戦争を挟んで生きた女性の回顧録

若い方が知らない頃のセピア色に変色した写真とお話をご紹介いたします。

22/12/31 大晦日は何を食べても過ぎていく。

2010-12-31 17:43:00 | Weblog
 今日予定してやった事。自宅の床の部分の雑巾がけ。とちぎ園芸にて葉牡丹と土の買い付け。靴下と下着とお正月用のしめ飾りなどは買いに行けなかった。カシミヤの手袋を東武で買うつもりでいたが、こんなに混雑している大晦日にデパートに行く気にもなれず止めた。とちぎ園芸から帰ったら上田の甥が会社に寄ったところ電話が入り、会社に着いたという。私も同時刻に新幹線のガードをくぐったので午後は甥と久しぶりにゆっくりと話をした。
それ以外は何も出来なかった。年越し蕎麦は昔はもみじ通りのやぶそばに行列をして買ったものだが、今は1人分、これから乾麺を茹でて食べるか、ある物で間に合わすかのいずれかである。年越し蕎麦を食べないと年が越せないなら仕方がないけれど、どんな1年にしてものどかに過ぎていってくれた。今夜から強烈な寒波が襲うというが、停電でもしない限り、家に引き篭もっていれば何とかなる。断捨離は出来ていない。お正月休みが本格的な断捨離の予定である。捨てろ、捨てろと正月から励む。来年も何とか無事に過ごせるようにと祈ると共に、おん礼を申し上げたい。皆様1年間有難う御座いましたと・・・来年はどうなるか分りませんが、ブログも投稿を続けて行きたいと思っております。皆様、良いお年をお迎え下さい。


22/12/30 最後まで働きます・

2010-12-30 17:31:53 | Weblog
 ハナちゃんのおセットの日、朝から大関ワンワンショップへ出かける。明日は私がワダさんでセットをすればお正月の準備は終わる。お店は来てくださったお客様の為に出かける時は“直ぐ戻りますのでお待ち下さい”と書いて張り紙をしておく。大体に於いてうちのお客様は他に無い電球を買いに来るのでそのようにしておいても休むよりは良い。このようにして間に3回外に出た。1度は出来上がったハナちゃんを受け取りに、あとは会社と近い自宅との往復である。空いていれば15分か20分で往復出来る。今日はそんなに混んでいなかったが往復で20分かかった。店に戻った時、前の駐車場にお待ちになっていた方がいた。急いで下りて店を開ける。このお客様の買う電球もうちにしか置いてない、本当の特殊なものだった。だからあまり休まない事にしている。切れてしまったら商売を休まなければならない事だってある。大変難しい利の薄い商売であるし、高価な物を在庫して7,8年に1度しか売れない物もある。そして電球には寿命がある。今日のお客様も買って半月しか経っていないのに切れてしまった、とお冠だ。いろんな書類を調べ、その電球が500時間の寿命である事を告げた。1晩に10数時間、それも非常に激しい運動を繰り返す器具についているその球は高熱によりフィラメントが焼けていて、実験室で長時間付けっぱなしで寿命を計るメーカーの表示より早く切れる事が多い。最後には納得してお帰りになった。明日もう1日だ。頑張ります。今日は6時に帰ります。

22/12/29 本日は誠に忙しい日であった。

2010-12-29 19:55:27 | Weblog
 今までにない忙しさだった。だからブログは緊急のお休み、尤も忘れた時以外は例え何があろうとも休みはしないが、今日は休ませて貰います。明日はどうしてこんなに忙しかったか書くつもりですが、多分今日より忙しいと思います。今パソコンの星野先生がお帰りになったばかり。これで私も帰ります。今年も終り、といってもあと二日あります。頑張ります。


