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京の辻から   - 心ころころ好日

名残りを惜しみ、余韻をとどめつつ…

「花をたてまつる」

2018年02月14日 | こんな本も読んでみた

「小さな蕾のひとつひとつの、ほころぶということが、天地の祝福を受けている時刻のようにおもえる」
この10日に亡くなられた石牟礼道子さんの『花をたてまつる』を読み返していて、こんな表現に出会いました。

「水俣病」、この言葉は四大公害病の一つとして学校の授業で習いました。試験のための暗記事項であることにとどまったまま、『苦海浄土』を読んだのは刊行から20年も経った頃でしたから、随分と遅かった。

自分たちの苦しみを聞いてくれと、一家全滅、一族全滅で生き残ってる患者さんたちが東京に行きました。が、無視され、ボロ人間か何かのように、汚れもんという感じで相手にされず埒があかない。教養も学識もあるチッソの高級役人に、「あんたたちは人間の心がわからんとじゃなあ」と哀しい顔つきになって、愕きを深くしていく前後の描写があります。(1984年「村のお寺」『花をたてまつる』収)

石牟礼さんは自戒を込めて、書いておられます。
近代人には文字も必要不可欠で、知識も要る。が、本などをたくさん読むと、かえって人間に対する想像力が貧困になる、と。自分の読んだ本で翻訳して、自分の都合のよいように、自分の身丈に合ったように、自分の世界の中で人さまを読んでしまう。自分の考えの類型の中にはめこんで、自分の考えの枠の中にはめ込んで考えないとすまなくなる。
人間の生ま身を知識の切れ端でもって量り、既成の考え方で考えようとしているのに、はっと気づくことがある。自分が破れなきゃ、殻をぬがなきゃならないなあ、と自戒として常に思っている、と。

「人さまのこともわかって、人さまの心もよくわかって、自分もわかってもらわんと寂しかねぇ」

〈一輪の花の力を念じて合掌す〉 -- 「花を奉るの辞 熊本県無量山真宗寺御遠忌のために」より
コメント (8)
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