京の辻から   - 心ころころ好日

名残りを惜しみ、余韻をとどめつつ…

言うに言われぬ忍耐が要る

2024年03月17日 | 展覧会
昼前から雨になった彼岸の入り。そんな予報も出ていて、お墓参りの前、後だと言って立ち寄られる方もなかった。

週末には阿弥陀さまのお花を立てかえた。満開の桃の花と、たくさんの蕾がついたコブシの一枝をいただき、一緒に供えることにした。
子規のように、コブシの枝を部屋で花瓶に挿したいなあと思いもしたが、「仏さんに」が I 子さんの思いなのだろう。私欲に走ることを慎んだ。  

頂き物のお返しの品を見繕いに四条河原町にある高島屋へ出向いた日、開催中の展覧会「文化勲章三代の系譜 上村松園・松篁・淳之」展を覗いてみようとなった。


親、子、孫と三代、それぞれに画風を追求し、日本画の美を伝承してきた。
松園(1875~1949)の作品はいくつか見知ってはいたが、絵よりも、男性中心の画壇で“女性芸術家の先駆となった松園”ってどんな人かという関心のほうが大きく、彼女が書いた文章を青空文庫で読んだりしてきた。


【全く女性の画道修業は難しい。随分言うに言われぬ忍耐が要る。私などにしても、これまでに何十度忌ま忌ましい腹の立つことがあったか知れない。それを一々腹を立てて喧嘩をしていたんではモノになりません。凝ッと押し堪えて、今に見ろ、思い知らしてやると涙と一緒に歯を食いしばらされたことが幾度あったか知れません。全く気が小さくても弱くてもやれない仕事だと思います。】(『画道と女性』)

【竹を割ったような性格 私の母は、一口にいうと男勝りな、しっかり者でしたな。(中略)
私は小さい時から絵が好きで帳場のかげで絵ばかり描いていましたが、母はそれを叱るどころか「それほど好きなら、どこまでもやれ」と、励ましてくれました。しかし、はたはそうはいかず、親類知人は、「女子はお針や茶の湯を習わせるものだ。上村では、女子に絵なぞ習わせてどないする気や」と母を非難したものでした。なかにも、一人ゴテの叔父がおり、とやかく申すのでしたが、私が十五歳の時、東京に開かれた内国勧業博覧会に、〈四季美人図〉を初出品しましたら、丁度、来遊されていた英国の皇子コンノート殿下のお目にとまり、お買上げということになり、一時に上村松園の名が、新聞紙上に書き立てられますと、その叔父が一番に飛んで来て、「めでたいこっちゃ。大いにやれ」と大した変りようでした。】(『我が母を語る』)


着物、帯、髪の結い方、髪飾りなどから年齢や社会的立場、日常生活までが伝わる松園の女性たちに、ほとんど感情が感じられないのは「リアルを追求した果ての『感情は表現の邪魔になる』という境地」からなるもの、と言われた展覧会監修者の解説をじっと考え中です。
能面の無表情の表情、を書いた文章もあったなと思い出しながら。
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大津から、始まった

2024年01月17日 | 展覧会
琵琶湖西岸の山手にある大津市歴史博物館。その正面から琵琶湖を眺めれば、
左方に比叡山があり、その右手に続く比良山系の山並みには白く輝く冠雪が見られた。

そこからさらに右へ、東岸にあたる正面の山のその向こうに、やはり冠雪した伊吹山の台形の頂が望めた。


近江の人と、「源氏物語と大津」と題した特集展に足を運んだ。
まだこの先1年(~2025.2.2)もあるが、展示内容が変わる。この一期には、光源氏と葵上の出会いを描いた土佐光吉の源氏物語図色紙「若紫」(石山寺蔵)が展示されると報道されていたので、これが目的だった。


永徳の妻の兄、土佐派の後継者だった土佐光元は、「絵を描くより合戦に駆け回る方が得意で、千石の禄をもって秀吉の陣に迎えられ、戦に斃れた。」
それから10年。土佐派の後継には光茂の高弟だった光吉しかいない、といった箇所に一度登場したのが「光吉」だった(『花鳥の夢』)。
永徳は、「土佐派の絵は、いたって凡庸である。寺社の縁起や上人の物語を画巻に仕立てるのは得意でも、画面の中に躍動感や力強さなどはまるでない」と評していた。

この光吉の色紙に、力強さは不要だろうが、展示室がなあんか暗くって、あらゆる展示物の説明書きが読みづらく、見えない(ので読み取れない)というものもある始末。文字が小さい。眼鏡を取り出して見たが、小さい。こんなことは初めてだと思う。

「大津」に関わる常設展示と場所が一緒? 意図して構成されているのか? ごちゃごちゃと、余分なものまで見る羽目になったのか。
うーん、わかりにくい展示構成だった気がする。極めて不満足…。

外に出て、目の前に広がる琵琶湖の広がりにモヤモヤとくすぶった思いを吐き出した。

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近江千年の秘仏

2023年10月09日 | 展覧会
小雨降るなか滋賀県立美術館へ向かった(昨日)。
「千年の秘仏と近江の情景」展が始まって、日曜日は無料になるからという滋賀県大津市在住の友の誘いに応じた。
「みちのく いとしい仏たち」展が1600円だったことを思えば、“千年の秘仏”を拝観するのに平日でも540円という拝観料を無料でとは申し訳ない気分にもなる。

 

33年ぶりに公開される正福寺の本尊大日如来座像は「厳重な秘仏」で、寺外では初公開だそうだ。この座像と兄弟の近さで、ほぼ同時代(11C)に同工房で作られたと考えられる善水寺の不動明王座像が出展されていた。正福寺の十一面観音立像3体も並ぶ。
腕を飾る文様、左腿の衣紋の流れなどの類似点が紹介され、拝観の助けともなった。

奈良時代聖武天皇の勅願によりに良弁が開山したと伝えられる正福寺。800年以上もの間、諸堂僧坊を持つ大寺として隆盛を極めたが、信長の兵火によってことごとく消失してしまった。火難を逃れた、出展仏4体を含む7体が現存しているのだという。



思い出して『御開帳綺譚』(玄侑宗久)を再読し始めた。
21年ぶりに「お薬師さま」をご開帳する準備に追われる無状和尚のもとに、突然二人の男がやって来て、この薬師如来が本物ではないと言いだした。
両脇の阿弥陀如来像と十一面観音像も同時に公開するのだが、〈指がなかった〉〈光背はなかった〉〈もっと小さかった〉などと指摘する。

目の前で聞く話、これまで耳にしていた話。それぞれが「記憶」する話がある。
記憶力の問題なのか。記憶の変質ではないのか。人間の記憶というのはいつしか創作され改竄もされる。あるいは、この男の話こそが真実なのか。

記憶の問題ではなく、御開帳の持つ大事な意味に触れていたはずだけれど、すっからかん。細かな展開は記憶にもない…。





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「てえしたことだねのさ」

2023年09月18日 | 展覧会

「みちのく いとしい仏たち」展が龍谷ミュージアムで始まった(9/16-11/19)。

 岩手県立美術館での開催を知って5月には行ってみたいと思ったものの、あまりにも遠方だった。巡回されると知った8月下旬から、楽しみの一つになってきた。

江戸時代。仏師の手になる金箔輝く端正な仏像が各地の寺で祀られる一方で、東北各地には、寺の本堂にではなくお堂や祠、須弥壇の脇に、民家の神棚に、仏師でなく大工や木地師といった人たちの手で刻まれたカミさま仏さまが祀られ、今に守り伝えられてきたという。そうした「民間仏」134点が紹介された。
欠損部分があったり木像に亀裂が入っているものもあるが、素朴、簡素であるがゆえの美しさも感じさせてくれる。
美しさ、やさしさの奥には、厳しい風土や暮らしの中からの人々の祈りが、時に嘆き、ため息も、どれだけ沁みていることだろう。
何でも聞いて欲しいと思って手を合わすカミ仏には、せめてやさしいお顔で受け止めてほしい。

「てえしたことだねのさ」_たいしたことじゃないさ。
この言葉は、みつめた先の微笑みが返してくれていたのだろう。そして心の支えとして辛く寂しい日々も乗り越える…。


左から①「みちのく一のやさしい像」十一面観音立像 ②山の仕事に出る前には必ず手を合わせ、見えない力で守られている実感を林業従事者は語る。如来像と男神像が合体していて、いかなみちのくと言えどこの一体のみ、と ③地獄の裁判官も、鬼も、微かな笑みを含んで 
④賽の河原で「ごめんなさい、ごめんなさい」と手を合わせて泣いて謝る童子。