22/12/28 業平橋今は東京スカイタワー

2010-12-28 17:39:38 | Weblog
  社員は仕事は今日で終わる。これからが私と甥の社長の片付けが始まる。お正月までかかる。会社も断捨離を始めているので忙しくなるばかり・・・毎年綺麗にしておくから、と云って綺麗になったためしはないが、今年は捨てるのでいくらかは違うだろう。ただ、疲れたので今日はあまりやらないで帰る事にする。特に甥が用意してくれた坂の上の雲のビデオがある。1度見ているが改めて見ると、見ていないところに気がつく。勉強とて同じ事。もう1度やり直したい。今朝のラジオで業平橋という地名や駅名が消えると聞いた。新たに付けられる地名は東京スカイタワーとか・・・・味気なさにがっかりした。伊勢物語の冒頭に「昔おとこありけり・・・」で始まる日本の好男子の代表が在原の業平である。高校時代から古今和歌集や新古今和歌集にのっている次のような和歌を学んだ人は多いと思うが、その業平橋が東京スカイタワーとは・・・・
高校でも学び、東京でも国文を専門とした私にとってこの地名の変更は悲しい事です。
代表歌
世の中に たえて櫻の なかりせば 春の心は のどけからまし

ちはやぶる 神代もきかず龍田川 からくれなゐに 水くゝるとは

から衣 きつつなれにし つましあれば はるばるきぬる たびをしぞ思ふ

名にし負はば いざこと問はむ 都鳥 わが思ふ人はありやなしやと
 

22/12/27 坂の上の雲の第2部が終わって

2010-12-27 18:57:57 | Weblog
 歴史の勉強をさせて貰った。私の年齢だと広瀬中佐の話は知っているが改めて、胸に迫り来るものがあった。

轟く砲音(つつおと)、飛来る弾丸(だんがん)。
荒波洗ふ デッキの上に、
闇を貫く 中佐の叫び。
「杉野は何処(いずこ)、杉野は居ずや」

時々、忙しくて見逃す事もあろうと甥が最初からビデオにとっておいてくれた。当分はこれを最初から見て、明治時代を偲んでみたい。それが終わってから10時過ぎに、民間放送で西大后があり、日曜日なのに寝るのは12時過ぎ。でも他のチャンネルは依然として下らないお笑いとか食べる物が多く、坂の上の雲には心を洗われる思いがする。第3部が来年の11月とは本当に待ち遠しい。その間に人生70数年に溜め込んだ要らない物を整理して、死出の旅路が身軽に行けるようにしよう。断捨離にも1年以上はかかる。なにしろ数十年で付いた垢だから、1年ではこすり落とせない。今朝も第1歩、車に積みきれないほど、捨てた。明日は衣類がふとん袋に一杯用意してある。会社でも先ずは実行である。捨てろ、捨てろ・・・必要でないものは・・・とみんな協力してやり始めた。でも、増えるのが早くて追いつかないほどだ。坂の上の雲の第3部が始まるまでの競争だ。

22/12/25 メリークリスマス。

2010-12-25 17:44:18 | Weblog
 晴れてはいるが冷たい日だ。私位の年代になるとクリスマスにプレゼントを貰う習慣はなく、そのあとにやって来るお正月のお年玉の方が待ち遠しかった。それも戦争に入ればお年玉どころではなく、お雑煮を食べられるかどうかの方が問題だった。おかげさまで貧しくともいつもお雑煮にはありつけた。新年のおせちはお雑煮だけで他のご馳走は用意しないで済ませようと思っている。おせちは昔、食べる物が極端に貧しかった頃、お正月だけは、と奮発した名残で、今はお餅もきんとんも数の子もようかん、黒豆、なますと全ていつでも手に入る。1年365日が盆に正月だ。坂の上の雲の解説の中で、あの頃の日本人の食べる物は想像を絶するほど貧しかった、と云っていた。だから体格も貧弱で意欲も湧かなかったのだろう。勝っていたのは精神力、さむらいとしての誇りだったという。現代と反対のような感じがする。明日は日曜日、夜の7時半から又楽しみな坂の上の雲がある。それに備えて今日はゆっくりとやすむ事にしよう。

