説にはクズは大和(奈良県)の国栖(クズ)であり、昔国栖の人が葛粉を作って売りに来たので、自然にクズというようになったといわれる”と説明している。
・著者も、クズは国栖という地名から出た名であると考えている。

・国栖とは、国主(くにぬし)という言葉が、クンヌシ、クニシ、クニス、クズと転訛したようだ。

・むかし、大和国吉野郡吉野川の川上に住んでいた土民を国栖人とよんだ記録がある。
 この地方の土民は、応神天皇の御代に大陸から日本に渡って帰化した異民族の一族で、朝廷の儀式のときに招かれて歌笛を奏するのを常としたという。
 そして、この国栖人による演奏を“国栖の奏”といった。

・さて、この大和国吉野郡の国栖地方では、古くから国栖人たちによってクズカズラから葛粉をとって食用とする風習があった。
 クズカズラの根をたたいて水に浸し、汁をもみだして何度もこすと葛粉がとれる。
 葛粉は純白で、食用として珍重された。葛粉は大和国吉野の産が上等品とされ、“吉野葛”とよばれていた。
・クズはまた、茎が強いので繊維をとって、“葛布(くずふ)”をつくるのにも用いられた。
 この葛布は、クズの蔓を煮て水に浸し、繊維をとりだして糸とし、織って布としたものである。この葛布は、耐水性が強いので、雨衣として用いられ、また、袴として、あるいは襖(ふすま)などにも用いられた。

※大和国吉野郡の国栖では、古くから国栖人たちによってクズカズラの根から葛粉をとったり、その茎の繊維で葛布を織ったりしているわけであるから、その原料となるクズカズラがいつしか“クズ”とよばれるようになったのであろう。

・また、クズの花は、赤紫色でたいそう美しいので、秋の七草の一つにも数えられている。
 「万葉集」の秋野の七種花(ななくさばな)の歌に、
  萩の花、尾花、葛花(くずはな)、なでしこの花   
    女郎花(をみなへし)、また藤袴(ふぢばかま)、朝がほの花
というのがある。また、
  真くず延(は)ふ夏野の繁くかく恋ひば
    まことわが命常ならめやも
また、大伴家持の歌に、
  はふ葛の絶えず偲(しの)はむ大君の
    見(め)しし野べには標結(しめゆ)ふべしも
というのもある。これらの万葉歌をみると、クズのたくましく伸びる性質を詠んでいるものが多い。
 クズはまた緑肥として田畑にすきこむと肥厚度が高いが、戦後アメリカ人が日本の野生のクズに目をつけ、これを緑肥としてトウモロコシ栽培に応用したところ、多大の効果があったという(当時の「リーダーズダイジェスト」誌上に載っている)。
(中村浩『植物名の由来』東京書籍、1980年[1996年版]、102頁~106頁)

アサガオは朝の美人の意


・アサガオ(朝顔)というと、今日ではヒルガオ科のアサガオのことをいうが、古く万葉の時代に詩歌に詠まれたアサガオは、今日のキキョウ(桔梗)であったといわれている。 
 キキョウは古名をオカトトキといったが、桔梗の漢字をあてるようになって、はじめキチコウと音読みにされていたが、これがキキョウと転訛したものであるそうだ。
・なお、古名のオカトトキという呼び名であるが、オカは岡であろうが、トトキとは今日のツリガネニンジンのことである。
 トトキとは漢字で“蔘”と書く。

・「万葉集」の、旋頭歌に示されている”朝がほ”の花は、今日のアサガオではなくキキョウとされている。というのは、この万葉の時代には、まだヒルガオ科のアサガオは日本にはなく、後年中国から渡来したものであるからである。
 ところが、このキキョウをアサガオとよぶ風習はやがて滅び、アサガオというと、もっぱらアオイ科のムクゲ(木槿)に移っていった。
 この花は、モクゲともハチスともよばれるが、朝咲いて、夕べには落ちるので“朝顔”とよばれた。
 中国の格言に“槿花一日の栄”とか“槿花一朝の夢”というのがある。これは、白楽天の、
  松樹千年、終(つひ)にこれ朽(く)ち、槿花一日自ら栄を為す
という詩からでたものである。人の世の栄華が短いことを、朝に開き夕べにしぼむムクゲ(槿)の花にたとえたものである。 
 このムクゲも、中国から渡来したもので、日本に野生種はない。
 この植物もまた万葉時代には知られていなかったものである。
 平安朝の初期に、漢方薬の一つとしてヒルガオ科のアサガオが中国から渡来し、薬用植物として栽培されるようになると、この花がたいそう美しいため、次第に各地方にひろまっていった。
 アサガオのことを漢名で“牽牛子(けんごし)”というが、この呼び名は、はじめ薬用になるアサガオの種子のことをいったものであるが、次第にアサガオそのものをさすようになった。

・アサガオの花は、ロウト形をしていて大きくて美しいので、江戸時代には大流行し、観賞用としてひろく栽培されるようになった。
 加賀の千代女の有名な句に、
  あさがほに釣瓶(つるべ)取られてもらひ水
というのがあるが、この歌は安永年間に詠まれているから、そのころは、アサガオはかなりふつうのものとなっていたようである。
 江戸時代中期になると、さかんに品種改良が行なわれ、色とりどりの多彩な色の花もつくりだされ、また大輪咲き、重弁咲き、狂い咲きなどの珍品が数多くあらわれた。
 文化13年(1816年)に刊行された高田興清の「擁書漫筆」という書物には、“朝顔合せ”という言葉がみられるが、当時の園芸家たちは、珍種を持ちよって、花くらべを行い、互いに優劣を競ったものらしい。

・さて、アサガオという名の意味であるが、これは“朝咲いて美しいので朝の顔という意味である”と思いがちであるが、そうではなく、“顔”とは別に関係はないようだ。
 アサガオは、もともと“朝の容花(かおばな)”の意であり、“容花”とは、“美しい姿の花”という意味である。“容”とは容姿(すがた)のことで、美麗な姿のことである。
 美人のことを、“容人(かたちびと)”というのがそれである。

 「万葉集」に、
  高円(たかまと)の野辺の容花(かほばな)おもかげに
    見えつつ妹は忘れかねつも
 というのがあるが、この“容花”とはヒルガオ科のアサガオではなく、キキョウのことであるが、“美しい姿の花”という意味である。
 したがって、アサガオとは、“朝の美人”とか“朝の美女”という意味であるようだ。
 なお、「倭訓栞」には、“アサガオヒメ”(朝顔姫)という美人の名がでてくるが、これは七夕祭の伝説にでてくる織女星のことで、天の川をはさんで牽牛(ヒコボシ)に関連して名づけられたものであろう。七夕の夕には、アサガオの葉に恋歌を書いてこれを天の川に流して、恋人のもとへ送ったという伝説もある。
(中村浩『植物名の由来』東京書籍、1980年[1996年版]、120頁~124頁)

ナナカマドは炭焼きにちなんだ名


・ナナカマドは山地に自生する落葉高木で、バラ科に属している。
 バラ科というと美しいバラやサクラの花を連想するが、ナナカマドの花はそんなに派手な花ではなく、小さくてさっぱり見栄えはしないが、花弁はちゃんと5枚あって、虫めがねでのぞくと、梅の花のように見える。
 この木は羽状複葉をもち、秋の紅葉がたいそう美しい。
 このため生け花などの材料として、よく用いられる。

・さて、このナナカマドの名の由来であるが、牧野富太郎博士の「牧野新日本植物図鑑」には、この名の由来として“ナナカマドは材が燃えにくく、かまどに七度入れてもまだ焼け残るというのでこの名がついた”と記されている。
 しかし、著者は、この説明に疑問を持っている。
 というのは、この木はそれほど燃えにくい木ではないからであるという。
 (著者は、越後の赤倉の山荘で冬を過ごした際に、よくナナカマドの薪をたいて暖をとったそうだ。この木の材はよく燃えて決して燃え残ることはない。)

・ナナカマドは、高さが9~10メートルにもなるかなり大きな木である。
 幹の直径は大きなものでは30センチにもなるので、薪の材料として適している。
 山村では、このナナカマドの薪を燃料用に用いているが、よく燃えて、決して“七度かまどに入れて燃やしてなお燃え残る”ということはない。
 
※鶴田知也「草木図誌」には、“牧野植物図鑑の説明は事実と合わない。たき火に加えるとナナカマドはよく燃える。だから名は体をあらわさず、ナナカマドは何か別の意味があるのではなかろうか”と書かれているそうだ。著者は、「わが意を得たり」と思った。

・ナナカマドという名は、ナナカという言葉とカマドという字がくっついたものである、と著者は考えている。
 ナナカとは古い言葉で“七日”という意味である。この言葉は今日ではナノカと変化している。カマドとは竈(かまど)のことであることは間違いない。
 したがって、ナナカマドとは、ナナカカマド(七日竈)の意であろうとする。 
 (ナナカカマドでは、“カ”が重複するので、一字省略してナナカマドになったとする)

 さて、カマド(竈)であるが、これは、台所の煮炊き用のかまどではなく、炭焼きかまどであると考えている。
 炭焼きかまどは石または土でかまどをつくり、中に木材を積み、火を点して燻(ふす)べ焼く木炭製造所である。壁の上方には四つ目という煙出しの小孔があり、かまどの入口に積んで口を塞ぐ石を“せいろう石”という。
 木炭は木材を空気の供給を制限して加熱し、熱分解を起こさせて炭化させるもので、すでに石器時代にこの技術があったという。
 木炭には、質の硬い堅炭(かたずみ)と軟い軟質炭があるが、堅炭のほうが火力が強く、火持ちがよい。
 木炭の硬さは樹種によってきまるが、堅炭の原木としてはふつう、ウバメガシ、ウラジロガシ、アカガシ、アラカシ、クヌギ、ヤマナシ、ミズナラ、カシワ、エンジュ、ヨグソミネバリ、ヤマボウシなどが用いられる。
 この堅炭の上質物としては、紫珠および花楸樹があげられているが、紫珠とはムラサキシキブのことで、花楸樹とはナナカマドのことである。
 木炭には、いろいろな種類があるが、上物としては、備長(びんちょう)、天城炭、鍛冶炭などがある。
(備長は、元禄年間に紀伊国の備後屋長右衛門という者が工夫して焼きだした堅炭で、木炭のうちで極上品とされている。この備長は俗に“バメ”とよばれているが、これは材料であるウバメガシからでた呼び名であるらしい。
 この備長のことを記した古書には、“備長は木炭の中の上物なり。紫珠及び花楸樹を極上品とす”という記述がある。)

・この備長の極上品として知られたナナカマドは、材質が硬く、これを炭に焼くには七日間ほどかまどでじっくりと蒸し焼きにして炭化させる。
 ふつう摂氏500度ぐらいで炭化が終わるが、800度まであげて精錬し、密閉消火したのち放冷してから、かまどから取りだす。
 ナナカマドの炭は火力が強く、最高2000度までの熱をだすが、ふつうは700~800度ぐらいの火力であるそうだ。
 ナナカマドを原木とした備長は、質がきわめて緻密で堅く、かつ火力もいちじるしく強く、火持ちがよいので、江戸の料理屋、特に鰻の蒲焼用に珍重されたという。

・さて、ナナカマドの名の由来であるが、著者は、この名は炭焼きと関連した名であると考えている。
 ナナカマドを原木として極上品の堅炭を得るには、その工程に七日間を要し、七日間かまどで蒸し焼きにするというので、七日竈すなわナナカマドとよばれるようになったとする。
(だから、牧野博士のいわれるように、“七度、かまどで燃やしても、なお燃え残る”という意味ではないという)
(中村浩『植物名の由来』東京書籍、1980年[1996年版]、157頁~161頁)


≪日本の植生の変遷~田中淳夫氏の著作より≫

2022-11-30 19:00:04 | ガーデニング
≪日本の植生の変遷~田中淳夫氏の著作より≫
(2022年11月30日投稿)

【はじめに】


 最近、林業にも関心を抱きつつある。
 というのは、相続により、山林を所有したことがきっかけである。
 親父が亡くなって3年が経つが、相続した土地には、曾祖父が明治から昭和初期に買い求めた山林が2反余りある。それゆえ、地元の森林組合にも加入した。
 ただ、山林の固定資産税の額はさほどではないが、その管理や活用法が悩みの種である。
 加えて、裏山には、孟宗竹が繁茂して困っている。
 
 そこで、林業に関する本を探して、読み進めている。
 今回は、田中淳夫氏の次の著作を一読してみた。
〇田中淳夫『森林からのニッポン再生』平凡社新書、2007年
 日本の植生の変遷について、簡潔に述べてあったので、このテーマでまとめておきたい。
 なかでも、江戸時代後期の絵師・安藤広重が描いた「東海道五十三次」という浮世絵をもとに、江戸時代の意外な側面を浮かび上がらせているのは、興味深かった。
 著者の住む生駒山(いこまやま)の山麓では、棚田地帯でレンゲはうまく育たなくなってしまったそうだ。また、マツがマツクイムシ(マツノザイセンチュウ)に感染して枯れたり、モウソウチクが雑木林や放棄された棚田を破壊したりしていることなど、生態系の危機について述べている。こうした点は身近な問題として、関心がある。
 
【田中淳夫(たなか あつお)氏のプロフィール】
・1959年大阪府生まれ。
・静岡大学農学部林学科卒業。
・出版社、新聞社勤務を経て、森林ジャーナリストに。
・おもな著書に次のものがある。
『日本の森はなぜ危機なのか』
『田舎で起業!』
『田舎で暮らす』(ともに平凡社新書)



【田中淳夫『森林からのニッポン再生』(平凡社新書)はこちらから】
田中淳夫『森林からのニッポン再生』(平凡社新書)





〇田中淳夫『森林からのニッポン再生』平凡社新書、2007年

【目次】
はじめに
第一章 日本の森林の素顔を探る
第二章 ニッポン林業盛衰記
第三章 森から見たムラの素顔
第四章 森と林業と山村を考える
おわりに
参考文献



はじめに
第一章 日本の森林の素顔を探る
1 日本は世界に冠たる森林大国
2 存在しない「太古からの原生林」
3 生物多様性は「破壊」が生み出した
4 「緑のダム」は本当に存在するか
5 自然をむしばむ見えない脅威
6 二酸化炭素を出す森と貯める街
7 日本人は森林が嫌い?
8 森林は人の心を癒せるか

第二章 ニッポン林業盛衰記
1 海外に打って出る日本林業
2 林業は焼き畑から生まれた!
3 木を伐ることで木を育てる
4 林業の本質は廃物利用
5 天然林より植物の多様な人工林
6 日本林業が没落した本当の理由
7 台風の目・中国の森林と林業
8 もう一つの林業、バイオマス・エネルギー


第三章 森から見たムラの素顔
1 山村は、もう一つの日本
2 木を売らなかった山里の経済
3 山村の人口が多すぎた時代
4 里をおびやかす野生動物
5 地図から消える村と集落
6 田舎は「困っていない」
7 田舎に向かう移住者の波

第四章 森と林業と山村を考える
1 人と森がつくる生態系社会
2 林業は環境を守る最先端ビジネス
3 山村から描く日本の未来像

おわりに
参考文献




さて、今回の執筆項目は次のようになる。


・江戸時代は禿山が多かった?~安藤広重の「東海道五十三次」という浮世絵
・戦後数十年で森林率が20%以上増えた
・日本列島の森林の歴史
・吉野郡川上村の550年続く儀式
・山村は“遅れた地域”か
・生駒山の山麓の現実問題





江戸時代は禿山が多かった?


「第一章 日本の森林の素顔を探る」の「1 日本は世界に冠たる森林大国」の「江戸時代は禿山が多かった?」(18頁~21頁)では、次のような意外な事実が述べられている。

・江戸時代後期の絵師・安藤広重が描いた「東海道五十三次」という浮世絵がある。
 それは、江戸と京都を結ぶ五十三の宿場を中心とした風景画である。
 この絵をよく眺めると、江戸時代の意外な側面が浮かび上がる。
 それは、江戸時代の自然環境である。とくに浮世絵の背景の山に目を向けてほしいという。
 たとえば、安藤広重「東海道五十三次 金谷」(静岡県島田市)の背景の山の状態に注意してほしい。

・現在、日本のどこの山を見ても、まず目に飛び込んでくるのは、緑である。
 森林が山を覆っているからだ。山と森は同義語にもなっている。
 ところが、この浮世絵に描かれている山は、大半が禿山(はげやま)なのである。
 たまに木が描かれていても、たいていマツの木である。
(マツは痩せた土地に生える木であり、その土壌が貧栄養になっている証拠である。)
 しかも周辺には石が露出して、いかにも荒れた様子である。
(お世辞にも「自然豊かな江戸時代の風景」とは表現できない)

・安藤広重は、何か意図を持って禿山を描いたのだろうか。
 いや、そんなわけはない。なぜなら、東海道だけの特殊事情ではないからである、と著者はいう。
 当時の日本は、全国各地、人里に近い山は、ほとんどこうした状態だった。
 広重だけでなく、当時描かれた様々な絵巻物や屏風絵を見ると、見るも無残な森の姿が浮かび上がる。
 たとえば、ブナの原生林が世界自然遺産に指定された白神(しらかみ)山地も、弘前(ひろさき)の絵師・平尾魯仙(ろせん)が描いた画を見ると、実は広範囲に禿山が広がっていたことがわかる。
 比叡山も禿山で、京の町のど真ん中から山頂の延暦寺の伽藍を見えていた事実が、各種の屏風絵から見てとれる。

・絵画では信用できないと思われるなら、明治時代、いや昭和初期でもよいから、風景写真を探して見るがよい、と著者は強調している。
太平洋戦争直後に米軍が撮影した空中写真でもよい。これまた、見事に禿山が目につく。
 岩だらけで、せいぜい草地が写っているだけであるという。
 また、地球環境をテーマにした愛知万博の開催地として、当初予定されていた海上(かいしょ)の森は、現在は豊かな雑木林が広がっているが、明治の頃の写真を見れば、岩がむき出しで、木々が薄く点在するような禿山であるそうだ。

・それに比べると、いかに現代の日本は豊かな緑に覆われていることか。
 禿山など、よほど探さないと目に入らない。
 足尾の銅山跡は、長らく鉱毒のために草木が生えなかったが、今では緑化に成功している。
(むしろかつてのグランドキャニオンのような風景を懐かしむ人さえいるそうだ。)
 滋賀県南部の田上(たなかみ)山地は、尾根筋に露出した岩々の景観を「湖南アルプス」と称し、ハイカーたちには人気のコースになっている。だが、そのむき出しの岩は、かつての禿山時代の名残である。
(田中淳夫『森林からのニッポン再生』平凡社新書、2007年、18頁~21頁)

「戦後数十年で森林率が20%以上増えた」(21頁~24頁)

戦後数十年で森林率が20%以上増えた


第一章 日本の森林の素顔を探る
「1 日本は世界に冠たる森林大国」の「戦後数十年で森林率が20%以上増えた」(21頁~24頁)

・統計の数字を見ても、現代の日本は、有史以来の森林が豊かな時代を迎えている。
 その森林面積は約2500万ヘクタール。
 森林率(国土に占める森林面積の割合)は67%。これほどの高率の国は、世界的にも珍しい。

・ところが、1891年(明治24)前後の森林面積は、約1700万ヘクタールだったそうだ。
 これを現在の国土面積で計算してみると、森林率は約45%にすぎない。
 明治時代は、現在よりもずっと緑が少なかった。
 そして、この数字は、増減を繰り返しつつ推移して、太平洋戦争直後もそんなに変わらなかったようだ。
 それが、戦後の数十年間で森林率は20%以上、面積にして800万ヘクタールも森林が増えた。(世界でもまれに見る増加速度と言える)

※大半の日本人は、今こそ緑が失われている、と感じている。
 その原因の多くは、マスコミ情報にあるようだ。
 森林を切り開いてダムを建設したり、ゴルフ場が作られたりするとニュースになりやすい。
 さらに熱帯雨林の伐採とか沙漠化の進行など海外の情報も重なる。
 それに加えて、身近な市街地の緑地が宅地造成で切り開かれたのを見た、というような体験から「日本の森林は危険」と思い込んでしまうようだ。

☆少しマクロな数字で、日本の森林を見てみよう。
 FAO(国連食糧農業機関)が2005年に発表したデータによると、
  世界の森林面積は、約39億5206万ヘクタールである。
  陸地面積のほぼ3割が森林ということになる。そのうち、4割が熱帯地域にあるが、年間約1000万ヘクタールずつ森林が減少しているという。
⇒原因は、農園開発や焼き畑、過放牧、薪炭(しんたん)材の過剰伐採などである。
 ヨーロッパでは、大気汚染や酸性雨などの森林被害も増大している。

