健保のつぶやき

食事、トイレと他人様に頼る必要はないが、薬に頼る生活がソロソロ始まりました。当面は「親鸞さん」に照準。

改めて 自分にとっての糖質制限とは

2014-10-27 09:37:34 | 日記

http://homepage2.nifty.com/shusse-kannon/budda/budda4.htm

仏様のお話(第四回)

悟りへの道「四諦・八正道」

 仏は、個人的な悟りを得たいと求める人のためには四諦の法門を説いて、生・老・病・死をはじめとするさまざまな人生苦から救い、現象へのとらわれから解脱した境地を極めさせました。また人生のいろいろな出来事を縁として自ら悟りを開こうと努めるものには十二因縁の法門を説き、もっと大きな志を持ち人を救い世を救うことにより仏の境涯に達しようとする者には六波羅蜜の法門を説き、あらゆる物事を総合的に明らかに見通す大きな智恵を得、悟りに至る手段を明らかにされました。

四諦(したい)

 四諦の教えは、初転法輪から入滅の直前まで、釈尊が一貫して説かれた人生の真理。四苦八苦(しくはっく)を滅する方法を説いたものです。

  1. 苦諦(くたい)
     人間の歴史が始まって以来、暑さ寒さ・天災地変・飢饉・疫病・貧困・不仲・不安・老い・死等に対する苦しみがあり、人生は苦(しょう)愛別離苦(あいべつりく)怨憎会苦(おんぞうえく)求不得苦(ぐふとっく)五蘊盛苦(ごうんじょうく)」であることを諦(さと)る。
  2. 集諦(しったい)
     集というのは「集起(しゅうき)」の略で「原因」という意味です。人生にも必ず原因があり、その原因を探求し、反省しそれをはっきり諦(さと)ること。法華経・譬諭品第三に「諸苦(しょく)の所因(しょいん)は貪欲(とんよく)これ本なり」と説かれ、渇愛(かつあい)といって喉の渇いた者が激しく水を求めるように、凡夫が諸々の欲望の満足を求めてやまない心の状態、無制限にものごとを貪り求めること。本能そのものは善悪以前の自然のものであると釈尊は説かれているのですが、欲望を必要以上に増大させ、人の迷惑などおかまいなく貪りを増大させる思いや行為が、不幸を呼び起こすのだと教えられています。この原因を悟る方法として十二因縁の法門が説かれている。
  3. 滅諦(めったい)
     前記の集諦によって、苦の原因は人間の心の持ち方にあるのだということが解りました。この事から当然「心の持ち方を変えることによって、あらゆる苦悩は必ず消滅する。」ということになる教えです。渇愛を余すことなく捨て去り、解脱し執着を断ち切ることができるのか、ただ捨て去ろう、解脱しよう、執着を断ち切ろうとすると、かえってそのものへの心の引っ掛かりから苦しみを増大させてしまうことも充分ありうる事で、釈尊は次に述べる「道諦」の真理をお説きになりました。
  4. 道諦(どうたい)
     釈尊は苦を滅する道について、本当に苦を滅する道は苦から逃れようと努力することではなく、正しく物事を見る「正見(しょうけん)」・正しく考え「正思(しょうし)」・正しく語り「正語(しょうご)」・正しく行為し「正行(しょうぎょう)」・正しく生活し「正命(しょうみょう)」・正しく努力し「正精進(しょうしょうじん)」・正しく念じ「正念(しょうねん)」・正しく心を決定させる「正定(しょうじょう)」の八つの道「八正道(はっしょうどう)」を説かれました。

 これらの四諦の法門は、非常に重要な教えであり「法華経・譬諭品第三」に次のように説かれております。「もし人 小智(しょうち)にして深く愛欲に著(ぢゃく)せる これらを為(もっ)ての故(ゆえ)に苦諦(くたい)を説きたもう 衆生心に喜んで未曾有(みぞう)なることを得 仏の説きたもう苦諦は真実にして異なることなし もし衆生あって苦の本(もと)を知らず 深く苦の因(いん)に著(ぢゃく)して 暫(しばら)くも捨(す)つること能(あた)わざる これらを為ての故に 方便(ほうべん)して道を説きたもう 苦の所因(しょいん)は 貪欲(とんよく)これ本(もと)なり もし貪欲滅(めっ)すれば 依止(えし)する所なし 諸苦(しょく)を滅尽(めつじん)するを 第三の諦と名づく 滅諦(めったい)の為の故に 道を修行す」とあります。仏教修行を志される方々は、よくこの意味をよく理解していかなければならないと思っています。

