
親鸞聖人七百五十回忌となる年だった2011年。11月の東本願寺の報恩講に参拝し、開催されていた「中村久子展」を拝見したことがありました。その展示内容に沿って記念出版された『生きる力を求めて』(東本願寺出版部)です。
中村久子さんは1897(明治30)年、岐阜県の今の高山市に生まれ、1968(昭和43)年、72歳で命終。2歳のとき、左足の甲が凍傷になり、それがもとで特発性脱疽に。3歳のとき両手足を切断、闘病生活が始まります。
【“人を通して言葉(教え)に出遭う”そして“教え(言葉)を通してその人に出遭う”という形で編纂されている。この本は読み物ではない、念仏の教えが無手足の身を通してあらわれている一句をいただくものである。ちょうど、親鸞聖人を通して、久子がお念仏に出遭ったように。久子の苦悩と精進に、人として共感していく時、久子がお念仏の教えによって救(たす)かっていった世界をも共感していける。一句の共感は弥陀の本願に徳分を賜っているからである】(「あとがき」から)

「人知れず泣いたことも幾度あったかしれない」「仕事を中途にして止めることは母に絶対に許されなかった」「どんなに工夫しても、考えてもできず、心の中で母を恨みに思ったことも、幾度とありました」「死の道を考えたことも幾度かあった」



父の心は仏心だったと、限りない感謝の言葉。やさしい祖母の報恩感謝の教え。「あたたかき夕餉の支度いそぐなり早かえりませつとむる夫よ」と夫との暮らし。娘に背負われて。

42歳のとき福永鵞邦氏と出会い、『歎異抄』との出遭いが結ばれる。「煩悩具足の凡夫 火宅無常の世界は よろづのことみなもって そらごとたわごと まことあることなきに ただ念仏のみぞまことにておわします」。赤線が引いてあったという個所が、この他にも紹介されていますが、久子さんが一番よく書いた言葉は「ただ念仏のみぞまことにておわします」だったそうです。
「無手足」の身を自身の事実としてすべて引き受けることができた。そして「人生に絶望なし いかなる人生にも 決して絶望はない」と言い切る。魂の強さ。「どんないばらの坂道であろうとも 人生のどん底生活にも 堪えてくれるのは『魂』なのであります」。
久子さんが身を輝かせて生きた、生き方、力、逆境の転じ方には驚かされます。あらためて数々の言葉に触れました。その生涯は、ページを繰るごとに心を打つものがある世界でした。厄介なことからはいつも逃げては生きてきたこの身。あっ、「賜った座に座せ」の言葉が頭上から…。
先月、西本願寺の聞法会館からの帰りに東本願寺に立ち寄って購入した一冊でした。マイケル・コンウェイ(大谷大学助教)氏の英訳付きを選んだのは読むことを託したい人がいるからです。