2018年の初詣記事でも概要を書きましたが、
大好きな奥三河へ行ってまいりました。
(記事中の写真は、2018~2021年の画像が混在しています)
豊橋でJR飯田線に乗り換えて、本長篠駅下車。
ここで降りるのも何度目かなー。
記事にしてないだけで、結構な回数訪れてるわ。
駅から少し歩くと、バスターミナルがあるので、
ここで豊鉄バスに乗ります。
30分ほど乗車したのち、田峯に到着。
ちなみに、降車したのは画面の中ほど、
三角屋根の建物前にあるバス停で、
手前は、帰りに乗車するバス停。
今いるのは、地図の左下部分です。
公共機関で田峯城へ行く場合、
バスを降りてからがちょっと分かりにくいんだけど、
↑画面奥、高所にある家々の前を通り、
右方面へ上ることになります。
上がった所から、先ほど居た場所を見下ろしたところ。
新城と同じく、北設楽郡の田峯もご先祖さんの地なので、
ホーム感が半端ない。
身内びいきを差し引いても、とにかく居心地の良い、
大好きな場所です。
・・ただ、公共機関&徒歩の場合、
ちょっとだけ大変。
バス停が右下の○で、
目的地が中央の□ですが、
どうやってたどり着くのかというと、
こーんな感じで、
山の中を突っ切って行くわけです。
そこはまあ、大好きなんで全く苦じゃないどころか、
毎回、楽しくてしょうがないんですけどね(笑)。
バス停(右下○印)を離れ、389号線の西側に並走する道を進むと、
道は途中で蛇行しながら、
城跡のある集落へと続いています。
これは舗装された車道なんですが、
集落には小学校などもある以上、車道のみとは考え難い。
おそらく途中から脇道に逸れて、
上まで突っ切るショートカットの山道があるに違いない。
・・と思ってヤフーマップを見たら、
こっちのが断然細かいじゃん。
見ると、蛇行する車道を結ぶ細道がある。
これがきっと目指す脇道だと確信し、
歩いていくと・・
脇道との分岐点らしき場所に出ました。
青○印の場所です。
近づいてみるとちゃんと標識もあったので、
安心してそのまま右へ。
ああ、ここから上るのね。
階段から分岐点を振り返ったところ。
人ひとり通れるぐらいの細道が続いています。
数分歩いたところで、道が二又に分かれてましたが、
直進は勾配もなくゆるーい感じ。(かつ途中で下がっていく)
左は上りです。
目指す田峯の地は山の上なので、
迷わず上り道(左)を選択。
なかなかハードな坂道ですが、
これまた楽し。
ひたすら上る。
ほどなくして、舗装道に出ました。
場所はココ。
車道との分岐点から、時間にして5分ほどかな。
この下から上ってきました。
振り返って撮ったところ。
しばらく車道を歩くと、
また山中に向けて標識が。
第二の分岐点です。
再び脇道に入りまーす。
先ほどよりも勾配キツめの山道を登ること10分弱。
再び舗装道に出ました。
これでショートカット終了です。
一応、要所要所に立て看板もあるので、
分岐のポイントは分かりやすいかと思います。
ここからは、車道を直進。
わーい着いたーーー。
ここまで、バス停から20分もあればOK。
さて、この光景。
なんだろう・・初見と思えない既視感。
うーん、としばし考えたのち、
あ。そうか。夢でよく見るわ!と思い出しました。
まさにこの写真通りのアングル、光景が、
何度も夢に出てきたんですよね。
思わず、あーここだったのかと声を上げました。
振り返って反対側から見たところですが、
夢では、右側の木が生えている側が神域で、
15メートルほど続く木々のトンネルが祠を覆い、
脇には小川の水が流れてました。
(実際は山肌。)
その神域を出たところに、この景色が広がっており、
私はあちらへ向かって歩いて行くんです。
デジャヴなのか何なのか分かんないけど、
着く早々、嬉しくなってしまいました。
そして、田峯城址に到着です。
田峯城は、戦国期に奥三河一帯を支配した、
田峯菅沼氏累代の本城です。
別名、蛇頭城(じゃずがじょう)。
文明2年(1470年)に菅沼定信が築城し、
天正10年(1582年)には、
菅沼氏御家断絶によって廃城しています。
本丸ほか、遺構は残っているものの、資料が極めて少なく、
中世城郭を参考にして、
本丸御殿、大手門、物見台などと併せて田峯歴史の里に再建されました。
夢に出てきた神域は、場所でいうとちょうどこの先あたり。
実際には何があるんだろうと見に行ったら、
古くからありそうな墓所でした。
