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京の辻から   - 心ころころ好日

名残りを惜しみ、余韻をとどめつつ…

ほめるにしろけなすにしろ

2025年05月01日 | 催しごと

「卯月ばかりの若楓、すべて万の花・紅葉にもまさりてめでたきものなり」
と兼好法師が書いている。この筋に楓はなかったように思うが、「五月は新緑の月」。目にもやさしく、ずっとたたずんでいたい心地よさだ。
今日から春の古書大即売会が始まった。
会場のみやこめっせへ、琵琶湖疎水の西側に沿って北へ歩いた。

  

背表紙を追いながら何気に手に取って、数冊選んで帰る
この『追悼の達人』(嵐山光三郎)で追悼されているのは、明治・大正・昭和の文士49人。
子規、紅葉、八雲、眉山、敏、漱石、…賢治もいるし、かの子さん、鏡花、光太郎とか太宰、…実篤に小林秀雄。

「追悼ハ珠玉ノ感涙文芸デアル」とある。

ぱっと開いたところに、「内田魯庵  毒舌家が死ぬと、どう言われるか」。

魯庵が死んだのは昭和4年、享年62。
翻訳家として出発し、小説も書き、人生後半は丸善の顧問に。大杉栄の理解者だったそうな。
文芸批評、社会風刺の舌鋒は鋭く、「辛辣骨を刺す批判」で人気者を次々にやり玉にあげ、敵が多い人物だったようだ。
「毒舌家は消耗品である」「時流にのって鋭い警句をとばし、権威にたてつき、反骨ファンのヤンヤの喝采を浴びても、所詮、時間とともに忘れられる」と著者は言っている。
魯庵はすでに忘れ去られた論客だが、いわゆる毒舌家が死んだら敵対した人物がどう反応するかの視点で、さまざまな追悼、追悼文が引用され紹介されている。 
「ちょっと面白そうね」「異議なし」 で、400円で手に入れた。

「ほめるにしろけなすにしろ、追悼する人もまた試される」
  この言葉、状況を変えて、さまざま当てはまる。
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福運を引き出す

2025年04月30日 | 娘家族 in AUS

藤は「春の形見」などと表現される。
「春の最後を飾り、夏へと季節を渡す花です」(冷泉貴美子)

5月は女が生まれ変わる月だと言われるのが田辺聖子さん。
気を引き立てて、やってみる。
そういう精神力をふるいおこす。それこそが福運を引き出す源泉かもしれない。



3年生になった孫のLukasは、クロスカントリー大会が行われました。
今までは校庭だけだったのが、今年から校庭から外へと走り出て行くコースが含まれます。

「Don't take a wrong course.」
走るコースを間違えないようにって、家を出る時、父親から声をかけられていましたのに。
前に走る子がいないからと好きにコースを選択したわけではなく、間違えてしまいました。
戻らなくてはなりません。
先頭を走っていたのが3位に後退でした。

「あら残念だったこと」
報告を受けて、そう返しておきました。

ムダに走ったぶん、何かを学ぶでしょうか。人生、無駄にこそ意味があるようです。
「ゆだんたいてきだあ~」
と、つぶやいたかどうか…。

自信は内に秘めて、細心さが肝要かと思うのでありました。

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いちはつの花咲きいでて

2025年04月28日 | こんなところ訪ねて
イチハツが境内に咲きだして、通常非公開の門跡寺院・得浄明院で鑑賞会が催されている。


三条通から白川筋の東側を南に下がって…、このあたり知恩院の山内だそうで、近辺には華頂女子中・高・短大があり、平安神宮へ、あるいは青蓮院、知恩院にも近い東山区になる。

御本尊は信州の善光寺の本尊を模した一光三尊形式の阿弥陀如来像とのこと。しかし、眼鏡を持たずに出て、お姿は見えない。
「ぜひご縁を結んで帰って下さい」と戒壇巡りをすすめられた。
外陣の脇から階段で本堂の下へと下り、真っ暗闇の中を右手で壁伝いに本堂をぐるりと回るように進んでいく。
ご本尊の真下にあって阿弥陀如来とつながっているという錠前に触れたところで、お念仏。
そして願い事ひとつ(いえ二つ、と欲張った)。