六観音立像。〈無駄を省けば省くほど本質に迫る〉とは、なにかどこかで読んだ記憶だけれど、簡素でありながら、衣の襞を見てもとても美しい彫で素晴らしい。
足の部分を除いて一木で作られているという。薄い薄い像で、6体並んだこの空間、迫るものがあり圧倒された。うち4体は憂鬱な表情を浮かべているが、それも意味のあることだと解説されていた。もう一度前に立ちたい。

かつて東京藝術大学大学美術館で「びわ湖・長浜のホトケたち」を拝見し、できればお堂でと願い、湖北路にその機会を重ねたことがあった。
今回だって、できたら岩手県の宝積寺に六観音立像をというように暮らしの中にその姿を拝観したいものだが、おそらく叶わぬこと。せめて今一度展覧会場へ足を運んでみようと思う。



事情が許せばぜひ、とお勧めいたします。
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キャンバスにイメージを

2023年02月19日 | 展覧会
文章仲間の集いに場所を提供し、中高生は欠席で大人ばかり11名の参加があった。
正面や背後で阿弥陀さまも聞いておられる。義母の言葉を借りれば「ほとけさんはお見通し」で、受験生の辛さも努力も見ていてくださるよ。
喜びの春は待ち遠しいが、この先の人生はまあだまだ長い。

地元紙に掲載された公立高校入試問題から国語の大問「一」と「二」を切り貼りし、拡大コピーされたものが目の前に置かれた。解くのではなく文章を読み合わせようという。
【一】の出典は李禹煥(りうふぁん)「両義の表現」より、とあった。文中から画家であることを知る。

「原始時代は洞窟壁画に見られるように、絵は自然の暗い岸壁に描かれた。そして農耕時代では神殿の壁、時が下ると教会の壁そして宮殿の壁になった。その後産業社会が興り、住居の概念が変わりつつ移動する壁つまり板や布、紙などによるキャンバスが登場し、幾度の変化を経て今日のそれに至っている」

出だしはよかった。空間と絵が一体化して場所性を持っていたのが、フレームに閉じ込められ、現代になってはフレームも外された。
“絵は三次元の物体”。“しかし単なる物体ではない”。・・・こうなると…。
先ぎ頃“異次元”って言葉を耳にしたが、あれはどこへ。
根気を失い、半ば思考停止。で、どう締めくくろうというのかと、こっそり最後の部分へ飛んでいた。
時間制限がある中では文章をじっくり味わう必要などないが、孫娘の日本語力ではチンプンカンプンだろう。

「人は誰しも、有形無形のキャンバスを用意している」。在りよう用いようはさまざまだが、「無形の想像の野から出発して、有形のキャンバスにイメージを表す」…。
原稿用紙を用意して、「書く」という行為もイメージを「一層鮮明に」させ、輝きを広げる。「輝きを広げ」「想像の羽をもつ」、かどうか。
ただ、画家の手順と似たような道を私たちも辿っているのだな。
書くことも〈SHOW and TELL〉ですねと言われたかつての師の言葉がふいに思い浮かんだ。


深く考えることもないままに京都国立美術館で開催中の「甲斐荘楠音(かいのしょうただおと 1894-1978)の全貌」展に行ってみた。

 

彼の作品を〈美醜を併せ吞んだ人間の生〉と表現している言葉に引かれて。
人は誰しも他人には見せない顔を持つ。単にそこから発した興味だった。

 


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興味と忘れ物の同居

2023年02月14日 | 展覧会
今、NHK Eテレの番組・100分de名著では、昭和5年9月に20歳で入院し、23歳で亡くなった北条民雄の著書『いのちの初夜』を取り上げているので、テキストなしで聞いている。昨夜が2回目だった。

ハンセン病と宣告された人々が、どのような苦難の道をたどったのか。
世間と隔絶された施設で自分の居場所を見つけ、生きるしかない。「ライ病患者になりきって生きる」とは。

