白河夜舟

水盤に沈む光る音の銀砂

Mica's Dream

2007-01-26 | こころについて、思うこと
真実は ひとを傷つける
真実は ひとを怨ませる




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ひとが朝起きてまず最初にすることは
眠り見た夢を わざと読み違えること




まるで影絵の羅針盤でも操るかのようにして
夢を暗示として 行動や言動の選ぶべき方角を向く
かれが見つめる先には 「南極星」が燦然と輝いている




ひとは夢の中にこそ「北極星」を見なければならない
非現実と現実をない交ぜにして 虚構の中に真実を
でっち上げるだけの度胸と それを自明と認める潔さを
持ち合わせていることに自覚的であるひとびとが
詩を生み 絵を描き 音楽を奏でた




それはしかし しばしば判断力を失い 独白に堕した




例えば 意識の流れの具現としての音楽によって
自らが鳴り響いていると感じることが出来るのならば
たしかにぼくたちは 次に引用する「小宇宙」を 
言葉の群れだとは簡単には言えなくなるだろう




「ああ何もかももうみんな透明だ
 雲が風と水と虚空と光と核の塵とでなりたつときに
 風も地殻もまたわたくしもそれとひとしく組成され
 じつにわたくしは水や風やそれらの核の一部分で
 それをわたくしが感ずることは
 水や光や風ぜんたいがわたくしなのだ」

                (宮沢賢治)





世界との融和 和解を夢見ているこころの奥底でしかし
世界を和姦しようとする宮沢賢治の魔の色がちらつく




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表現とは おそらく内なるものの外部化であり
皮膚を突き破り放射する獰猛な脳髄の痺れである




しかし、天沢退二郎の言葉を借りて仮にこれを
「内部と外部の婚姻」と呼ぶならば
それを夢見て敗れ去り ただ外側に立ち尽くして
「自身」を眺め見る表現者の叫びは
悲痛であればあるほど 驚くほどに葛藤を経ては
一途とも言えるほど純化されていく




鎮められ 祈られる表現は
あるときは神に あるときは表現者自身に
捧げられ 供えられる 
「わがうち秘めし 異事の数 異空間の断片」
と宮沢賢治が述べたものたちは
肉体を突き破り 言葉を伝い 
やがて青白い焔の星となって恐ろしい速度で昇天する
そしてふたたび言葉となって われわれへと墜落する
このとき 永久の飛翔の夢に死んでいたであろう
表現者の姿は 霊的な形で読者へと呼び戻される




全能の芸術もなく
相互浸潤の芸術もないことを
われわれは理性による判断という 
夢に嘘をつく行為によって辛うじて「わかっている」
しかし 表現者がしばしば重んじる「夢の力」は
判断力を時として葬りにかかるほどに魔的であり
それゆえにわれわれは 夢の中の甘美な陶酔に屈し
世界を我が物としたかのような傲慢さで
己の内側に手なずけられた自己愛を
表現だとして露出する




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汚らわしき自己愛にむけて射精することの
汚らわしさに無自覚なこころを
純粋無垢で澄明であると果たして言い切れようか




けれど救われぬこころ くるしみ 引き裂かれ
裏切られ続けてきたこころが
澄明な空気と緑と爽風とオレンジの光と毛布に
包まれたくなるのは痛むほどにわかる
それを敗北の事実としてうたうことは
もうすでに宮沢賢治が血を吐くまでやり尽くした




宇宙のひろがりのなかでは
われわれは墜落しきることなど出来ない
飛翔することも出来ない
ひろがりのなかでは
墜落と飛翔が同義であるからだ
乱反射も屈折も経験せぬまま 何にも遮られぬ光もあろう





互いの傷を知り 祝福し それを認知する
祈りのようなこころで
しかし あくまでも信仰に堕することなく
皮膚を突き破り放射する獰猛な脳髄の痺れに耐え
それを 互いに組み合わせた手のような関係のなかに
仄かに宿すこと




演奏は始まってもいないし 終わってもいない
音を出すための準備だけが進んでいく
言葉となるための準備は始まろうともしない





真実が ひとを傷つけぬように
真実が ひとを怨ませぬように
やさしく
しかしいずれ ひとを傷つけ
ひとを怨ませるようにして

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