・森林率で見ると、南米が51%、ヨーロッパが46%と比較的高率である。
 アジアは18%、アフリカ22%、北中米26%と下がある。
 世界全体では、30%程度である。
・国別の森林率では、高い順に見れば、
 フィンランド72%、スウェーデン66%、ブラジル64%、インドネシア58%、ロシア50%。
 下の方を見れば、広大な森林があるように見えるカナダで27%、アメリカ25%、イギリス12%、中国16%、フィリピン19%である。沙漠が広がる中近東・北アフリカ地域には、コンマ以下の森林率の国が多数並ぶ。

※こうした国々と比べると、日本の森林率は群を抜いている。
 しかも北欧やロシアのように人口が少なく国土の大部分が寒冷な地域でもなければ、アマゾンを抱えるブラジルみたいに未開発地域がたくさんあるわけでもない。
 それどころか、1億2000万人を超える人々が国土にひしめく人口稠密国である。
 この条件で高い森林率を保っていることは、ある意味、奇跡的だ、と著者はいう。
(田中淳夫『森林からのニッポン再生』平凡社新書、2007年、21頁~24頁)

「日本列島の森林の歴史(24頁~25頁)

日本列島の森林の歴史


第一章 日本の森林の素顔を探る
「1 日本は世界に冠たる森林大国」の「日本列島の森林の歴史(24頁~25頁)

・何万年も前の日本列島の森林率は、どの程度だったのか、はっきりわからない。
 全土が森林に覆われていた可能性もある。だが、少なくとも日本列島に人が住み始め、社会を作り出した縄文時代は、そんなに高くはなかったようだ。
 縄文時代の地層を調査したところ、土壌成分や花粉分析から、かなりの面積がササとかススキなどイネ科植物に覆われていたとされる。
 どうやら有史前の列島には、広大な草原が広がっていたらしい。
 必ずしも森林ばかりが覆っていたわけではない。その理由ははっきりわからないが、気候が今のように湿潤温暖ではなかったのかもしれない。

・加えて、縄文時代の植生を調べる中で、焼き畑の存在が確認され、当時の推定人口から森林面積の1割以上が二次林であったとされる。
(つまり、幾度も伐採が繰り返された土地である。すでに人間の活動が、森林環境にも影響を及ぼしていた)

☆有史前のことはさておき、日本人が歴史を刻み出してからは、どうだろうか。
 いつ頃から森林は減り始めたのか。
ブルドーザーのような機械力が導入され、各地に工業団地やニュータウンが建設され始めた現代に入ってからだろうか。どうもそうではなかったようだ。
 それどころか、江戸時代には、全国各地に禿山が広がり、森林受難の時代だったことは、安藤広重の浮世絵などで確認されたとおりである。

☆山に木が少なくなった理由は何か。
 禿山が増えた理由は、まず人間が集中して暮らし始めたことがある。
 つまり、町が形成され始めたことが大きい。
 多くの人が住むためには、住居も建てられるし、日常的な煮炊きや暖房などにも木材は求められる。さらに政治権力の肥大化によって、宮殿や城、神社仏閣など建物を建設するための木材も求められた。
 大木は建築材に、そして幼木・小径木は薪に使われることで、木々の生長は追いつかず枯渇する。

〇つまり、大和朝廷が成立して、大規模な集落、つまり都が建設された時から森林破壊は広がっていた。とくに目立ち始めるのは、飛鳥時代以降である。
 さらに都市部周辺だけではない。日本史の大半は、農地開拓の歴史であったといってもよい。
 それは森林を伐採して、農地を開拓する過程でもある。
 また、農地は、作物を収穫すると地力が衰えるため、外から肥料を入れないと持続できない。
 そこで山の落葉や下草(したくさ)のほか、枝葉(えだは)を切り取った緑肥(りょくひ)を農地に入れた。それは、必然的に山の栄養分を奪った。
・また製塩とか製陶、製鉄などが産業として広がるにつれ、そのエネルギー源としても、森林資源は酷使され続ける。
 山に木がなくなれば、降雨などで土壌が流され、土地が痩せる。
 すると、生えられる木は限られてくる。たいていはマツである。
(中国山地にマツ林が多いのも、戦国時代からの製鉄・製塩産業のためとされている)

※さすがに危機意識を持った為政者や学者の中には、森林の重要性を説き、森林保全策を練った人もいる。
 江戸時代には農学書がいくつも発行され、治山に力を注いだ政治家であり学者でもある土佐の野中兼山(けんざん)、岡山の熊沢蕃山(ばんざん)なども登場した。
 しかし、それらの努力は、基本的に人口圧力の前に敗退した。

⇒このような状況を鑑みると、最近よく語られる「江戸時代は、エコロジカルで自然が守られた時代だった」という声は、そのまま信じることはできない。むしろ江戸時代こそ、もっとも森林破壊の進んだ時代だったのかもしれない。
 当然、明治を迎えた日本も、豊富な森林に覆われた国ではなかったようである、と著者は記す。

「明治以降の緑化政策」(27頁~29頁)
・明治政府も森林の少なさを憂えていたようだ。
 なぜなら、森林がなくなったことによって、自然災害が相次いだからだ。
 毎年繰り返される洪水や土砂崩れ、そのうえ土砂が海まで流れていき、港を埋めてしまうという現象まで引き起こしていた。
 そこで明治30年代に入ると、砂防法を定めて、山の緑化に力を入れ始めた。
 ヨハニス・デ・レイケなど外国人技師を雇い入れて、緑化を進めるとともに、海外留学組が林学を勉強して、日本に持ち込んだ。
(だが、太平洋戦争の前後では、再び乱伐が進んだ。木材を軍事物資として、後先考えず大量に伐採した。しかも戦後は、焦土と化した国土の再建のために木材が必要だった。そこで、全国的な規模で造林が行なわれた)

・昭和30~40年代には、毎年数十万ヘクタールもの造林が行なわれ、禿山や放牧地など無林地をどんどん消し去りつつあった。
 薪炭を得るため、あるいは落葉、下草などを得る場であった雑木林も、拡大造林の対象となって、植え替えが進んだ。
(燃料革命とか農業革命といわれる石炭石油、天然ガスの普及と輸入飼料、化学肥料の導入によって必要なくなったからである。)

・森林面積の統計によると、1960年に2440万ヘクタールまで急増している。(「土地白書」)
 その後はゆるやかに増えていたが、開発の進行で微減傾向になるのが現代のようである。
 2001年の林野庁統計によると、森林面積は2512万ヘクタールである。
 
※そうした人々の努力によって森林が作られたということは、現在の森林の多くが人工林であることを意味している。
 1951年の人工林面積は、497万ヘクタールだったが、それから30年で、ほぼ2倍に人工林を増加させた。
 日本の高い森林率は、意外と最近になって達成された。
 これほどドラスチックに森林が増え、風景を変えたのは世界的にも珍しいだろう。
 今では、森林大国と呼んでもおかしくないほどの森林が国土を覆っている稀有な国、それが日本である。
(田中淳夫『森林からのニッポン再生』平凡社新書、2007年、24頁~27頁)



縄文時代と弥生時代以降の森林


「第二章 ニッポン林業盛衰記」の「2 林業は焼き畑から生まれた!」の「縄文時代のクリ材から始まる」(94頁~97頁)においては、次のようなことが述べられている。

☆植えて育てる、育成林業は、どのように成立したのだろうか。
 この問題を考えると、当然ながら日本人がどんな木をどのように利用してきたのか、という点を考える必要がある。
 そこで、日本人の「木づかい」と「林業の成立」の視点から、森林事情を追いかけてみると、なかなか面白い変遷が浮かび上がるという。

・人類は森林から生まれたといわれる。
 その意味では、人間と森林は切っても切れない関係なのだが、太古の日本列島に住み着いた人々は、その土地に生えている木を生きるために利用した。
 まず焚き火の燃料として暖をとったり、食料の加熱に使っただろう。
 またこん棒から始まり、様々な道具類も生み出した。やがて木を利用した住居も作った。
 こうした木材の利用も、広義の林業と見れば、まさに人類が誕生したと同時に林業は成立したともいえる。

☆日本人が利用した木の種類から見てみよう。
<縄文時代とクリ>
〇まず縄文時代によく使われた木は、クリである。
 クリ材は硬くて腐朽しにくい。
 ただ、乾燥すると、収縮率が高いために、ゆがみが出やすい。
(現代では扱いづらい木材の一つであるそうだ。使い道も、枕木や土台などに使われる程度。)
 しかし、生木ならば、比較的柔らかく、石斧(せきふ)でも容易に切り倒せる。
 しかも、くさびを打ち込むと、比較的簡単に縦に割れる。
 そして、乾燥すると硬くなる。
※縄文人にとって、クリ材は加工が楽で、耐水性や耐朽性のある非常に便利な木材だったのだろう。
(乾くとゆがむ点は、当時の住居の状況からして、さして気にならなかっただろう)

<青森県の三内丸山遺跡の例>
・もっともよい例は、青森県の三内丸山(さんないまるやま)遺跡である。
 ここには巨大な六つの柱穴が見つかっているが、分析によると、少なくとも直径1メートルの木の柱が建てられていた。
 それで巨大な櫓(やぐら)のような建物を推定復元してある。
 そのほか、倉庫や住宅にも、クリ材は使われていた。主要な建築材であったことは間違いないようだ。

・もちろん、クリは食料としても重要だった。
 遺跡の周りには、広大なクリ林があったことが確認されている。
(しかも生えていたクリは、遺伝子的に似通っていて、選別した優良品種を栽培した可能性まで広がっている。これは、農業の始まりであり、育成林業の人工林の造成の始まりかもしれない、と著者はみている)

※全国の縄文時代の遺跡から、クリ材が出土することは多い。
 竪穴住居の柱や板のほか、棒や器など道具類にもクリ材が用いられている。
 トーテムポールも見つかった。
 さらに、炭も、クリ材を焼いたものが8割を占める。
 縄文の人々は、クリで家を建て、クリの器でクリを食べ、クリを燃料にして生活を送っていたようだ。

<弥生時代以降における木材の変化~広葉樹材から針葉樹材へ>
・弥生時代に入ると、使う木材に変化が現れた。
 静岡市の登呂(とろ)遺跡から出土した木材のうち、実に95%がスギ材だという。
 住居や倉庫など建物に、スギはふんだんに使われていた。
 また水田の畦道(あぜみち)にも、惜しげもなくスギ板を打ち込んでいた。
 また、佐賀県の吉野ケ里(よしのがり)遺跡では、モミが多用されていた。

・時代は下るが、平城京で使われた木材の6割が、ヒノキで、コウヤマキも多かった。
 ※針葉樹材が利用の中心になるのである。
 利用する木材が大きく変わったのは、金属(青銅もしくは鉄)の登場のおかげと考えられる。
 金属は優秀な刃物となるからである。
 針葉樹の縦に伸びた繊維は、石斧ではなかなか切れないが、金属の刃物にかかると逆にサクサクと切れやすい。
⇒割裂性がよいから、縦に割って板にすることも容易である。
 材質は柔らかく、細かい加工も行なえる。
〇伐採と加工さえ可能になれば、針葉樹の方が幹がまっすぐで比較的軽いから、扱うには便利なのであるそうだ。
 大木が多いことも関係あるかもしれない。
 こうして、木づかいは、広葉樹材から針葉樹材へと転換されていったのであろう。
(田中淳夫『森林からのニッポン再生』平凡社新書、2007年、94頁~97頁)

「焼き畑に作物と木々の苗を植えた」


「焼き畑に作物と木々の苗を植えた」(97頁~100頁)
<収奪的な林業>
・古代の都の宮殿や神社仏閣などの建築に使われた木は、天然林から伐り出したものだった。
 縄文時代のクリの栽培はともかく、まだこの時代は、収奪的な林業だった。

※それでも、森の生長量に比べて伐採量が少なければ、森林は自力で回復する。しかし、住む人が増えて集落が次第に大きくなってくると、木材の使用量が急増する。
⇒森林の生長量が超えて伐採を始めると、山は荒れてくるだろう。

・とくに目立ったのは、都が築かれた地域の周辺である。
 森が伐り開かれ、木材が枯渇していく。
 集落の規模が大きくなり、しかも権力の集中は、巨大開発を引き起こす。
 古墳の建設も莫大な木材を消費したことだろう。
 だから、大和朝廷の都が置かれた地域は、森が荒れた。
 飛鳥も、当時は周辺の山が荒れていた兆候が伝えられる。

<平城京、東大寺と琵琶湖南部の田上山>
・やがて、中国式の巨大な藤原京や平城京が築かれると、宮殿や大仏殿など次々と巨大建築物が造られた。
 それらの建設のために、必要な巨木の調達には悩んだようだ。
⇒東大寺の大仏と大仏殿の建設に使われた木材は、琵琶湖南部の田上山(たなかみやま)だとされている。
 ここはヒノキの巨木の産地だったからである。
 もっとも、ここの木を平城京まで運ぶのは大変だからだろうか、聖武天皇は、都をこの山の近く(信楽[しがらき])に移そうとしている。

<木を植えて育てる、森をつくるという発想>
・ともあれ、このまま収奪的な林業が続けば、日本列島から森林がどんどん失われてしまったかもしれない。
 しかし、その中から生まれたのが、木を植えて育てる、森をつくるという発想であり技術だった。
 木を伐った跡に自然に生えてくるのを待つよりも、人が苗木を植えれば、早く森林が復活することに気づいたのである。
〇ここで注目すべきは、木の苗を植えた場所である。
 それは主に焼き畑だった。
 
※焼き畑とは、森林を伐り開いて火をつけ、その焼け跡に作物(陸稲、麦、雑穀、豆類、野菜など)の種を播く農法である。
 草木を焼いた灰を養分として、作物は育つ。だから農地としての寿命は短い。
 地域にもよるが、火入れから3、4年で放棄することが多く、長くても10年まで。
⇒もっとも原始的な農耕とされるが、無理に土地を耕転(こうてん)しないから、斜面の土壌が守られる。自然にやさしい農法ともいわれる。
 日本では縄文時代より行なわれていたが、山地では近代まで残っていた。
(いや、今も行なう地域はある)

・この焼き畑の栽培品目に、木々の苗も加えた。
 火入れ後、雑穀や野菜の種子などを播くが、そこにスギやヒノキの苗も植える。
(同時の時もあったし、数年後の時もあるようだ。)
 やがて、地力が落ちて、雑穀や野菜の栽培は放棄することになる。
 その頃には、スギやヒノキも大きく背を伸ばしている。焼き畑放棄後も木は生長を続け、やがて森林になる。
 そして、木材として利用できるようになると、また伐採する。
 木材を収穫し、枝葉や雑木など残材に火をかけて、また焼き畑にする。
 このようなサイクルが作られた。
〇つまり、樹木は、焼き畑の作物の一つだった。
 食料となる作物の栽培と平行して木材を収穫するための作物なのである。
 林業面から見ると、木の苗とともに植えられた雑穀などは、雑草を抑える役割を果たし、その収穫は下草刈りに相当するという。
(⇒まさに農と林が結びついたアグロフォレストリーなのである。
 もちろん当時の人々は、このような理論を立てて始めたわけではないだろうが、くしくも焼き畑のサイクルが育成林業を生み出した、と著者は考えている)
(田中淳夫『森林からのニッポン再生』平凡社新書、2007年、97頁~100頁)

「日本最古の植林は16世紀初め」


「日本最古の植林は16世紀初め」(100頁~101頁)
〇吉野林業の誕生を例にとって、著者は説明している。
 室町時代には吉野の山の天然林を伐り尽くしてしまったようだ。
 奈良の都のほか、吉野山にも多くの寺院が建設されたことと関係があるのだろう。

・そこで、植林が始まった。
 もっとも古い記録は、文亀年間(1501~04年)に現在の奈良県川上村にスギとヒノキを植林したという。
⇒これは、林業としての植林の記録としては日本最古になるが、世界的にももっとも古い部類に入るそうだ。

・ところが、吉野では次第に栽培するのは樹木だけになり、穀物や野菜の栽培は行なわれなくなったらしい。
 そして長伐期の大径木生産地に移行していった。
 (それも意図的だったかどうかは定かではない)
 ただ、農地と分離する形で林地が成立したようだ。おかげで、常に森林を維持することになった。
※吉野だけではない。日本各地の古い林業地には、それぞれ固有の歴史があるが、たいていは焼き畑を発祥としている。
 
・ただ、現在の日本の人工林の大半は、戦後生まれである。
 禿山や乱伐した跡地や、里山の雑木林を伐採して大規模な造林を行なった。
 植えて50年前後の地域が大半だから、まだ一度も伐採を経験していないところも少なくない。当然、木材の販売も経験していない。
(その意味では、大半の人工林は産業としての林業地になりきっていないともいえる)
(田中淳夫『森林からのニッポン再生』平凡社新書、2007年、100頁~101頁)

吉野郡川上村の550年続く儀式


「第三章 森から見たムラの素顔」の「1 山村は、もう一つの日本」において、「吉野郡川上村の550年続く儀式」(152頁~154頁)では、次のようなことが述べてある。

・著者は、2007年2月5日早朝、奈良県吉野郡の川上村の金剛寺を訪れ、この村で執り行なわれる朝拝式に参列したという。
 朝拝式とは、一般的には、皇室が執り行なう元旦の朝賀(ちょうが)の儀式である。ところが、川上村で行なわれる朝拝式は、別の意味を持つ。南朝皇胤(こういん)の自天王(じてんのう)を暗殺された日に祀(まつ)っているのである。

☆歴史を遡れば、次のようである。
・南北朝時代、主に南朝が置かれたのは、吉野である。
 1336年に京を足利尊氏に追われた後醍醐天皇は、吉野各地を転々として、四代を重ねる南朝を開いた。だが、分裂した皇統は、1392年に合体した。

・しかし、その後も南朝の皇胤は、吉野や熊野の山に隠れ住んでいた。
 そして時の北朝政権に逆らう旗印となり続けた。それらの動きを後南朝と呼ぶ。
 その一統が川上村にもいたそうだ。

・後南朝方は、1443年には京の御所を襲って、三種の神器[じんぎ]のうち神璽[しんじ](八尺瓊勾玉[やさかにのまがたま])を奪うという芸当を見せた。
 神璽は、川上郷の自天王の元に置かれる。
 それを奪い返すために、川上村に潜入した赤松一族は、1457年に一宮[いちのみや](自天王)、
二宮[にのみや](忠義王[ただよしおう])と呼ばれた皇胤の二人(南朝・後亀山天皇の曾孫[ひまご]とされる)を惨殺した。
 逃げる彼らを村民は追いかけて倒し、首と神璽を取り戻す。
 これを長禄の変と呼ぶ。
 首を取り戻したとはいえ、皇統が途絶えてしまったことを村民は嘆き悲しみ、自天王の鎧や兜を奉って、翌年より毎年2月5日に朝拝式を執り行なってきたそうだ。

・爾来550年、一度も途切れることなく、この儀式は執り行なわれてきた。
 ただし参加できるのは、赤松一族を討ち取った末裔だけであるという。
 彼らの血族を「筋目(すじめ)」と呼ぶ。川上村民であろうとも参列できなかった。
 ただ、川上村も、過疎と高齢化が進み、村の文化財として保存するために、一般参加も解禁したそうだ。

※このような後南朝ゆかりの朝拝式は、川上村だけではない。
 隣接した天川(てんかわ)村でも、後醍醐天皇を匿った謂れから行なってきた。
(こちらは600年以上の歴史を誇る)
※紀伊半島一帯には、各地に南朝関係の儀式や伝説があるようだ。
 さらに平家伝説も根深く、各地に平家の落人が潜伏した言い伝えがある。
 また都を追われた源義経も吉野と縁が深い。
 そのほか神武天皇の東征にまつわる伝承も含めれば、数限りない。
 紀伊半島は、極めて色濃い歴史に彩られた地域なのである。
(田中淳夫『森林からのニッポン再生』平凡社新書、2007年、152頁~154頁)

山村は“遅れた地域”か


「第三章 森から見たムラの素顔」の「1 山村は、もう一つの日本」において、「山村は“遅れた地域”か」(154頁~156頁)では、次のようなことが述べられている。

・日本の森林、そして林業を考える際、山村・山里の存在をどのように位置づけるかは、重要である。
 山間部に住む人がいて、彼らがどのような形で林業に携わり、また日本の森林環境に影響を与えてきたか、という根幹に関わるからである。
 
☆まず、山村と聞いて思い浮かべるイメージは、どのようなものだろうか。
 山奥に外界と隔離されたような状態で、集落がポツリポツリとあり、細々と農林業をやっているような姿を思い浮かべるかもしれない。
 また、横溝正史の小説『八つ墓村』などに描かれた因習に縛られた世界を思い出す人もいるだろう。
 あるいは、マタギのように狩猟で生きる人々が住む世界を想像するかもしれない。
 そこまで極端でなくても、山村を“遅れた地域”と捉える傾向は、今も根強い。
(政治や経済の中心地から遠く離れた辺境であり、文化も経済も遅れているというような)

<著者・田中淳夫氏の歴史観、日本史の見方>
・たしかに現代社会から見れば、山村は辺境地である。
 後世に伝えられる歴史は、常に都を中心に展開され、中央集権国家の側から語られ続けてきた。山村は農村以上に遅れた地域であり、米を食べられない(作れない)貧しい土地を意味していた。
 

