白河夜舟

水盤に沈む光る音の銀砂

洋行譚 2日目

2010-07-04 | ドイツ・スイス 旅行記
写真はこちらからご覧ください。

6/19~6/22 am
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6/22pm~6/24am
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6/24pm~6/25am
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6/25pm~6/27
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6月20日(日)



白夜の朝は、3時過ぎには白み始める。
北緯51度、気温は9度。
梅雨の日本から、一気に晩秋に来たような寒さだ。
一睡もできないままではまずかろうと、
体操やストレッチを試みるも、どうにも効果がない。
頭に血が上ってしまった状態なのだろう、
後頭部がしきりに疼く。
結局、眠れぬままに朝を迎えた。





6時のCNNは、ワールドカップでの日本の敗戦を
ほんの少しだけ報じていた。
BBCは、カナダでのG8よりも、
メキシコ湾の原油流出事故を大きく報道していた。
メキシコ湾には、すでに大量の重油が沈んでいて、
死の海と化しつつある、という。
また、人民元の変動相場制への移行について、
大きな時間を割いていた。
ポーランドの大統領選の模様も大きく伝えられた。
日本など、かけらも出てこない。





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10時、朝食もとらぬまま、シャワーを浴びただけで
カッセルからICEに乗り、ゲッティンゲンへ向かった。



ゲッティンゲンは大学都市として知られる。
フッサールやショーペンハウアー、ハーバーマスも
学んだ街であり、日本人では、仁科芳雄も学んでいる。
中世以来の木造建築が数多く残り、

「1549年建築、1765年修復、1858年
 再度修復、2003年再度修復」

というように、その家屋の歴史を記した銘板が、
むき出しの軸組みの梁の部分に嵌められている。
僕が見つけることの出来た最古の家は、1470年に
建てられたものだった。





大聖堂は日曜礼拝の最中だったので、異教徒として、
入ることをやめておいた。
ファサードには華美な装飾はない。
ごつごつとしたレンガを積み上げてあるだけだ。
入口の前には長髪の浮浪者が地面へとへたりこんで、
礼拝直後のひとびとからの施しを待っていた。





街並みは美しいものの、街の中心を流れる川には
空き瓶や空き缶が多く投げ込まれていた。
前夜の、ワールドカップでのドイツの試合の結果に
よるものなのかどうかは、定かではない。





正午、スポーツバーと思しきレストランに入った。
前夜の不眠と、長旅の疲れのせいで食欲がない。
仕方がないので、軽い食事を取ろうとしたのだが、
どうも「light meal」という語がいけなかったのか、
もう朝食の時間は終わってしまってグリルしかない、
出来るのはパンケーキぐらいなのだが、それでもよいか、
という答えが帰ってきた。
パンケーキですら重いくらいである。
パンにサーモンを挟んだ程度のサンドイッチもなさそうで、
仕方なく、コーヒーだけで勘定を済ませて、駅へと歩いた。
この1時間後には、旧東ドイツに向わなければならない。
仕方なく、駅のバーガーキングで、ポテトとコーラを頼み
胃のなかに押し込んだ。





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13時、REに乗り、いよいよ旧東ドイツ圏へと向かう。
アウトバーンや古くからの建物が、いきなり無機質の
コンクリートの直方体の建物に変わるあたりで、
旧国境線というもの、資本主義と共産主義の境界の痕跡を、
はっきりと見て取ることが出来た。
40分後、ライネフェルデという街で、僕たちは降りた。
しばらくホームを歩くと、通訳を頼んでいた東大の才媛に
出会うことが出来た。





旧西ドイツ圏域の失業率は10%程度であるが、
旧東ドイツ圏域では、失業率は20%に達する。
当然それを反映して、旧東ドイツに近くなるほど治安も悪い。
ライネフェルデは、かつての旧東ドイツの産業促進計画の
モデル都市として、1960年代に大規模工場が建設され、
人口はそれまでの5倍に膨れ上がった。
急増した人口を収容するための団地が建設され、
街は急速な拡張を見せたのだが、
1990年のドイツ統一によって、基幹産業であった工場が
閉鎖されると、急激な人口減少と経済縮小に見舞われて、
街は空洞化し、その一部は「ゲットー」と呼ばれるまでに
荒廃した。





そこで、都市再生計画を立て、建築の用途転換や間引きを
実施して、質の高い居住空間を構成することにより、
人口流出を抑制し、産業誘致に成功したのである。
その結果、この街は国連からも賞を受けるなど、
全世界的に評価の高い都市計画・再生事例として評価され、
いわゆる「Shrinking city」の成功モデルとして
広く知られるに至っている。
その街を、見ようというわけだ。





