昨日は父の祥月命日で、東本願寺にお参りをした。
亡くなって27年。生きていれば、101歳に。故人とはやはり命日を縁として、自分の日々を振り返ることになる。
40歳の前後で母、父となくした。私は「私」の存在は両親に帰結する?というほどの狭い思いをとても強くもっているからなのか、心の拠り所を失い、この世で一人宙ぶらりんといった淋しい感覚を味わっていた。最後は父母のもとに帰りたい、という願いを未だに抱いているし…。
あの頃は、賜った縁の中で、こんなはずではなかったと日々揺れ動いてばかりいた。かと言って不平をこぼすことはなかったと思う。そして、内々のことを外にこぼすことなどはできなかったし、まして遠く離れて暮らす両親には心配をかけまいという一心だった。
そこで「足るを知る」ことができていたらよかったのだろうが、言わない代わりに内に鬱屈するものを抱え込んでいくという感じだったか…。言葉にしていたら意識下のものを浮かび上がらせたかもしれないのに、そうした機会も失っていたようだ。
自分の思いに固執しながら安定を求めていても解決にはならない。深く根は下ろせないのだ。
心配をかける人がいなくなった。40代は両親の死を経て、少しづつ自身の再生に心を向ける日々を獲得していったような時期だったかな…。
写真を前に、おとうさんって呼んでみた。供養になるかしら。