水早 -mizuha- 神社と写真と一人旅。

カメラ片手にゆるり神社めぐり。
公共機関&徒歩での日帰り参拝記録をメインに綴っています。

田峯城址-1 <愛知県北設楽郡設楽町田峯字城>

2021-05-29 | ├ 愛知(ひとり旅)

 

2018年の初詣記事でも概要を書きましたが、
大好きな奥三河へ行ってまいりました。

(記事中の写真は、2018~2021年の画像が混在しています)

 

 

 

 

豊橋でJR飯田線に乗り換えて、本長篠駅下車。

 

 

ここで降りるのも何度目かなー。

記事にしてないだけで、結構な回数訪れてるわ。

 

 

 

駅から少し歩くと、バスターミナルがあるので、

 

 

ここで豊鉄バスに乗ります。

 

 

30分ほど乗車したのち、田峯に到着。

 

 

ちなみに、降車したのは画面の中ほど、
三角屋根の建物前にあるバス停で、
手前は、帰りに乗車するバス停。

 

 

今いるのは、地図の左下部分です。

 

 

公共機関で田峯城へ行く場合、
バスを降りてからがちょっと分かりにくいんだけど、
↑画面奥、高所にある家々の前を通り、
右方面へ上ることになります。

 

 

上がった所から、先ほど居た場所を見下ろしたところ。

 

 

 

新城と同じく、北設楽郡の田峯もご先祖さんの地なので、
ホーム感が半端ない。

身内びいきを差し引いても、とにかく居心地の良い、
大好きな場所です。

・・ただ、公共機関&徒歩の場合、
ちょっとだけ大変。

 

 

バス停が右下の○で、
目的地が中央の□ですが、

どうやってたどり着くのかというと、

 

 

こーんな感じで、
山の中を突っ切って行くわけです。

そこはまあ、大好きなんで全く苦じゃないどころか、
毎回、楽しくてしょうがないんですけどね(笑)。

 

 

 

バス停(右下○印)を離れ、389号線の西側に並走する道を進むと、
道は途中で蛇行しながら、
城跡のある集落へと続いています。

これは舗装された車道なんですが、
集落には小学校などもある以上、車道のみとは考え難い。

おそらく途中から脇道に逸れて、
上まで突っ切るショートカットの山道があるに違いない。

 

 

・・と思ってヤフーマップを見たら、
こっちのが断然細かいじゃん。

 

 

見ると、蛇行する車道を結ぶ細道がある。

これがきっと目指す脇道だと確信し、
歩いていくと・・

 

 

脇道との分岐点らしき場所に出ました。

 

 

青○印の場所です。

近づいてみるとちゃんと標識もあったので、
安心してそのまま右へ

 

 

ああ、ここから上るのね。

 

 

 

階段から分岐点を振り返ったところ。

 

 

人ひとり通れるぐらいの細道が続いています。

 

 

数分歩いたところで、道が二又に分かれてましたが、
直進は勾配もなくゆるーい感じ。(かつ途中で下がっていく)
左は上りです。

目指す田峯の地は山の上なので、
迷わず上り道(左)を選択。

 

 

 

なかなかハードな坂道ですが、
これまた楽し。

 

 

 

 

ひたすら上る。

 

 

 

ほどなくして、舗装道に出ました。

 

 

 

場所はココ。

車道との分岐点から、時間にして5分ほどかな。

 

 

この下から上ってきました。

 

 

 

振り返って撮ったところ。

 

 

しばらく車道を歩くと、

 

 

また山中に向けて標識が。

 

 

 

 

第二の分岐点です。

 

 

再び脇道に入りまーす。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

先ほどよりも勾配キツめの山道を登ること10分弱。

再び舗装道に出ました。

 

 

これでショートカット終了です。

 

 

一応、要所要所に立て看板もあるので、
分岐のポイントは分かりやすいかと思います。

 

 

 

ここからは、車道を直進。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

わーい着いたーーー。

ここまで、バス停から20分もあればOK。

 

 

 

さて、この光景。

なんだろう・・初見と思えない既視感。

 

 

うーん、としばし考えたのち、
あ。そうか。夢でよく見るわ!と思い出しました。

まさにこの写真通りのアングル、光景が、
何度も夢に出てきたんですよね。

 

 

思わず、あーここだったのかと声を上げました。

 

 

 

振り返って反対側から見たところですが、
夢では、右側の木が生えている側が神域で、
15メートルほど続く木々のトンネルが祠を覆い、
脇には小川の水が流れてました。
(実際は山肌。)

その神域を出たところに、この景色が広がっており、
私はあちらへ向かって歩いて行くんです。

 

 

デジャヴなのか何なのか分かんないけど、
着く早々、嬉しくなってしまいました。

 

 

そして、田峯城址に到着です。

 

 

 

田峯城は、戦国期に奥三河一帯を支配した、
田峯菅沼氏累代の本城です。

別名、蛇頭城(じゃずがじょう)。

 

 

 

文明2年(1470年)に菅沼定信が築城し、
天正10年(1582年)には、
菅沼氏御家断絶によって廃城しています。

本丸ほか、遺構は残っているものの、資料が極めて少なく、
中世城郭を参考にして、
本丸御殿、大手門、物見台などと併せて田峯歴史の里に再建されました。

 