駅を降りてまず感じたことは、喫煙率の高さである。
老若男女の別がない。
これはカッセルでもそうだったが、その4、5割は
増しているのではないだろうか。
街を歩く若者、駅に集う若者には、入れ墨が目立つ。
スキンヘッド、黒のTシャツの若者たちを見た時は、
思わず身構えた。
ネオナチである。
彼らはこちらをじっと見ていたが、そのうちに車で
どこへともなく、去って行った。
ドイツでは誰一人日曜日にスーツなど着ない。
それに、こちらは日本人である。見られて当たり前と
思わなければならない。





僕らを迎えてくれた女性は、旧東ドイツ圏の人間であり、
東西ドイツの統一がどれほど衝撃をもたらしたのかを、
何度も何度も繰り返した。








彼女と街を歩きながら話したことは、
都市計画の具体的な立案・実践の手法にとどまらず、
日本の文化財保護政策の場当たり的ないい加減な歴史や、
伊勢神宮の「無」を「有」で隠す仕掛けの巧妙さ、
神道と仏教の関係の「綾」や、
日本人は、絶えずものごとが新しく更新されるように
こころの根底で願っている、という「常若の思想」など、
さながら比較文明論の様相を呈した。
日本は科学による理論よりも経験を重んじて物を作るが
その経験がなぜ政治の歴史には生きないのか、という、
極めて重い問題が議論に浮上するに至って、
段々と、こちらも疲労の度合いが濃くなってきた。





街を一周して、都市計画の理想と、実現態の見事な一致に
感銘を受けながらも、だんだんと足が重く、脳も重く、
言葉も重くなってきた。
長旅と不眠による疲労と負荷の蓄積が、ピークに達しつつ
あったのである。
別れのときに、「Auf Wiedersehen」と言うべきところ、
何故か口をついたのは、「Guten tag」。
それは出会いのときに言うんですよ、とドイツ人に笑われて、
すいません、実は飛行機で眠れず、時差ボケもあって、
脳が混乱しているようです、と返しておいた。





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帰途、通訳に謝金を払い、カッセルへと戻る列車のなかで
リルケの詩とマーラーの音楽を論じていたところ、
突然の眩暈と動悸に襲われて、席を立った。
しばらく、車両の間の通路で、風に当たった。
同行者に聞けば、突然、顔色が真っ青になり、
唇も紫っぽく乾いていて、いったいどうしたのかと
一瞬驚いた、とのことだった。
疲れが出たのだ、と、これ以上の問いを制して、
通訳と別れ、カッセル中央駅で降りた。
赤茶色の駅舎と、足元に散乱する煙草の吸殻、痰の跡、
治安の悪さは、公共空間の美しさに比例する。
カッセルの駅の汚さは、首都圏・近畿圏の比ではない。
旧東ドイツ圏からの列車の客席には、ポップコーン、
ペットボトル、ゴミの類が、席にも床にも散乱して、
思わず入るのをためらうほどだった。





ホテルに戻る前に、ICEの座席指定を取った後、
駅構内にあるスーパーで買い出しをした。
日曜日に営業しているレストランは、カッセルには
ほとんどない。
昨日よりも5割ほど値段の高い別のスーパーで、
昨日とほぼ同じ食材に、バーボン&コークを足して、
ホテルの部屋で食事をとった。
同僚に体調の悪さをわびて、無理やりに食事をとり、
昨日と同じ、21時に食事を終えて、自室に戻り、
早めに眠ろうと電気を消したのだが、
身体に染み付いた日本時間がどうにも抜けてくれない。
23時から、1時半までの記憶はないものの
しかし、それ以降、一切眠ることが出来ないまま、
白夜は早くも3時に眼を開いた。





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こんな状況下にあって、何とか平穏にいられたのは、
緑多いドイツの森や木立に住まう鳥の声のおかげで
あったと思う。
高く澄んだ声で鳴き交わす鳥の声は、日本のそれとは
全く異なり、五月蠅さとは程遠いもので、
さながら祝福の音のように、短い帳の時間を除いて、
清澄な水が沁みてくるようにずっと聴こえていたからだ。
その声は、木々の間から直線に通って、
風よりもほんの少し早い速度で、こちらに届く。
フルートの音色と、鳥の声の近しさを実感できたのは、
このカッセルの街での経験が初めてだった。





旅の疲れは、何とか早く落としてしまわなければならない。
時計を見れば、もう、出立の時刻が、迫っていた。







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