「『まむしの末たち』」
私は、聖書というのは、誤謬は全く無く、「付け加えてもいけないし、削ってもいけない」(と黙示録に書いてある)、と思っていました。
ですが、十二使徒の一人のペテロは、イエスの事を、「自分はイエスを知らない」と3度も否定したのに、許されて、
同じく、十二使徒の一人の、ユダは、銀貨30枚と引き換えにイエスを売ったが、「私は罪を犯した。罪の無い人の血を売ったりして」と悔いたのだが、許されず、自殺した(首をつった)。 そこは「血の畑と呼ばれている」、と書かれている。
ペテロが許されて、ユダが許されないのは、なぜ? と思っていました。
『闇の世界史』 (ウイリアム・G・カー著、成甲書房)に、「イルミナティ」なるものが、ユダヤ人とイエス(の側の人たち)との対立をあおっていた、と書かれていました。
当時の「イルミナティ」が暴徒を操って、犯罪者バラバを赦免し、イエスを十字架に掛けさせ、また、ローマ人兵士に処刑者役を果たさせた。
その不正行為が行われると、今度は、陰謀者(イルミナティ)は、陰に隠れ、その罪をユダヤ人大衆とその子孫に負わせた」と。
聖書をよく読むと、イエスに従わなかった者に対する まなざしは、冷たい、と思うのです。
以下、「マタイによる福音書」です。
○3章7節(以下、3-7)
「バプテスマのヨハネ」と呼ばれる人が(「バプテスマ」=「洗礼」)、人々に洗礼を授けていた。人々は続々とやってきて、罪を悔い改めて、ヨハネから洗礼を受けていた。
3-7 「しかし、パリサイ人(びと)やサドカイ人(びと)が 大勢バプテスマを受けに来るのを見たとき、ヨハネは彼らに言った。
「まむしの末たち。だれが必ず来る御怒りを逃れるように教えたのか。
3-8 それなら悔い改めにふさわしい実を結びなさい。」」
と言っているのです。
パリサイ人やサドカイ人(旧約聖書の律法の指導者)は、「まむしの末たち」呼ばわりされているのです。
○5-20
「まことに、あなた方に告げます。もしあなた方の義が、律法学者やパリサイ人の義に勝るものでないなら、あなた方は決して天の御国に入れません。」
いかにも、律法学者やパリサイ人は、バカにされているという印象を受けます。
○7ー6
「聖なるものを犬に与えてはいけません。また豚の前に、真珠を投げてはなりません。それを足で踏みにじり、向き直ってあなた方を引き裂くでしょうから。」
犬や豚は、価値あるものが分からないのだ、ととれる、と思う。動物は人間のために存在して(くれて)いるのに、冷たい目線だなあと思う。
○7-15~20
「にせ預言者たちに気をつけなさい。彼らは羊のなりをしてやって来るが、うちは貪欲な狼です。
あなた方は、実によって彼らを見分けることができます。ぶどうは、いばらからは取れないし、いちじくは、あざみから取れるわけがないでしょう。
同様に、良い木は皆良い実を結ぶが、悪い木は悪い実を結びます。
良い木が悪い実をならせることはできないし、また、悪い木が良い実をならせることもできません。
良い実を結ばない木は、皆切り倒されて、火に投げ込まれます。
こういうわけで、あなた方は、実によって彼らを見分けることができるのです。」
にせ預言者/ 狼/ いばら/ あざみ/ 悪い木/ 良い実を結ばない木
「悪い人から良い人になることは、できません」と言われているようで、どうして、こういう書き方がされているのか、私は理解できません。
聖書って、失敗した人に対する目線が冷たいと思いませんか?