関西から信州の善光寺さんまでは遠い。関西にいて善光寺如来との縁が結ばれるようにと明治27年建立の尼寺だから、まだ新しいお寺ではある。
人生も暗闇の中を手探りで生きていくようなもの、と言った念に通じるのではないかとのお話だ。



いちはつは中国原産の多年生草本。アヤメ科の中では、いち早く咲くので「イチハツ」と呼ばれる。水辺に育つわけではない。
漢字で「鳶尾」と書くとは知らなかった。トンビのしっぽ? 
いえ、トンビじゃなくて、読みは「えんび」。

「かきつばたの紫に比べると、色に深みを欠くうらみがある」と杉本秀太郎さんだ。
中途からあいにくの雨が降り出したが、小雨に濡れるイチハツはかえって美しさを増したかもしれない。
花の優しさ。花それぞれに特色あり、でしょう。


   いちはつの花咲きいでて我目には今年ばかりの春行かんとす
        まずは子規の歌が思い出される。
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一羽の蝶の軽さで

2025年04月26日 | 今日も生かされて
読書で、あるいは「ブログ」という媒体を通してもだが
「ほんの小さな欠けらであれ、他人の人生に触れることで自分を見つめなおせる」。
そんな機会は得てきた。

共感できること、共感できないこと、人生模様はさまざまだと思ってもきた。
他者の世界を読んで(ああこんな人もいるのか)と愉しめたら、実生活の役にも立とう。

2008年の2月末日に初投稿して以来今日まで、小さな気がかりを重ねて生きてきた。
どのような心配りや覚悟を持って、どう日々を送ってきたか。書ける範囲で文章にしたいと思ってきた。
今少し、そうした心の軌跡を綴っていこうという気持ちでいる。

「消える時は一羽の蝶の軽さでよかった。言い換えるなら、この美しい地上に生きた証を残すなどまっぴらであった」
乙川優三郎氏の作品に読んだ。なんて強い覚悟のある言葉だろうか。
氏は、直木賞受賞後のインタビューで「この世に自分が生きた痕跡をとどめたくないのです」と語られたようだ。
心中共鳴もしているが、未だ私はそこまでの覚悟も定まらず、芯もない。


だから今、過去の文章とがっぷり向き合い、削除も視野に手直ししつつ保存につとめていた。
カテゴリーによってはすでに保存済みがあるが、時系列でという助言もあって、取り敢えずの保存にさらに精を出している。

   日記は自分との静かな対話。
   記録のためというより、一日を生きた証。
   荷風に倣おう。

とは川本三郎さん。



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今日のひと日をよろこびて

2025年04月23日 | こんなところ訪ねて

「近江の中でどこが一番美しいかと聞かれたら、私は長命寺のあたりと答えるだろう」
白洲正子さんが「沖つ島山」(『近江山河抄』収)で冒頭に綴っている。

琵琶湖岸の道を近江八幡にある長命寺目指して出かけた昨日。
初めて行ったのは12年ほど前、小説『群青の湖』(芝木好子)を読んだのがきっかけとなった。

  (←808段の始まり 2013.5.3)
前回のしんどさは忘れてしまっている。「石段で上がるわ」という同行者を「ではご自由に」ともいかず、再度の挑戦となった。
車での参道(下から1.3キロ)も用意されていて、その駐車場からなら8分の1ほどだろうか。


後方へよろけたたら転がり落ちるしかなさそうで、その怖さが頭を離れなかった。

「あそこまで」を何度も繰り返しては息を整え、整えし、
駐車場わきから設えられた手すりに手を添え出したら、足が重くなった。

見あげて、「あと少し」と思ったことでちょっと気合いがキレた、かな。
実は本堂まで、この奥から少しばかり階段があったのだ。

本堂で無事お参りさせていただけたことに感謝し手を合わせ、縁にあった腰掛でひと休み。うっすら汗をかいた身体に風が心地よい。

山内、楓の花盛りだった。

この景色(↓写真は’13年のもの)の記憶はあるので、鐘楼のある高台まで行かなかった。
それが10数年経過の証かもしれない。


長命寺は西国33霊場の第31番札所。
景行天皇の世に竹内宿祢(たけうちすくね)がここで長寿を願い、その後、聖徳太子が寺を創り、十一面観音を祀って「長命寺」と名付けたと伝わる。808段の石段を上り詰めると正面が本堂、右手に三重塔が目に入り、護摩堂や鐘楼など建ち並ぶ。