奥三河の菅沼氏。
歴史に詳しい人なら知っているでしょうか。
奥三河の地に勢力を誇っていた、
山家三方衆(田峯菅沼氏・作手奥平氏・長篠菅沼氏)は、
ほかの地域の国人衆と同様に、
今川・織田・徳川・武田という強大な力に翻弄され続けていました。
そんな中、
叔父と家老による謀反として語られる、
田峯城の悲劇が起こります。
ことの発端になったのは、
天正3年(1575年)5月の長篠の戦い。
田峯城主の菅沼定忠(親武田)は、
長篠の戦いで大敗した武田勝頼を伴い、
田峯城へと戻りました。
しかし、留守居の叔父菅沼定直・家老今泉道善(親徳川)に、
入城を拒絶されてしまいます。
一年後の天正4年(1576年)7月。
復讐に燃える城主定忠は、
城内警備の手薄になった盆を狙い、
まだ人々が寝静まる早朝に田峯城を急襲。
老若男女を問わず、城内の96名すべてを惨殺しました。
謀反を起こした叔父定直や家老今泉道善は生け捕り。
地中から首だけ出し、
生きたまま鋸挽きで処刑しています。
それも鋭利な金属ではなくて、
竹のノコギリって話ですからね。
恨みの深さが窺い知れます。
叔父と家老による、城主締め出しという反乱行為。
根本にあったのは、
「親武田vs親徳川」の争いであり、
“誰に帰属するか?” という、長年の家中対立が、
その背景にありました。
経緯を時系列で並べると・・・
① 4代目城主の寝返り(親今川 → 親織田)
A)『4代城主 定継(さだつぐ)』
→ 親今川氏だったが、1555年に織田方に寝返る。
B)『弟 定直(さだなお)』
→ 寝返りに大反対。
<→ 織田派vs今川派で、家中対立>
↓
② 今川家に〆られ、家康に助けられる
A)『定継』 → 今川家に討伐されて自刃。
B)『定直』 → 今川家に支援される。
・菅沼宗家滅亡の危機となるが、
『定直』が、『定継の嫡男(3歳)』を保護。
さらに定直らの尽力により、
徳川家康から「田峯菅沼宗家の家督」「所領安堵」を認められる。
↓
③ 5代目城主の寝返り(親徳川 → 親武田)
C)『保護された嫡男(3歳) 』
→ のちに『5代当主定忠(さだただ)』となる。
その後、『首席家老 城戸道寿』とともに、武田に寝返る。
B)『父の弟(叔父)定直』+『次席家老 今泉道善』
→ 寝返りに大反対。
< → 武田派vs徳川派で、家中対立>
↓
④ 長篠の戦いで武田軍大敗
・1575年の長篠役では、『定忠』&『城戸道寿』が、
『定直&今泉道善』の反対を押し切り武田方として出陣。
結果、武田大敗の報を受けた『定直&今泉道善』は、
武田勝頼の敗走を助けて城へ帰還した、
『定忠』&『城戸道寿』の入場を拒絶。
(城主締め出し)
↓
⑤ 田峯城の悲劇
・1年後、『定忠』&『城戸道寿』の報復により、
城内にいた老若男女96名惨殺される。
↓
⑥ 徳川派の返り咲き
・1582年、武田家滅亡。
『定忠』&『城戸道寿』が、家康への帰参を願い出るも、
当然のごとく拒否され、謀殺される。(=菅沼宗家滅亡)
※命を助けられ徳川に属したとも。
・家康が、『定直の嫡子 定利(さだとし)』を田峯城主とする。
というわけで、
戦国という時代に、家を保つことがどれほど困難かよく分かる事例かと思います。
家康に保護されてから、
一貫して徳川方だった『叔父+次席家老』と、
武田方に傾いてしまった『当主+首席家老』との、家中対立。
けれど双方ともに、
家、ひいては村や村人の安寧を守るため、
戦国の乱世を生き残るため、
命を賭して必死に生き抜いたのでしょう。
誰に従うのが正解なのか。
歴史の覇者が誰だったかは、
後世になってようやく分かることで、
世の流れを察知するなんて、
あの時代、誰にもできなかったと思うのよ。
上に立つ人々なら尚のこと。
己の選択が、
自分の人生はもちろん、多くの民の命すら左右する。
キツい。キツすぎる。
乱世に生きた一国の長が背負うものの大きさは、
現代の一般庶民には、計り知れないものがある。
大変だったろうなー・・という、ありきたりの言葉しか出てこないんだけど、
本当に、心底そう思います。
でもって、
生きながら鋸引きで斬殺された、家老の今泉道善さんが、
ご先祖さんの一人なので、
田峯訪問は先祖供養の意味もあったりします。
田峯城の悲劇では、一族郎党皆殺しだったんだけど、
足軽の一人が、道善さんの幼子を抱いて城を脱出してくれまして、
無事に命はつながっております。
その2へつづく・・。