「現代における巡礼の意義」というテーマで、石山寺座主・鷲尾龍華さんのお話をうかがってきた(中外日報社の宗教文化講座第1回目 しんらん交流館)。
西国33所第13番札所石山寺の第53世座主は、37歳ととにかくお若い。背負うもの、覚悟の大きさを思い遣るが、ご本人はちっとも嫌ではなかったといわれる。

「遍路」と33所の「巡礼」の違いを説明された。
遍路は弘法大師修行の道をたどる。だから弘法大師と一緒に「同行二人」といわれるわけだ。
一方で、33所は観音を祀っている寺を回る。
観音とは、「観世音菩薩」あるいは「観自在菩薩」ともいい、現実的な願いをかなえてくれる伝説、話が伝わる。
33のご朱印(宝印)をそろえると、地獄に行かなくてよいという伝説がある。ということは、極楽浄土へ行けるということでもあって阿弥陀信仰につながる西国巡礼だが、自分の、あるは親しい人の納棺の際に一緒に収めるのも使い方としてあるとお話だった。
これだけインターネットが普及した時代だからこそ、その場を訪れ、自ら「観じる」(つぶさに見る) ことが大切になってくる。旅は環境が変化し、適応が求められるが、そこに神仏が存在することが巡礼の特別な点である。
寺という場所は人の心に作用する力を持っている。
33の観音の化身に出会っているはずだ。あるいは自分自身の化身にも…。
いつ出会っているかわからないでいても、苦しい思いもしながら道を歩むにつれて、誰の心のうちにもある慈(楽を与える)悲(苦を抜く)の観音の心は培われ、あらわになっていくのが巡礼の功徳である。
奇跡も起きる。自分の感性の再発見にもなる、と。
33所を一週間で回ったという僧侶がいて周囲は感心したというお話をされたが、若き座主は言われた。
弾丸のような巡りではなく、少しずつ一生をかけて回り、観音さまとの縁を深めていくのが西国33所の巡礼だと思う、と。

黛まどかさんの『私の同行二人 人生の四国遍路』にもあった。
「早く歩くか、ゆっくり歩くか。何日で廻るか、何回廻るか。そんなことよりしっかり歩け、そして何かをのこせ」
こんな言葉が書かれて、27番札所神峯寺の通夜堂の壁に貼られていたという。
特に日本人は、日に何キロ歩いた、何日で結願した、何回目の遍路だ、といった話題が多いのが顕著で、競争のように歩く。
その結果、大事なものを見過ごしている人が多い、と。
著者は巡礼で出会った横川さんに「遍路の本質を見る」と記している。
【この地に降り積もる遍路たちの悲しみを背負い、歩く。時にいにしえの遍路たちと語らいながら、時に“無”になりながら、歩く。出会うもの触れるものに“仏性”を感じ、語りかけてくる声なき声を聞きとめる横川さんだ。】
「聖地という点は重要な目的ではない。そこに行きつくまでの“間”こそがすべてであり、歩くことそのものが目的だ」と書かれるように、著書の内容もその趣が濃く、とても良い本に出会えたと思えた。
遍路と巡礼の違いはあっても大切なのは、単なる朱印集めではなく、何を感(観)じ、何を残せるか、だろうか。

私は学生時代から、信仰の枠の外で朱印帳を手に参拝(訪問)のあとを残そうとする、寂聴さん言われるところの“趣味で社寺の朱印を集める「ワッペン巡礼」”の一人だった。
朱印帳は数珠に持ち替え、年月をかけて「信仰なき巡礼者」の呪縛がほぐれるのを感じている。一つ一つ結縁し、一生をかけての聞法なのだと今では思っている。
お若い座主さん、人生の辛苦も悲哀もこれからの体験だろう。
わかりやすく工夫してくださったのだろう、なめらかなお話ぶりは、とても聞きやすかった。
西国33所第13番札所石山寺の第53世座主は、37歳ととにかくお若い。背負うもの、覚悟の大きさを思い遣るが、ご本人はちっとも嫌ではなかったといわれる。

「遍路」と33所の「巡礼」の違いを説明された。
遍路は弘法大師修行の道をたどる。だから弘法大師と一緒に「同行二人」といわれるわけだ。
一方で、33所は観音を祀っている寺を回る。
観音とは、「観世音菩薩」あるいは「観自在菩薩」ともいい、現実的な願いをかなえてくれる伝説、話が伝わる。
33のご朱印(宝印)をそろえると、地獄に行かなくてよいという伝説がある。ということは、極楽浄土へ行けるということでもあって阿弥陀信仰につながる西国巡礼だが、自分の、あるは親しい人の納棺の際に一緒に収めるのも使い方としてあるとお話だった。
これだけインターネットが普及した時代だからこそ、その場を訪れ、自ら「観じる」(つぶさに見る) ことが大切になってくる。旅は環境が変化し、適応が求められるが、そこに神仏が存在することが巡礼の特別な点である。
寺という場所は人の心に作用する力を持っている。
33の観音の化身に出会っているはずだ。あるいは自分自身の化身にも…。
いつ出会っているかわからないでいても、苦しい思いもしながら道を歩むにつれて、誰の心のうちにもある慈(楽を与える)悲(苦を抜く)の観音の心は培われ、あらわになっていくのが巡礼の功徳である。
奇跡も起きる。自分の感性の再発見にもなる、と。
33所を一週間で回ったという僧侶がいて周囲は感心したというお話をされたが、若き座主は言われた。
弾丸のような巡りではなく、少しずつ一生をかけて回り、観音さまとの縁を深めていくのが西国33所の巡礼だと思う、と。

黛まどかさんの『私の同行二人 人生の四国遍路』にもあった。
「早く歩くか、ゆっくり歩くか。何日で廻るか、何回廻るか。そんなことよりしっかり歩け、そして何かをのこせ」
こんな言葉が書かれて、27番札所神峯寺の通夜堂の壁に貼られていたという。
特に日本人は、日に何キロ歩いた、何日で結願した、何回目の遍路だ、といった話題が多いのが顕著で、競争のように歩く。
その結果、大事なものを見過ごしている人が多い、と。
著者は巡礼で出会った横川さんに「遍路の本質を見る」と記している。
【この地に降り積もる遍路たちの悲しみを背負い、歩く。時にいにしえの遍路たちと語らいながら、時に“無”になりながら、歩く。出会うもの触れるものに“仏性”を感じ、語りかけてくる声なき声を聞きとめる横川さんだ。】
「聖地という点は重要な目的ではない。そこに行きつくまでの“間”こそがすべてであり、歩くことそのものが目的だ」と書かれるように、著書の内容もその趣が濃く、とても良い本に出会えたと思えた。
遍路と巡礼の違いはあっても大切なのは、単なる朱印集めではなく、何を感(観)じ、何を残せるか、だろうか。

私は学生時代から、信仰の枠の外で朱印帳を手に参拝(訪問)のあとを残そうとする、寂聴さん言われるところの“趣味で社寺の朱印を集める「ワッペン巡礼」”の一人だった。
朱印帳は数珠に持ち替え、年月をかけて「信仰なき巡礼者」の呪縛がほぐれるのを感じている。一つ一つ結縁し、一生をかけての聞法なのだと今では思っている。
お若い座主さん、人生の辛苦も悲哀もこれからの体験だろう。
わかりやすく工夫してくださったのだろう、なめらかなお話ぶりは、とても聞きやすかった。
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