歩かなければ見られない琵琶湖の風景を望み、シャガの花の群生に目をやりながら、帰りは車の道を歩いて降りた。
生かさるる喜びに鶯の声が降る。
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帰る場所

2025年04月21日 | こんな本も読んでみた

『教誨』(柚月裕子)を読み終えて解説を開けば、ノンフィクションライター・堀川惠子さんが執筆されていた。
著書『教誨師』や『死刑の基準 「永山裁判」が遺したもの』を、柚月さんは参考文献の中に挙げられていた。

【その事件は、半世紀前に起きた。東京、京都、北海道、名古屋で、市民4人が次々と拳銃で撃ち殺された。世間を震撼させた「連続射殺間」は、つかまってみれば19歳になったばかりの痩せっぽちの少年であった。
のちに死刑囚として獄で人生を歩むことになるその少年は、本書の舞台と同じ青森県に育った。】

少年の死刑執行から10年が過ぎて、取材のために青森の町を何度か訪れる。
【少年の名を口にするだけで、朴訥で優しい町の人たちの眼差しが凍りつく。どこを訪ねても門前払い。息の詰まるような閉そく感。小さな共同体に暮らし、そこで生を閉じていくであろう人たちが慎重に築いた「結界」を、よそ者は乱暴に踏み越えてしまう】 - 解説より


『教誨』での死刑囚・三橋響子は我が子と近所の女児を殺めた。
息も詰まる虐待の連鎖が描かれる。「苛めは虐待の極み」だと堀川さんだが、「執拗なまでにいじめに対する糾弾を緩めない」終盤、響子が橋の上で我が子の腕に見つけた黒い痣は衝撃だった。

どうして事件が起きたのか。どうすれば防ぐことができたのか。
原因があり結果がある。結果には原因がある。
「響子が犯人であることは事実だ。だが、事実と真実は違う」
響子の遠縁でもある吉沢香純は、遺骨を抱いて「響子」という人間を知ろうと青森へ向かう。
響子が遺した最後の言葉は「約束は守ったよ、褒めて」だった。誰となんの約束をしていたのか。

重苦しい、やりきれない哀しさが積もる作品に、いったいどこに救いがあるだろうかと読後しばし考えた。
一人でも二人でも、響子の哀しさに触れ、魂の安らぎを祈ってくれる人がいた。

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この道 平坦ではありませんが

2025年04月19日 | 今日も生かされて
12の短編の中のヒロインたちは、それぞれの人生の中でそれぞれの花と出会い、花とかかわることで、その後の運命に変化がもたらされる。
花がヒロインたちの人生と運命にどういうふううに交錯していくか。


京を舞台に、女性の生きる日々、避けがたい運命、感情のひだを、味わい深い12の人生で見せてくれる短編集。(『花暦』収 澤田ふじ子)
この時季、「重畳の藤」を読み返してみた。

八重が京の三条堺町で営む麩饅頭屋に嫁いで6年。八重を見初め、嫁にと迫った宗十郎は放蕩に走り、姑は八重憎さで息子をかばう。
庭には由緒ある藤が植えられてあり、その手入れをできるのは当主にしか許されなかった。舅は妻にも嫁にも無関心だったが、静かに八重をよく見ていた。
そして藤観(ふじみ)を催し、当主の藤兵衛は結論を出した。


昨日、ヤマフジの蕾を見つけた。見られるかもしれないと思いながら賀茂川の上流へと歩いた。


♪歩こう歩こう 歩くの大好き
なのだけど、どうもこの頃は ♬「おさんぽ おさんぽ たのしいな~」の歩調で、とてもウォーキングとは呼べないでいる。

 

葛は、葉が繁茂していると蔓の絡まりが見えにくいが、葉のない今の時期はよくわかる。
『絞め殺しの樹』というタイトルの小説があったが、周囲の木や歩道脇の柵にまで絡みつき締めあげている。