先週1回目を聞いたあとだった。


佛立ミュージアムで開催されている「社会福祉と仏教展」に足を運んだ。北野天満宮から少しだけ南にある。
日本の最初の「福祉」とされる光明皇后・聖武天皇による悲田院、施薬院の創設。行基等の社会活動。
そして本門佛立宗が担ってきた福祉活動として、ハンセン病患者の施設の様子や、入所している児童、中高校生たちの詩、俳句、短歌が紹介されていた。内容はさらに近代福祉と仏教の関係へと及んでいた。

光明皇后や行基のことは、最近歴史小説で読んでいたこともあって関心を持って掲示物を拝見して歩いた。
そうした中、葉室麟さんの小説のタイトルがどうしても思い出せず、それにくわえて、ハンセン病の話題もどこかで最近聞いたなあ…と言う始末で、終ぞ思い出せずじまいだった。
なんということ!?
それに、この日まで「本門佛立宗」を知らずにいたし…。

 ヤマボウシ

北条民雄の作品集が創元社の岩波文庫本に並んでいたのを見つけたが、性急に買わずに機会を待とう。
先ずはあと2回、中江有里さんの解説、伊集院光さんの感性豊かな読みに耳を傾けてからのことにしよう。


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漱石も訪ねた山荘で

2022年11月11日 | 展覧会

アサヒビール大山崎山荘美術館へ。
気候が良くなったら行こうと機会を待って、今日になった。
「天下分け目の天王山」。天正10(1582)年、秀吉軍と光秀軍が戦った山崎の合戦の舞台が近い。秀吉は大山崎から天下統一へと乗り出す。

山の斜面に建つ美術館。大山崎駅前から歩いて10分ほどの道だが、行きは送迎バスを利用した。
降りてからも緩やかなのぼり道を進んで



山荘は大正から昭和初期に、実業家・加賀正太郎が自ら設計して建てた別荘だった。夫妻亡きあと平成に入って取り壊しの危機にあうが、保存運動を機にアサヒビールと京都府が連携し、美術館としてよみがえったという。
加賀正太郎は、スイスのユングフラウに登頂した初めての日本人として名を残しているそうで、この展覧会が開かれる背景を知った思いだった。


入り口は狭いが意匠を凝らした、贅を尽くした内装が素晴らしい。

エルンスト・クライドルフ、ハンス・フィッシャー、フェリックス・ホフマンの3人の画家が紹介される。
悪いことをした男の両の頬にヒキガエルがへばりついた。涙を流すことがあって、頬のヒキガエルははがれたが、それは背中に回ってはりついた。一生背負って生きていかなければならない、という展開だ。頬に二匹のヒキガエルの絵…。「おお、こわっ」と友人と顔を見合わせた。

10数枚の『こねこのぴっち』の絵がかわいい。

『ブレーメンのおんがくたい』『ラプンツェル』『おおかみと七ひきのこやぎ』など馴染みのある作品もあった。


帰りは歩いて下った。
「このあとの梅田行きは止めよう。こんないい空気を吸って梅田の人混みに行く意味がない」という友人の言葉を大歓迎で受け入れ、内心ほっとしていた。「行く?」と聞かれたら、「もう体力的に無理だわ」と返事を準備していたくらいだったし。


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まんぷく

2022年10月13日 | 展覧会
夏日の秋晴れ。それでもこの時季、日差しは嬉しい。


誰もが専門外ながら、それぞれに何かしらの関心を持って女3人、大津市の歴史博物館に向かった。もうこれで終わりにしようと思いながら。「壬申の乱」にもちょっと飽きた? そこに“史実”への探求心などというものはこれっぽっちもないのだ。
私の歴史への興味は、古代や中古の文学や歴史小説が好きという一面と重なり合って気持が動くと言ってよさそう。

壬申の乱は大友皇子(大津に都を遷した天智天皇の長子)の死で決着した。
両者が戦った経緯は『日本書紀』を拠りどころにわかりやすく説明がなされていて、追いやすかった。
大友皇子は即位したのか。どこで亡くなったのか。どこに埋葬されているのか。いずれも諸説多数で特定できないという。その一つ一つに写真とともに丁寧な解説がついた。
千葉県君津市にまで陵墓の伝承があると知ったのは驚きだった。

