白河夜舟

水盤に沈む光る音の銀砂

本当にやりたいこと

2007-12-22 | 音について、思うこと
一ヶ月間、ほとんど休みのない日々を過ごした。





(曲頭)6時に起き、定時に出勤して、
会話も、作る文章も、業務のことばかり、
毎夜、疲れた身体を引きずってはスーパーで酒を買い
11時過ぎに帰ってきて、遅い夕食を取り、眠り、
(ダ・カーポ)





そうして、一ヶ月間、音楽も聴かず、ピアノにも触らずに、
3連休を前にした昨日は、とうとう帰宅直後に
倒れこんでしまった。
何とか起き上がって、居間のソファに身を沈めて、
徐にテレビをつけたとき、
DREAMS COME TRUEの音楽と、それを演奏するI氏の姿が
流れてきた。





**************************





音楽が、遠い。
身近にあったはずの音楽が、消えうせてしまっているのに
気がついた。





I氏が上京する折、彼に一緒に東京に行こう、と誘われた
記憶がある。
僕はその誘いには乗ることがなかった。
彼は自分が好きなことを仕事に出来ていて、こんなにも
幸せなことはない、と話していた。





彼の姿をいろいろなメディアを通して見るたびに、
誇らしくなると同時に、
わが身の、音楽を演奏することすらもままならない現状に
押し隠せぬほどの苛立ちを感じる。
なのに、自分自身の演奏への自己批評が時に苛烈に過ぎて、
自分自身の音楽演奏活動への過剰な自制が働いてしまう。
人前で演奏するほど、自分自身の演奏力は育っていない。





*************************




とある縁で、劇団四季のアイーダの主演女優のひとと
話をする機会があった。
舞台を前にした過剰な緊張からか、やや躁状態のような
印象を受けたけれど、
歌への情熱と、苛烈な自己批評、それを超えようとする
意志の強さを持ったひとだった。





表現者には、一貫した超克のこころがある。
その超克の試みは、当然のことながら、僕とて持っていると
思っていた。
それが、繁忙な業務の中で失われてしまっていたのだから、
所詮、そこまでか、という限界が見えてしまったような気が
してしまって、昨日は飲み散らかして暴れていた。





***************************





僕が本当にやりたかったのは音楽だった。
物を書くことも好きだけれど、
僕には音楽しか残っていないはずだった。
その音楽がとおざかろうとしている。
無理に追いかけても、追いつける気がしない。





聴衆のいないピアノは、音楽ではない。
ならば、どこかへ演奏しに行こうか。
けれど、僕は聴衆を信用していない。





本当は、誰かをおもいきり、心の底から快活に
出来るような、
そして、なにか、力を与えるような音楽をやりたい。
それが出来ないならば、独自の表現を追求することで
何か、こころに見えない傷を残せる音を。





聴衆は、いない。
共演者もいない。
共演を申し込んでも、断られるばかりで、
とうとう、演奏者自身がいなくなろうとしているような
状態になりつつあるような気がする。
ピアノが弾けない。
この頃は、幼稚園児の弾くブルグミュラーのほうが余程
自分よりも音楽的にすぐれていると思える。
何の意志もない音の純粋に惹かれるという、危険信号。





*************************





最近になって、

「まだピアノ弾いてるんですか」

と言われることが多くなった。
まるで、共演者も聴衆もいないのに、なぜあなたは
音楽をやろうとするのですか、
虚しいだけではないのですか、
それでも音楽にしがみつくのは見苦しいですよ、
こちらからすれば目障りで耳障りでもあるから、
音楽から身を引いて、音楽を辞めたほうがいいのでは
ないですか、という助言に聞こえる。
その言葉には軽蔑の含みがある。
彼らは僕の音を聴こうとはしていないのだから。





僕はピアノを弾いてはいけないのだろうか。
演奏活動をしている人間でなければ、
世間で認められていなければ、
共演者や聴衆がいないなら、音楽を試みる資格もないのか。





**************************





まあ、下手くそなのだから仕方がないのだろう。
まあ、全てを自分のせいにしておいたほうが、
軋轢も起きずに済む。





それでも、音楽がやりたいと思うけれども、
音楽に殺されるような気もしてくる。
それに、音楽の向こうの亡霊のような人間も見たくない。





**************************





それでも、心の底から、あたたかで
幸せになれるような音を、
そこに居合わせてくれるひとのために弾きたいと願う。





けれど、たったの一音も、弾けない。






最新の画像もっと見る

4 コメント

コメント日が  古い順  |   新しい順
Unknown ( )
2007-12-22 22:52:00
こんにちは。
貴方のピアノを聴いたことがある者です。
私は貴方とあまり面識がありませんから、
お話する機会もないと思います。
それでももしお声をかけることがあれば、
まだピアノ弾いてるんですか、と尋ねると思います。
あのピアノがもう一度聴けないかなと期待を込めて。
どれほどご自分の音楽に絶望されてるかは痛いほど伝わってきます。
ただ、貴方のピアノの音が響く場所に居合わせられたことは、
私にとって、とても幸せなことでした。
音楽のことはよくわかりませんが、一聴衆として、そう思います。
返信する
Unknown (lanonymat)
2007-12-24 21:27:37
こんばんは。
いつ、どこで僕のピアノをお聴きになられたのか
わからないのですが、
その節は、どうもありがとうございました。