   ゆっくり歩くようになり
   道ばたの石ころも
   光っているのを知る     

   雨降れば傘をさす
   お日さまあつければ
   帽子をかぶる
   足もとくらければ歩かない        榎本栄一



夕刻から世話方さんの寄り合いがあった。新旧交代は少なく、今年度は総代さんはじめほぼ継続で役をお願いできるとあって、お膳を前にしての雰囲気は心安いものでした。文章仲間が寄り合う場として本堂を提供していますが、人が集う場所としてもっと開放する努力をしてきたらよかったなとちょっぴりの後悔も感じながら、まあ、まだチャンスは作れると期待感も少々。

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世界を小さくしない努力

2025年04月17日 | こんな本も読んでみた

昨年の10月に亡くなった児童文学作家・中川季枝子さん(89歳)のお別れの会が開かれたと報じられていた。
孫娘Jessieも大好きで、よく一緒に歌いながら歩いたことを思い出したせいか、今日は幾度となく一人口ずさんでいた。
アニメ映画「となりのトトロ」のオープニング曲「さんぽ」の歌は、中川さん作詞によるもの。
 ♬ あるこう あるこう わたしはげんき
   あるくのだいすき どんどんいこう
   さかみち トンネル くさっぱら~ ・・・



「『アイヌ新聞』記者高橋真 反骨孤高の新聞人」(合田一道)


アイヌの家に生まれ、貧しい暮らしの中で幼くして母を亡くした真(まこと)。二人目の母親からはひどく嫌われたとか。
「誰が見てもすぐ“アイヌの子ども”とわかる人相をしていたから、ずいぶんバカにされ、嫌な思いをして育った。……遊ぶのも、学ぶのも独り、誰にも頼らない、自分だけが頼りという性格が備わっていった」と語っている。

警察署の給仕となって警察官を目指すが、アイヌということで道を閉ざされ、新聞記者を目指す。十勝新聞社でアイヌ記者誕生。
そして敗戦直後の占領下で(1946年)、『アイヌ新聞」を発行した。
長年抱いていたアイヌ民族としての鬱積した思いを炸裂させたような文面だったとか。激しい見出し、過激な報道。アイヌ解放の運動の先人に立っていると自負しても、それはたった一人で新聞を作るという小さな闘いに過ぎず、支持者は広がらなかった。

『アイヌ民族を、人間らしく扱ってくれ、平等に扱ってくれ」。ひたすらな願いだったろう。
明治維新直後に始まった北海道開拓により大きく変貌していった彼らの暮らしだった。
アイヌ民族の解放と援助を叫び続けた若きアイヌ。

同族も離れていく。
「ああ寂しかねえ」 石牟礼さんの言葉が聞こえてくるようだ。
(いいんだよ、それで、やるだけやったんだから、悔いはない)真はそう答えるだろう、と著者は記している。

ほんのはずみで手に取った本だった。
ほんの数冊だがアイヌに関する本を読み、映画で彼らの信仰の姿にも触れてきた。そんなことがひょいと手を出させたのだろう。
人が何に興味や関心を抱くかなどほんとうに千差万別。それぞれに自分の世界を持っている。
「目標を持って、世界を小さくしない努力が心身の健康のために大事だ」…とテレビから聞こえてきた言葉がよみがえる。
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SING SING / シンシン

2025年04月15日 | 映画・観劇
【NYにある最重警備の収監施設・シンシン刑務所で、舞台演劇を通して収監者の更生を目指すプログラム「RTA」に取り組むなかで育まれていく、友情と再生を描いた感動の実話。
主要キャストの85%以上が実際にシンシン刑務所のもと収監者であり、演劇プログラムの卒業生及び関係者たちで構成されるユニークで挑戦的なプロジェクト】(パンフレット記載)、映画「SING SING / シンシン」を観てきた。


対立し、差し伸べられる手を拒んだり、解釈の相違もある。
与えられたというより、自らが望んだ役柄だ。
自分とは異なる人間を演じるうちに、いつしか自分でも知らない自分が引き出されるのか。
さまざまに指導も得て役作りを深めていく姿を、仲間は大きな拍手でその努力を認め、励まし合う。仲間の病による突然死に、じっと黙したまま流す涙には胸が熱くなった。

主人公ディヴァインGは、無実の罪で収監されていた。今では演劇仲間となったが、刑務所一の悪党として恐れられている男クラレンス・マクリン(本人が演じている)に過去の自分を語る中で、「諦めたことは未練が残る」と言っていた。