四苦八苦

 すべては苦である(苦諦の法門)と観なさい!釈尊は人間というものは、「必ず移り変わるもの」を「永久に不変のもの」と錯覚し、無理な執着をつくりだすのだと説いています。「人生は苦である。」と断定したことは決して悲観的・厭世的(えんせいてき)なものの見方を教えたわけではなく、「苦」そのものを直視し、心の表面でごまかすことなく一時の喜びや、楽しみは、いつかは消え失せ、その影には必ず「苦しみ」がつきまとうという事を断ぜられた真意はここにあります。現代生活に即して云えば、酒や遊びなどで一時逃れをせず、しっかりと「現実」を見すえて「苦」を正面から受け止め、その原因を見つめる態度が大事であるという事です。このような時「諸行無常」の真理を悟り、今の苦しみは永遠のものでもないし、今の楽しみや喜びも永遠ではなく一時的なもので、これらの現象にとらわれない生活習慣をつけることが修行にほかなりません。

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1.(しょう) 生きるということは苦である。
2.(ろう) 老いていくことは苦である。
3.(びょう) 病にかかることは苦である。
4.(し) 死ぬということは苦である。
5.愛別離苦(あいべつりく) 愛するものと別れるのは苦である。
6.怨憎会苦(おんぞうえく) 怨み憎む者と会うのは苦である。
7.求不得苦(ぐふとっく) 求めても得られないのは苦である。
8.五蘊盛苦(ごうんじょうく) 五蘊とは色・受・想・行・識のこだわりの苦しみ。簡単に云うと、人間の五官(眼・耳・鼻・舌・身・)で感じるものや心で感じる人間の肉体や精神活動すべてが物事にこだわりをつくる苦しみ。

 釈尊は、このように「苦」の分類を八種類に分類され生・老・病・死を「四苦」といい次の「四苦」愛別離苦・怨憎会苦・求不得苦・五蘊盛苦を合わせて「八苦」と呼びます。

八正道(はっしょうどう)

 釈尊は「苦」を滅する方法として八つの正しい道を解き明かしました。これが、正見・正思・正語・正行・正命・正精進・正念・正定の方法です。これらすべての方法に「正」の字がついていますが、「正しい」とは「真理に合った」・「調和のとれた」考えや見方、行動をさし、小我「自分本意」にとらわれて、自分自身を過大評価し、不平・不足・不満などの苦の種をつくらない大きな立場で物事を判断できる人間となる事を示す道として解き明かしたものである。また、ものの見方には現象に現れた差別の見方や前記した大きな立場からの「平等だけの見方」のどちらに偏っても正しい見方とはいえないのです。ここでなぜ「平等」の見方だけで正しくないのかという疑問が湧くかもしれませんが、物の本質として現象に千差万別の差別の実相を現すには、それなりの原因や条件があり理由があり無視する事はできないのです。このように差別の見方にも偏(かたよ)らず、平等の見方にも偏らない、両者を総合したとらえ方が本当の「正しい」見方やとらえ方となります。これを仏教では「中道」といいますが、これは一方に片寄らない、ちょうど真ん中という意味ではなく、その時々の真理の条件・立場に合った最善の方法の見方や考え方という事です。この考え方や見方は法華経の「妙」を現すものです。

  1. 正見
     自己中心的な見方や、偏見をせず前記の如く中道の見方をすること。
  2. 正思
     自己本位に偏らず真理に照らし物事を考える事。例えば貧欲(自分だけの為に貪る心)・瞋恚(自分の意に添わないと怒る心)・愚痴(不平・不満などの邪心で小我を通すよこしまな心)という「意の三悪」を捨て去り物事を考えること。
  3. 正語
     恒に真理に合った言葉使いをする事。社会生活の上で慎まなければならない事で妄語(嘘)・両舌(都合や立場で使う二枚舌)・悪口(破壊的な悪口)・綺語(口から出任せのいいかげんな言葉)という「口の四悪」を行わないということ。
  4. 正行
     本能に任せるままの生活ではなく、仏の戒めにかなった正しい行いをすること。仏が戒めたのは殺生(意味なく、或は楽しみの為に生き物の生命を絶つ事)・偸盗(ちゅうとう)・邪淫(道ならぬ色情関係)という「身の三悪」です。
  5. 正命
     衣食住その他の生活財を正しく求める事。人の迷惑になる仕事や、世の中の為にならない職業によって生計を立ててはいけないこと。
  6. 正精進
     自分に与えられた使命や目指す目的に対して、正しく励み、怠りや脇道にそれたりしない事で、とらわれ過ぎたり偏った精進はかえって逆効果になる場合があります。
  7. 正念
     仏と同じような正しい(真理に合った)心を持ち、小我(自己本位)による分別をせず、ものごとの真実の実相を見極め、心を恒に真理の方向へ向けること。
  8. 正定
     心の状態が真理に照らし正しい状態に定まる事。腹決めされた決心が外的要因や変化に迷わされないということ。

 これらの「四諦」・「八正道」の法門は、釈尊が人生苦というものに対する考え方や、その「苦」に対処する実践方法を解き明かされた大切な法門ですので、深く心に刻んでいただきたいと思います。

 次回は十二因縁について書かせて頂きます。