今日は納得のいく音が出せるまでに、3時間ほど
かかりましたが、何とか楽器が弾けたので
ほっとしているところです。

いつか、どこかで演奏する機会があれば、告知を
しますので、ご都合が合えばお越しください。
返信する
敬意を表して (Hiroyuki Kato)
2010-10-23 16:57:35
こんばんは。コルトレーン進行に興味があって調べてたらこのサイトにたどりつきました。

貴方の書いた、理論はとてもわかりやすくとても勉強になりました。
正直、読んでる説明の中で知らないことばかりの話で、理解など到底出来ていませんが、文体からなんとなく色々な仕組みがみえてきました。
バルトークの機能分けは目からうろこでした。

文中出てきた対位法はじめ知らないだらけの音楽論をもっともっと知りたい欲求がわきました。
これも貴方のサイトのお陰です。本当にありがとうございました。

そして、主観ですが、これだけ深く音楽を考え音楽を愛して演奏されてる、そのピアノはきっと強いエネルギーを生み出してるのでは無いか?と思います。
多くの聴き手の方が理解したり共感するかは、数字・結果で正しいわけでも無いですし、無責任な発言かもしれませんが、きっと貴方のピアノが好きな方は少なからずいらっしゃると思います。

僕は貴方のピアノに強く興味を持ちました。
そして時間をみてもっとこのサイトを楽しみたいと思います。

この出会いに感謝です。ありがとうございました。
返信する
Unknown (lanonymat)
2010-10-25 21:32:52
>Hiroyuki Kato 様

コメントを頂き、誠にありがとうございます。
身に余るような、気恥ずかしさもありますが…
僕は14歳の時、Keith Jarrettのアルバム
「Koln Concert」を聴いて、
こんなピアノが弾きたい、と思い立って以降、
音楽の専門教育を受けることなく、全く独学で
ピアノを演奏してきました。
そのせいか、僕は、楽譜が読めません。
全く読めないわけではありませんが、初見では
今も演奏することは難しいのです。
件のコルトレーンチェンジの解説は、
大学時代にジャズサークルに所属していた頃、分析した結果を書いたもので、
学究的根拠はなく、あくまで個人的解釈です。
音楽理論は、本来そうした性質のものなのかも
しれませんが…記号論として処理しています。
それゆえ、文体に依存しているのでしょう。


あるとき、高齢者施設で、認知症や脳梗塞で
日常生活が困難な人たちを前に、
急遽、音楽の伴奏をしたことがあります。
最初は戸惑い気味だった人たちも、次第に体を
揺らし始め、大きな声で歌い始めました。
その時、要介護認定5を受けている、
重い脳梗塞の後遺症を患っているひとが、
突然大きな声で泣きはじめたんですね。
表情や感情の一切を失ったと、皆が思っていたそのひとが、感情を露わにしたんです。
認知症で、自制が効かなくなった人も、
じっとおとなしく手拍子を打っていました。


言葉や意味の何を介さなくても、
心を共振させて通い合えたかもしれないと、
夢でも希望でも幻でも何でもいいから、
たったの一瞬でも焔たたせることが出来る。
そんな、音楽の持つ力を感じた事があります。
数年前、僕の後輩たちが特別養護老人ホームを訪れて、慰問演奏を行ったときにも、
何の意欲も示さずに塞ぎこんでいた入所者が、
家族の手を取って一緒に立ち上がり、
音楽にあわせて踊り始めるという出来事が
ありました。


決して多くの人から拍手をもらうのでもなく、
たったひとりで演奏に閉じこもるのでもなく、
たったひとり、そこにいるひとに演奏をして、
相手が音楽だと思ってくれれば、それでいいと
思うようになっています。
ただし、僕の演奏はどうにも「引力」が強くて
生まれながらにソリストのようです。
共演者のみならず、「人生ソリスト」とも
言われておりますが、仕方ありません。
僕のピアノが好きな人がいるのなら、
それほどうれしいことはないですけれども。


駄文や写真を切り貼りしているだけのブログで
恐縮ですが、またいらして頂けるのであれば
是非、お立ち寄りください。
こちらこそ、ありがとうございます。
返信する

コメントを投稿