腰が痛くなるほどこってり見せていただいたが、それこそもうま・ん・ぷ・く。
三井寺門前までぶらぶら歩いて長寿そばをいただき一休み。立ち上がったが参拝の気力は持ち合わせなかった。


澤田瞳子さんの『孤鷹の天』『日輪の賦』などで飛鳥や奈良の人びとのそばにいって、ともに一喜一憂、怒り哀しみ、息遣いを感じながら作品の世界に身を置く。そうした精神の酔いのほうがはるかに心地よい。

新作『額田王』を読んでみたいと思っているが、その前に…積読本崩しが必要なのだ。

  (写真:館の入り口正面には琵琶湖が広がり、近江富士と呼ばれる三上山が望む


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淡海の海 夕波千鳥 汝が鳴けば

2022年10月08日 | 展覧会
滋賀県大津市にある三橋節子美術館で拝見すればいいと思っていたので、思いがけない誘いだったが嬉しく同行させてもらった。
大津の友人宅までは車で行って彼女の車に乗り換え、3人で愛荘町立歴史文化博物館へと向かった。


先日、湖東三山のうち一番南の百済寺(ひやくさいじ)に参拝したが、その北の、三山では真ん中に位置する金剛輪寺の黒門を入ってすぐ、参拝受付の真向かいに建っていた。

壬申の乱から1350年という節目に、大津京、大友皇子と壬申の乱をテーマにした鈴木靖将氏の万葉画を拝見してきた。
絵にはそれぞれに万葉の歌が添えられる。古代最大の内乱、その終焉は劇的だった。大友皇子にまつわる伝承は現在も大津のまちで息づいているという。この「大友皇子何処へ」は最新作だそうな。


飛鳥から大津宮に遷都してわずか5年4ヵ月、大津京は壬申の乱で壊滅した。
「人麻呂は現実をいつも歴史的現実としてつかもうとする」「その宮廷につかえていた歌人。天皇行幸にはお供をし、詔に応じて歌を作る。『私』感情ではなく『公』の立場でうたう」
『万葉の旅』『万葉の人びと』などで犬養孝流の読みを楽しんだりしている。


壬申の乱のとき総指揮にあたった武市皇子が亡くなった折の挽歌(人麻呂作)に歌われた、乱の戦闘の場面を犬養孝の説明で読むと――。
壬申年(672)6月24日、吉野を進発した大海人皇子一行…、7月23日には近江を全滅させた。
【雷鳴のような太鼓の音、虎の吠えるような笛の音、まさに軍楽隊づきで、赤旗をなびかせ、つむじ風の勢いで進軍し、矢は大雪のように乱れ飛べば、近江軍も命がけで争う時、伊勢の神風が吹いた】とある。

「残照」と題した絵に添えられたのは近江の湖畔で懐古の感嘆をうったえた歌、「淡海の海 夕波千鳥 汝が鳴けば 情もしのに 古思ほゆ」。
これを3歳だった孫娘Jessieに暗唱させたことが懐かしく思い出された。
「おーみのみー ゆーなみちどりーながなけばーーーっ こころもしのにーいにしえおも●●」
雄たけびのごとし、などと当時記したが、最後だけは言いにくそうだった。
その彼女もこの2日、17歳の誕生日を迎えた。
この冬にはAUSから一人で日本にやってくる予定で、放課後のアルバイトにも励んでいるのだ。


黒門へと向かう帰りの参道。みごとな紅葉に包まれることだろう。
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どがんねぇ、よかでしょうが

2022年07月17日 | 展覧会

塔本シスコ。1913(大正2)年に現在の熊本県八代市に生まれ、生後間もなく養女となり、養父がサンフランシスコ移住を夢見ていたとかでシスコと名付けられた。温かな愛情を受けて育ち、20歳で料理人の塔本末蔵と結婚。長男長女を授かり、草花や鈴虫、金魚など育て子供たちとスケッチする日々を過ごしていたそうだ。夫の死後、53歳で絵を描き始めた。

