
このごろ ピアノの前に座って
平均律を弾き始めると
以前よりも 格段に練習量は増えているにもかかわらず
押すべき位置を外したり
アーティキュレーションどころか
強弱のコントロールすらままならぬときがあって
弾きやめてしまうことが多くなった
教会の日常品としてかかれ
ほぼ 省みられることもなく
厳密な推敲がほどこされることもなく
使い捨てのようにして書き捨てられていった
バッハの膨大な作品たちに
僕の技術は裏切られていくばかり
ジャズを弾けば
どこかで聞いたことのあるフレージングの亜流
あるいは「似非フレーズ」の羅列に堕し
即興すれば
分経過ごとに不自由になって
記憶からの盗用に走ってしまいそうになり
いらだつか ぞっとして弾きやめる
眠りは浅く
昨日など 自分のいびきで目を覚ますという
おばけのQ太郎のごとき経験をして
夢を見れば
空気のように軽い 大切な人を抱えているうちに
そのひとは息絶えてしまったりして
あせだくになって目が覚める
************************
クラシックの曲の数々
バッハ ショパン ベートーヴェン シューマン
ドビュッシー ラヴェルなどを攫ううちに
演奏家がいかに 作品に真向かわずに
楽器のコントロールに縛られているかがよくわかる
作品を如何に解釈し、それを実現しようとしたところで
頭蓋内のオマージュと 手指の身体運動の齟齬は
埋めがたくあって
音響のコントロールがすなわち 作品のコントロールで
あるとして勘違いしている人も多かろうが
(おそらくそれは即興派の人に多いだろう)
それは頑として異なるもので
真の練習とはおそらく 心の作業ではないかとすら思う
どれだけ技術的に稚拙であっても
迷いのない音というのはそれなりに 揺さぶる力を
蔵しているものだ
音楽とは所詮 力の配分と
音程の上下 律動の振幅の相対的な関係でしかない
その相対性が それ自身の力で崩壊していくさまこそ
音楽を志すものが第一に感じる喜悦であろう
************************
ジャコ・パストリアスの「ワード・オブ・マウス」や
オーネット・コールマンの「ゴールデン・サークル」を
繰り返し聴きながら
マデイラワインを飲み
ピースを燻らせて
一日を灰にして棄てる
うずたかく積もった日々の灰のなかには
芽吹くはずの種子もあったかもしれない
休日 起き出して
湯を沸かし アールグレイを飲み
パンを焼いて食べ
パソコンを開け
あとは 飯を食い ピアノを弾き 本を読み
風呂に入って眠る
平日ならば これに職務が入るのみ
鈍磨していくこころのひだが
こころ自体を捉えきれなくなってきさえする
消費者としての自己
自動製糞機とでもいうような
栄養搾取管とでもいうような
***********************
パキシル・デパスに加えて
リーマスが新たに処方された
気分の抑揚を抑制するのだという
知覚過敏になっているのか
夜半 ちょっとした家のきしみにも目覚めて
そのまま眠れなくなることもあり
また 少しのことで安定を損ねるため
追加処方となったのだ
ぼくのかかっている心療内科の入居するビルから
先週 飛び降りがあった
幸い車のボンネットに落ちて
辛うじて命は取り留めたというが
なんとも いやな心持がした
心療内科の待合室には
自らの傷を誇り見せびらかすように
半袖のシャツから 無数のリストカットの痕の残る
もはやケロイドのような腕を露出した女性や
突如安定を失って 泣き崩れる女性もいる
精神疾患に適用される医療費負担軽減制度を利用しようとする
明らかなたかり型の健常者もいれば
中閑管理職と思しき男性
学生や無職者もいて
それぞれが 互いのことを無きもののように気も配らず
同じ向きに並列で座っている
そのなかに混じってじっと座っていると
居合わせるひとびとの症状がなだれを打って
襲い掛かってくるような心持になって空恐ろしい
僕の服薬量は 軽症者向けのそれなのだが
負担額はそれなりのものになる
受け容れているとはいえ かえすがえすも悔しくなる
なぜここにいなければならないのか?
職場でも 家でも 病院でも 歩いていても
感じる思いだ
ピアノの前に座るとき
それがないのが せめてもの救いなのだが
ピアノに逃げ込んでいるだけだとしたら
ぼくは足早にそこから立ち去らねばならないだろう
では、どこへ?
************************
2月10日~12日にかけて
静養のため 千里阪急ホテルに滞在します。
それとて、逃げ込む、ということか。
では、ほんとうに、どこへ?