☆しかし、そうした見方こそ、平地の民が米作文化とともに作り上げた史観に基づく世界である、と著者は批判している。

 また、日本史の見方にも、次のようにいう。
 つまり、日本史は、公家と武士と米作農民だけが作ってきたのではない。
 面積からすれば、日本列島の7割がたが山地である。
 平野部もかつては大半が森林と農地であり、都市が全国各地に広がったのは、歴史の上では近世以降のことである。
 かつて山間地域は、日本人の暮らしの中心だった。
 たとえば、縄文時代は、人口の多くが山間部に住んでいた。
 平地は見通しが悪く、河川に阻まれて移動もままならない。
 また湿地帯も広がっていることから、人が好んで住むところではなかった。
 対して、山裾は、傾斜があるから見通しがよいし、木の実や野生動物などの食料も豊富だった。(風が通ることが病気の蔓延を防いだともいわれる)
 最初は焼き畑だったろうが、やがて谷から流れ出る川が広がった扇状地に水田が築かれた。
 水田耕作が平地に広がるのは、随分後の時代まで待たなければならない。
 
※近年の研究では、山村地域には、想像以上に外部から人や文物が入り込んでいたことが解明されつつある。
 住民は山間に孤立した生活を営んだのではなく、各地からの人・物・情報が行き交っていた。
(田中淳夫『森林からのニッポン再生』平凡社新書、2007年、154頁~156頁)

生駒山の山麓の現実問題


第一章 日本の森林の素顔を探る
「5 自然をむしばむ見えない脅威」の「棚田にレンゲが育たなくなった」(53頁~54頁)
「外来種の昆虫がレンゲを食べる」(54頁~57頁)

・著者の住む生駒山(いこまやま)の山麓には、広大な棚田地帯があるという。
 標高差は300メートルにもなる。
 最近の景観は、あまり見栄えがよくないそうだ。
 その理由は、耕作が放棄されて草などが野放図に生えた田畑がかなりあることである。
 また、春になってもレンゲがあまり咲かないこともある。生駒山では、レンゲはうまく育たなくなってしまった。
 その原因を見つめると、新たな自然の危機に気がつくようだ。

・田畑の放棄の問題は、農業が不振なうえ、減反政策などもあって、耕作が大変で収量も少ない棚田は、真っ先に放棄されがちである。後継者が少ないことも理由の一つである。
 だが、そうした理由の陰に、もう一つ、外からは見えにくい異変が起きているという。

 その点をレンゲの花が咲かなくなった点から考えている。
・レンゲは豆科の植物である。秋に種を播くことで、春先に花を咲かせ、地を這うように茎を伸ばす植物である。
 その根には、根粒バクテリアが生息し、大気中の窒素を固定するから、土壌の栄養分を増やす効果がある。
 花が終わって田植えの季節が近づくと、耕運機でレンゲを土の中にすきこむ。これも肥料にする知恵である。とくにそのため昔から日本の田畑では、秋の収穫後にレンゲの種を播くことが行なわれていた。
・花は蜜が採れるから、養蜂の対象にもまった。
 養蜂家が農家に頼んでレンゲを育てててもらうこともしている。
 ミツバチは、レンゲだけでなく野山や農作物の花にも寄って受粉を助ける。
 そうした働きによって、里山の生態系が作られている。
 それは景観としても美しく、日本の田園の原風景にもなっていた。

<アルファルファタコゾウムシ>
・だが、そのレンゲが棚田から姿を消しつつある。
 せっかく花を咲かせても、すぐに花びらが消えてしまう。
 なぜなら、アルファルファタコゾウムシが食べてしまうからである。 
・この虫は、ヨーロッパ原産の昆虫である。
 その名のとおり、牧草のアルファルファなど豆科の植物全般の害虫である。
 どうやら輸入牧草などに紛れ込んで、日本に侵入してきたらしい。つまり外来種である。

・日本には、1982年に九州・沖縄で侵入が確認された。今や、関東地方まで広がり、レンゲのほか、ウマゴヤシやカラスノエンドウなどを食べてしまう。
 そのため、レンゲの種子をわざわざ播くことも少なくなった。
 この外来昆虫のおかげで、身近だった草花が、姿を消しつつある。
 近年、全国に広がりつつあり、それが里山の景観をも壊し始めた。
 
<その他の外来昆虫>
・外来昆虫は、アルファルファタコゾウムシだけではない。
 トマトなど作物の花粉媒介用に導入したセイヨウオオマルハナバチは、温室から脱出して野生化し始めている。
⇒そのため、トラマルハナバチなど日本在来のマルハナバチが衰退する可能性が出てきた。
 
※日本の生態系は、在来の植物や昆虫で形成されてきた。
 ところが、近年は日本に存在しなかった外来種の侵入が増えてきた。
 それが自然環境に重大な影響を与え始めている。
 外来種は、在来の生態系に適合せず、消滅することもあるが、天敵がいないなどの理由で、むしろ異常繁殖して在来種を圧迫するケースが多い。
・最近では、外国産カブトムシやクワガタムシまで輸入され、野外に放置されている。
 身体が大きく攻撃力も強い外国産が、日本産のカブトムシなどを追い詰める可能性は高い。

<マツクイムシ(マツノザイセンチュウ)>
・昆虫ではないが、各地のマツ林を枯らしているのが、一般にマツクイムシと呼ばれる害虫である。
 このマツクイムシの正体は、マツノザイセンチュウという体長1ミリにも満たない線虫である。
 これがマツノマダラカミキリを媒介して、マツに感染すると、マツの中で大繁殖して、やがて枯れるのである。
 ところが、マツノザイセンチュウは、日本に元からいた線虫ではない。外来種なのである。
・日本へ伝来したのは、1900年初頭の長崎市とされている。
 どうやらアメリカから輸入されたマツ材に潜入していたらしい。
 やがて長崎を中心にマツ枯れが始まり、全国へ広がった。
 現在では宮城県にまで達し、日本三景の一つ松島が危機に瀕している。

<モウソウチクが植生を変える>
・雑木林や放棄された棚田を破壊する外来種は、ほかにもある。モウソウチクもそうである。
 竹林は、その中にほかの草木をほとんど生やさず、生物多様性を著しく衰えさせる。
 とくにモウソウチクは、在来のマダケやハチクに比べて、非常に繁殖力と生長力が強い。
 タケは上に伸びるだけではない。太くて強力な地下茎を四方八方に伸ばす。
 地上部を刈り取っても、地下茎が生きている限り、すぐ生えてくる。極めて強力な生命力を持つ植物である。

・このモウソウチクは、日本古来のタケではない。江戸時代に中国からもたらされた。
 つまり外来種である。
 その繁殖力は、マダケやハチクよりはるかに強い。
 モウソウチクがはびこるのは、棚田の放棄だけではなく、外来種であることも大きな理由である。
・強力な地下茎は、周囲に伸びて一斉に芽吹き、1カ月で高さ10メートルを超えることもある。
 この生長には光がいらない。しかし伸びると枝葉を広げ、光を林床に届かなくする。樹木や草の生育を抑える。すると動物も棲めなくなる。
 繁茂すると、完全に除去するのは至難の業である。
・最初からやっかい者だったわけではない。むしろ重宝されてきた。
 太いタケコノが収穫できるうえ、建築材にもなるからである。
 そのため、農家が植えて育てた。しかし、雑木林や人工林が放棄されるのと同じように、農家周辺に植えられたモウソウチクの林も放棄され始めた。すると、旺盛な繁殖力で生息域を広げ出したのである。
(田中淳夫『森林からのニッポン再生』平凡社新書、2007年、53頁~59頁)


≪辻井達一『日本の樹木』(中公新書)を一読して≫

2022-11-27 19:00:11 | ガーデニング
≪辻井達一『日本の樹木』(中公新書)を一読して≫
(2022年11月27日投稿)

【はじめに】


 庭木の剪定をせざるをえなくなり、樹木について調べている。
 我が家の庭木の「イチイ」について調べているとき、ウィキペディアの「イチイ」の項目の参考文献の1冊として、次の辻井達一氏の本が挙げられていた。
〇辻井達一『日本の樹木』中公新書、1995年[2003年版]
 早速、購入して一読してみた。
 イチイのみならず、様々な樹木について、解説してある。
そこで、今回のブログでは、次の観点から、この本の内容を紹介してみたい。
〇植物の名称について
〇季節と花
〇歴史との関連で
〇庭木として興味ある木

【辻井達一氏のプロフィール】
・1931年(昭和6年)、東京に生まれる。
・1954年、北海道大学農学部卒業、同大学名誉教授。農学博士。専攻は植物生態学。
<主な書作>
・『北海道の湿原』(共著、北海道大学図書刊行会)
・『北海道の花』(共著、北海道大学図書刊行会)
・『北海道の樹』(共著、北海道大学図書刊行会)
・『湿原』(中公新書)


【辻井達一『日本の樹木』(中公新書)はこちらから】
辻井達一『日本の樹木』(中公新書)








【目次】
辻井達一『日本の樹木』中公新書の目次
【目次】
はじめに
ソテツ
イチイ
イチョウ
アカマツ・クロマツ
ゴヨウマツ・キタゴヨウ
ハイマツ
モミ・トドマツ
エゾマツ・アカエゾマツ
カラマツ
コウヤマキ・イヌマキ
スギ
メタセコイア
ヒノキ・ヒノキアスナロ
ハイビャクシン・ハイネズ
エゾノバッコヤナギ
ドロノキ
ケショウヤナギ
シダレヤナギ
ポプラ
オニグルミ
ハンノキ・ケヤマハンノキ
シラカンバ・ダケカンバ
サワシバ・アカシデ
ハシバミ
アサダ
ブナ
クリ
ツブラジイ・スダジイ・マテバシイ
シラカシ・アカガシ・アラカシ・ウバメガシ
カシワ
ミズナラ・コナラ
クヌギ
エノキ・ケヤキ
ハルニレ
オヒョウ
アコウ・ガジュマル・イチジク
ヤマグワ
カツラ
キタコブシ・タイサンボク
ホオノキ
ユリノキ
クスノキ
タブノキ
ノリウツギ
ツルアジサイ
フウ・モミジバフウ
プラタナス
ソメイヨシノ・エゾヤマザクラ
シウリザクラ
ウメ・モモ
リンゴ・ナシ
ナナカマド
アズキナシ
フジ
ニセアカシア
ネムノキ
デイコ
ニガキ・ヒロハノキハダ
ヌルデ
ツリバナ・ヒロハツリバナ
ハウチワカエデ
イタヤカエデ
トチノキ
ヤマブドウ
シナノキ
ヤブツバキ・サザンカ
メヒルギ・オヒルギ・マヤプシギ
カキノキ
ハリギリ
ミズキ
ヤマボウシ
ハシドイ
ヤチダモ
キンモクセイ・ギンモクセイ
キリ
シュロ

参考図書
索引
イラスト 長谷川哲雄





さて、今回の執筆項目は次のようになる。


〇植物の名称について
〇季節と花
〇歴史との関連で
〇庭木として興味ある木









〇植物の名称について
〇季節と花
〇生活と花
〇歴史との関連で

〇植物の名称について

〇植物の名称について


【カシワ(ブナ科コナラ属)】


【カシワ(ブナ科コナラ属)】
・日本でよく知られている樹と言えば、松、杉、檜、桜、椿、楓などがまず並ぶ。
 柏(カシワ)もまた、それらに続くものとして挙げられる。

・ここで漢字を並べたついでだが、日本でいう柏は、中国ではまったく別のヒノキ科ビャクシン類、ネズコ属などに当てられる。
 日本でも、ヒノキ科のコノテガシワにはカシワの名が用いられているが、これは漢名の柏の字から来た呼び名ではないだろうか、という。
 ともかくも、柏は中国では針葉樹だから、柏餅の説明に「その広い葉で餅を包む」などと言っても、理解に苦しむにちがいない。

・日本でいうカシワは、中国では「櫟」になる。
 これは日本では、クヌギあるいはイチイに当てられているから、さらに厄介である。
 因みにカシワには別に、槲、枹、柞などという字も使われている。
 枹などはその字面からなんとなく柏餅を連想するではないか。
 柞はハハソ、ホウソを意味する。

・さて、和名のカシワは、どこから来たのか。
 これには大きく分けて三説があるという。
①第一は「堅(かた)し葉」から来たものだとする
②第二は「炊(かし)き葉」から。
③第三は「食敷葉(けしきは)」から。
意味については、次のようなものである。
①第一は葉の硬いことから。
②③第二と第三は、かなり近くて、どちらも食事に関する。
 「炊き葉」もこれで食物を炊く、というより食事に使う、という意味があるようだ。
(葉っぱを燃料にした、というのは受け取りにくい。燃料にするなら、その小枝など薪のほうがはるかに効果的である)
 「食敷葉」というのが、一番、説得力がある、と著者は考えている。
 広い葉でしっかりしているし、香りがあるしするから、ホオノキと並んで、食物を盛るには恰好の材料である。
 葉が冬にも落ちないで、翌春、新芽の出るときに新葉と置き換わる、というのは、「葉を譲る」としてめでたいこととされた。この点も神事としての食事に相応しいものと考えられた。

※食べ物を包んだり、盛ったりするのに大型の木の葉、草の葉を使うのは、全世界的に見られることである。
 さまざまな種類の植物が用いられるが、日本では先に挙げたホオノキ、ササ、サクラそしてカシワが代表的である。
 ついでながら、柏餅はたしかにカシワで包むからその名があるけれども、どこでもカシワが使われるのではなく、たとえば紀州などではサルトリイバラ(サンキライ)が用いられる。
(さすがにこの場合は、柏餅とは言わないで、五郎四郎餅などという名がある)
 中国でも、カシワの葉で包んだ餅があるそうだ。朝鮮では、餅のほかに麺を包む場合もあるらしい。むしろ、多くの食べ物に関する風習と同じく、元は中国のものが朝鮮経由で日本にもたらされたと考えられる。

・北海道には、かなりの巨木がある。
 高さ20メートルから25メートルに近いものもある。直径は1メートルから1.5メートルに達する。こうなると、まさに森の王者にふさわしい。
 実際、ほとんどの国々で、昔から森の王として尊崇されている。
 アイヌ民族は、コム・ニ・フチ(カシワの木の婆さま)あるいはシリコル・カムイ(山を・所有する・神)として崇めている。

<ヨーロッパでのカシワ>
・ヨーロッパでは、ギリシア以来、森の王として位置づけた。その葉は、名誉の象徴とされて、軍帽や飾帯のデザインに用いられている。
・宗教的には、ケルトのドルイド(これはそもそもカシワを意味する)や、ゲルマンにおいても重要な役割を持つ。
・ワーグナーの『タンホイザー』にも出てくる。
・魔笛もこれでつくられた。
・ドイツ人がもっとも好み、大切にするのは、このカシワ(Eiche)とモミ(Tanne)である。

<カシワの用途>
・カシワは、その葉が柏餅に使われるだけではない。
 材は堅い優良材であるから、造船材だけでなく、建築・内装・家具材として使われる。
・内皮からはタンニンが採取された。
(北海道のカシワは、それで伐採されたものが多い)
・薪炭材としてもよく用いられる。
 これはミズナラと同じく、萌芽する性質が利用される。
 ミズナラとはきわめて近い種類で、葉の鋸歯が丸みを帯びて、縁が波状になること、その実に外側に反りかえった毛状の鱗片が密生している点で、区別されるが、中間的雑種も少なくないそうだ。
(辻井達一『日本の樹木』中公新書、1995年[2003年版]、116頁~119頁)

【カツラ(カツラ科カツラ属)】


【カツラ(カツラ科カツラ属) Cercidiphyllum japonicum】
〇カツラは日本の名木である。
・中国にも近い種類が分布するが日本のものが有名で、英語でもカツラ・ツリーで通用する。
 カツラは高さ30メートル以上になり、大きなものになると直径が4~5メートルというのも珍しくない。
(もっとも、それだけの大木になると、たいていは洞になって、まわりの側だけが残ったのが多い)
・学名はCercisすなわちハナズオウの葉、を意味するものである。
 実際、その葉の形はマメ科のハナズオウそっくりの広いハート型をしている。
(ただし、葉の付き方はカツラでは均整な対生だから、似ているのは葉の形だけということになる)
・カツラという名前は、古くは今呼んでいるカツラだけに当てられたものではないという。
 タブとかヤブニッケイなど暖帯に分布する香気を持つ樹を指した。
 植物学上のカツラと文字の上での桂とは一致しない。
・中国での「桂」はモクセイ(キンモクセイ)のことで、これはまったく違う植物である。
 中国南部の景勝の地、桂林はキンモクセイで有名なところで、日本でいうカツラの樹から名づけられたのではない。
・京都の葵祭にはカモアオイ(加茂葵)あるいはフタバアオイとともにカツラの葉がかざされるが、これも葉の形が似ているところから用いられているのであろう、と辻井氏は記す。
 アオイの減った今では、むしろほとんどがカツラの葉になっている。
(辻井達一『日本の樹木』中公新書、1995年[2003年版]、147頁~148頁)

【キタコブシ/タイサンボク(モクレン科モクレン属)】


【キタコブシ/タイサンボク(モクレン科モクレン属)】
・コブシという名前については、まだこれぞという定説がないそうだ。
 一説では、花の開きかたが小児の拳のようだともいうが、これもあまりうなずけない、と辻井氏は記す。
・漢名としては、辛夷を当てることが多いが、中国の辛夷はむしろハクモクレンがこれに当たるという。コブシやキタコブシの漢名とするのは誤りらしい。
(辻井達一『日本の樹木』中公新書、1995年[2003年版]、152頁~153頁)

【ユリノキ(モクレン科ユリノキ属)】


【ユリノキ(モクレン科ユリノキ属)】
〇ユリノキは、モクレン科ユリノキ属の高木である。
 アメリカ渡りの樹で日本産ではない。
・ユリノキはもちろん「百合の木」で、その花をユリに見立てたというのだが、これは断然、ユリよりもチューリップに似ている。
 ちょっと黄色というか、ときにオレンジがかった緑色のものだが、形はまさにチューリップそのものなのだ、と辻井氏はいう。
 上向きのベル型で直径ほぼ6~7センチ、大きさまでそっくりであるそうだ。
(もっとも、うんと開けばユリの花に近い感じにはなると断り書きも記す)
・英名も、チューリップ・ツリーという。
 それがなぜユリノキかということ、明治年間の渡来のころには、まだチューリップもポピュラーではなく、むしろユリノキとしたほうが分かりやすかったということらしい。
(庶民のためを思った命名か、とも記す)
・もうひとつの名前にハンテンボクというのがある。
 これは半纏木の意味である。
 半纏は昔、大名奴などの、あるいは近くは江戸町火消し、鳶職の着た、丈もそして袖も短い仕事着のことである。
 何故、半纏木かというと、葉が半纏の形に似ているからだという。
(確かに言われてみればそう見えるが、半纏がそう一般的ではなくなった今では、ユリノキよりも説明が難しい、と辻井氏はいう。若い人にはなおさらである。)
・ユリノキは北米に1種、そして中国に1種がある。
 中国産のシナユリノキは鵝掌楸と書かれ、まさにその葉の形を示すが、別に馬褂木とも言い、これは清代の上着の形になぞらえてのことだから、日本の半纏木と同じ発想であるようだ。
・半纏に見立てるかどうかは別として、葉の形はたしかに面白いもので、こんな形の葉は他にはそうない。
 先が凹んでいるカエデのような、とでも言っておこうか、とする。
 中国名のもう一つに四角楓というのがあるそうだ。春の新葉は明るい緑で美しく、秋には黄色く色づく。
(辻井達一『日本の樹木』中公新書、1995年[2003年版]、159頁~160頁)

【ツルアジサイ(ユキノシタ科アジサイ属)】


【ツルアジサイ(ユキノシタ科アジサイ属)】
〇アジサイの仲間は種類が多いが、その中でツルアジサイはちょっと特殊で面白い種類である。
 この植物は、ゴトウヅルの変種ともされ、あるいは同じものとして扱われたりもする。
 アメリカでは、クライミング・ハイドランジアと呼ばれている。
 蔓性のアジサイであるところが注目されたのである。
・蔓植物というのは熱帯などに多くて、寒い地方には概して少ない。
 ところが日本の特徴として北海道でもかなり暑い夏があり、しかも湿度が高いこともあって、寒冷な気候を持つ地域としては異例なほど多くの蔓植物を維持するという。
 そうした種類の少ないヨーロッパやアメリカの北部の人たちにとっては、珍しく興味を引くとともに、それらの耐寒性のある蔓性の植物を庭園用に使おうとさせるようだ。
(かえって、そうしたものに慣れてしまっている日本のほうが、耐寒性の蔓性植物に対して冷淡なのかもしれない。あるいは、林業上には蔓植物は林木の育成にはむしろ邪魔になり、大敵でさえあるから、これを排除する考えのほうが強かったことも大きいとされる)