画家を目指していた長男の油彩画の表面を削り取って、その上に描いた《秋の庭》。「私も大きな絵ば描きたかった」と言ったという。
その後、大阪の枚方で長男家族と同居、四畳半が彼女のアトリエだった。
「どがんねぇ、よかでしょうが」「ちょっとみてくれんね」。 キャンバスだけでなく板、段ボールにまで描いている。故郷の思い出日記。
「私にはこがん見えるったい」「また新しいキャンバスを以て来てなんよ」「私は死ぬるまで絵ば描きましょうたい」
《90歳のプレゼント》が最後の大作になったという。
〈塔本シスコ展 シスコ・パラダイス〉で230点余りの作品を楽しんできた。


描かずにいられない。一枚一枚がシスコさんの喜怒哀楽のほとばしりを見せてくれるような絵に感じた。とっても楽しく絵と対面する時間だった。初めての経験かもしれないと思うほど。


孫の男組、10歳と5歳だけれど、この二人と一緒だったら、あっ、こんなところに虫が!顔が!と発見も多かったろう。
なんで花の下で田植えを? 構図に?が付いたかもしれない。生きてるみたいと感動し、人に手がないなあ、同じ顔ばかり並んでるなあ、僕と同じ目を描くなあ…。たくさんの言葉が飛び出したことだろうと想像する。白い椿の花芯に顔、顔、顔。これがまたちゃんと椿になっているのが素敵。


板や段ボール、竹筒、しゃもじ、ビンにまで「描かずにはいられない」シスコさん。
こんなふうに生きた女性を今さらに知った。


「展覧会は、鑑賞する人の心に感動を刻むきっかけを提示する一つの『場』。そこで感動の種が心という土地にまかれ、成長していく。最後に咲く花はすべて異なります」
世田谷美術館館長・酒井忠康『展覧会の挨拶』にある。

遅まきながらまかれた種。成長の日々があるや否や…だが、私は私の土壌で育てる。
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天平仏

2022年03月19日 | 展覧会
特別展の会期終了までの日数がなくなってきた。
コロナ感染拡大のさ中ではあったが、例によって日延べしているうちに「まあ、もういいか…」って気持ちにもなってくる。
けれど…。週末は避けたい。雨なら人も少ないかもしれない。京都駅乗り換えでうろうろせず、10分ほど余計にかっかっても電車1本で行けば空いている。今日がラストチャンス。 それもこれも、とにかく弾みをつけなくっちゃで思いを巡らせる。まだ腰を上げる力は残っていた(18日)。


「聖林寺十一面観音 三輪山信仰のみほとけたち」
規模は小さな特別展だった。
天平時代の名作の国宝十一面観音像は桜井市の三輪神社の神宮寺に祀られていたが、明治の神仏分離令で廃仏毀釈の折に縁の下に捨てられた。それを発見したのはフェノロサだったという。そして聖林寺に移されたらしい。

 天平仏の乾漆像は、「生身の人間の血肉を思わせるやわらかさがある」と(『荒仏師 運慶』)。
帰宅後、細かなことは白洲さんの『十一面観音巡礼』などで補っているが、あるべきお堂に帰還された姿を拝観に訪れてたいと思った。知識じゃなくて、まず、あるべき場所でちゃんと向き合うこと。そう思わせる美しさは8世紀から秘められてきているもの。
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小さな財産 ひな型

2022年03月08日 | 展覧会
東大寺南大門の仁王像(阿形と吽形像)を造るために、まず雛型(縮小の模型)を制作する。そのうえでそれを分解して、実際の像の各部材の大きさに引き延ばし、墨付けする ―
といった工程の描写が『荒仏師 運慶』にあった。

「分解」「各部材」。これは技法が一木造りから寄木造りに変わったためで、最後は部材を一つにまとめあげるわけだが、仁王像の巨大さを思い浮かべながら、ミニチュアからどう拡大したのだろうかと興味がわいていた。


龍谷ミュージアムでは、江戸時代から平成まで15代続いた京都仏師・畑治良衛門が伝えてきた雛型の特集展示「仏像ひな型の世界Ⅲ」が開催中だった。先月末、この拡大法にも触れる講演会があったが参加できなかったので、知りたいことは知り得ないまま。
もういいか。見なくても困らない。とは一応気になる証拠。今日は素晴らしい陽気だ。もう見ることはないだろうからと思い直した。
一つ。親鸞と墨字で記された10センチもない彫像に“墨付け”を見た。といってもマス目ではなく1、2筋の“線”が目についた。拡大からの工程のビデオ作りなどしてくれてあればいいのに。


