伏見稲荷大社つづき。
さて、さきほどの御劔社(長者社神蹟)を過ぎたあたりから、
なにやら急に坂がキツくなってきました。
けっきょく頂上まで約200数十段の石段を一気に掛け上がることになったのですが、
これがもう、しんどいなんの。(-д-;)
後ろを歩いていた男性もゼーハー息を切らしていました。
そんなときでも振り返って写真を撮ることは忘れない(笑)。
あとで知りましたが、
この坂道は稲荷山で一番の急勾配だそうで、
あの清少納言も枕草子のなかでその大変さを書き記しています。
これ、四ツ辻から右に行ったほうが、
最後の急勾配を経験しなくて済む分、体力的にはラクかもしれないね。
呼吸困難になりかけながらも(いや、ほんとに。)、頂上に到着ー!
一ノ峰 (末社 上社神蹟)
御祭神:末廣大神/大宮能売大神 (=稲荷三神のうちの一柱)
末廣大神って?と素朴な疑問が湧いてきましたが、
親塚を建てた以前から、その名で崇められていたのだそうです。
ここでは皆さん、手を合わせてお参り。
この形↑は、はじめて見たなあ。
背後へ回る。
ここも塚がいっぱいです。
・・あ、すっかり記述を忘れてました。w(゜ロ゜)w
御祭神:稲荷大神(以下の五柱の総称)
●稲荷三神
・主祭神: 宇迦之御魂大神 - 下社
・配神: 佐田彦大神 (猿田彦神)- 中社
・配神: 大宮能売大神- 上社
●配神: 田中大神
- 田中社(下社摂社) ---1499年に本殿に合祀。
●配神: 四大神
- 四大神社(中社摂社) ---同上。
以上、五柱の神を一宇相殿(1つの社殿に平等)として祀る。
創建は和銅年間(708年-715年)で、
鎌倉時代に神仏習合がすすみ、それまで三座だった御祭神(稲荷三神)が、
上記の五座となったそうです。
神体山の最高峰、一ノ峰。
よくわかんないけど、
やはり頂上にお塚を設けるのが一番のステイタス?なのだろうか・・。
稲荷山の3つの峯(一ノ峰・二ノ峰・三ノ峰)は、
古代の古墳とも、祭祀場の跡とも考えられているそうです。
荒神峰(田中社神蹟)や山麓には古墳(4世紀後半~5世紀前半)が点在しており、
この古墳の主であった豪族が、山頂にて祭祀を行っていたのではないかとも。
お塚が群在する様子はまるで霊園のようだと感じましたが、
まあ、あながち間違ってはいないか・・。
個人が思い思いに建てたmy稲荷(お塚)は、その多くが神社の管轄外だそうですが、
稲荷山という広大な神域に、古代と現代の信仰が混ざり合って、
この独特の空気感を生みだしているのでしょうね。
では、頂上で一息ついたあとは、ようやく下りです。
ひたすら下ります。
下りばっかじゃ何なので、ふりかえって一枚。
千本鳥居あたりは写真を撮る人でいっぱいでしたが、
さすがにここまで来て道中を撮りまくる人は見当たりません。(笑)
みんな黙々と歩く。
チビっ子に至っては、「もぅいややー(。>д<)!!」と半泣きだった。
道中楽しくてしょうがない私みたいなのはたぶん少数派で、
ひたすら続く山道と、いつ終わるとも知れない石段と鳥居の連続なんて、
特に小さい子にとっては苦行でしかないよね・・。
二ノ峰 (末社 中社神蹟)
御祭神:青木大神/佐田彦大神(猿田彦大神) (=稲荷三神のうちの一柱)
こちらの佐田彦大神が、猿田彦大神であると考えられていることから、
一ノ峰(上社)に鎮座する大宮能売大神(末廣大神)は、
一説には猿田彦神の妻の天鈿女命ともされています。
であれば、一ノ峰(上社)の御祭神(大宮能売大神)と、
二ノ峰(中社)の御祭神(猿田彦大神)は、夫婦神ということになるんですかねー。
参拝もそこそこに、再び下ります。
あぁ狛さんだ。
君たちがいると、やっぱ落ち着くわー。
三ノ峰 (末社 下社神蹟)
御祭神:白菊大神/宇迦之御魂大神 (=稲荷三神のうちの一柱)
ここ下社の御祭神は、
伏見稲荷大社の主祭神である宇迦之御魂大神(倉稲魂命)ですが、
本来は上・中・下の三社のうち、中社に遷座するとされていたらしく、
下社とされるようになったのは江戸後期からだそうです。
(さきほどの上社・中社の御祭神の神名については、文献によって異同があって、
上社=大宮能売大神、中社=猿田彦大神 と決まったのは
明治になってからだとか。)
主祭神が下社(三ノ峰)?って一瞬考えてしまいがちですが、
境内の本殿においては、下社=中央座なので、
お山での配置をそのまま当てはめるとちょっと混乱しそうですね。
※本殿では、
向かって左から「田中大神」「佐田彦大神」「宇迦之御魂大神」「大宮能売大神」「四大神」。
どうしてメインが中社(=本社)だったのが、下社=本社になったんだろーか。
なんて考えつつ、さらに下へ。
その7へつづく・・。