クラレンスの釈放も近い。そして、ディヴァインGも出所した。彼の出所を外で待っていたのが…。ラストの余韻の中で、改めて見直した人生の生き様こそ問われるのだな…と喜びながら思っていた。
“刑務所一の悪党だった”氏は、これが俳優デビュー作品となったとのこと。


かつて読んだ塀の中での読書会の話、『プリズン・ブック・クラブ  コリンズ・ベイ刑務所読書会の一年』が思い出される。
本を読んで語り合うこととの違いはあっても、演劇を軸にして、人の優しさや、自分の居場所を見つけ出すことなどをプログラム参加者は学びとっているのではないだろうか。

「孤独のうちに砂漠をつくりあげることは誰にでもできる。しかし、そこに花を咲かせることができるのは、豊かな心だけである」

江藤淳が網野菊さんの作品を評した言葉にあったのだが、
罪を償う長い刑期のなかで、日本でもこうして仲間とともに参加するプログラムというのはあるのだろうか。 木工作業、家具作りなどは知るところだが…。少年たちの更生施設で絵の指導をする知人がいた。しかし「仲間と何かをする」という点で、思うところは少し違う。
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なにかに促され

2025年04月13日 | 今日も生かされて
4月4日で1学期が終わり、休暇を楽しんでいる孫Tは、
9日朝5時、友達10人と駅で待ち合わせて、海辺の町サンドゲートへと向かった。
あちらでは自転車を電車に持ち込めるので、彼にとってはそれも初体験。みんなで釣りをし、初めての街の探索を楽しんできたらしい。

8年生(中学2年生)になって、こうして日々どんどん世界が広がっていくんだなあと喜ばせてもらっている。友達と一緒にというのがまた何より聞いて嬉しいことだ。夕食を済ませるとすぐに寝てしまったというのは、さすがに疲れたのでしょう。
そして、連日友人たちと釣りに出かけていると聞いている。

   

左から①釣り名人J君と帰宅後近場で ②彼に影響されて釣り竿を買ってもらったら ③釣り上げる魚のサイズも次第に大きくなってる? ④弟はこわごわ? キショクワルイこの魚はなに?
サメを釣ったという子がいたらしいが、私はサメー!?って驚くだけ。 



雨でどんよりと暗い日曜日。
黛まどかさんの一度目の四国遍路での体験記、『奇跡の四国遍路』を購入しようかとネットで検索。
『私の同行二人』では、道々の実体験に「般若心経」や弘法大師の言葉を引用されては思索を重ね、つぶやくような思いも記される。単なる道中記でない深みに、心を揺さぶられることは多かった。

『般若心経』は子どもの頃から祖母や父が唱えるのを耳にして育ち、何となく口真似などしていたものだった。
仏教について、あるいは『般若心経』『歎異抄』にしても、学ぶ機会を得て、そして日日学んでいるようであって、やはり未だに知的な理解、教養の域を出ないのかもしれないと思うばかり。「信心」という言葉に弱い、というのもその流れだろう。教養以上に出ないことを意識して暮らしているつもりでも、「つもり」はいつまでたっても「つもり」でしかない。
ただこうして齢を重ねた者でも、何かに促されながら少しでも自分の生活の上に証していけるようでありたいと、やっぱり思ってしまう。

若い子の成長は無条件でいいものだ。



固かったオニグルミの冬芽がようやくほころび始めてきた
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すべては計らいか

2025年04月12日 | 今日も生かされて
黛まどかさんの『私の同行二人 人生の四国遍路』に、「昨今、四国遍路を世界遺産登録しようという機運が高まっている」と書かれた一節があった。
四国の自然の豊かさに加え、周辺の人々の生活やお接待の人情など、お遍路文化全体を将来に受け継いでいこうとすることが本来の趣旨なのだろうとしつつ…。
スペインのサンティアゴ巡礼道が世界遺産になり観光地化したことで失ったものを求めて、外国人の歩き遍路が日本人を上回る数ではるばる四国まで来ている現実を重く受け止めるべきだ、
と思いを述べておられた。

おおよそ10年ほど前になるが、
「『長崎でキリシタン発見』150年」と小見出しがついた新聞コラムがあった。
1865年に十数人の日本人が大浦天主堂を訪れて信仰を告白して以来、約250年の禁教下をくぐり抜けたキリシタンの存在があった。
その信徒が発見されて今年で150年になるという。
多くの記念行事と連携して、「長崎の教会群とキリスト教関連遺産」の世界遺産登録を目指す運動が熱を帯びていることを伝えていた。