・ツルアジサイは、そうした種類の代表例になる。
 別名にツルデマリ、アジサイヅタ、ユキカズラなどがあり、どれもこの植物の性状を表しているが、ユキカズラなどというのは、いかにもきれいな名前である。
 ゴトウヅルというのはどういう意味か不明で、さすがの牧野博士も匙を投げているという。
 アイヌ名はユック・ブンカルすなわち「鹿・つる」というので、これも知里博士は説明を付けていない、と辻井氏は記す。
(辻井達一『日本の樹木』中公新書、1995年[2003年版]、171頁~172頁)

【ハリギリ(ウコギ科ハリギリ属)】


・山の中で途方もなく大きなサイズのカエデと覚しき葉を見ることがあるという。
 秋だとかなり見事に黄葉しているから、大抵の人はてっきりカエデだと思って、名前を探したりする。
 なにしろ大きいのになると、長さといい幅といい、いずれも30センチ余もあるから、とんと天狗の羽団扇という構えである。
(ハウチワカエデというのがあるが、とても喧嘩にならない)

・この人騒がせな葉は、実はウコギ科のハリギリのものである。
 場所によっては、まさにテングノハウチワ、あるいはテングッパという呼び名もあるから、やはりそう見た人も少なからずあるということであろう。

<ハリギリの刺とタラノキ、ウコギ科>
・よく見れば小枝にはカエデにはあるはずのない針がある。
 これがハリギリの名の所以である。キリのほうはというと、これは材質がキリに似ているというところから来たものであるそうだ。
 小枝の針とは言ったが、その形状、針というよりも刺に近い。
 それも大型の刺で、タラノキもかくやだが、実際、タラノキも同じウコギ科の植物である。

・ウコギ科というのは、かなり豊富なタイプを揃えている。
 カミヤツデ属、カクレミノ属、キヅタ属、ウコギ属、タラノキ属、フカノキ属、ハリブキ属、それにこのハリギリ属などが含まれる。
 もっとも、ヤツデには刺はないし、タラノキは羽状複葉ではあるが、その芽の様相などはすこぶる似ている。

<タラノキについて>
・タラノキはタランボと称して、春の山菜のもっとも代表的なものの一つである。
 その新芽の味わいを推奨する人が多い。
 新芽の味というのは共通するものが多いが、アスパラガスとか空豆の味わいに近いのではないか、と著者はいう。
 だんだんと有名になってきて、山のものは採り尽くされる恐れがでてきたそうだ。
 山菜採りの仁義も落ちてきて、最後の一芽さえ残しておかないものだから、株も死滅してしまう。
・そこでこの頃は栽培が始まった。新芽を伐ってきて促成栽培にかける。これは本当の栽培ではなくて、季節調節に過ぎないようだ。

※その栽培品が市場に出るのだが、著者は、一度、保健所から鑑定を頼まれたことがあるそうだ。
 市場に出た巨大なタランボだという。見たらハリギリの芽であったそうだ。
 これは数段、大きい。保健所では「正体が分かればよい、有毒でさえなければ市場に出るのは構わない」という。それに対して、著者は「ハリギリで有毒ではない、ただし味は保証しない」と返事をしたそうだ。
 味のことも保健所の責任ではないとのことであった。
(たしかに食いではあるだろうから、商売にはなるかもしれない、と著者は記す)
※ハリギリは『救荒本草』に出ているというから、食用になるのは間違いないようだ。
(ただ、いよいよという段階でなければ、食べ物に列せられなかったということか)

<ハリギリについて>
・ハリギリは、もちろんタラノキよりもはるかに大きくなる。
 高いものでは25メートル以上、直径は少なくとも1メートル以上にはなる。
 大きな枝が比較的まばらに張って堂々たる風格である。
 枝先は棒状でわりとぶっきらぼうである。(タラノキのそれと一脈相通じる)
 その先に付く冬芽(頂芽)はやや卵形で、長さは5~10ミリくらいである。
 幹の肌はやや黒っぽい褐色、むしろ灰褐色。
 花はかなり細かくて、薄い黄緑がかった径5ミリほど、これが大きな散形花序になってたくさん付く。
・材質がキリに似ている。柾(まさ)が通っていて美しい。
 そこでかつては下駄材にも使われた。
 アイヌ民族は、この木で丸木舟をつくったり、大きな木鉢や臼をつくったりしている。細工がしやすいのであろう。
(辻井達一『日本の樹木』中公新書、1995年[2003年版]、260頁~263頁)

〇季節と花

〇季節と花


【キタコブシ/タイサンボク(モクレン科モクレン属)】


【キタコブシ/タイサンボク(モクレン科モクレン属)】
〇キタコブシはコブシの北方型の変種の一つである。
 コブシを含めてモクレンの仲間は、木本植物の種としてはもっとも古いもののひとつである。
 アジアと北アメリカに約35種が分布する。
 常緑性と落葉性とがあり、コブシもキタコブシも落葉性のものである。
・この類はいずれも花が大きく艶やかで、しかも春に他の花に先駆けて咲くところから、どこでも昔から鑑賞されてきたそうだ。
 そこで迎春花の名もある。
(実際、まだ木の葉も満足に出ていない頃に咲く大きく白い花は、特に鮮やかに目立つ存在である)

・春早く咲いて目立つところから、北海道や東北地方および信越地方などでは、満作(まんさく)あるいは田打ち桜とも呼ばれる。
⇒花の多い年は豊作が期待されたという。
 田打ち桜とは、この花が咲けばもう霜の虞(おそ)れがなく、田を起こしても大丈夫という信号としての名であるそうだ。
 まだ茶褐色に見える山や丘の斜面を彩って点々と白い花が見えると、たしかに春がやってきたな、という感じが強いらしい。
(林下にはひょっとするとまだ雪が残っているが、それでも気温は十分に上がっているのがこの季節である)

〇コブシは、高さ10~15メートルくらいになる。
 幹はほとんど直立し、直径は30~60センチほどになる。
 樹皮は灰白色で、やや滑らかである。
 生長はわりと早い。
 枝も均整に出て樹形は整った円錐形になる。
 花は、ハクモクレンほど大きくはなく、豪華ではないが、上品だからコブシやキタコブシのほうを好む人も多い。
(辻井達一『日本の樹木』中公新書、1995年[2003年版]、151頁~154頁)

〇生活に役立つ植物

〇生活に役立つ植物


【ツルアジサイ(ユキノシタ科アジサイ属)】


【ツルアジサイ(ユキノシタ科アジサイ属)】
〇落葉性の蔓植物で、木に絡みついてよじ登り、長さ20メートル以上に達する。
 各所から気根を出し、これでもっぱら空中の水分を捉える。
 樹皮は褐色でしばしば縦に剥げる。
 葉は対生で長い柄があり、先の尖った卵円形あるいは広卵形。
 花は直径5ミリほどの小さな両性花が多数と、そのまわりの白い萼片が3枚ないし4枚の装飾花が集まって集散花序をつくる。
 花序の直径は20~25センチほど。この花序はかなり密に蔓の各所に付くから、開花したときにはなかなか見事な景色になる。絡みついた木が、ほとんど花で覆われるような感じになるという。
・この性質を使って、壁面の装飾ができるらしい。
 1994年に有名な『叫び』の盗難騒ぎがあったノルウェイはオスロ市のムンク美術館の中庭に面する壁面がこれで一面に覆われているのは、なかなか見事で、うまい設計だと、辻井氏は思ったそうだ。
 花期にはまさに全面が花で埋め尽くされる。花のない時期でも濃い緑の葉で包まれていてきれいに見えるらしい。
(辻井達一『日本の樹木』中公新書、1995年[2003年版]、171頁~172頁)


〇歴史との関連で

〇歴史との関連で



【アコウ/ガジュマル/イチジク(クワ科イチジク属)】


【アコウ/ガジュマル/イチジク(クワ科イチジク属)】
〇アコウもガジュマルもクワ科の樹木であり、ともに暖地に育つ。
 アコウは、本州では紀州から四国、九州に分布し、もちろん琉球から台湾そして中国の南部沿岸地方に見られる。東南アジアにも多い。
 高さ20メートル、直径1メートルほどに達する。
(高さはそれほどでもないのだが、樹冠はこんもりと大きく広がり、豊かな蔭を落とす)
・幹や根際から気根を下ろすが、バンヤンジュのように枝から長く下ろすことはない。
 幹が這うように垂下し地面に達する。葉は革質のかなり大きなもので、乾かして焼くと、よい香りを発するので、沈香木(じんこうぼく)と呼ばれる。春の新葉が出るときには、赤みを帯びて美しい。

〇ガジュマルは榕樹の名もある。不思議なことにどこがマツに似るやら、タイワンマツとかトリマツ(鳥松)とかいうことがあるそうだ。
・アコウよりももっと暖かい条件でなければ育たない。
 したがって、その分布は屋久島から奄美諸島、琉球、台湾、中国南部沿岸、東南アジア、インドそしてオーストラリアになる。
・樹全体の感じはやはりアコウに近いが、これは常緑である。
 幹から出る気根はアコウと同じように、幹を這い伝うように下がって地面に達するが、その他に枝からも立派に気根を下ろす。(なかなか人目を引く面白い光景である)

〇イチジクもこの仲間、というより日本ではこの属を代表する樹である。
 ただ、実は日本自生のものではない。
 イチジクの渡来は、寛永年間(1624-44)というから、それほど古い話ではない。
 (それ以前の人たちはイチジクの味を知らなかったということである)
 初めはカラガキ(唐柿)と呼ばれたと言い、ナンバンガキ、トウビワなどの名もあったそうだが、今は使われない。
・原産地は小アジアだという。
 聖書にもよく出てくるから、それらの地方では相当古い時代から食用として広く用いられていたことになる。
⇒そもそもアダムとイブとが最初に身に着けたのがイチジクの葉だということになっていて、その様子を描いた多くの絵画がある。
(そうなると人類発祥以来の、もっとも人間に深い縁のある樹だということになるのではないか、と辻井氏はいう)

・イチジクの高さは、日本でこそ、せいぜい3メートルとか5メートルとかだが、条件がよければ高さ20メートル、直径1メートル以上にもなるそうだ。
 その実は、生で食べるだけでなく、干して食べることも多い。
(辻井達一『日本の樹木』中公新書、1995年[2003年版]、140頁~142頁)

【ヤマグワ(クワ科クワ属)】


【ヤマグワ(クワ科クワ属)】
・養蚕つまりカイコを飼うのに使われるクワに対して、山野に自生するクワということで、ヤマグワという名がある。
・普通、植物の名が与えられるときには、山野の自生種が基本になって、それから栽培種の名がつくられるが、クワについては、むしろ逆をいっている。そのあたりに、養蚕の歴史がいかに古いかを物語っている。
(日本の養蚕の歴史は、弥生時代の中期から始まると考えられている。一方、中国のそれは実に紀元前3000年からと見られる)

・養蚕に使われるクワは、日本ではマグワすなわち真桑と呼ばれる。
 まさにヤマグワ(山桑)に対する名前である。
 これは別名をトウグワ(唐桑)というように、もともとは日本産ではない。
 朝鮮から中国にかけての原産で、紀元前にインドへ、そして日本へと伝わり、シルクロードを経由して、12世紀にヨーロッパに達した。
 絹の道すなわちシルクロードは絹の西欧への紹介のルートであるとともに、クワの伝播の道でもあった。
 クワなしには、養蚕の可能性もなかった。
・ヤマグワの学名の一つ、Morus bombysisはカイコの学名 Bombyxからきているそうだ。
 ただ、通常はヤマグワは養蚕には用いられない。栽培桑の生育が不良で飼料が足りないときには、ヤマグワもまた用いられた。ことに霜の害に強いところから、養蚕地帯ではヤマグワを山地に植えておき、栽培桑が被害を受けた場合の予備とした。ヤマグワは晩霜の時期にはまだ発芽していないし、山地のほうがかえって霜害が割合に少ないことからである。
 しかし、山地植えのクワは、葉の質が硬く、飼料としてはやはり劣る。したがってカイコの成長も低下するのは止むを得ない。あくまで緊急用である。
 
・北海道では、最初からヤマグワを用いての養蚕が行われたことがあったが、これは栽培桑の生育が困難であったことによるものであるようだ。
 開拓の初期にさまざまな試行錯誤が繰り返されたが、養蚕への努力もまたその一つであった。
 北海道各地でその試みが見られ、たとえば、札幌の桑園という地名はまさにその好例。開拓使が養蚕を興すべく仕立てた桑園がその地名の起こりである。
・クワの栽培のもっとも東にある例は、釧路地方の厚岸町太田の通称屯田兵のクワ並木である。
 浜中町にもおなじような例がある。いずれにしても北海道の最東端に近く、いうなれば、シルクロードのもっとも東に達したものということができる、と辻井氏はいう
 絹の道は西だけでなく東にも向かっている。


【ヤマグワ】
・クワ科クワ属の落葉樹。
 クワ属は北半球の暖帯ないし温帯地方に10余種が分布し、ほとんどが灌木だが、なかには高木になるものもある。
 クワ科には近い属に製紙の材料として有名なコウゾ属があるように、クワ属もまた製紙の原料になりうる強い繊維を持つ。
・ヤマグワはほとんどが雌雄異株で、高さは10メートル、直径では60センチに達する。
 葉は卵形、広卵形だが、不整な破片を持つなど、形は変わりやすい。
 花は小さくて目立たないが、花の後に着くイチゴ形の果実は甘くて食用にされる。はじめ赤いが完熟すると紫黒色になり、食べると唇が紫色に染まる。
(辻井達一『日本の樹木』中公新書、1995年[2003年版]、143頁~146頁)

【プラタナス(スズカケノキ科スズカケノキ属)】


【プラタナス(スズカケノキ科スズカケノキ属)】
〇プラタナスは、スズケカノキという和名もあるのだが、もっぱらプラタナスで通る。
 おそらく日本では、というより世界でもっとも広く、多く使われている街路樹ではないかという。
 だからほとんど世界中の人がこの樹を知っていることになる。
 街路樹とか公園樹に使われた歴史は古くて、ローマの諸都市ですでに用いられているし、ギリシアでも古代から植えられたそうだ。

<プラタナスの英名>
・プラタナスの名はギリシア語からきているが、英名はプレーン・ツリー。
 しかし、しばしば(ことにアメリカでは)、シカモーアと呼ばれる。
 (この場合は、アメリカスズカケノキを指すことになる)
 ところが、ヨーロッパで(英国を含めて)シカモーアとは、カエデの仲間でセイヨウカジカエデを言う。
 そこへ持ってきてスコットランドでは、このカエデもプレーンと呼ぶそうだから、混乱の度は増して始末が悪い。さらに、シカモーアと呼ばれるものには、この他にクワ科のイチジクの一種があるという。

<和名のスズカケノキ>
・和名のスズカケノキという命名は、松村任三博士だそうだが、牧野富太郎博士によると、これは山伏の法衣の名で篠懸(すずかけ)というのがあるのを、そこに付けてある球状の飾りの呼び名と間違えてつけてしまったもので、もし強いて書くなら、鈴懸とでもしなければ意味が通じないそうだ。
⇒英名も和名も混乱だの間違いだの多い樹であるようだ。

・スズカケノキの実は確かに山伏の衣裳に付いている球状の飾り玉にサイズも似ているし、目立つ特徴でもある。
 
※ことにスズカケノキのそれは数も多いから季節には大いに目立つ。
 ⇒これはどこでも注目される特徴だったようで、別の英名にはバトンウッドとかバトンボールツリー、すなわちボタンノキというのがあったりする。大きなボタンである。
 これは果球とでも言うべきもので、完熟するとほぐれて多数の小さな堅果が出る。
 (その数は1グラムあたり500粒に達する。小さなものだから風で容易に広く散らされる)

<ヨーロッパでの栽培の歴史>
・ヨーロッパでの栽培の歴史は古くて、なにしろ自生していたこともあり、目通りの直径は10メートルだの、15メートルだのという大木があちこちで記録されている。
 ⇒そうなると年数ももちろん相当なもので、1000年とか1500年とか伝えるものも少なくない。
 なかにはアレキサンダー大王の軍勢がその下を通ったとか、マルコ・ポーロが中国に赴く時に見て記録したとかいうのがあったりする。

<英国のプラタナス>
・もっとも英国に入ったのは、かなり遅くて、1636年だそうだ。それでも今から360年も前だから、各地にある樹も大きなものが少なくない。
・街路樹としても昔から使われていて、たとえば名探偵シャーロック・ホームズの住んでいた(ということになっている)有名なベーカー街221-Bという借家の裏庭(ヤード)にも1本のプラタナスがあった、と書いてある。

※これはモミジバスズカケノキであろうと推定されている。
 というのは、ロンドンでは、アメリカスズカケノキが初期に植えられたものの、成績がよくなくて、モミジバスズカケノキに置き換えられたからだそうだ。
 そこで、ロンドン・プレーンの名さえ出たという。
⇒当時のロンドンと言えば、産業革命の最中で甚だしい煤煙に悩まされていた頃であるし、プラタナスはそうした条件にもっとも強い樹種として採用された。

<プラタナスという木>
・葉の形が優美なのに加えて(これは大きすぎるとして嫌われる場合もあるが)、樹肌の斑紋が面白いのも人気の所以である。
 しかし、そうした特徴よりも、やはり剪定に強いという管理上の都合の良さが、なにより公園担当者の好みに適ったに違いないという。
・立地への適応幅はたいへん広くて、地味が痩せた、そして乾燥した立地でも十分に育つ。
 しかもロンドンでの例で述べたような煤煙など大気汚染にも強いとされているのだから、都市環境には持ってこいなのである。
 
<日本でのプラタナス>
・日本では明治8年か9年頃に入ったとされる。
 小石川植物園が最初で、大きいものが残っている。
 モミジスズカケノキは新宿御苑に明治25年に植栽され、今では立派な並木が皇室専用の門から奥に向かって、亭々として並んでいる。
(辻井達一『日本の樹木』中公新書、1995年[2003年版]、179頁~182頁)

【フジ(マメ科フジ属)】


【フジ(マメ科フジ属)】
〇フジは、日本では棚作りにされることが多い。いわゆる藤棚である。
 通常、木で棚をつくり、これにフジを絡ませる。時には棚を鉄のパイプなどで組むこともあるが、腐りやすくても、やはりこれは木の風情にかなわない。
・何故、棚でつくるかというと、フジの花が穂咲きで垂れ下がるからである。
 垂れ下がる花の穂を観賞しようとすれば、これは棚作りに限る。
 棚から垂れ下がった花穂が並ぶのは、まさに壮観である。
・藤浪(ふじなみ)という言葉がある。
 なみは、「なびく」と同じ意味である。ふじなみは穂なみと同じく、並んで風になびくということを指すようだ。そこで、フジを棚作りにするというのは、よくその性質を生かしている。花穂が並ぶ効果を高めることになる。

・フジは、日本のものというイメージが強いが、中国、朝鮮そして北アメリカにも自生する、マメ科フジ属の蔓性植物である。
 日本に分布する種類は、フジもしくはノダフジ(野田藤)、ヤマフジ、ノフジなどと呼ばれるものである。
(野生のものをヤマフジ、栽培しているものをノダフジと呼んで区別することもあるが、両者は同じだ、と著者は記す)

<吉野の桜、野田の藤>
・ノダフジの野田は大阪市の南部にある。
 野田は昔からフジで有名で、「吉野の桜、野田の藤」とさえ呼ばれた。

・フジは、落葉性で蔓の巻き方向は左巻き、葉は奇数の羽状複葉で、小葉は13ないし19枚と一定しない。
 本州以南に分布し、北海道には自生はない。
 葉は卵状長楕円形で、小葉のサイズは小さく、長さ5~10センチ、幅2~2.5センチ、薄くて上面には光沢がある。

・若葉は茹でて食べる。
 『大和本草』にいわく、「葉若き時、食うべし」とある。
 さらに、「その実を炒りて酒に入れれば酒敗れず、敗酒に入るれば味正しくなる由」とあって、これは酸敗した酒のことだが、そううまく直るかどうか、と著者はコメントしている。
 もっともこうした記載は、『和漢三才図会』にもあるという。

・蝶形の花は普通、紫色で、これを藤色ともいう。
 一房に数十から100ほども付く。それが一時に咲けば、これほど壮観なことはない。
 花も飯に炊き込んで、これを藤の飯と称する。
 花は食べられるが、その種子の肉は緩下剤として作用するという。

・棚作りにするのが多いのだが、うまく足掛かりをつくってやれば相当、高い壁にも這い上がらせることができる。
 こうなると見事な花の壁ができるわけで、一見に値する。
 これは棚または垣仕立てと呼ぶ。
 この方法を応用すれば、アーチにもゲートにも仕立てられる。
 アメリカなどでは、こうした仕立て方のほうが一般で、かえって日本に見る藤棚方式のほうが少ないそうだ。
 ウィスタリア・アーチ、ウィスタリア・ゲートなどがそれである。
(辻井達一『日本の樹木』中公新書、1995年[2003年版]、207頁~208頁)