 

 

夢に出てきた神域は、場所でいうとちょうどこの先あたり。

実際には何があるんだろうと見に行ったら、
古くからありそうな墓所でした。

 

 

 

奥三河の菅沼氏。

歴史に詳しい人なら知っているでしょうか。

 

 

奥三河の地に勢力を誇っていた、
山家三方衆(田峯菅沼氏・作手奥平氏・長篠菅沼氏)は、
ほかの地域の国人衆と同様に、
今川・織田・徳川・武田という強大な力に翻弄され続けていました。

 

 

そんな中、
叔父と家老による謀反として語られる、
田峯城の悲劇が起こります。

 

 

ことの発端になったのは、
天正3年(1575年)5月の長篠の戦い

 

 

田峯城主の菅沼定忠(親武田)は、
長篠の戦いで大敗した武田勝頼を伴い、
田峯城へと戻りました。

しかし、留守居の叔父菅沼定直・家老今泉道善(親徳川)に、
入城を拒絶されてしまいます

 

 

一年後の天正4年(1576年)7月。

復讐に燃える城主定忠は、
城内警備の手薄になった盆を狙い、
まだ人々が寝静まる
早朝に田峯城を急襲。

老若男女を問わず、城内の96名すべてを惨殺しました。
謀反を起こした叔父定直や家老今泉道善は生け捕り。
地中から首だけ出し、
生きたまま鋸挽きで処刑しています。

それも鋭利な金属ではなくて、
竹のノコギリって話ですからね。
恨みの深さが窺い知れます。

 

 

叔父と家老による、城主締め出しという反乱行為。

根本にあったのは、
「親武田vs親徳川」の争いであり、
“誰に帰属するか?” という、長年の家中対立が、
その背景にありました。

 

 

経緯を時系列で並べると・・・

 

 

4代目城主の寝返り(親今川 → 親織田)

 A)『4代城主 定継(さだつぐ)』
  → 親今川氏だったが、1555年に織田方に寝返る。
 B)『弟 定直(さだなお)』
 → 寝返りに大反対。
 <→ 織田派vs今川派で、家中対立

 ↓

今川家に〆られ、家康に助けられる

 A)『定継』 → 今川家に討伐されて自刃。
 B)『定直』 → 今川家に支援される。
・菅沼宗家滅亡の危機となるが、
  『定直』が、『定継嫡男(3歳)』を保護。
 さらに定直らの尽力により、
 徳川家康から「田峯菅沼宗家の家督」「所領安堵」を認められる。

 ↓

5代目城主の寝返り(親徳川 → 親武田)

 C)『保護された嫡男(3歳)
 → のちに『5代当主定忠(さだただ)』となる。
  その後、『首席家老 城戸道寿』とともに、武田に寝返る。
 B)『父の弟(叔父)定直』+『次席家老 今泉道善
 → 寝返りに大反対。
 < → 武田派vs徳川派で、家中対立

 ↓

長篠の戦いで武田軍大敗
・1575年の長篠役では、『定忠』&『城戸道寿』が、
 『定直今泉道善』の反対を押し切り武田方として出陣。
 結果、武田大敗の報を受けた『定直今泉道善』は、
 武田勝頼の敗走を助けて城へ帰還した、
 『定忠』&『城戸道寿』の入場を拒絶。
 (城主締め出し)

 ↓

田峯城の悲劇
・1年後、『定忠』&『城戸道寿』の報復により、
 城内にいた老若男女96名惨殺される。

 ↓

徳川派の返り咲き
・1582年、武田家滅亡。
 『定忠』&『城戸道寿』が、家康への帰参を願い出るも、
 当然のごとく拒否され、謀殺される。(=菅沼宗家滅亡
 ※命を助けられ徳川に属したとも。
家康が、『定直の嫡子  定利(さだとし)』を田峯城主とする。

 

 

というわけで、
戦国という時代に、家を保つことがどれほど困難かよく分かる事例かと思います。

 

 

家康に保護されてから、
一貫して徳川方だった『叔父次席家老』と、
武田方に傾いてしまった『当主首席家老』との、家中対立。

けれど双方ともに、
家、ひいては村や村人の安寧を守るため、
戦国の乱世を生き残るため、
命を賭して必死に生き抜いたのでしょう。

 

 

誰に従うのが正解なのか。

歴史の覇者が誰だったかは、
後世になってようやく分かることで、
世の流れを察知するなんて、
あの時代、誰にもできなかったと思うのよ。

 

 

上に立つ人々なら尚のこと。
己の選択が、
自分の人生はもちろん、多くの民の命すら左右する。

キツい。キツすぎる。

乱世に生きた一国の長が背負うものの大きさは、
現代の一般庶民には、計り知れないものがある。

 

 

大変だったろうなー・・という、ありきたりの言葉しか出てこないんだけど、
本当に、心底そう思います。

 

 

でもって、
生きながら鋸引きで斬殺された、家老の今泉道善さんが、
ご先祖さんの一人なので、
田峯訪問は先祖供養の意味もあったりします。

 

 

田峯城の悲劇では、一族郎党皆殺しだったんだけど、
足軽の一人が、道善さんの幼子を抱いて城を脱出してくれまして、
無事に命はつながっております。

 

 

その2へつづく・・。

 


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