その中で、注目を集める聖地に軽味をおびた現代的巡礼者、つまり、「伝統的宗教の信仰の枠の外に出て、それぞれの思いを深めたり、何かを考えたりする巡礼的観光客」の増加で、
「信仰なき巡礼者が群れをなすに違いない」という見解が記事とともに妙に記憶に残っている。

この記事を目にする5日前。嫁いで以来持たなくなった朱印帳を「北びわ湖の観音の里巡り」参加のために新しく買い求めたばかりだった。
このタイミング、そこに加えて「信仰(心)」という言葉に極めて弱い自分の心に、記事はグサッと刺激してきたのだ。
(実際、東京での「観音の里の祈りと暮らし」出展以降、この観音巡りにも多くの人がやって来るようになったと嬉しい?悲鳴をガイド氏はあげられていた)

昨日の鷲尾座主のお話に、読んだのはもうずいぶん前になったが林京子さんの「長い時間をかけた人間の経験」のなかの一節を思い出した。
「二、三の札所を巡っているうちに、仏像に対するときの心が、少しずつ穏やかになっているのを私は感じていた。寺が持つ歴史と、迎える人の暖かさが、心を癒してくれるのである。…留守を守る夫人たちも朝に夕に、御仏に手を合わせているからだろう。話す声も、彼岸の彼方からのもののように、やわらかで剣がなかった。

開山当時の800年も昔の村人と寺の密接な関係が話題になる。仏たちは人の中で暮らし、人も仏を身内のように頼ってきた。一村一寺の蜜月のころの話しになると、寺の内はあの世とこの世の、混交の世界に移っていった。」


巡礼には少なからず観光的要素も含まれる。
信仰なき巡礼であっても、何かを抱える(背負う)自分の心と向き合うことになる。
何かが育まれる、培われるということ…。場数を踏んで、私の心にも…だ。
篠田節子さんの『冬の旅』を読んだときにも感じたことだった。


巡礼を離れた日日の営みのなかで、わが身を顧みる時間を与えてもらったこと、有難し。
藤の花の蕾が色づき、膨らみ始めている。

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37歳の石山寺座主さん

2025年04月11日 | 講座・講演
「現代における巡礼の意義」というテーマで、石山寺座主・鷲尾龍華さんのお話をうかがってきた(中外日報社の宗教文化講座第1回目 しんらん交流館)。
西国33所第13番札所石山寺の第53世座主は、37歳ととにかくお若い。背負うもの、覚悟の大きさを思い遣るが、ご本人はちっとも嫌ではなかったといわれる。


「遍路」と33所の「巡礼」の違いを説明された。
遍路は弘法大師修行の道をたどる。だから弘法大師と一緒に「同行二人」といわれるわけだ。
一方で、33所は観音を祀っている寺を回る。
観音とは、「観世音菩薩」あるいは「観自在菩薩」ともいい、現実的な願いをかなえてくれる伝説、話が伝わる。

33のご朱印(宝印)をそろえると、地獄に行かなくてよいという伝説がある。ということは、極楽浄土へ行けるということでもあって阿弥陀信仰につながる西国巡礼だが、自分の、あるは親しい人の納棺の際に一緒に収めるのも使い方としてあるとお話だった。

これだけインターネットが普及した時代だからこそ、その場を訪れ、自ら「観じる」(つぶさに見る) ことが大切になってくる。旅は環境が変化し、適応が求められるが、そこに神仏が存在することが巡礼の特別な点である。
寺という場所は人の心に作用する力を持っている。
33の観音の化身に出会っているはずだ。あるいは自分自身の化身にも…。
いつ出会っているかわからないでいても、苦しい思いもしながら道を歩むにつれて、誰の心のうちにもある慈(楽を与える)悲(苦を抜く)の観音の心は培われ、あらわになっていくのが巡礼の功徳である。
奇跡も起きる。自分の感性の再発見にもなる、と。

33所を一週間で回ったという僧侶がいて周囲は感心したというお話をされたが、若き座主は言われた。
弾丸のような巡りではなく、少しずつ一生をかけて回り、観音さまとの縁を深めていくのが西国33所の巡礼だと思う、と。