【ニセアカシア(マメ科ハリエンジュ属)】


【ニセアカシア(マメ科ハリエンジュ属)】(学名:Robinia pseudo-acacia)
〇ニセアカシアは、日本に広く見られるが、日本の自生種ではない。
 しかし、明治以来のパイオニアで、もはや市民権は得ているようだ。

・ニセアカシアは、その学名からの命名である。
 ロビニアという属名は、フランスの植物学者ロビン(この人は17世紀の初めにアメリカからこの樹を導入して栽培した。その樹はヨーロッパ最古のニセアカシアとしてパリ植物園に現存するという)の名に由来する。
⇒このことからフランスでは、ロビニエの名のほうが通っている。
※種名のプソイド(プシュウド)は、偽の、とか紛い物の、とかいう意味を持つので、こういう和名が付けられてしまったそうだ。

・アカシアというのは、おなじマメ科だが熱帯の産である。オーストラリア、アメリカ南部、インド、東南アジア、アフリカなどに分布する。
 ニセアカシアは、葉の形状などがこれに似ているということから、哀れにも、ニセの、ということになってしまった。

※これではあまりかわいそうだというので、様々な提案がなされたそうだ。
 アカシアのほうをホンアカシアとでも呼んで、ニセアカシアをアカシアに格上げしては、とか、アスアカシアと言ってはどうか、とか、あるいは属名をそのままに採用してロビニアとしてはどうか、とか。
 北大植物園の初代園長であった宮部金吾博士も、ロビニア推進派だった。
 しかし、決定打が出ないままに、現在に至っているようだ。
 これは、本物のアカシアが日本ではよほど暖かい場所でなければ育たなくて、ニセアカシアと競合しないこともあるらしい。
(もっとも、実用上にはどうでも差し支えがないが……)

<和名としてのハリエンジュ(針槐樹)>
・和名としては、別にハリエンジュ(針槐樹)というのがある。
 これは松村任三博士が命名した。植物学上では、この名が比較的多く使われる。
 もっと古くは、重兵衛バラというのがある。今ではまったく通用しないが、面白い名前である、と著者はいう。これは、明治16年に群馬県の中山重兵衛という人の息子がアメリカから種子を手に入れて、植林を試みたことからきている。
(それにしても、バラとはどういうイメージからの命名だったことやら、と著者はコメントしている)

<中国では洋槐~青島(チンタオ)は洋槐半島>
・中国では洋槐という字があてられている。
 これはなかなかうまい命名であるという。中国に多い槐樹に対する区分である。
 もうひとつは、徳国槐というので、これはドイツ(徳国)が租借していた青島(チンタオ)に大いに植えたことから来ているそうだ。
・青島のニセアカシア林は、中国ではもっともよく成功した例の一つになっている。
 ここで、ドイツは、1億5000万本を植林した。青島は洋槐半島と呼ばれた。

<英国では、フォールス・アカシア、アメリカではローカスト、パイオニア・ツリー>
・英国では、フォールス・アカシアで、これはニセアカシアそのままである。
 アメリカでは、ローカスト Locustあるいは、ブラック・ローカストと呼ばれる。

<パイオニア・ツリー>
・ニセアカシアは、実際、パイオニア・ツリーという名も持つ。
 アメリカの西部開拓時代に、新しい町が生まれると必ずと言ってよいほど、この樹が植えられたことによる。
 どのような土質のところでも、よく育つ強靭さを持っており、ほとんど手入れも要らず、伐られたり折られたりしても、何度でも萌芽する強さが、乾燥した西部にはぴったりだったのであろう。
 
<明石屋>
・日本では、明治11年に何と「明石屋」という名で紹介されているという。
 なかなかうまい当て字だ、と著者はみている。
 公園としては、日比谷に最初に植えられた。
 しかし、北海道での記録はさらに古く、明治4年に開拓使が輸入して札幌農学校の試験園に植えている。明治6年には円山の札幌神社裏参道に植えたとある。
 本格的な並木は明治18年に東西道路は南四条まで、南北道路は西四丁目に植えられたという。
⇒北原白秋の『この道』は、アカシアの咲いている札幌の道を唱ったものだが、その道はどこだったかは、不明としている。

・ニセアカシアは、高さ20メートル以上になる落葉高木で、原産地はアメリカのロッキー山脈以東ペンシルバニア、オハイオ、イリノイ、バージニアの諸州を中心とする一帯である。
・若い幹と小枝には刺がある。これがハリエンジュの名の元である。幹も太くなると針がなくなる。
⇒若い幹と枝に刺があるのは、原産地に住む山羊などに対するものだ、という説明がある。
・葉は互生の奇数羽状複葉、花はよく知られているように6月頃、房状に蝶形の白い花が付く。香りがよい。花はてんぷらなどにして食べられる。
・花の香りは甘い。匂いに誘われて、アブ、ハナバチ、そしてもちろんのこと、ミツバチも集まる。そこで主要な蜜源植物になっている。
(「アカシア・ハニー」というのはいいが、「ニセアカシアの蜜」ではちょっとまずい)
※近来は、花粉症の原因になる場合もあると言われて、並木としては人気がなくなってきつつあるそうだ。
・並木や公園に植える他に、乾燥や土壌を選ばない性質を利用して、荒れ地や崖地、海岸などの緑化にも使われる。(中国の青島も、そして大連もその例である)

・マメ科だから根瘤バクテリアを持ち、窒素固定をして土壌改良をやってのける性質も、荒れ地の緑化に向いている。
 生長も早いから、初期緑化の材料としては恰好である。
 葉は飼料になる。
 材は燃料としても使われるが、なかなか堅くて強いので、かつてはスキー材にも用いられた。
※ただし、浅根性なので風害を受けやすく、根元から倒れるケースが少なくない。
⇒この点が、並木にする場合の最大の欠点とされる。
(今でも本数だけから言えばメジャーなほうだが、新しい植栽本数は年々減ってきている。アカシアの時代は、そろそろ終わりに近づいているようだ)
(辻井達一『日本の樹木』中公新書、1995年[2003年版]、210頁~214頁)

【ネムノキ(マメ科ネムノキ属)】


【ネムノキ(マメ科ネムノキ属)】
・ネムノキは、大抵の人が知っている。
 夢のような優しい花の姿は昔から人々に愛されてきたものであった。
 しかも、その花が夕方に楚々として開き、夜や暑い日中には閉じるところが、いかにも生き物を思わせて親しまれた。
 
・こうした情景は、昔から歌や俳句によくうたわれている。
 『奥の細道』の「象潟(きさがた)や雨に西施がねぶの花」が有名である。
 ⇒雨に濡れたネムの花は、睫毛を閉じた美人・西施の憂愁のさまを思わせるに、まことに十分なものがある。
(<注>象潟の読み方は、「きさかた」が一般的だが、この本でのふりがなは「きさがた」としている)

・花は夕方に開き、夜や暑い日中には閉じるのに対して、葉は朝に開いて夜に閉じることを繰り返す。
 ネムノキの名は、「睡る木」を言うが、どちらを指して言ったのか。この点について、夜眠るのが普通だろうから、これは花よりも葉についての命名と考えるほうが、よさそうだ、と著者はみている。
(花は夜にかけて開くのだから、これでは夜遊びとまではいかなくても、宵っ張りのお嬢さんということになってしまうと……)

・高さはそう大きくはならない。4~5メートルくらいのがもっとも多い。
 枝はよく張り、横に水平に近く出て広がる。
 葉は細かいものが多数。花びらは淡紅色で短く、これに多数の同じく淡紅色の雄蕊(ゆうずい)が目立つ。合わせて、いわゆるネムノキの花として目に映る。

・何となく中国からの伝来を思わせる花の様子なのだが、日本にも自生したという。
 ただし、耐寒性はあるものの、本州以南、四国、九州にあって、北海道にはない。
 本州では、東北地方でも育つ。なにしろ芭蕉が象潟で見たのだから、確かである。

・ネムは漢字では、合歓あるいは合歓木と書く。
 これも、その葉が合うところからの名前だそうだ。

※同じ字を使って、銀合歓と書く種類がある。
 これはギンネムと呼ばれるのだが、ネムの名前はあっても、別のギンゴウカン属の樹木である。
 花はもっと小さくて白いが、感じはやや似ている。
 熱帯アメリカの原産で、今では広く栽培分布している。その葉が飼料にもなるので、広まった。強いので飼料用の他にも、砂防や防風にも有用である。
(ただし、何分にも強すぎるので、むやみにはびこり、自然の景観を阻害する場合もあって、警戒されるようになった)

・第二世界大戦のときに、サイパンなどで飛行場施設のカムフラージュに使ったのはいいが、空中写真偵察で自然の樹木とは違うことから、あっさりアメリカ軍に見破られたという。
(こうなると植物学的知識が必要になる。今ではリモートセンシングの読み取り技術として常識になっていることだそうだ)
(辻井達一『日本の樹木』中公新書、1995年[2003年版]、215頁~217頁)

【デイコ(マメ科デイコ属)】


【デイコ(マメ科デイコ属)】(学名:Erythrina variegata)
・デイコは、マメ科デイコ(エリスリーナ)属の落葉高木である。
 学名エリスリーナは、ギリシア語の赤いという言葉から来ている。
 それは、この樹の花の明るい赤色に基づく。

・沖縄本島の玄関口、那覇空港を出ると、すぐこの並木が目につく。
 空港から那覇市内への道筋にもまたデイコの並木が続く。
 落葉性だから葉を落としている姿は少々、棒杭の並んださまを思わせるものがあって、何故こんなぶっきら棒な並木をつくったのか、と呆れるようにも思う。
 しかし、花が咲いている季節には、すこぶる晴れやかで、派手で、明るくて大変よろしい。
 明らかに、南国の花そのものである。

・英名もその赤色を、これは珊瑚に見立てて、コーラル・ツリーと呼ぶ。
 このデイコは、インディアン・コーラル・ツリーで、アメリカ産のものが、コモン・コーラル・ツリー、もしくはその花の形から、コックスパー(雄鶏のけづめ)・コーラル・ツリーという。

・生長はきわめて早くて、しかもきわめて丈夫な樹だから、それこそ棒杭のようにしか見えないものを植えておいても、やがて枝が出、根が伸び、たちまちのうちに葉が繁り、花が咲く。
 何とも結構な樹である。
 (那覇市の緑地公園課にとっては、デイコさまさまだろう)
・花はもちろんだが、葉もなかなかいい。
 広い卵形で長い葉柄がある。葉脈もはっきりしている。
(ちょっと葛の葉を連想させるところがある。3枚ずつ出ているところも似ている)

・那覇をはじめとして沖縄の各地にきわめてポピュラーに植えられているが、原産は熱帯アジア、オーストラリアで、かなり古くから導入されたものである。
 首里には相当の大木もある。
(辻井達一『日本の樹木』中公新書、1995年[2003年版]、218頁~219頁)

【トチノキ(トチノキ科トチノキ属)】


【トチノキ(トチノキ科トチノキ属)】
・山の中で途方もなく大きな葉に出会うことがあるそうだ。
 ホオノキもそうだが、大きなカエデと見紛うのが、このトチノキの葉である。
(それがばさりと落ちてきて、びっくりさせられたりする)

・トチノキは、トチノキ科の高木で、高さは25メートルあまり、直径も大きいものでは優に2メートル以上になる。
 トチノキ属は、日本をふくめヒマラヤ、インドなどアジア、ヨーロッパ、北アメリカに合計24種がある。
 いずれも先にカエデ型で大形の5枚から7枚の小葉が掌状に付いた複葉を持つ。
 直立した総状の豪華な花が見事だ。
⇒その豪華な花房は、シャンデリアに見立てられて、シャンデリア・ツリーの名もある。
・トチノキの英名は、ホース・チェスナッツ、すなわち馬栗である。実がクリに似ているところから来ている。

<トチノキの実>
・たしかにその実は大きさも色もクリに近い。つやつやしていてきれいなものである。
ただし、この実はサポニンを含み、渋くてそのままでは食用にならない。
薬用にしたり、含有するサポニンによって洗剤としての利用が古くから行われた。
薬用には、百日咳、胃に効果があるという。
外用薬としては、打撲傷、腫物に使われた。
(禿にも効くと聞いたことがあるが、これは確かではないという)
・樹皮はキナの代用になるそうだ。

・実はただちには食用にならないが、水に漬け、皮を剝いたものを灰汁(あく)で煮て粉にするとか、あるいは澱粉を水で晒すとかして渋味を抜き、これを材料として栃餅としたものは、各地で昔から賞味される。
 水飴とか煎餅にもなる。
・クリに似てそのままでは食用にならないあたりが、馬栗の名の起こりであろうとされる。
 しかし、そのほかにその葉痕が馬蹄形で、念のいったことに7本の釘跡までついているように見えるところからの命名だとする説もある。また、さらに、実が馬をはじめとして家畜の病気に効くからだ、という説もある。
※日本にも、その実を水で浸出したものが馬の眼病を治す効果があると言うから、これは面白い東西の一致であるという)

<トチノキとフランスのマロニエ>
・フランス名はマロニエだが、これはセイヨウトチノキ(ヨーロッパトチノキ)である。
 日本のトチノキにかなり近い種類である。
 パリの街路樹(とりわけシャンゼリゼ大通り)として有名である。
 それを見てきた人がマロニエを植えたいと言い出すケースがよくあるようだ。
 わざわざヨーロッパ渡りの樹を選ばなくても、日本にもありますよ、と著者は言うのだが、パリのイメージが抜けないらしい。
 
※札幌の駅前通り、四番街の並木選定のときにも、この話が出たそうだ。
 結局、日本のトチノキが用いられたが、説明看板にはマロニエと書きたい、という商店街の希望が入れられたという。
 このトチノキは植えたものの、なかなか花が咲かなくて、当時商店街の理事長を務めておられた方から、毎年のように「まだ咲きそうもない、いったいいつ、咲くのか」と尋ねられて弱ったことがあった、と著者は回想している。

・パリのマロニエとして有名になるくらい、街路樹としては秀逸の部類に入る。
 大きさといい、花の見事さといい、葉の大きさといい、実の美しさといい、いずれも立派なものである。
 強いて言えば、葉が大きすぎて、落葉は街路ではいささか邪魔になる。
 公園樹としては、葉の大きいことは十分な緑陰をつくれることで、邪魔にはならない。

・豪華な白とピンクの混じった花が咲く頃の日曜日を、イギリスでは、チェスナット・サンデー、すなわち「栃の木の日曜日」と呼んでいる。
さながら日本のお花見のように、楽しむという。
実際、その花盛りは見事なものなのである。通例は5月の末から6月の初めあたりにその日が来る。

<マロニエの原産地、ヨーロッパへ導入された時期>
・ここまで有名になったマロニエ、すなわちセイヨウトチノキだが、元をただせば、実はパリにもロンドンにも自生していたものではない。
・原産は、アルバニア、イラン付近である。
 ここからギリシアあるいはトルコ経由で、16世紀後半にヨーロッパに紹介されたという。
 フランスに入ったのは、1615年、イギリスに導入されたのも、ほぼこの頃とされる。
⇒パリのマロニエ並木の歴史は400年ほどということになる。
(辻井達一『日本の樹木』中公新書、1995年[2003年版]、239頁~242頁)



庭木として興味ある木

庭木として興味ある木


【イチイ(イチイ科イチイ属)】


<イチイの名の由来>
・イチイといっても北海道では通じない。これは北海道で言うオンコである。
 イチイはこの他に、アララギ、キャラボク、スオウ、ヤマビャクダン、シャクノキなどの名を持つ。
・キャラボクとヤマビャクダンは、紛れもなく、その材が色と香りにおいて、ビャクダンに似るところから来たものである。
 キャラボクは、これまたイチイとは別の変種とされることもある。
 その場合は、枝が横に張り、小型のものを言う場合が多い。栽培品種も少なくない。
 材もイチイが多く赤みを帯びるのに対して、むしろ白色である。
・シャクノキは、笏木すなわち神官の使う笏(しゃく)が、この材でつくられたことによるという。
 このことによって、仁徳帝がこの樹に正一位を授け、イチイの名が出たとされる。

・イチイ、すなわちオンコは、北海道の名木であり、銘木である。
 姿は堂々としているし、材も美しい。樹齢も相当になるから、その古木は大いに風格が備わっている。
 そこで、よく役所や社屋前の車回しなどに有難そうに植えられる。
(分布は北海道の全域であるが、ことにまとまって見られるのは、いわゆる道東である)

<イチイの性質>
・イチイは多く暗い林内に育つ。つまり典型的な陰樹である。
 その性質を利用して、昔は林の境界を示す樹として植えられることもあった。
 しかし、蔭でなければ育たないということではない。蔭にも強いが、明るい場所でももちろんよく育つ。蔭では、枝の出方が不揃いになるが、明るい場所では均整に出、びっしりと葉で覆われた姿をつくる。

・この性質を利用して、イチイはしばしばトピアリー(topiary)、すなわち刈り込みの材料とされる。
 この例は、英国で多く、ヨーロッパイチイがその素材となっている。
(いろいろな動物、あるいは幾何学模様が、何年もかけて丹念に刈り込まれてつくられる。鹿を追う数頭の犬など、一連のストーリーが描かれることもある。)
 日本でも、ときに鶴と亀の類の刈り込みがつくられていることもあるが、大きな庭園で壮大なものがつくられている例はほとんどない。
(ただ、生け垣としてはかなりあちこちで設けられている)

・生長は遅く、寿命は長い。
 直径は1メートルを超えるものがあるが、高さはせいぜい15メートル止まりである。
 枝の張りは大きいものでは高さにほぼ等しいほどになる。
(たとえば、明るい場所に植えられた北大植物園の例では、ただ2株で、直径20メートルほどの場所をほとんどいっぱいに占拠している)
・種子は堅いから、なかなか発芽しない。
 鳥が食べて、砂嚢で揉まれると発芽しやすくなるらしい。そう考えると、林の中にあちこち散らばって生えているのが分かる。鳥による種子の伝播の結果なのである。

<イチイの用途>
・日本では神官の笏に使われるが、ヨーロッパではしばしば教会の庭や墓地に植えられる。
 アイヌ名の一つに弓の樹というのがあるが、英国でもイチイはその強さから弓の材として用いられた。
・長寿・永遠の象徴とされる反面、葉に有毒成分が含まれていることも古くから知られていた。
 ハムレット劇中、王の耳に注がれる毒がこれだという。
 それはともかく、その美しい赤い実の中に黒く見える種子が有毒なのは事実である。
 果肉は食べても問題はないが、黒い種子は食べないように気をつけなければならない。
(辻井達一『日本の樹木』中公新書、1995年[2003年版]、6頁~9頁)

【我が家の庭木のイチイの写真(2022年11月6日撮影)】


【アカマツ/クロマツ(マツ科マツ属)】


・アカマツとクロマツは、日本の海岸を代表する樹である。
 少なくとも、本州以南の風景を、といえばあまり異論もでないだろう。
 白砂青松といえば、美しい海岸の代名詞である。
 しかし、これが日本の原風景か、となると、それこそ異論が出る。
 クロマツが海岸によく出てくるのはともかくとして、中国地方ことに瀬戸内沿岸のアカマツ林は、もともとこれだけ広く分布していたものかどうか、疑問らしい。

【補足】
 この点、例えば、田中淳夫氏は、『森林からのニッポン再生』(平凡社新書、2007年)において、製塩とか製陶、製鉄などが産業として広がるにつれ、そのエネルギー源としても、森林資源は酷使され続けた。山に木がなくなれば、降雨などで土壌が流され、土地が痩せた。
 すると、生えられる木は限られてくる。たいていはマツである。
中国山地にマツ林が多いのも、戦国時代からの製鉄・製塩産業のため、と田中淳夫氏は考えている。
(田中淳夫『森林からのニッポン再生』平凡社新書、2007年、26頁)



・平城京でも平安京でも、その模型にはたいていマツが、しかもアカマツが添えられているのが多いが、当時の市街地の周りがすべてアカマツだったかどうか、疑わしいようだ。
 この頃は、タブやクスなどの常緑広葉樹が多かったので、まだアカマツに置き換わっていなかったという。
(もっとも、いったん置き換わればアカマツの時代は長く続いただろうともいう。燃料としても火力はあり、有用だったにちがいない)

<アカマツとクロマツの違い>
・アカマツはメマツ(雌松、女松)、これに対してクロマツはオマツ(雄松、男松)と呼ぶ。
 アカ、クロはいうまでもなく、その樹皮の色による区分である。
 また、雌雄の名はそのサイズと葉がアカマツでは細くてやわらかく、クロマツでは太く長く、硬いところからのものとされる。
(もっとも、サイズは一般論であって、常にアカマツが小さいとは限らない)