行けば行ったでこってり見てしまう気の入れよう。大方見なくてもよかったなと思ったが…、そんなこと言わんとこ。

【雛型とは建築でいえば設計図面に当たる存在です。大きな仏像をどのようにして効率的に制作するかを考えるための縮小模型として、または施主や発願者に見せる完成予想図としての役割などを果たしたのでしょう。完成品は手元を離れてしまうため、仏師や工房にとっては木組みを記録する手控えとしても役に立ち、まさに財産に値します】
って。
雛型は工房の外に持ち出されることはなく、その存在は一般に知られていなかったという。
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京に息づく人びと

2021年06月17日 | 展覧会

京都文化博物館が所有する岩佐又兵衛(父は武将の荒木村重)筆「誓願寺門前図屏風」が2015年からの解体修理を終えて公開されている。「花ひらく町衆文化―近世京都のすがた」展に行ってみた。そこに息づく人々の姿をみてみたくて。

「誓願寺門前図屏風」について、筒井忠仁氏の対談をYouTubeで聞いてから出かけた。会場でもこの映像が流れていた。修理がなされたとはいえ表面は暗いし、絵は小さいしで、目を凝らして屏風図を見る横から解説が耳に入ることはありがたいことだった。「鴨川納涼図屏風」(六曲一双)では、今よりもっと庶民の暮らしに身近だったと思われる川床。川の真ん中にも小さな床が設けられ、橋板が架かる。料理を運ぶ女たちの軽やかな足取り。生き生きとした様子が見て取れて楽しいものだった。


幾度も戦乱の舞台となってきた京都の町。そうしたことに触れるたびに、そこに暮らす人々を思うことがある。
新聞の連載小説「茜唄」は今、平家と木曽義仲との攻防が続き、平家都落ちを前にしているところだが、128回目(/169)の結びの一文は、「平家も源氏も変わらないと思っているのかもしれない」だった。
●「京都の人たちは、ひややかに見守り、見送ったのです」(『梅棹忠雄の京都案内』。
●「京都にはさまざまな人々が憧れや食い扶持のために流れ着いてきたはずだ。政府を置いた尊氏も豊太閤も、外からやってきた。全てについて諸手を挙げて歓迎したわけではないだろうが、常に外からやってくる刺激を吞み込んで、京都の街は生き生きと発展してきたように思う」(『熱源』の川越宗一氏)
●「朝廷があった頃、義仲も、足利も、信長も、豊太閤も…、上洛軍も入ってきている。…1ブロックに違う“国”の人が住む。習慣も言葉も違う。正統なのは私たちなのだと、京都の人たちの処世術が洗練されていったのだろう」(安部龍太郎氏)


知人に出そうと、元禄舞が描かれたポストカードを買った。
明るい活気に満ちた町人文化の台頭。以前読んだ『千両花嫁』(山本兼一)を取り出してみた。
攘夷をめぐって駆け引きが行なわれている世情のなか。三条大橋に近い木屋町で、ゆずと真之介の若夫婦は〈御道具 とびきり屋〉と立派な欅の看板を軒に出している。橋のたもとを200年ぶりに通った大名行列を目にして真之介は、「装束も道具もしみったれていた」と評した。
二人の目を通して描かれる幕末の京都。読み返してみたくなった。

蛤御門の変で罹災した京の町。ここからも京は復興していくのだ。
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江戸のファッション

2021年06月16日 | 展覧会

昨日、「集う人々 ー 描かれた江戸のお洒落」が開催されている細見美術館へ行ってみた。
ここではチケット購入前に用紙に名前、連絡先、住まいのあるところ、閲覧時間帯など記入したりチェックを入れ、更に手首での発熱チェックを済ませることになっている。予約制ではないのがありがたい。

〈江戸の人々のファッションセンスを楽しむ〉
四季のいさみ図鑑より2巻。うち8月には、輪になって踊る女性たちの動的な姿、服装、その文様、振り返った顔の表情等々、細かく表現されていて見入った。しなやかな手の動き、身のこなし。姿形の美しさ。小さなものだったが、踊りに興じる女たちの夏の一夜がとても印象に残る一つだった。
江戸前期のものだったが当時の盆踊りって、どんな音頭で踊っていたのだろうか。櫓などは描かれていない。