黛まどかさんの『私の同行二人 人生の四国遍路』にもあった。
「早く歩くか、ゆっくり歩くか。何日で廻るか、何回廻るか。そんなことよりしっかり歩け、そして何かをのこせ」
 こんな言葉が書かれて、27番札所神峯寺の通夜堂の壁に貼られていたという。
特に日本人は、日に何キロ歩いた、何日で結願した、何回目の遍路だ、といった話題が多いのが顕著で、競争のように歩く。
その結果、大事なものを見過ごしている人が多い、と。

著者は巡礼で出会った横川さんに「遍路の本質を見る」と記している。
【この地に降り積もる遍路たちの悲しみを背負い、歩く。時にいにしえの遍路たちと語らいながら、時に“無”になりながら、歩く。出会うもの触れるものに“仏性”を感じ、語りかけてくる声なき声を聞きとめる横川さんだ。】
「聖地という点は重要な目的ではない。そこに行きつくまでの“間”こそがすべてであり、歩くことそのものが目的だ」と書かれるように、著書の内容もその趣が濃く、とても良い本に出会えたと思えた。

遍路と巡礼の違いはあっても大切なのは、単なる朱印集めではなく、何を感(観)じ、何を残せるか、だろうか。


私は学生時代から、信仰の枠の外で朱印帳を手に参拝(訪問)のあとを残そうとする、寂聴さん言われるところの“趣味で社寺の朱印を集める「ワッペン巡礼」”の一人だった。
朱印帳は数珠に持ち替え、年月をかけて「信仰なき巡礼者」の呪縛がほぐれるのを感じている。一つ一つ結縁し、一生をかけての聞法なのだと今では思っている。

お若い座主さん、人生の辛苦も悲哀もこれからの体験だろう。
わかりやすく工夫してくださったのだろう、なめらかなお話ぶりは、とても聞きやすかった。



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天も花に酔ふべき

2025年04月08日 | こんなところ訪ねて

「京でよく見た白い花ばかりの染井吉野。花ばっかりで気品に欠けますわ」
「山桜が正絹やとすれば、染井はスフいうとこですね」 (水上勉『櫻守』)
こんな会話が交わされているが、やっぱり目を楽しませてくれます。


長岡京市にある長岡天満宮を訪ねた。
遠目には満開の花盛り。今日を盛りと咲き満ちているようであって、時折強い風が吹く午後、いっせいに花びらを散らしている。もう散り始めたのだ。
二条城の標本木の開花宣言がなされたのはつい先ごろだった気がする。


昨年は4月の下旬に少し見ごろを過ぎたキリシマツツジを見て回った。
ツツジは「火よりも赤し」と言うのが一般的だとか。北村季吟が、東山のあたりに咲き満ちたツツジを見て「天も花に酔ふべき」と記している(『山乃井』)と読んだこともあって、いかばかりのものかとずいぶんと期待して出かけたのだった。

延喜元年(901)、右大臣の菅原道真が大納言帥(そつ)という地方官に格落ちさせられ、九州に左遷となった。左大臣に次ぐナンバー2のポストで、一地方官に落とされたのは藤原氏との権力争いに敗れた結果だった。2年後に、恨みを残して大宰府で死ぬ。
すると都では天災人災が相次いで起こり、それらは道真の祟りだと怖れられ、…とは知られるところ。

生前、道真はここ長岡天満宮を訪れては、六歌仙の一人在原業平(十輪寺‐業平寺)とよく詩歌管弦の遊びをしたことが伝わっているという。
大宰府へ下る前にも立ち寄っていて、名残を惜しんで彫られた木像をお祀りしたことが神社の創立となったのだとか。
もっとも、この大きな八条ケ池は寛永15年(1638)に築造されたもの。
道真が業平とこの地で…。思いはそこにあるくらいだったが、まだまだ美しい桜を楽しませてもらった。

そして楓の花が咲いていた。


ここも梅から桜、そしてツツジへと季節は進んでいる。
再び「天も花に酔ふべき」時季は間もなくだ。

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四十九日のおくりもの

2025年04月06日 | 今日も生かされて

2014年の4月5日。花冷えでしたが上野公園は週末の花見客でごった返し、浮き立つような気分が満ちあふれていました。
その中を気ままに道をとって、東京芸術大学大学美術館まで歩きました。
開催中だった「観音の里の祈りと暮らし ーびわ湖・長浜のホトケ立ち」展の拝見が目的でした。

