
これまでにも2歳の孫のLukasと二人で、娘宅の留守番をして過ごすことは何度もあった。ただ、先日16日(日曜日)には、夕飯も二人で食べて、お風呂に入って、嫌がる歯磨きを、娘ほどには押さえつけずに、ちょっと手抜きでクシュクシュと済ませ、と就寝までの一連の流れをクリアーして「もう帰ってくるね」と皆の帰りを待った。二人にとっての初めての体験だった。
「マ―マ、おかえり」「タイラー、おかえり」
「そうだねぇ。おかえり、言うんだね」と言葉を交わしながら待っていたのに、最後は疲れたのか、寂しそうにも見える無言のときを経て午後8時半、とうとうソファで眠入ってしまった。言いたかった「おかえり」には間に合わなくて、二歳児を抱き上げ寝床へ。

「あまり幸せになれなかった人生でも、意味はあるよね。どんなに短くても、どんなに後悔ばかりでも、生きてきた意味はあるよね」。余命を宣告されたかつての妻が「私」に言う場面があった。娘のためにしてあげられる最後のことで、一番大事なことが残っている。娘のために「倖せに死んであげたい」、と。これまで自分が交流を持った人たちと娘とをつないで別れを告げていく母・美恵子の最後が心に残った。
喪失の寂しさ、悲しさの涙から、母は母の人生を一生懸命に生きていたんだと思うことで流す涙になり、いずれは忘れはしなくても、少しずつ悲しみをうすめていくことはできるのだろう。すべての人がたどる大切な人との別れ。自分はどう?なんて考えさせられていた。
親のいない一日を、二歳児はどんな思いで過ごしたのだろう。不安、寂しさ、あるのかしら。「お父さんやお母さんの一番たいせつなもの」って、きっとわかっている。預かる私にも長い一日だったが、それ以上に長い長い一日だったろうと思うと幼子へのいとおしさは増す。いたいけな孫との一日は、私自身の命を惜しむ思いをも生んだ。帰宅後、彼のためにクリスマスプレゼントを買った。