身分や職種も異なる26人の男女の風俗が描かれたのも楽しめた。
裕福な商家の長男、あるいは主、遊女、後家、出戻り、田舎娘、嫁の悪口を言う姑、あとは何だったか…等々。

朝から、突然の雨に襲われる可能性を耳にしていたので日傘を持つか折り畳みの雨傘にするかで迷った。日差しを避けるのに苦労したが、帰宅途中の7,8分に雨傘の出番がやってきた。
関心が持てたものがもっとあればよかったが、社会風俗をちらっと拝見したに終わった。そうではあっても、ひとつ面白がって、次へ。

著作に当たって、江戸しぐさに関する本をいくつか読んだという小川糸さんが、越川禮子さんの『野暮な人、イキな人』をとても素晴らしいと思ったとエッセイで書かれていた。その中に、「親父ギャグはもともと駄洒落で、駄洒落は江戸時代から続く言葉遊びだ」とあったそうなのだが。
目で見る風俗。京都文化博物館で開催中の「花ひらく町衆文化」などものぞいてみようかという気持ちになっている。
ただ、今日は朝から雨。
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難しいことをわかりやすく 鑑真和上

2021年04月10日 | 展覧会
奈良の唐招提寺の鑑真和上座像が45年ぶりに上洛。凝然国師没後700年 特別展「鑑真和上と戒律のあゆみ」が開催中の、京都国立博物館平成知新館に行ってきた。


5度の失敗を経て天平勝宝5(753)年に来日した鑑真は、中国正統の戒律 、〈釈迦が定めたとされる仏教徒の道徳規範(生活習慣に関連した心構え)であるべき「戒」、僧侶が守るべき規則の「律」〉を伝えた。
鎮護国家的仏教(奈良仏教)から貴族の現世利益的仏教、個人救済的仏教へと変化もあるように、最澄は厳しい戒律を守るのは無理だと考えて大乗戒を定め、南都とは異なる立場を取った。仏教も風土や時代の中で変化しながら空海、法然、親鸞らに引き継がれ、日本仏教の基礎になっていった。と、歴史などで習った程度の知識は少々ながら持ち合わせてはいるが…。

第一章 戒律のふるさとー南山大師道宣に至る道
第二章 鑑真和上来日-鑑真の生涯と唐招提寺の創建
第三章 日本における戒律思想の転換点ー最澄と空海
第四章 日本における戒律運動の最盛期ー鎌倉新仏教と社会運動
第五章 近世における律の復興


展示品の解説をいちいちしっかり読んだ。目を凝らし、書かれたことを読み取ろうとしてか頭もいっぱいいっぱい。足腰も疲れたこと。
その結果、「鑑真以来の千数百年の仏教思想が根付いている素晴らしさを目と心で楽しみ、日本仏教史を捉え直す」など程遠い思いで終わった。
日本の名僧たちの中には、何かの折に目にした名前もあるが、まあ、すべてガラスケースに貼られた短い解説を頼りに読んでいくしかなく、素人でもある程度変遷を追える、わかりやすい解説の工夫が欲しいと思う。

時代的には孝謙天皇による仏教色が強まる中、「徳、孤ならず」と大学寮で道徳を重視する儒学が叩き込まれ、個々が信じるもののために命をなげうって戦いに挑む者たちがいた『孤鷹の天』。『与楽の飯 東大寺造仏所炊屋私記』での仏教感。光明皇后が書写をさせ、大仏開眼供養(752)に読誦させた由緒正しいものだと展示されていた、根本説一切有部戒経、摩訶僧祇律。また遣唐使船や商船が安全に大陸と往来できる海の道を作ろうと挑む話もある『秋萩の散る』。戒律の流れなど無縁のところで、頭の片隅に一連の澤田瞳子の作品世界が浮かんでくる。
難しいこと、知らなくてもどうということはない。…のかもしれない。でもなあ、とも思うのだ。

    帰宅後、『天平の甍』(井上靖)を引っ張り出した。初めて読んだのは高校時代で、課題図書だったのを記憶している。久しぶりに栄叡、普照といった懐かしい名前に触れている。
コメント (4)
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