湖北地方は小説やエッセイを通じ、また実際に歩くなどして関心を深めていた地でした。
幾多の戦禍をくぐり抜け、土地の人たちによって篤く守り継がれる観音さまが多く存在しています。そんな来歴が見て取れる、痛ましいけれど素朴な姿と対面していると、漂う安らかさとでもいえる何かで気持が満たされていき、立ち去りがたいものを感じて心ゆくまで過ごしていたのを思いだします。


義母の急変、危篤状態で入院となったことを知らせる夫からの電話が入ったのは、その晩遅く、息子宅でくつろいでいるときでした。
動悸がしだして、一気に気持ちは重く沈んでいきます。
翌朝の新幹線車中で、義母が息を引き取ったことを知りました。

あまりの急変、よりによって私の留守中に…。ずっと心にかかったまま、初七日、ふた七日と、七日七日に法要を重ね五七日を済ませた頃、この上京は義母がくれたプレゼントだったのではないか、と自分本位の解釈のようにも思えるのですが、そんな思いが胸をよぎるようになってきたのです。
残されたものが心を癒していく。そのために忌明けまでの四十九日の期間があるとすれば、私自身の気持ちが明るいほうへ向かうことは、何よりも義母への供養につながると思えてくるのでした。


浄土真宗では親鸞聖人の教えを熱心に聞法し、念佛ひとすじに生きた篤信者を「妙好人」と名付けて讃えています。
人を常に温かく迎え、妙なる物言いの心を持ち合わせていた義母。その巧みな話術で紡いだ縁の広がりを思うことで、「あなたは妙口人でした」と義母に贈ったのでした。

「四十九日のおくりもの」を、互いに交わすまでになれたのでした。
年月を経て増すのは悲しさでも寂しさでもなく、ただ存在感です。
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うかうかしてはおれない

2025年04月04日 | 今日も生かされて

   今日は見事なこぶしの木に出会いました。


いよいよ咲き始めました。
白川通を下がった銀閣寺道の交差点では、哲学の道を散策しようとする人たち、散策を終えた?人たちであふれておりました。
信号待ちの車から、咲き始めのうっすらした桜が目に入ります。

「日本は桜の国」だ。
うかうかしてはおれないのである。
(赤瀬川原平『仙人の桜 俗人の桜』)

所用で外出の身。明日に気持ちを向けて考えます。
賀茂川べりへ足を延ばそう。少し北へ、山桜に逢いにも行きたい。なるべく人気のない場所で、ゆっくり静かに、と。



「土曜日の午後から出かけて、南禅寺の瓢亭で早めに夜食をしたため、都踊りを見物してから帰りに祇園の夜桜を見、その晩は麩屋町の旅館に泊まる。」

「明くる日嵯峨から嵐山へ行き、中之島の掛茶屋あたりで持ってきた弁当の折り箱を開き、午後には市中に戻って来て、平安神宮の神苑の花を見る。」
「平安神宮行きを最後の日に残しておくのは、此の神苑の花が洛中における最も美しい、最も見事な花であるからで…。
まさに春の日のくれかゝらうとする、もっとも名残の惜しまれる黄昏の一時を選んで、半日の行楽にやゝ草臥れた足を曳きずりながら、此の神苑の花の下をさまよふ。」

「たまには場所を変えようと(貞之助が反対を唱え)、錦帯橋まで出かけたが、忘れ物をしたような心持ちで、やはり京をたずねている。御室の遅咲きの花にまに合った。」


大阪からやって来て豪華な、花酔いしそうな京の桜名所めぐり。
谷崎潤一郎の『細雪』で描かれます。これを読み返すだけで花見はもう十分の気分。

桜はすぐに散ります。
乗り遅れないようにと思うと、やっぱり「うかうかしてはおれない」気持ちが湧く。また、そんな気持ちにならないと、まあいいかと済ませそう?
いけないよ。何も特別感はいらないけれど、ちょっとそこまで、足を運んでみよう。
ためらっていると幸運をのがしてしまいますからね。
  明日ありと思ふ心のあだ桜・・・


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