京の辻から   - 心ころころ好日

名残りを惜しみ、余韻をとどめつつ…

だれでも詩人に

2018年03月02日 | 日々の暮らしの中で
気温も上がり、一日青空が広がりました。

   窓をあければ
   風がくる、風がくる、
     光った風が吹いてくる。
         「風」 新実南吉

春の訪れの気配を感じながら、素直にまっすぐに心に入ってきます。口ずさめる詩です。だから好きです。

       「もう春かもしれない」 M.A
   もう春かもしれない
   風が林を吹き渡り
   木々を揺さぶり鳴らすとき
   心もゆれてざわめいて
   幼い記憶がよみがえる
   もうすぐ家が建つはずの
   空地で遊んで見つけた宝
   青い草の実 瑠璃のよう ・・後略        

長くって、ひたすら続くこの調子。このあと16行目に、もう春かもしれない と結ばれ終わります。
書かれた言葉と読み手とのすき間でイメージが生成されます。でも、その言葉にひっかかり、呼吸が合わないまま、しっくりいかずじまいで終わることが多くて、私は現代詩というものをほとんど読むことがありません。読んでみても「読めない」、ということです。
「太田垣連月のこと」と題した文章だけが読みたくてある冊子を買ったのでしたが、収められていた詩はオール降参です。

で、今日はこの関連であるお寺さんへ。富小路通を四条通から下がって、綾小路通を東へ寺町通りまでまっすぐ歩きましたら、前方に大きな鳥居が見えてびっくり。この方向から見たことなく、参拝もしたことなく、京都大神宮だとわかりました。一本の幹から紅梅と白梅が咲いているのです。何枚か奉納されていた絵馬には漫画のキャラクターのような絵が描かれ、縁結びを祈願。帰宅後、ふっと気付いたのです。この梅の木にあやかって縁結びの願掛けがあるんだ、と。 訳の分からないことを考えあぐねる頭では、現代詩などは不案内です。


  氷を割り雪を割って芽生えがある頃、軒に落ちる雨だれの音にも生命をつゝむ母体と希望があります。
  こんな時 人はだれでも詩人になるのです。― と六郎さんが言います。(「春」)
私は好きですねー、こうした文章。


コメント (6)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする