(稲沢市 布智神社)
尾張造りパート4。
相変わらずのマニアック話ですが、
大好きな尾張造りについて、今回は『祭文殿』に注目して素人考察してみました。
(前回まではこちら↓)
(稲沢市 皇大明神社)
「尾張造り」とは、“社殿の配置形式”のことであり、本殿の建築形式を表すものではありません。
愛知県の西部に多く見られる形式で、
拝殿、祭文殿、本殿が廻廊でつながれて一本化され、
左右対称の配置となっています。
さらには、
鳥居の先に蕃塀があり、
切妻屋根の妻入り拝殿で、形状は四方吹き放しの舞殿タイプ
というのも特徴の一つであると考えられます。
祭文殿から伸びる廻廊は、本殿を囲む瑞垣と接続されていますが、
神明造りになる前の熱田神宮なんかだと、
伸びた廻廊がそのまんま本殿周りをぐるっと囲んでます。
この形式がどのようにして生まれたのか、
素人には奥が深すぎて、ヒントを見つけることすら容易ではありません。
歴史的背景がはっきりして来れば、何かわかるかもしれないのになー。
お伊勢さんなんかのメジャーどころと違い、資料も情報も見当たらないので大変です。
背景を知るにはまず神社の成り立ちから考える必要がありますが、
日本の歴史に宗教、建築・・・と幅広すぎてクラクラします。(T_T)
神社に興味なかった頃は、そんなの考えたこともなかったけど、
そもそもはじめから「社殿をともなう神社」があった訳じゃないんですよね。
神代(上代)のころ、
神が宿るとして信仰されたのは山や森、巨石、巨木、滝などの自然環境で、
人々はそのまわりを垣などで囲って「神籬(ひもろぎ=聖域)」として崇めていました。
神々の鎮座地である山や森などの神域、神籬、磐座などは「神奈備(かんなび)」 と呼ばれ、
岩や巨木などを「依り代」として神を一時的に降ろし、
祭事をとり行っていました。
ご神体を置くための建物も、祭祀のための施設もなかったし、
祀られている神には、特に名前もついていなかったようです。
(鎮座地や神社名の後ろに「神」が付いている程度。)
次第に、祭事に合わせた仮設の施設が建築されるようになり、
さらには、神(ご神体)が鎮座する「本殿」が、常設の施設として造営されます。
本殿様式の成立過程を、時代ごとに区分けするのは難しいですが、
弥生時代の高床式倉庫から神明造が、
高床式住居から大社造が発達したと考えられています。
7~8世紀には仏教建築の影響を受けた春日造、八幡造、
9世紀に神仏習合思想がはじまると、流造、日吉造、
さらに10世紀になると権現造・・と様々な建築様式が生じたようです。
(なかには、本殿を設けず磐座や神奈備などを鎮座の場とする場合もあり。)
この頃には、祀られている神々に具体的な神徳(水の神、火の神など)が付加され、
鎌倉時代末期には、神徳に応じて記紀に登場する神の名前などが付けられたのだとか。
てか、10世紀あたりまで、ほとんどの神が名前を持たなかったらしいってのが、
自分的には一番の驚きでしたが。
・・というわけで、
かつては山や岩といった 「神の降臨するご神体」 を自然の中で拝んでいたものが、
仏教の影響を多いに受けて 「ご神体を安置するための本殿」 を造り、
次第に祭事のための社殿も出来上がっていって、
神の仮住まい(屋の代わり=屋代/社)だったものが、社殿を常設する神社へと変貌したわけですね。
磐座や巨樹好きとしては古代祭祀をしていた頃に真っ先に惹かれますが、
同じぐらい気になるのが、 人々が祭祀をするための建築物である「拝殿」の存在です。
上記のように様々な建築様式がある本殿と違い、
拝殿には、正面の向きによって「妻入り」「平入り」などの区別がある程度です。
あと屋根の種類(切妻、入母屋、寄棟など)なんかもあるけれど、
神さまのための本殿とは根本的に扱いが違うというか、
当然ながら、メインは本殿なんだよねー。
拝殿の由来をウィキで見てみると、
“祭事は「本殿」の前(露天)で執り行われたが、
祭祀場が屋内に変わると、祭祀場の中心部は「弊殿」に、左右の神職着座の場所は「廻廊」に変化。
廻廊の入り口には「楼門」が建てられた。
これらを造営できない小規模神社は、その機能を兼ねた「拝殿」という社殿を作った。”
・・という変遷をたどってきたようです。
うーん、やはり拝殿あとづけ。
そして、縦長で横幅の狭い「妻入り拝殿」は、
拝殿が生まれる前の 廻廊形式だった頃の「弊殿」 が変化したと考えられています。
拝殿の奥の部分が弊殿を兼ね、本殿への通路としての性格も持っているのだそう。
ならば、尾張造りの条件の一つであろう 『舞殿型の切妻・妻入り拝殿』 も、
廻廊の形をしていた頃の弊殿の名残ですよね。
もとが廻廊なら、柱だけで壁のない吹き放し状態なのも頷けます。
(祭文殿)
尾張名所図会に載っている尾張造りの神社を見ると、
拝殿と祭文殿のあいだに渡殿(屋根つき廊下)はなく、ただの砂地みたいな露天スペースになっています。
いや、砂じゃなくて玉砂利とか敷いてあるのかも。
熱田神宮の項では、1/28に行われた大々神楽の説明として、
「拝殿と勅使殿のあいだに舞台を設け (-略-) 、祭文殿に榊を立て鏡をかけ、
前に小鳥居をたて、庭上に鉾を飾り、拝殿には二重の高棚・五神の幣帛を置く」
とあるので、露天部分は庭かもしんない。
露天部分の先、祭文殿から本殿までの間には渡殿(屋根つき廊下)があり、
規模の大きな神社になると立派な社殿まで付いていて、
ここが弊殿に該当するかんじです。
熱田神宮のその社殿部分には「渡殿」と書いてあるので、
ただの渡り廊下じゃなくて、“社殿つきの渡り廊下”なんでしょうね。
もしくは、
この社殿部分を「釣殿」、廊下部分を「渡殿」と解釈すればいいのかもしれない。
一方、現代まで尾張造りを保っている小規模な神社の場合、
拝殿と祭文殿の間は露天ではなく、ここも渡殿(屋根付き渡り廊下)となっているケースが多いです。
推測ですが、
拝殿~本殿までを出来るだけコンパクトに結ぼうとした場合に、
雨天時などに面倒な露天スペースをはさむよりも、
屋根付きの渡り廊下でつないで床上を一気に移動できたほうが便利だし、
何かと有効利用できるから・・
といった、ごくありふれた理由によるんじゃないかなーと思います。
なので、やはり基本は “本殿前の渡殿が、弊殿を兼ねる” になるのかな。
(奥から、祭文殿 → 渡殿 → 本殿 ※本殿の背面側から見ています。)
もちろん、祭文殿が弊殿を兼ねている場合も考えられます。
尾張造りにはそもそも 『弊殿』 という明確なカテゴリーが見当たりません。
代わりに 『祭文殿』 がデフォで入ってまして、
これは左右に廻廊をもつ四脚門形式が基本となっています。
(ただ、近年になって再建されたものの中には、
眞清田神社のように広い空間をもつ社殿形式の祭文殿を作ったケースもあります。)
他県で祭文殿があるのは岡山の吉備津彦神社ぐらいなので、
これも尾張造りの特徴の一つだろうと思います。
他社において、
この祭文殿と同じポジションで存在しているのが 『祝詞殿(祝詞舎)』 でしょう。
『祭文』 や 『祝詞』 は、いずれも祭事において神に奏上する願文のことです。
祭文は神道の祝詞を母体にしながら生まれ、
中世に入ると山伏修験者に受け継がれて、仏教の声明の影響を強く受けました。
『祝詞(のりと)』
(1) 神職によって奏上される。
(2) 神道の祭祀で読まれる。
(3) 伝統的・公的な性質が強い。
(4) 祝詞殿とは、神職が祝詞を奏上するための建物。
『祭文(さいもん)』
(1) 勅使(天皇の特使)により奏上される。
(2) 仏教風(または中国風)の祭祀で読まれる。
(3) 個人的・私的な性質が強い。
(4) 祭文殿とは、勅使(天皇の特使)が派遣される神社に設けられるもので、
勅使がお参りする建物。
以上のように、
神道の伝統的な『祝詞』に対し、『祭文』は仏教的色合いの濃いものとなっています。
祝詞殿は、弊殿と本殿のあいだに設けられるようですが、
これを設けない神社においては弊殿にて祝詞を奏上するようです。
並びとしては、
拝殿 → 祝詞殿 → 弊殿 → (渡殿) → 本殿 が多いみたい。
(祝詞殿と弊殿の順序は逆の場合もあります。)
ほかに、「祝詞殿(兼・弊殿)」 とか、「祝詞殿(中門)」 もある。
ちょっと性質は違うけど、この「祝詞殿」を「祭文殿」に置き換えれば、
配置的にはおなじ。
中門タイプの祝詞殿なんて、尾張造りにおける四脚門形式の祭文殿と見た目そのまま同じだし。
この祝詞殿(祝詞舎)で画像検索すると、祭文殿と違ってたーっくさん出てきます。
全国的にみてもマイナーというか、異質な祭文殿。
祝詞殿じゃなく、あえて祭文殿なのは何でかしら・・。
パート4の結論。
古典的な尾張造りの形式は、
1: 基本的に、祭文殿かその先の渡殿部分で弊殿を兼用。
【拝殿→ 露天の通路(玉砂利や砂など) → 四脚門形式の祭文殿(+左右に廻廊) → 渡殿(兼・弊殿) → 本殿】
2: かつ、規模の大きい神社は、社殿(釣殿)つきの渡殿 である場合が多い。
3: 神社の規模や造営時期などによっては、露天通路が渡殿になっている場合もある。
4: 仏教建築の影響や、あえて祭文殿としている事などからみて、神仏習合色が強い。
今回ちょっと祭文殿にこだわってみた結果、
以上の点を再認識いたしました。
次の課題は、「なんで神仏習合色が強いのか?」 になりそうです。