・分布はクロマツは南方性で海岸に、アカマツは北方性で内陸に適しているというが、これも長い栽植の歴史を持つから、だいぶ混乱している。
(寒さに対しても、クロマツはなかなか強くて、北海道の海岸緑化にも使われているくらいである)
・庭園・公園に使われている最たるものは、やはり皇居前ではないか。
 これだけまとまって植えられているところは少ないし、樹形の千変万化、見ていても面白い。もちろん背景の江戸城の白壁と石垣も効いている。

<防風林としてのクロマツ~出雲の築地松>
・クロマツを防風林に使うのは海岸ばかりではなくて、有名なのは出雲の築地松と呼ばれる屋敷林である。
 北西に向けて高さ8メートルあまりに、上端はやや反りを打たせて、立派な鉤形のものが設(しつら)えてある。
 そのスケールで家の格が分かるというが、手入れが大変とあって、近来は新しい家では省略したり、旧家も改築を機会に止めたりして、数は格段に減った。
⇒機能もさることながら、風物としても貴重なものなのだから、何とか保存することを考えるべきだろう、と著者は主張している。

<アカマツと松茸>
・アカマツは近来ことにマツノザイセンチュウにやられたそうだ。
 南のほうから冒されてきて、瀬戸内のマツは厳島(いつくしま)をはじめ軒並み壊滅的な打撃を受けた。白砂青松の風景がまさに消えようとしている。
(この被害が増えたにはいろいろな説があり、しかもそれを食い止めようとしての農薬散布にあたっても、さまざまな議論が出た)

※長い間、人間の活動によって、アカマツ林が維持されてきたのが、手入れが減ったことと、松喰い虫の登場によって元にもどったという面がある。
・アカマツ林の手入れの悪さが、近年の松茸の馬鹿馬鹿しい品薄と高値に結びついているという説明をよく聞かされる。
 適当に間引きされて十分な陽光が入り、下枝をおろして、きれいに林床の掃除された林でないと、上質の松茸は生えないという。
 薪や用材にも伐り出さず、その必要も人手も少なくなってしまったアカマツ林では到底、昔のような松茸狩りは望めそうもない。
・もう相当前から、松茸山ではお客を入れる前に(おそらくは朝鮮産などの)松茸をしかるべく植え込んでおく、と聞いたものである。
(根元を石膏などで少し固めておいて、引っ張ったときに適当な手応えがあるようにしておくという高度技術もあるそうだ)

※日本人の松茸信仰は、依然として根強いものがあるから、輸入の拡大はもちろん、その栽培への必死の努力が続けられているが、これがきわめてむずかしいという。
 やはりアカマツ林の状態をよくするほうが本筋ではないか、と著者はいう。
 アカマツが海岸よりも内陸に多いのは、砂地を好まず、潮風にも弱いということが大きいという。
 そこで、俗に「峰の松」というとアカマツと相場が決っているのは、アカマツの高燥で陽光を好む性質をよく表していることになる。
(辻井達一『日本の樹木』中公新書、1995年[2003年版]、14頁~17頁)



≪田中修『植物のひみつ』(中公新書)を読んで≫

2022-11-03 19:00:19 | ガーデニング
≪田中修『植物のひみつ』(中公新書)を読んで≫
(2022年11月3日投稿)
 

【はじめに】


 今日は、文化の日である。
 私は文系の人間だったので、理系、自然系の本を普段はあまり読まない。
 ただ、稲作に携わり、庭木の剪定には興味があるので、最近、植物の本を読むことがある。
 例えば、稲作日誌で紹介した田中修氏の本がそれである。
〇田中修『植物のひみつ 身近なみどりの“すごい”能力』中公新書、2018年
〇田中修『雑草のはなし』中公新書、2007年[2018年版]

 また、庭木の剪定などに興味があるので、次の本に目を通した。
〇辻井達一『日本の樹木』中公新書、1995年[2003年版]

 前回のブログでは、田中修『植物のひみつ 身近なみどりの“すごい”能力』(中公新書、2018年)の「第四話 イネの“ひみつ”」を紹介したので、今回は、それ以外の話で、私の興味をひいた話を記してみたい。
 なお、田中修氏のプロフィールは次のようにある。
【田中修氏のプロフィール】
・1947年(昭和22年)、京都に生まれる。京都大学農学部卒業、同大学院博士課程修了
・スミソニアン研究所(アメリカ)博士研究員
・甲南大学理工学部教授などを経て、現在、同大学特別客員教授
・農学博士 専攻・植物生理学
<主な著書>
・『植物はすごい』(中公新書)
・『ふしぎの植物学』(中公新書)




【田中修『植物のひみつ』(中公新書)はこちらから】
田中修『植物のひみつ』(中公新書)






〇田中修『植物のひみつ 身近なみどりの“すごい”能力』中公新書、2018年

【目次】
はじめに
第一話 ウメの“ひみつ”
第二話 アブラナの“ひみつ”
第三話 タンポポの“ひみつ”
第四話 イネの“ひみつ”
第五話 アジサイの“ひみつ”
第六話 ヒマワリの“ひみつ”
第七話 ジャガイモの“ひみつ”
第八話 キクの“ひみつ”
第九話 イチョウの“ひみつ”
第一0話 バナナの“ひみつ”

おわりに
参考文献




さて、今回の執筆項目は次のようになる。


・緑肥作物(アブラナ・レンゲソウ・ヒマワリ)
・カリウムの王様・バナナとジャガイモ
・ヒマワリにまつわる俗説について
・ジャガイモは「大地のリンゴ」
・なぜ、キクは『万葉集』に詠まれていないのか?
・イチョウにまつわる面白い話






緑肥作物(アブラナ・レンゲソウ・ヒマワリ)


〇緑肥作物として、アブラナ、レンゲソウ、ヒマワリについて、解説してみたい。

緑肥作物としてのアブラナ


・アブラナについては、「なぜ、トラクターですき込まれてしまうのか?」(37頁~39頁)が興味深い。
・アブラナは、4月初旬までに大きく成長し、花を咲かせる。
 田や畑ではそのあと、田植えの前や、別の作物が植えられる前に、葉っぱや茎が土にすき込まれる。
 「なぜ、せっかく成長した植物が、土にすき込まれるのか」との素朴な“ふしぎ”が浮かんでくる。
 これに対する答えは、アブラナの“ひみつ”の性質にあるそうだ。

・大きく成長したアブラナの葉っぱや茎が、田植え前の田んぼや畑の土にすき込まれると、土の中にいる微生物により分解される。
 分解されてできた物質は、田んぼや畑で栽培される作物の養分となる。
 また、葉っぱや茎に含まれていたデンプンやタンパク質などは、土の中の微生物の数を増やし、それらの活動を促す。
 その結果、土壌の肥沃度(ひよくど)が高められる。

<緑肥作物について>
・このように、植物の緑の葉っぱや茎を構成する成分が、畑にすき込まれると、肥料となって土地を肥沃なものにする。
 化学肥料に頼らずに土地を肥やすために、土にすき込まれる緑の葉っぱや茎などは、「緑肥」とよばれる。緑肥となる植物は、「緑肥作物」とよばれる。

・アブラナは、開花する時期が春の早くなので、田植えの前に、あるいは、畑の作物が栽培されはじめる前に、大きく成長する。
 それらの葉っぱや茎が緑肥として役に立つので、アブラナは「緑肥作物の代表」とよばれることがある。
・アブラナ科のシロガラシも、春早くに成長し、畑一面を黄色い花で覆う。
 そのため、この植物も、アブラナと同じように、緑肥作物として栽培される。

※「シロガラシの『シロ』は、白い花を咲かせるからではないのか」と思われることがあるが、そうではないらしい。
 クロガラシという植物があり、そのタネの色が黒い。それに比べて、シロガラシのタネは白っぽくてうすい茶色をしていることが名前のゆえんであるという。

・「アブラナを栽培したあとの畑に、たとえばサツマイモを栽培すると、そのサツマイモは病気にかかりにくくなる」といわれる。
 実際に、サツマイモを栽培する農家には、この方法が取り入れられていることがある。
 「どうしてなのだろうか」との“ふしぎ”が浮上する。
・アブラナが緑肥作物の代表といわれるのには、もう一つの理由があるようだ。
 緑肥作物では、その葉っぱや茎を構成する成分が、肥料となり、土を肥沃なものにする。
 だから、どのような植物でも緑肥となることができる。しかし、緑肥作物として栽培されるものは、別の役に立つ性質をもっている。
 たとえば、アブラナは、「グルコシノレート」という物質を含んでいるそうだ。
 これが土壌中で「イソチオシアネート」という物質に変わる。この物質には、土壌にいてサツマイモなどに有害なセンチュウや病原菌の増殖を抑える効果があるという。

 だから、アブラナは、緑肥作物として役に立つだけでなく、次に栽培される作物の病気を防ぐ役割ももっている。
(田中修『植物のひみつ』中公新書、2018年、37頁~39頁)

緑肥作物としてのレンゲソウ


「第四話 イネの“ひみつ」の項目である「なぜ、田植え前の田んぼに、レンゲソウが植えられるのか?」には、次のような内容が述べられている。

・6、70年前には、田植え前の田んぼでは、卵形の小さな葉っぱをつけた茎が地面を這うように、レンゲソウが育っていた。
 花が咲くと、畑一面が紫色に染まり、その美しさは、春の田園風景の象徴でもあった。
 
☆「なぜ、田植え前の田んぼに、レンゲソウが育っているのか」という、素朴な“ふしぎ”が抱かれることがあった。
 この“ふしぎ”を解くためには、植物たちの“ひみつ”を知らなければならないそうだ。

・レンゲソウは、タンポポのように、勝手に生える雑草ではない。
 田植えをする田んぼに、前の年の秋にタネをわざわざまかれて、栽培される植物なのである。
 育ったレンゲソウの葉っぱや茎は、田植えの前に土が耕されるとき、そのまま田んぼの中にすき込まれてしまう。
・この植物は、わざわざタネをまいて栽培され、きれいな花が咲いている時期、あるいは、そのあとにタネがつくられる時期に、土の中にすき込まれてしまう。
 それを知れば、「なぜ、せっかく育ってきたのに、土にすき込まれるのか」や、
 「レンゲソウは、何のために栽培されているのか」などの疑問が浮上する。

<レンゲソウの根粒菌>
〇実は、レンゲソウには、すばらしい“ひみつ”の性質がある、と田中氏はいう。
・元気に育つレンゲソウの根を土からそおっと引き抜くと、根に小さな粒々がたくさんついている。
 この粒々は、根にできる粒という意味で、「根粒」といわれる。
 その粒の中には、「根粒菌」という菌が住んでいる。この根粒菌が、すばらしい“ひみつ”の能力をもっている。

※植物が栽培されるときに必要とされる三大肥料は、窒素、リン酸、カリウムである。
・その中でも、窒素肥料は特に重要であるといわれる。
 窒素は、葉っぱや茎、根などを形成するために必要であり、植物が生きていくために必要なタンパク質の成分だからである。
・また、窒素は、光合成のための光を吸収する緑の色素であるクロロフィルや、親の形や性質などを子どもに伝えていくための遺伝子にも含まれる成分だからである。
⇒だから、窒素は、それらの物質をつくるのに必要なものであり、植物が成長するには、必要不可欠な物質である。
 そのため、私たちは植物を栽培するときには、窒素肥料を与えなければならない。

〇さて、レンゲソウをはじめとするマメ科植物の根に暮らす根粒菌は、空気中の窒素を窒素肥料に変える能力をもっている。
・レンゲソウは、根粒菌がつくった窒素肥料を利用する。
 そのため、土に窒素肥料が与えられなくても、レンゲソウのからだには、窒素が多く含まれる。
 空気中の窒素を窒素肥料に変える能力をもつ根粒菌を根に住まわせていることが、レンゲソウの“ひみつ”なのである。

・これが田植えの前に土の中にすき込まれると、緑の葉っぱや茎に含まれていた窒素肥料の成分が土壌に溶け込み、土壌を肥やし、緑肥となる。
 ⇒そのため、レンゲソウは、緑肥作物とよばれる。

※このように、レンゲソウは、緑肥作物として、田植えをする田んぼにタネがまかれて、栽培されていた。

<近年の傾向>
・ところが、近年、レンゲソウ畑が減ってきた。
 化学肥料が普及してきたことが一因であるが、大きな理由は、田植えの機械化が進み、小さなイネの苗を機械で植えるようになり、田植えの時期が早くなったことらしい。
・田植えが機械化される以前の田植えでは、レンゲソウの花の時期が終わるころに、大きく育ったイネの苗を手で植えていた。
 ところが、機械では、大きく育った苗は植えにくいので、小さな苗が植えられるのである。
・田植えの時期が早まると、レンゲソウが育つ期間が短くなる。
 すると、レンゲソウのからだが大きくなる前にすき込まなければならないので、栽培してもあまり役立たなくなった。

<レンゲソウ~プラスアルファの役に立つ性質>
・しかし近年、レンゲソウは、土壌を肥やすだけではなく、プラスアルファの役に立つ性質をもつことがわかりつつあるという。
・レンゲソウの葉っぱや茎が土にすき込まれて分解されると、酪酸(らくさん)やプロピオン酸などという物質が生じるそうだ。これらは、雑草の発芽や成長を抑える効果をもつとされる。
・だから、レンゲソウを緑肥とした畑や田んぼでは、化学肥料を使わずに土壌が肥沃になり、雑草が育ちにくくなるようだ。
⇒レンゲソウが春の畑に復活する日がくるかもしれないという。
(田中修『植物のひみつ』中公新書、2018年、80頁~84頁)

緑肥作物としてのヒマワリ


〇ヒマワリについては、「ヒマワリは、緑肥作物か?」(154頁~156頁)が興味深い。

<ヒマワリ栽培の目的について>
・数百株、数千株のヒマワリが植えられていることがある。ときには、数万株、数十万株といわれることがある。

①その目的の一つは、観賞用として役に立つことである。ヒマワリの花は、心を明るくしてくれる。
・庭や花壇で栽培されて楽しまれるだけでなく、広いヒマワリ園などでは、何千本、何万本と栽培されて、背が高くなることを利用して、「迷路」がつくられる。観光資源としても使われている。

②ヒマワリが栽培されるもう一つの目的は、土の中にすき込んで土を肥やすという目的がある。
 育った植物の緑の葉っぱや茎が土にすき込まれて肥料となる。このような植物は緑肥作物といわれる。
⇒緑肥作物については、第二話のアブラナの「なぜ、トラクターですき込まれてしまうのか?」
や、第四話のイネの「なぜ、田植え前の田んぼに、レンゲソウが植えられるのか?」でも言及していた。

<緑肥作物として、アブラナ・レンゲソウ・ヒマワリ>
・緑肥作物として、アブラナはサツマイモなどの畑作の前に植えられ、レンゲソウは田植え前の田んぼに栽培される。
 そして、成長した植物の葉っぱや茎が土の中にすき込まれる。
 すき込まれた葉っぱや茎は、土の中で微生物により分解されて養分となり、すき込んだあとに栽培される作物の養分となる。
 また、葉っぱや茎に含まれていたデンプンやタンパク質などの有機物は、土中の微生物の数を増やして活動を促し、土壌の肥沃度を高める。

・夏から秋に、ヒマワリやマリーゴールドなどのキク科の植物が、畑一面に花を咲かせていることがある。
 これらの植物は、景色をよくするために栽培されているという意味で、「景観植物」といわれる。
 しかし、多くの場合、これらの植物は、ただ景色をよくするために栽培されているわけではないらしい。緑肥作物として栽培されている。
 どんな植物でも葉っぱや茎を構成する成分は肥料として利用できるから、どの植物も緑肥作物になることはできる。
(ただ、近年、緑肥作物として栽培されるためには、別の役に立つ性質をもたねばならないことを、アブラナやイネの“ひみつ”として、田中氏は紹介している)

・アブラナは、すき込まれた土壌中で、「イソチオシアネート」という物質を生み出す。
 レンゲソウの葉っぱや茎が土にすき込まれて分解されると、酪酸やプロピオン酸などという物質が生じる。
 ⇒これらは、有害な病原菌の増殖を抑え、雑草の繁茂を抑制する。
・ヒマワリは、伸びた根の内部や付近に菌根菌という菌を住まわせる。
 この菌は、土中のリン酸を吸収し、蓄積してヒマワリの根に与える。
 そのため、リン酸の少ない土壌で、リン酸の利用率を向上させる効果が期待されるという。
⇒たとえば、沖縄県のサトウキビ畑では、春の収穫後にヒマワリを育てる。
 すると、夏にサトウキビの苗を植える前に、十分な背丈に成長する。そのまま、畑にすき込むことで、ヒマワリは緑肥として利用されている。
 また、ヒマワリを緑肥にして、メロンを栽培すると、メロンの成長がよくなるといわれる。
 そして、タマネギを栽培すると、タマネギがよく肥大するといわれる。
(田中修『植物のひみつ』中公新書、2018年、154頁~156頁)

カリウムの王様・バナナとジャガイモ


〇バナナとジャガイモは、カリウムの王様であるといわれる。この点について、解説しておこう。

バナナ


<バナナはカリウムの王様>
・バナナは、食べやすいだけでなく、栄養的に高い価値をもっている。
 バナナは、ジャガイモとともに、「カリウムの王様」とよばれている。
 
・カリウムには利尿効果があるので、排尿が促され体温が下がるので、バナナは暑い夏にふさわしい果物といえる。
 また、カリウムは、余分な塩分の排出を促し、血圧を下げることが知られている。
 だから、バナナは健康によい。

<食物繊維>
・バナナの果肉には、食物繊維が豊富に含まれている。
 この物質は、胃や腸で吸収されずに腸内で水を吸って移動する。
 そのため、この物質は、腸をきれいにし、排便を促し、腸内の不要な物質を便として排出する。

<バナナのカロリー>
・また、バナナの果肉は甘いが、甘すぎることはない。そのため、カロリーも多くない。
 ごはん1膳が約250キロカロリーであるのに対して、食べる部分が100グラムのバナナ1本で、86キロカロリーである。これで、十分に食べ応えがあり、空腹はかなり満たされる。
⇒そのため、バナナを食べていると、カロリーのとりすぎが防げる。

※バナナは、人気だけでなく、栄養的な価値も備えた果物である。
 「果物の王様」といわれるのは、世界的には、独特の匂いで知られるドリアンである。
 しかし、私たちはドリアンにあまりなじみがない。
 そのため、日本では、「果物の王様」という呼び名は、人気と栄養をあわせもつバナナにふさわしい、と田中氏は主張している。
(田中修『植物のひみつ』中公新書、2018年、227頁~228頁)

ジャガイモ


・ジャガイモは、健康によい栄養を多く含んでいる。
 ジャガイモには、コメ、コムギ、トウモロコシの三大穀物に含まれるのと同じデンプンが多く含まれている。
 それに加えて、ビタミン、ミネラル、食物繊維が豊富に含まれている。
⇒そのため、ジャガイモのイモは、食べると空腹を満たしてくれるだけなく、栄養にもなる。
 ジャガイモは、大地の中につくられ、食べものとしての値打ちが高いので、「大地のリンゴ」なのである。

<デンプン>
・デンプンは、「ブドウ糖」、あるいは、英語名で「グルコース」とよばれる物質が結合して並んだ物質である。
 このブドウ糖ことが、私たちが生きるためや、成長するためのエネルギーの源になる物質である。
 だからこそ、私たち人間は、コメ、コムギ、トウモロコシなどを主食として、毎日、デンプンを食べ、それを消化して、ブドウ糖を利用している。

<ビタミンC>
・ジャガイモには、デンプンが多いだけでなく、ビタミンCが豊富に含まれている。
 ビタミンCは、シミやシワを防ぎ、老化を抑制する物質として知られている。
 イチゴやレモン、キウイフルーツなどの果物に多く含まれている。
・ビタミンCが野菜や果物に多く含まれていることは、よく知られている。
 そのため、ビタミンCがジャガイモに多く含まれるといわれると、「ほんとうなのか」と疑いたくなる。
 でも、100グラム当たりに含まれる量は、ミカンに含まれる量と同じくらいである。
 そしてリンゴと比べると、5倍以上も含まれている。

・ビタミンCは、水に溶けやすく、調理されると流れ出る。熱に弱いので分解したりする。
 ところが、ジャガイモに含まれるビタミンCは、多くのデンプンに守られて、水に流出しにくく、熱にも強いといわれる。

<ジャガイモに含まれるカリウム>
・ジャガイモに含まれるミネラルには、マグネシウムや鉄分、カルシウムなどがある。
 特にカリウムの含有量が多い。
 「カリウムの王様」という名称は、カリウムを多く含むバナナに与えられることがあるが、ジャガイモにも使われる。

・カリウムは、排尿を促す効果があり、余分な塩分の排出を促す。
 塩分は高血圧の原因になるから、「ジャガイモは、血圧を下げて高血圧を予防したり、むくみを改善したりする効果がある」といわれる。

<ジャガイモの食物繊維>
・また、ジャガイモには、食物繊維が多く含まれる。
 この物質は、胃や腸で吸収されずに腸内で水を吸って移動し、腸をきれいにする。
 そのため、整腸作用があり、腸内の不用な物質を便として排出する働きがある。

※このように、ジャガイモには、イモ類でありながらビタミンCが多く含まれ、カリウムとともに食物繊維も多く含まれている。
 そのため、ジャガイモは、健康にとてもよいことから「大地のリンゴ」とよばれている。

・ジャガイモに多く含まれるデンプンは、調理されたあと、イモとしてそのまま食べられる。
 しかし、そのまま食されるだけでなく、「馬鈴薯澱粉」として取り出されて、食材として大活躍するそうだ。
⇒たとえば、「片栗粉(かたくりこ)」や「わらび粉」、「葛粉(くずこ)」などは、本来は、それぞれ、カタクリやワラビ、クズの根から取り出されたデンプンを原材料にするものである。
 ところが、これらの植物の根は大量に手に入れられるものではない。
 そのため、市販されている片栗粉やわらび粉、葛粉などには、多くの場合、ジャガイモの「馬鈴薯澱粉」が代用として使われているそうだ。
(田中修『植物のひみつ』中公新書、2018年、169頁~171頁)

ヒマワリにまつわる俗説について


〇第六話「ヒマワリの“ひみつ”」では、俗説を正している。

「太陽の花」ヒマワリについて


・ヒマワリはキク科の植物で、北アメリカが原産地である。
 英語名は、花の形が輝く太陽の姿に似ていることにちなんで、「サンフラワー」で「太陽の花」を意味する。
・ヒマワリの学名は、「ヘリアントゥス・アヌウス(Helianthus annuus)」である。
 学名の前半の「ヘリアントゥス(Helianthus)」は、ヒマワリ属であることを示す。
 これは、ギリシャ語の「太陽」を意味する「ヘリオス(helios)」と、「花」を意味する「アントス(anthos)」から成り立っているという。
 だから、「太陽」と「花」が語源となっており、やはり「太陽の花」を意味する。

・学名の後半の種小名の「アヌウス」は、「一年草」という意味である。
 ヒマワリは、春に発芽し、夏に花を咲かせ、秋にタネをつくって枯れる。
 このように、その生涯を1年以内に終える植物は一年草とよばれ、ヒマワリは典型的な一年草の植物である。
・この植物は、「1666年以前に、日本に来た」といわれる。
 「なぜ、1666年という具体的な年代がいわれるのか」と“ふしぎ”に思われる。
 この年代の根拠は、1666年に著された、図の入った百科事典のような『訓蒙図彙(きんもうずい)』(中村惕斎[なかむらてきさい]編)に、ヒマワリがはじめて出てくることである。
 ヒマワリは、「丈菊」「天蓋花(てんがいばな)」「迎陽花」とも呼ばれたようだ。
(田中修『植物のひみつ』中公新書、2018年、134頁~135頁)

ヒマワリの花は、カメラ目線で咲く!