消えてしまいたくなるというのは悪い兆候だ。
平均律を弾き始めると
以前よりも 格段に練習量は増えているにもかかわらず
押すべき位置を外したり
アーティキュレーションどころか
強弱のコントロールすらままならぬときがあって
弾きやめてしまうことが多くなった
教会の日常品としてかかれ
ほぼ 省みられることもなく
厳密な推敲がほどこされることもなく
使い捨てのようにして書き捨てられていった
バッハの膨大な作品たちに
僕の技術は裏切られていくばかり
ジャズを弾けば
どこかで聞いたことのあるフレージングの亜流
あるいは「似非フレーズ」の羅列に堕し
即興すれば
分経過ごとに不自由になって
記憶からの盗用に走ってしまいそうになり
いらだつか ぞっとして弾きやめる
眠りは浅く
昨日など 自分のいびきで目を覚ますという
おばけのQ太郎のごとき経験をして
夢を見れば
空気のように軽い 大切な人を抱えているうちに
そのひとは息絶えてしまったりして
あせだくになって目が覚める
************************
クラシックの曲の数々
バッハ ショパン ベートーヴェン シューマン
ドビュッシー ラヴェルなどを攫ううちに
演奏家がいかに 作品に真向かわずに
楽器のコントロールに縛られているかがよくわかる
作品を如何に解釈し、それを実現しようとしたところで
頭蓋内のオマージュと 手指の身体運動の齟齬は
埋めがたくあって
音響のコントロールがすなわち 作品のコントロールで
あるとして勘違いしている人も多かろうが
(おそらくそれは即興派の人に多いだろう)
それは頑として異なるもので
真の練習とはおそらく 心の作業ではないかとすら思う
どれだけ技術的に稚拙であっても
迷いのない音というのはそれなりに 揺さぶる力を
蔵しているものだ
音楽とは所詮 力の配分と
音程の上下 律動の振幅の相対的な関係でしかない
その相対性が それ自身の力で崩壊していくさまこそ
音楽を志すものが第一に感じる喜悦であろう
************************
ジャコ・パストリアスの「ワード・オブ・マウス」や
オーネット・コールマンの「ゴールデン・サークル」を
繰り返し聴きながら
マデイラワインを飲み
ピースを燻らせて
一日を灰にして棄てる
うずたかく積もった日々の灰のなかには
芽吹くはずの種子もあったかもしれない
休日 起き出して
湯を沸かし アールグレイを飲み
パンを焼いて食べ
パソコンを開け
あとは 飯を食い ピアノを弾き 本を読み
風呂に入って眠る
平日ならば これに職務が入るのみ
鈍磨していくこころのひだが
こころ自体を捉えきれなくなってきさえする
消費者としての自己
自動製糞機とでもいうような
栄養搾取管とでもいうような
***********************
パキシル・デパスに加えて
リーマスが新たに処方された
気分の抑揚を抑制するのだという
知覚過敏になっているのか
夜半 ちょっとした家のきしみにも目覚めて
そのまま眠れなくなることもあり
また 少しのことで安定を損ねるため
追加処方となったのだ
ぼくのかかっている心療内科の入居するビルから
先週 飛び降りがあった
幸い車のボンネットに落ちて
辛うじて命は取り留めたというが
なんとも いやな心持がした
心療内科の待合室には
自らの傷を誇り見せびらかすように
半袖のシャツから 無数のリストカットの痕の残る
もはやケロイドのような腕を露出した女性や
突如安定を失って 泣き崩れる女性もいる
精神疾患に適用される医療費負担軽減制度を利用しようとする
明らかなたかり型の健常者もいれば
中閑管理職と思しき男性
学生や無職者もいて
それぞれが 互いのことを無きもののように気も配らず
同じ向きに並列で座っている
そのなかに混じってじっと座っていると
居合わせるひとびとの症状がなだれを打って
襲い掛かってくるような心持になって空恐ろしい
僕の服薬量は 軽症者向けのそれなのだが
負担額はそれなりのものになる
受け容れているとはいえ かえすがえすも悔しくなる
なぜここにいなければならないのか?
職場でも 家でも 病院でも 歩いていても
感じる思いだ
ピアノの前に座るとき
それがないのが せめてもの救いなのだが
ピアノに逃げ込んでいるだけだとしたら
ぼくは足早にそこから立ち去らねばならないだろう
では、どこへ?
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2月10日~12日にかけて
静養のため 千里阪急ホテルに滞在します。
それとて、逃げ込む、ということか。
では、ほんとうに、どこへ?
消えてしまいたくなるというのは悪い兆候だ。
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