白河夜舟

水盤に沈む光る音の銀砂

noise

2007-09-08 | こころについて、思うこと
巨樹像のような思念のイデアを映写しようとして、
あるいは、即興演奏のなかに色彩と形式を取り入れて
こころになにかを刻み付けることがうまれるよう腐心して
いくら純化、ろ過、蒸留を繰り返しても、
どうしても、生肉にたかる蝿のようなノイズは消えない。





眼球を流れる埃はまるで水中のプランクトンのように
受像されて「見えて」くる。
無音室に入れば、自らの神経と血流のそれぞれの周波が
頭蓋の内側に持続して反響する。
実際に発話されたことばの群れの中に込めたつもりが
むこうがわへ届かなかった意味、
あるいは言語化されぬままに、胸奥で心身を傷め始める
鉛、あるいは水銀のように凝固した情念が、
自分だけで行う自分自身の純化を許さない。





思念のイデアを試みるうちに、取り除いたノイズによって
われわれは常なる危険に晒されることになる。
自らの志向を一点へと絞るうち、ファインダーから外した
雑多なものたちが、志向の中へとだんだんと攻め寄せる。
われわれは、自らが排撃したノイズに攻め立てられてくる。





時には、自らがよしとしないものを仕事として遂行したとき、
それに抗おうとするひとびとに、まさに自らの考えと同一の
ものによって攻撃もされる。
社会の中に自己を喪失していくにつれて、自らが放った矢が
めぐり巡って自らの背に突き刺さったとしても、
もはやそれが自分が放った矢であることすらも忘れている。
いずれ、自らの信条によって、自らが排撃されることにすら
なりかねないことを忘れているから、
われわれは安心して眠ることができるのかもしれない。





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いのちなきものをいのちとし、
音声や符牒を互いのもついくつもの鍵と鍵穴に挿しいれる。
こうした作業によって、自らの内側にあって
誰からも覗かれ、あるいは侵犯されなかったものが暴かれる。





ことばが情念をかたちにして、相手へと開示することにより
自分だけのものとして「所与」のものであった特殊な情念は
途端に一般化され、誰のものにもなり得るようになった。
ことばは情念を交換する。そして交換そのものの作用によって、
ひとびとは自身を、特殊で誰のものでもない唯一性に満ちた
ものであると邪気無く思うことが出来るような、
いわば、「自我の楽園」ともいうべき甘美な幻想から追放された。





情念がことばによって相対的なものになったように、
自分ただひとりの力でも、自身を唯一のかけがえの無いものと
思うことができるような念、
端的にいえば、自己愛すらも、交換によって相対化されている。
愛はいつからか、交換を前提としたものになった。
自己を保存するという種族的・生物的本能に由来する、
本来は最も大切であるはずの自己愛が、ナルシシズムという名の
嘲笑の意味合いを附与されるに到ったのは、それが理由だろう。
交換されぬ、交換できぬ愛など、無いのと同じなのだ。





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情念がかたちとして明確に開示されるのは、ことばによる
意味の領野だけにはとどまらない。
色彩と造形、音や記号、科学技術とマテリアルが巧妙に結託し、
芸術やさまざまのプロダクトという果実となることによって、
情念はさまざまなかたちとなって、この世界のあらゆるものを
相対化していく。





しかし、その源泉たる情念は、その帰結のもたらす相対性故に、
発生の場所と時間を次々に変えていくことになる。
それは、絶える事の無いプロダクトの生成と帰結の
一連のプロセスの相対化が、次に生まれてくる情念の端緒を
すでに相対化し、絶対的な唯一性を剥奪しているからだ。





そして絶える事の無い相対化がひとびとにもたらしたのは、
唯一性の剥奪によってもたらされた、価値の毀損滅失と
絶対的なるものの喪失だった。
無神論が蔓延し、文不文を問わず、既存の倫理秩序が崩れ、
神話性や幻想が軽んじられることとなった。
そこでひとびとが発明したのが、交換による既存の社会の
システムを破壊せず、唯一指標として明確な規準となり得る
ものとしての、お金だったわけである。





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唯一基準として、既存のシステムから純化されて取り出された
「貨幣という名のイデア」は、長らくは金や銀、石油といった
自然界の資源プロダクトをその根幹に置いて来た。
貨幣は現在ではそれらを捨てて、信用や偶発性といった
マインドそのもの、いわば情念の錯綜と集束の方向性を根拠に
交換される傾向を一層強めている。





貨幣が社会システムの純化作用の結晶である以上、
貨幣から排撃されたさまざまのノイズが発生する。
貨幣への復讐として企てられた共産主義は頓挫したが、
貨幣の集中から排撃された「貧しき者」は
貨幣を多く集めようとする意志によって、
金銭への強欲に猛り狂う。
ひとびとの経済活動は、この唯一基準による社会における
絶対性を隣人よりもかき集めようとする者の発する、
欲望の轟音である。





しかし、貨幣自身が交換を拒否してしまえば、
現在の社会システムは途端に頓挫し、危機的状況に陥る。
それがかつてのニクソン・ショックであり、
日本における円の導入であった。
今後起こりうる貨幣の交換拒否は、現在の貨幣交換が
信用や偶然性などのマインドそのものに根拠を置く傾向を
ますます強めている現在、
社会の成員同士の信用の拒否、互いのこころの断絶という
人間にとって絶望的な形で起こってくるのではないだろうか。





先ごろ、名も知らぬ者同士が偶然に居合わせた女性を襲い
金銭を奪って殺害するという事件が起こったけれど、
それはまさに貨幣の集積から弾き出されたもの同士が
互いが誰であるかもわからぬままに犯罪を起こすという、
現在の社会状況に対する復讐としての強烈なノイズだと思う。





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われわれはノイズを排撃するだけではなく、
ノイズ自体に木霊する排撃されたものの憾みを聴き、
あるいは、一旦は捨ててしまっていた純化のための種苗を
ノイズから取り出すような試みをしなければならない。
ノイズの中には、排撃して忘却した自らの端緒が映っている。
そして同じように、向かい合う誰か、見知らぬ誰かの端緒も
響いている。
ぶつかり合い、ちらつき、引っかき、揺れ、歪み、引き攣り、
ふるえ、ぶれ、ふれ、ねじれ、さざめき、うなり、つぶれ、
混乱し、伸び縮み、途切れる、そのノイズの有態こそが
もともとのわれわれの本質なのだから。





それは眼にも耳にも決して心地よいものではないが、
ではわれわれは、そのようにいい切れるほどに
きれいな姿をしているのだろうか。





クセナキスを聴き、最近のエレクトロニカの隆盛を思うと、
そのことに自覚的な人間は案外に多いようだと気付いた。
そのことに少し安心して、僕はオーネット・コールマンを
史上最高のバラード・プレイヤーだと思っている、と
試しに言い切ってしまうことにしようと思う。




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2 コメント

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Unknown (古部由良)
2011-05-03 11:25:02
素敵な文章ですね。
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Unknown (lanonymat)
2011-05-04 20:57:03
コメント頂きありがとうございます。
恐れ入ります。
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