〇第六話「ヒマワリの“ひみつ”」の「ヒマワリの花は、カメラ目線で咲く!」では、俗説を正している。
・古くから、「ヒマワリの花は、いつも太陽のほうを向いており、太陽の姿を追って、花がまわる」といわれる。
 「ほんとうに、ヒマワリの花は太陽の姿を追ってまわるのか」という“ふしぎ”が生まれる。

・しかし、残念ながら、この説には何の根拠もなく、「ヒマワリの花は、太陽の姿を追ってまわる」というのは俗説だという。
 ヒマワリの花は、見た目に大きいだけでなく、ずっしりと重い。
 そのように大きく重い花が、毎日、太陽の動きを追って、東から西にクルクルとまわることはない。
・ヒマワリが何万本と栽培されているヒマワリ畑やヒマワリ園で、写真が撮られると、ほとんどすべてのヒマワリの花が、カメラのほうを向く“カメラ目線”で咲いている。
 よそ見をしている花や、反対方向を向いてうしろ姿を見せている花はほとんど見当たらない。ヒマワリの花はほとんどすべてが同じ方向を向いて咲いている。
・「同じ方向とは、どちらか」という“ふしぎ”が浮上する。
 その方向は、「東」であるようだ。
 だから、カメラ目線で咲いているように撮られている花の写真は、東から西を向いて撮られたことになる。
(もし、カメラを西から東に向けて撮れば、ほとんどすべての花がうしろ向きに撮れるはず)
・「ヒマワリの花は、東を向いて咲く」と決まっているそうだ。
 ただ、そのためには、一つだけ条件がある。
 それは、ヒマワリの花が一日中の太陽の動きをよく見ることのできる場所で栽培されていることである。
・では、「ヒマワリの花が一日中の太陽の動きをよく見ることのできない場所で栽培されている場合は、どうなるのか」との疑問が浮かぶ。
 建物や樹木の陰になっているような場所では、「ヒマワリの花は、東を向いて咲く」とは決まっていない。
・もし、そのことを知っていると、「ヒマワリの花は、東を向いて咲くというけれども、南を向いて咲いているのを見た。なぜ南向きに咲くのか」という質問に答えられる。
 この質問をした人が観察した場所では、東側が建物などの陰になっているため、一日中の太陽の動きを見ることができず、南側が明るいと考えられるようだ。
⇒たとえば、東西には建物があるが、花壇の南側に幅の広い道があるために、建物の陰にならずに太陽の光が明るく差し込んでいるような場合である。
(ヒマワリの花々は、南という方角を決めて咲いているのではなく、明るいほうを向いて咲いている。たまたま、このヒマワリが育っている環境から、「南を向いている」ということになる)

※ヒマワリに限らず、多くの植物たちの花は、明るいほうを向いて咲く。
 多くの家の庭や花壇では、道路から見ると、家が建っているほうが陰になり、道の側より暗いから、花は道の側を向いていることが多くなる。
・もし花が暗いほうを向いて咲くとしたら、庭や花壇で咲く花々は、道からはうしろ姿だけを見ることになる。あまりそのようなことがないのは、花には明るいほうを向いて咲く性質があるからだという。

☆では、「なぜ、花は明るいほうを向いて咲くのか」との疑問が出る。
①一つの理由は、明るいほうを向いて咲くと、太陽の光が花の中に多く差し込むことである。
 そのおかげで、花の中がジメジメせずに乾燥する。
(ジメジメしていると、カビが生えたり、病原菌が繁殖しやすかったりする)
・花の中では、子ども(タネ)づくりが行われる。
 カビや病原菌がいて、不衛生になっていては困る。
 花が明るいほうを向いて咲くのは、「子どもを衛生的な場所でつくりたい」との思いが込められた性質であるという。

②二つ目の理由は、明るいほうを向いて花が咲くと、光が差し込み、花の中央部分の温度が高くなることである。
・花の中の温度をはかると、多くの種類の植物で、花の周辺部より、オシベやメシベのある中央部の温度が高くなっている。
 虫がその温かさを求めて花の中に寄ってきてくれる。だから、花粉を運んでもらえる機会が増える。

③三つ目の理由は、花の中の温度が高いと、花の香りがよく発散することである。
 香りは液体の物質が気体になって発散するものであり、その反応は、温度が高くなるとよく進む。
 だから、いい香りが出てやっぱり虫が寄ってくる機会が増える。
⇒こうして、ヒマワリは、子どもづくりをするための工夫を凝らしているそうだ。

太陽の姿を見失ったヒマワリは、どうするのか?


〇第六話「ヒマワリの“ひみつ”」の「太陽の姿を見失ったヒマワリは、どうするのか?」では、次のように述べている。
・古くから、「ヒマワリの花は、いつも太陽のほうを向いており、太陽の姿を追って、花がまわる」といわれてきた。これには何の根拠もなく、単なる俗説であるというなら、「なぜ、そのような誤った説が広まったのか」という“ふしぎ”が残る。
 この“ふしぎ”には、何か“ひみつ”がありそうだ。その“ひみつ”は、若いツボミの運動を観察することで明らかになるという。
・ヒマワリの花が太陽の動きに合わせて方向を変えることはないが、若い葉っぱの表面は、太陽の姿を追ってまわる。
 その様子は、タネが発芽したばかりのふた葉の芽生えで見るとわかりやすいようだ。
 芽生えが葉っぱの表面を太陽の光のくる方向にまともに向けるのは、多くの光を受け取ることができるからである。

・朝、太陽が東から昇れば、芽生えは、ふた葉の表面を東へ傾け、太陽の光を葉っぱの表面に垂直に受けようとする。
 太陽がだんだん真上にあがると、それを追って、水平になってふた葉の表面は真上から光を受けようとする。夕方に向かって西に太陽が傾いていくと、それを追うように、ふた葉の表面は西へ傾き、やっぱり太陽の光をいっぱいに受けようとするらしい。

※太陽の光のくる方向に葉っぱの表面を向けると、多くの光が受けられるからである。
 こうして、ヒマワリの芽生えのふた葉の表面は、太陽の姿を追って、一日中、東から西にまわることが観察される。

☆ヒマワリの葉っぱが太陽の姿を追ってまわると、一つの“ふしぎ”が生まれる。
 夕方に太陽が西に傾いたとき、それを追ってヒマワリのふた葉は西へ傾く。ところが、太陽はそのまま西の方向に沈み、姿を消す。西へ傾いたまま、太陽の姿を見失ったふた葉は、「そのあと、どうするのか」という“ふしぎ”である。
 隠れてしまった太陽の姿を追って、ますます下へ傾いてくのだろうか。あるいは、見失ったそのままの姿勢で朝まで待つのだろうか。あるいは、まっすぐに上を向く姿勢に戻って、朝を待つのだろうか。それとも、次の日の朝、太陽の光は東の方向から昇ってくることを知っていて、東を向いて傾いた姿勢をとるのだろうか。

・「夜の間に、東のほうに向きを変えて、朝には、東を向いた姿勢をとる」ことが観察される。
 つまり、次の日の朝、太陽が東から昇ることを知っており、その方向を向いて待っている。
(夕方に太陽の姿を見失った西向きの姿勢から、何時ごろに、どのように東のほうに向きを変えるのだろうかについては、自由研究で読者の課題とする)

・このふた葉と同じように、花を咲かせる前のヒマワリの茎の一番上の若い葉っぱも、太陽の姿を追ってまわるそうだ。
 ツボミは、一番上の若い葉っぱの間にできるから、若い葉っぱがそのように太陽を追ってまわると、ツボミも太陽の動きに合わせてまわる。
 だから、ツボミの小さい間は、毎日、東から西に動く。
 そのため、「ヒマワリの花は、いつも太陽のほうを向いており、太陽の姿を追って、花がまわる」という説が広まったのだろう、と田中氏は推測している。
・ただ、ツボミが大きくなって重くなると動けなくなると断っている。
 その動きが止まるとき、東を向いて止まる。「夜のあいだにヒマワリの花が東を向いて止まる」というのが、「東を向いて咲く」理由であるという。
(夕方から朝までの長い夜の間に、東に向きを変えながら、ツボミは大きくなっていく。ツボミは大きくなるにつれて、動きづらくなる。その結果、ツボミが動けなくなるのが、東を向いた状態と考えれるとする)
(田中修『植物のひみつ』中公新書、2018年、136頁~142頁)

ジャガイモは「大地のリンゴ」


「第七話 ジャガイモの“ひみつ”」では、ジャガイモは「大地のリンゴ」とする見解について、興味深い解説がなされている。

<ジャガイモ>
・ジャガイモはナス科の植物で、原産地は南米のアンデス地方である。
 「野菜」という言葉は、田畑に栽培される草本性の作物を指すから、ジャガイモも野菜の一種になるはずである。
 でも、イモとマメは、多くの場合、野菜といわれず、「イモ類」とか「マメ類」とよばれる。
・ジャガイモという名前は、1598年、あるいは、1603年といわれるが、ジャワ島のジャカルタからオランダ船により日本にもたらされたことに由来する。
⇒「ジャカルタ(ジャガタラ)からきたイモ」という意味で、「ジャガタライモ」とよばれ、「ジャガイモ」に転訛したという。

〇現在、日本で栽培されている代表的な品種は、「男爵」と「メークイン」である。
①「男爵」の名前の由来
・男爵は、明治時代に、高知県出身の川田龍吉(かわだりょうきち)男爵により、イギリスから導入された品種である。
 外国では、「アイリッシュ・コブラー」とか「ユーリカ」などとよばれていたものである。
 男爵というのは、明治時代に決められた五つの華族階級(公爵、侯爵、伯爵、子爵、男爵)の爵位の一つである。
・この品種のイモは、丸くてゴツゴツしており、表面には深いくぼみがある。
 イモの部分は、「食感がホクホク」と形容されるように、粘りが少ない。
⇒そのため、くずれやすいので、コロッケやサラダなどのように、つぶして使う料理に適している。

②「メークイン」の名前の由来
・メークインは、イギリスで普及していた品種である。大正時代に、アメリカを経由して日本に導入された。
・イモは、長細く、表面はツルツルしており、形がくずれにくい粘質である。
⇒そのため、煮物や炒め物、おでんやカレーライスなどに適している。

※ただ、料理に対する使い分けは、一つの目安にすぎず、好みにより変わる。
 たとえば、おでんには、形が保たれるメークインが適しているとされるが、ホクホクの男爵が好んで使われる。

・名前の由来は、見た目の美しさから「5月(メイ)に行われる村祭りで選ばれる女王(クイーン)にちなむ」といわれる。
(「メイクィン」、「メークイーン」、「メークィン」などと書かれることがあるが、名称の正式な表記は、「メークイン」と定められているそうだ)

※ジャガイモは、コメ、コムギ、トウモロコシの「三大穀物」とともに、「四大作物」の一つとなっている。ジャガイモは、世界の多くの人々の食糧となっている。

・19世紀、オランダの画家、ファン・ゴッホは、明るい花であるヒマワリを好んで描いたが、対照的な暗い色調で、ジャガイモを描いている。
 『馬鈴薯(ばれいしょ)を食べる人々』という題で、農民の姿を描いており、多くのゴッホファンを引きつけている。
 馬鈴薯は、ジャガイモの別の名である。この名前は、イモの姿や形が「馬の首につける鈴」に似ていることに由来するといわれる。

<注意>
・ジャガイモの仲間の植物というと、同じように「イモ」を食用とするサツマイモやサトイモが思い浮かぶ。
 しかし、サツマイモはヒルガオ科であり、サトイモはサトイモ科の植物であり、ナス科のジャガイモの仲間ではない。
(ナス科の植物は、ナスやトマト、ピーマンやタバコなどである。このような有用な植物の他に、有毒物質をもっているチョウセンアサガオ、ベラドンナ、ハシリドコロなども、ナス科の植物である)

・「イモ」という言葉は、植物の根や地下茎が肥大して養分を蓄えたもので、食用に利用されるものに使われる。
 そのため、ジャガイモもサツマイモも「イモ」という言葉が使われる。しかし、ジャガイモとサツマイモは同じイモであっても、食用部の性質が異なるという。
●ジャガイモの食用部は、地中から掘り出される。そのため、「根」と思われがちであるが、根ではない。ジャガイモの食用部は、茎なのである。
 茎に栄養が蓄えられて、かたまり(塊)となって肥大しているので、ジャガイモのイモは、「塊茎」とよばれる。
●それに対して、サツマイモの食用部は根である。
 根に栄養が蓄えられて、かたまりとなって肥大したもので、サツマイモのイモは「塊根」とよばれる。

〇「ジャガイモに、果実はできるのか?」
・ジャガイモの花は、昔、観賞用や装飾用に使われただけあって、美しいものである。
 18世紀のフランス国王ルイ16世の王妃マリー・アントワネットが、髪飾りにこの花を用いたことはよく知られている。そのことが、「ジャガイモの普及に貢献した」といわれる。

・その花は、ナスやトマトの花に似ている。ナスやトマトには、花が咲けば、実がなる。
 ところが、ジャガイモの花を見た人は多いのであるが、果実を見た人は少ない。
 そのため、「花が咲くのに、果実がならない」と、“ふしぎ”に思われる。
 しかし、家庭菜園で栽培していたジャガイモに花が咲き、思いもかけず、ミニトマトのような果実ができることがあるそうだ。
 そのようなときには、逆に、「なぜ、ジャガイモにミニトマトのような果実ができたのか」と不思議がられる。
 でも、これは、そんなに不思議な現象ではない、と田中修氏はいう。
 ジャガイモはナス科の植物であり、ミニトマトもナス科の植物である。だから、ジャガイモに花が咲き、果実ができると、ミニトマトのようなものができる。
 すべての種類の生物は、新しい個体をつくる。この現象は、「生殖」とよばれる。生殖の様式には、オスとメスという性がかかわる有性生殖と、性がかかわらない無性生殖がある。
 植物の有性生殖は、花が咲き、その花の中で、オシベの花粉をメシベの先端の部分である「柱頭」につける方法である。
⇒ジャガイモは、イモをつくる無性生殖でも増えるが、タネをつくる有性生殖でも子孫を残すそうだ。ジャガイモにできる果実は、はじめは緑色であるが、熟すにつれて黄色味を帯びる。果実の中にできるタネには、もちろん発芽能力があり、発芽すれば成長する力もあるという。
(田中修『植物のひみつ』中公新書、2018年、158頁~167頁)

フランス語の「ポム・ド・テール」(「大地のリンゴ」)


・ジャガイモは、フランス語では「ポム・ド・テール」といわれる。
 ポムはリンゴであり、テールは大地や地面を意味する。
 だから、「ポム・ド・テール」は、「大地のリンゴ」という意味になる。

・「なぜ、ジャガイモが『大地のリンゴ』なのか」との“ふしぎ”が浮上する。
 ジャガイモの食用部は土の中にできるので、「大地」の意味は理解できる。しかし、ジャガイモに、リンゴの味はない。
 「生のジャガイモをかじったときの食感が、リンゴをかじったときと似ている」という説を聞いたことがあるが、これは“まゆつばもの”のように、著者は感じるという。
 そこで、別の説を紹介している。
・リンゴについては、「一日一個のリンゴは、医者いらず」とか「リンゴ一個で医者知らず」、あるいは、「一日一個のリンゴは、医者を遠ざける」とかいわれる。
 いずれも、「一日に一個のリンゴを食べていれば、病気にならないので、お医者さんの世話になることはない」という意味である。
⇒このリンゴの力にちなんで、ヨーロッパには、栄養があり、私たちの健康にとって値打ちの高い野菜や果実を「リンゴ」とよぶ習慣があるのだそうだ。
 たとえば、トマトは、昔から、「トマトが赤くなると医者が青くなる」や、「トマトのある家に胃腸病なし」と言い伝えられている。
 トマトは、フランスやイギリスでは「愛のリンゴ」、イタリアでは「黄金のリンゴ」、ドイツでは「天国のリンゴ」とよばれる。
 トマトが「リンゴ」とよばれるのは、健康を守る働きが高く評価されているからである。
 ジャガイモも、健康によい栄養を多く含んでいる。
(田中修『植物のひみつ』中公新書、2018年、168頁~169頁)

なぜ、キクは『万葉集』に詠まれていないのか?


