白河夜舟

水盤に沈む光る音の銀砂

羂索、むすぶ

2017-01-04 | 日常、思うこと
昨日、NHKを観ていたら、桂文珍師が、自作の落語「定年の夜」を演じていた。定年を迎えた初老の男が、祝いの席でもスマホに興じる自分の家族に愛想をつかし、ひとり出掛けた居酒屋で、自分もスマホを触っているうちに、指先から画面の中へと吸い込まれ、情報の海を漂流する、という話である。

まるで、ショートSFのような、摩訶不思議な、イリュージョンを体感するようだった。もっとも、客は、桂三枝の不倫や、情報番組「ミヤネ屋」を揶揄するくだりや、煙草を吸おうとして、サムスンのスマホを差し出されるくだりに、よく笑っていた。

「LINE」と「Amazon」が、同じ響きの大河との地口に仕立てられていた。これは平易だったから、客もわかったようだった。しかし、「検索」と「羂索」の地口は、どれだけの客がわかっただろうか。これがわかっていると、そのすぐ後に、芥川龍之介の「蜘蛛の糸」を引きながら、漂流する男が助けを求めて、話が展開していくさまの、受け止め方ががらりと変わる。事は、蜘蛛の巣と、インターネットの、類比どころではない。

今は亡き立川談志が、文珍師を「妖怪」と評した理由がよくわかった。正月の団欒に向けて、めでたい紅白の舞台を背にして、語るその口の向こうがわに、底知れぬ闇がもうひとつ、口を開けているようだった。

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