〇「第八話 キクの“ひみつ”」には、「なぜ、キクは『万葉集』に詠まれていないのか?」という“ふしぎ”について、解説している。
・キクは、日本で古くから栽培されており、多くの日本人にとって、「心の花」となっている。
 ところが、多くの植物が詠まれている『万葉集』に、キクの花がないのである。
 「なぜ、キクの花が『万葉集』に詠まれていないのか」という“ふしぎ”がある。
・「ももよぐさ」と詠まれているものが、「ノギク」であるとの説がある。たとえそうだとしても、その植物がでてくるのは一首のみで、「なぜ、キクの花が『万葉集』に詠まれていないのか」という“ふしぎ”に変わりはない。

・この“ふしぎ”には、“ひみつ”があるという。
 『万葉集』は奈良時代に編纂され、「第一話 ウメの“ひみつ”」でも述べていたように、約4500首の歌のうち、約1500首に、約160種類の植物が詠み込まれている。
 詠まれている植物を多い順に10種類あげると、「ハギ、ウメ、マツ、タチバナ、アシ(ヨシ)、スゲ、ススキ、サクラ、ヤナギ、チガヤ」である。
 この植物のベスト・テンの中に、キクはない。
・『万葉集』では、「キクを詠んだ歌は、一つも含まれていない」といわれたり、「日本在来のノジギクが一首あるだけ」といわれたりする。
 『万葉集』には、多くの植物が詠まれているにもかかわらず、キクが詠まれた歌はないのである。

・キクの花が、『万葉集』に、ほとんど詠まれていない理由は、キク(栽培されているイエギク)が原産地の中国から日本に入ってくるのは、奈良時代よりあとだからなのであるという。
 そのため、奈良時代に編纂された『万葉集』には、キクが詠まれた歌があるはずはないというのである。

・『古今和歌集』は、平安時代に編纂されている。
 その歌集に収められた歌にも、多くの植物が詠まれている。
 多い順に、サクラ、モミジ、ウメ、オミナエシ、ハギ、マツであり、これに続いて、キクが詠まれているそうだ。
 日本に入ってきたキクは、平安時代前期の『古今和歌集』に早くも多数詠み込まれている。

・そのあと、キクは、鎌倉時代に、後鳥羽上皇にたいへん気に入られ、刀や衣服に紋章として使われた。
 そして、江戸時代には、品種改良が進んだ。明治時代になって、キクの花は、現在のように天皇および皇室の紋章として、正式に定められた。
(「それまでの天皇や皇室の紋章は、何であったのか」との疑問が生まれるが、その答えは、「明治時代までは、定められていなかった」という)
(田中修『植物のひみつ』中公新書、2018年、190頁~191頁)

イチョウにまつわる面白い話


〇「第九話 イチョウの“ひみつ”」では、イチョウにまつわる面白い話が載っている。

・イチョウは、イチョウ科イチョウ属の植物であり、仲間がいないそうだ。
 つまり、イチョウは、一科一属一種のさびしい植物である。
 多くの植物は、科や属に仲間がいる。
 たとえば、生物の分類学上の一つの階層である「科」のレベルでは、サクラやウメ、モモやナシなどは、同じバラ科に属する仲間である。イネ科なら、イネやコムギ、トウモロコシが、同じ科に属する仲間である。
 「科」の下のグループを示す「属」になっても、サクラやウメは、古い分類では、サクラ属(スモモ属)の仲間であった。
(近年の新しい分類になっても、サクラ属では、サクラは、サクランボをつくるセイヨウミザクラなどが仲間であり、ウメやアンズは、アンズ属の仲間である)

・イチョウの学名は、「ギンクゴ・ビロバ(Ginkgo biloba)」であるという。
 「ギンクゴ」は、イチョウ属を示し、「ビロバ」の「ビ(bi)」は二つを意味し、「ロバ(loba)」は葉っぱを意味するそうだ。
 そのため、「ビロバ」は、二つに分かれた葉っぱを意味する。その通りに、この植物の葉っぱは、二つに浅く裂けている。

・イチョウは、約2憶年前に中国で生まれ、約1億年前には、十数種類が栄えていたと考えられている。
 しかし、その後に訪れる氷河期を越えて生き残ったのは、1種類のみだった。
 現在のイチョウは、同じ科や属に仲間がいない、一科一属一種のさびしく生きる植物なのであるそうだ。
※「杜仲茶(とちゅうちゃ)」の原料となるトチュウ科トチュウ属のトチュウも、一科一属一種の植物として知られているようだ。しかし、このような植物は多くない)

・ところで、このイチョウは、多くの神社や仏閣に植えられ、ときには、神木として崇められている。そのように私たちとともに歴史を刻んできたように思えるイチョウには、氷河期に多くの仲間を失ったという、“ひみつ”の過去があるそうだ。
・イチョウの原産地である中国での呼び名や、日本の江戸時代の呼称では、「銀杏」と書かれ、「ギンキョウ」と発音された。ギンナンとよばれる硬いタネが銀色に輝くような白色で、形がアンズ(杏)の果実に似ているからといわれる。
・イチョウは、長老や祖父の尊称などを意味する漢字である「公」が使われて、「公孫樹」と表記されることがある。これは、「老木にならないと、ギンナンが実らない」という性質に基づくものらしい。
 この名前には、「長老や祖父が植えた木が孫の代になって実る樹木」という意味が込められている、と著者は説明している。
 「モモ、クリ3年、カキ8年」にならって、「イチョウ30年」といわれることもあるようだ。
(田中修『植物のひみつ』中公新書、2018年、194頁~196頁)

・「日本三大名城」あるいは、「日本三名城」といわれる城がある。
 これに、どの城が入るかは、諸説がある。
 多くの場合、名古屋城、大阪城、熊本城が選ばれる。
 この中の熊本城は、安土桃山時代に活躍した武将である加藤清正が築城し、イチョウの木が多く植えられたので、「銀杏(ぎんなん)城」ともよばれている。

<御堂筋のイチョウの並木>
・イチョウ並木で名高い御堂筋(みどうすじ)のある大阪府でも、イチョウは「府の木」と定められている。御堂筋のイチョウの並木は、「近代大阪を象徴する歴史的な景観」として、平成12年度に、大阪市指定文化財に指定されている。
・大阪市の御堂筋のイチョウ並木では、イチョウの雌株にギンナンがなる。
 この並木道が完成したのは、1937年である。雄株と雌株は約400本ずつあったそうだ。
 近隣の人たちは、秋のギンナンの収穫を楽しみにしていたようだ。
 ところが、市販されることが多くなってきたからだろうか、ギンナンを拾う人が少なくなった。その上、自動車が増えて拾い集めにくくなり、道路に落ちたギンナンが拾われることが減ってきた。
 とうとう、1980年代になると、この並木の管理当局に苦情が多く寄せられるようになってきた。「車が道路に落ちたギンナンを踏むので、道が臭く汚くなる」というものであった。

・御堂筋は、多くの人が散策する並木道でもある。そのため、その苦情を放置することはできない。そこで、管理当局は、枯れたり倒れたりしたイチョウの木を植えかえる場合、ギンナンのならない雄株だけを植えることにしているという。
・2017年には、並木道が完成してから80年を迎え、本数は972本に増えていた。雌株に代えて雄株を植えてきた結果、当初はほぼ同数だったのであるが、雌株は256本に減っており、雄株が716本に増えているそうだ。
(田中修『植物のひみつ』中公新書、2018年、196頁~197頁、210頁~211頁)



《仏花の選び方と育て方》

2019-12-29 18:29:04 | ガーデニング
《仏花の選び方と育て方》




執筆項目は次のようになる。


仏花の選び方と育て方


目次
・【はじめに】
・【仏花について】
・【仏花の選び方】
・【仏花の育て方】
・【実際の栽培】
  ・8月咲き中大輪菊ミックス  
  ・シキミ             
  ・スピードリオン         
  ・ききょう三色ミックス     
  ・西洋ミソハギ    
・【花と木の文化史 中尾佐助氏の著作より】
・【むすび】







【はじめに】


 先祖供養に欠かせないのが、仏花である。
今年5月に父親を亡くし、葬儀・法要の際には、親戚をはじめ周囲の人々に支えられ、豪華な切り花を頂いた。だが四十九日法要が終わってみると、何も残らず、虚しさだけが募るばかりだった。加えて、仏様および仏壇を自分一人で守らねばならず、一時期あんなに華やかに飾られていた仏花に事欠く有り様であった。花屋で切り花を買うにしても、それなりの値段で一週間ぐらいしか花持ちせず、今後、何十年も買い足すのは費用的に限界がある。
 そこで、もう一度、園芸に取り組んで、仏花を育ててみたいと思った。一年草の花より、多年草ないし宿根草の方がよく、草花よりも樹木の方が負担や手間が省けると考えた。インターネットを閲覧し、仏花のおすすめを参考にしながら、現在、自分で育ててみたい仏花の候補を列挙した。とりあえず、予算的に1万円位を予定して、注文することにした。

次のようなリストになった。
① 8月咲き中大輪菊ミックス(8 ポット)  
② シキミ(3 株)             
③ スピードリオン(6 株)         
④ ききょう三色ミックス(10 株)     
⑤ 西洋ミソハギ(2 株)          
               



【仏花を選ぶに際して留意した点】
・花持ちがよい
・一年草より多年草(宿根草)ないし樹木




【仏花を長持ちさせる方法と、日持ちする花の種類】


仏花を長持ちさせる方法としては、毎日の水替えをこまめにすること。また10円玉の銅イオンにより、長持ちするそうだ。
仏壇にお供えする花の代表は、やはり菊が第一に挙げられる。茎が太い菊が枯れにくい。
ユリも切り花としは、日持ちする花である。ただ、雄しべの花粉は服につくと落ちにくいし、花びらを汚してしまうので、摘み取ることが大切である。
スターキスやセンニチソウも、ドライフラワーになるものなので、仏花として長持ちするという。
それでは、仏花の栽培におすすめは何か。
春のお彼岸、お盆、秋のお彼岸に分けて、考えてみる必要があるようだ。
お盆の頃、仏花に向く夏に咲く花は、アスター、菊、ニャクニチソウ、ミソハギ、スターチス、キキョウ、ユリなどが挙げられる。
また、秋のお彼岸には、菊、ガーベラ、キキョウ、シュウメイギクがある。




<しきみ(樒、梻)>
しきみ(樒、梻)は、シキミ科で独特の芳香があり、秋には実を結ぶが、有害成分があり、食用できない。しきみは、昔からお墓や仏壇の花立てに供えられてきた香木の一種で、その独特の匂いはお墓を荒らす野獣が嫌い近づけないため、厄除けとしての意味合いもあったようだ。
しきみは、墓地や仏壇に供えると、他の生花より長持ちするため、重宝されている。
しきみの語源としては、四季を通して美しいから「しきみ」「しきび」、また実の形から「敷き実」、有毒なので「悪しき実」とする諸説があるそうだ。一説にしきみは鑑真がもたらしたともいわれている。空海が青蓮華の代用として密教の修法に使ったとも伝えられる。

<さかき、しぶき>
ところで、しきみに似たものに、さかき(榊)や、しぶきがある。
さかきはツバキ科で日陰でもよく育つ。神の宿る木、神が降臨する木として知られている。家庭の神棚にも供えられ、毎月の月初めと中日の15日に入れ替えるのがよいとされる。
一方、しぶきは、東日本、北日本を中心に榊の代わりとして使用されるが、お墓に供える木としても使用される。昔から日本各地で、神仏共に使用されるようだ。




【花木の育て方と実際の栽培】



 商品が到着し、ポットから植木鉢に移植するために

<ホームセンターで用意したもの>
・プランター
・植木鉢
・鉢底石
・園芸土(赤玉土[小]、赤玉土[大]、腐葉土)





「多年草(宿根草)の栽培方法」という手引が同封されていたので、紹介しておく。

・8月咲き中大輪菊ミックス(8ポット)  
・シキミ(3株)             
・スピードリオン(6株)         
・ききょう三色ミックス(10株)     
・西洋ミソハギ(2株)          



【切り花菊(キク科)】


8月咲き中大輪菊ミックス
 切り花菊は5月~8月に咲く夏菊と、9月~11月に咲く秋菊、12月以降に咲く寒菊に大別される
 一般的な菊(秋菊)は日長が短くなるにつれて花芽が作られる。寒菊はその性質が強いため、秋遅くから冬に開花する。一方、夏菊は、日の長さに影響されず、苗が一定以上の大きさであり、かつ気温が10~15度以上であれば開花する性質を持っている。夏菊のうち二度咲き菊は特に早くから咲く菊をいい、切り戻しにより秋にまた開花を楽しむことが可能である。

<8月咲の切り花菊の年間作業>
3月~さし芽 4月~定植 5月-6月~摘心 7月~摘蕾

秋にお届けする苗や、さし芽、摘心の時期までまだ期間のある場合には、そのまま1本ずつ4号~5号鉢に仮り植えすること(複数本を8号鉢などに植えてもよい)。小苗は寒さに弱いので、寒冷地は鉢植えにしてフレーム、軒下などで管理する。平暖地でも露地植えする時は防寒すること。

秋のお届け苗は、挿し芽した苗をお届けしている。新芽が発生するので、その芽を育てること。まず、下から出た芽を伸ばす。次に茎の途中から出ている新芽を伸ばす。そして茎の途中から出ている新芽を伸ばす。

【到着した菊の苗と移植した菊】





【シキミ(シキミ科)】


<自生地>日本、中国、北米
<鑑賞期>3~5月
<樹高> 低木~中木
<日照> 半日陰~日陰
<冬季の状態>常葉
<耐寒性>中~強
<耐暑性>強
<用土> 水もちのよい土壌(配合例 赤玉土7:腐葉土3)
<水やり> やや多湿
<病気> 特になし
<害虫> シキミグンバイムシ、カイガラムシ

<栽培管理暦>
       植え付け 2月~4月中旬、9月中旬~12月中旬
       開化期  3月~5月 
       結実期  9月~10月
       施肥   12月~2月
  ※特徴・栽培のポイント
       半日陰の少し湿り気のある腐植質に富んだ肥沃な土壌を好み、鉢植えでも栽培可能である。強い直射日光に当たると葉が焼けて黒く変色するので、注意したい。露地植えは関東地方以南ならば可能である。生育は緩やかで、移植はやや嫌う。12月~翌年2月に堆肥と緩効性肥料を寒肥として施す。病害虫の発生も少なく、剪定はひこばえの整理と枯れ枝の除去程度とし、放任え育てても自然な樹形になる。


【到着した苗木と移植したシキミ】




【スピードリオン(ゴマノハグサ科)】


<自生地>北アメリカ
<開花期>7~9月
<草丈> 60~90cm
<株間> 25~30cm
<日照> 日なた、または半日陰
<冬季の状態>落葉
<耐寒性>強
<耐暑性>中
<用土> 乾きが遅い用土(配合例 赤玉土6:腐葉土4)
<土壌> 適潤
<栽培管理暦>
       植え付け 3月中旬~4月、10月中旬~11月
       開化期  7月~9月
       施肥   4月~7月
  ※注意点 日なたを好むが、夏は半日陰となる場所で、湿り気の十分ある土壌を好む
       地下茎により繁殖するので、大株にしたくない場合は間引くとよい
       耐寒性は強く、防寒の必要はない

【到着したスピードリオンの苗と移植したスピードリオン】




【ききょう(キキョウ科)】


<自生地>日本
<開花期>7~9月
<草丈> 30~80cm
<株間> 20~30cm
<日照> 日なた~半日陰
<冬季の状態>落葉
<耐寒性>強
<耐暑性>強
<用土> 選ばない(配合例 赤玉土6:腐葉土3:砂1)
<土壌> 適潤
<栽培管理暦>
       植え付け 3月、10月中旬~11月
       開化期  7月~9月
       施肥   6月~9月(2週間に1回液肥)
※ 注意点 日当たりと水はけのよい場所を好む。花茎が伸びすぎて姿が悪くなるようであれば、晩春に下の葉を1~2枚残して上部を切り取ると、花茎が増えて短く咲き草姿がよくなる。夏季は乾燥しないように注意する。鉢植えでは6号鉢で3本植えが目安。切り花にする時は、切ったらすぐに水につけて切り口から出る白い液を洗い流す。アポイギキョウの株を植える時は球根を立てて芽が隠れる程度に植える。株間は10~20cmとする。
※ 絞り咲き種は開花する年により花模様が変化する。

【到着したききょうの宿根と移植したききょう】




【西洋ミソハギ(ミソハギ科)】


<自生地>日本、ユーラシア大陸
<開花期>7~9月
<草丈> 60~100cm
<株間> 30~50cm
<日照> 日なた~半日陰
<冬季の状態>落葉
<耐寒性>強
<耐暑性>強
<用土> 乾きが遅い用土(配合例 赤玉土6:腐葉土4)
<土壌> 多湿
<栽培管理暦>
       植え付け 2月中旬~4月、10月~11月
       開化期  7月~9月
       施肥   4月~9月
   ※注意点 水もちのよい多湿地を好む水辺の植物。
だから、鉢植えでは土が湿った状態にする。

【到着したミソハギの苗と移植したミソハギ】






【花と木の文化史 中尾佐助氏の著作より】


中尾佐助氏の『花と木の文化史』(岩波新書、1986年[1991年版])を参考にしつつ、花と木の文化史について付記しておきたい。
植物学者の中尾佐助氏(1916-1993)は、「照葉樹林文化論」を提唱したことで知られる学者である。ネパール・ヒマラヤの照葉樹林帯における植生や生態系を調査する中で、その地域の人々の文化要素に日本との共通点が多いことを発見し、後に佐々木高明氏らと共に、「照葉樹林文化論」を提唱した。
『花と木の文化史』(岩波新書、1986年[1991年版])は、1987年に毎日新聞社出版文化賞を受賞した名著である。

≪中尾佐助氏の本≫


中尾佐助『花と木の文化史』 (岩波新書)はこちらから

キクについて


中尾氏は、「平安朝の花――キク」と題して、次のように述べている。
「キクは万葉集の頃にはすでに日本に渡来していたが、万葉集にはキクの歌は一首もない。その後、キクの地位は向上し、平安朝の頃には宮中で「菊合せ」の公事(くじ)が行なわれた。これは唐風にならったもので、九月九日の重陽の日に、清涼殿の前に一対の菊花壇をつくり、文武百官がその花を賞し、歌を詠み、終わって菊酒を飲むものである。このようにキクは上流階級で重要度があがり、鎌倉時代になると後鳥羽上皇がキクを好んで、その紋様を衣服などにつけ、皇室の菊紋章の起源となった。」
(中尾佐助『花と木の文化史』岩波新書、1986年[1991年版]、111頁)

『万葉集』に登場する花の特徴


上記引用の冒頭でも指摘しているように、キクは『万葉集』の頃には渡来していたが、キクの歌は一首もないという。
令和の改元で今年は話題を呼んだ『万葉集』であるが、奈良朝の末期頃には編集されていた。その『万葉集』には約166種の植物が登場するそうだ。この数は、『聖書』やインドの『ベーダ』、中国の『詩経』より多く、『万葉集』は世界の古典の中でいちばん多くの植物名が登場するという。
また、『万葉集』と『聖書』に登場する植物を頻度順に並べて比較すると、そこには性格のちがいが浮かび上がってくるらしい。つまり、『聖書』では、ブドウ、コムギ、イチジクがトップ3で、上位10位までのうち、9つまでは実用植物である。一方、『万葉集』では、ハギ、ウメ、マツがトップ3で、上位10位までは全部実用植物ではない。
新元号「令和」の典拠は、『万葉集』に記された「梅花の宴」の序文であったが、ウメは2番目に多いようだ(ハギは138回、ウメは118回、マツは81回とある)。

『万葉集』の植物は当時の植物への美的評価がその中心となって登場している。つまり、『万葉集』でうたわれた植物は頻度10位までは、ことごとく実用性よりも花や姿の美学的評価のゆえに選ばれたものである。奈良朝の頃の日本の上流社会には、植物を美学的に評価する文化が成立していたとみる。

話は横道に逸れたが、平安朝の頃になると、キクの地位は向上し、宮中で唐風にならって、9月9日の重陽の日に、「菊合せ」の公事が行なわれるようになった。この「菊の節句」は、清涼殿の前に菊花壇をつくり、その花を賞し、歌を詠み、菊酒を飲む朝廷の儀式であった。そして鎌倉時代では、後鳥羽上皇がキクを好んで、自らの印として愛用し、皇室の菊紋章の起源となったと解説している。

続いて室町時代になると、日本の花卉園芸は大転換期をむかえ、日本独自の創造的分野をひらき、「室町ルネッサンス」と中尾氏は称している。
(中尾佐助『花と木の文化史』岩波新書、1986年[1991年版]、108頁~112頁)


シキミについて


中尾氏はシキミについて、次のように述べている。
「特定の植物が宗教、信仰、儀礼などに結合する例は、世界各地にかなり普遍的にみられる。クリスマス・ツリーとモミの木、ヤドリギ、セイヨウヒイラギは西ヨーロッパで強く結びついている。日本ではサカキは神道に結びつき、シキミは仏教に結びついている。日本では常緑の照葉樹(マツのときもある)の枝が儀礼に用いられ、古代のサカキは多種の木が使われたが、その中のシキミは平安朝の頃から、どうしたわけか仏事専用になってしまった。」
(中尾佐助『花と木の文化史』岩波新書、1986年[1991年版]、119頁)

植物が宗教と結びつくことは普遍的にみられるが、日本ではサカキは神道に結びつき、シキミは仏教に結びついている。そのシキミは平安朝の頃から、仏事専用になったようだ。

ちなみに、インドの代表的花はアソッカである。次のように記している。
「たしかな花として、ベーダ、ラーマーヤナ時代から知られるものとしては、第一にアソッカ(仏教の無憂樹、マメ科、小高木)であろう。釈迦はこの木の花の下で生まれたことになっている。また仏教史、インド史に登場するアショカ大王の名はこの花の名をとっている。花は黄赤色で集合花となり美しく、仏教とともに東南アジアに伝播している。日本の花の代表がサクラとすれば、インドの花の代表は歴史的重要性からみても、アソッカといっていい。」
(中尾佐助『花と木の文化史』岩波新書、1986年[1991年版]、55頁)




【むすび】


植物と人について、次のような名言がある。
「一年の計は穀を樹(う)うるに如くは莫く、十年の計は木を樹うるに如くは莫く、終身の計は人を樹うるに如くは莫し」
(大島晃編『中国名言名句辞典』三省堂、1998年、25頁)
意味は、「一年の計画であれば、穀物を植えて育てるのがよく、十年の計画であれば、木を植えて育てるのがよく、一生の計画であれば人物を育てる以上のことはない」ということである。
また「一樹に一たび獲する者は穀なり。一樹に十たび獲する者は木なり。一樹に百たび獲する者は人なり」ともいわれる。
穀物や樹木では一生の収穫は望めないが、今回植えた仏花を大切に育ててゆきたい。先祖供養のためにも。