22/12/24  大渋滞の競輪場通り。

2010-12-24 19:32:39 | Weblog
 もう、あといくらも無い。本当に暮も押し詰まった。仕事の人がすいすいと通行出来ないと配達も容易ではない。私も先ほど帰って来たばかりだが、決して空いている状態とはいえなかった。普段にこんな状態なら良いのだが、いつもは全くのがらがら、死んでいくような者は良くても若い人がやる気を失くすのも分る。先月から今月にかけて、私も生きる気力を失った。全く失った。現在も完全に回復はしていないが、前ほどではない。我とわが身に鞭打っている。何故?働かなければやっていけないからである。先日、或る銀行を退職した方がお見えになって、毎月40万の年金が出ると聞いた。その方は「何の経費もかからず、40万入るのですから現職でいるときよりお金は使えます」との事だった・。働いても働いても儲からない社会・・・この方は他に収入が入る商売をしておられる。間違いではないかと「毎月40万ですか?2ヶ月で40万ですか?」と聞いたら「毎月です」との事だった。羨ましかった。「金融関係は良いですからね」と、基金がありますから、ともおっしゃった。この不景気風の吹く中で遊んで40万入ればいう事なし。働き口さえ無いというのに。

22/12/23   私の心のふるさと、丸亀。

2010-12-23 16:01:22 | Weblog
 私のおじいさん、祖父春治郎の生まれたところは四国、丸亀と聞いている。幼いころから丸亀は私にとって遠い祖国のようなものであった。いつの頃からか遍路をしたい、出来るなら歩いて、と思っていた。仕事を持っている私に時間は無く、身体を悪くして長いこと入院し、退院した弟と母親のふたりを私の代わりのようにして四国88ヶ所の霊場めぐりを頼んだ。2人は飛行機で丸亀に到着するとタクシーが待っていて2人は四国めぐりをした。初期の糖尿を患い、その上腰椎が悪くて入院していた弟と老いた母親には団体でまわる事も、本当に歩いてまわる事も不可能であった。2人共おそらく私より先に逝くに違いない、と思っていた。それが何時であれ、私の中にその思いはいつもついてまわった。だから私はいつも弟と母親をどんなにお金がかかろうとも、いつも一緒に行かせ、誰も味わえないような楽しい旅行にした。末の子であればなお勝る愛、何故か私の胸にはこんな予感があった。「私は暇が無くて行けないから2人で行って下さい」と頼んだ時、既に交通公社にはタクシーでまわるスケジュールが組んであった。相当日数も費用もかかるこの旅行を2人は遠慮したが、いつも無信心で何事、ご先祖様の供養らしい供養をしていなかった私は、その為に、供養だからと説得して行って貰った。帰ってきた2人の顔は歓びの表情だった。明日からの電子書籍、ホームページにはこの時の写真を載せたいと思っている。そしてそれを見ながら私のへんろの予定を立てておきたい。

22/12/22 夢とうつつのはざまで。

2010-12-22 13:18:42 | Weblog
テレビを見ていてそのことばを聞いただけであの世とこの世の間(はざま)に立たされることがある。そのことばとは“もがりの森”という言葉で、喪狩りの・・と感じただけで変な世界にいざなわれて行くのを感じる。あのテレビを完全には見ていなかった。少し見ていておかしな雰囲気を感じて止めてしまった。夢とうつつのはざま・・・私は未だ行きたくはないのかも知れない。おさなき日、私は熱にうなされて不思議な黒い衣服の婦人に手を差しのべられて西へ向かう車に上がろうとした。夕日が薄赤かった。西校南の通り、材木町に向かう道で、その頃道の北角にはつぶら歯科があった。車に乗ろうとして私は片足をかけたが、なぜかすぐ下りた。私の感覚ではその時死出の旅路に行こうとしていたのだった。松が峰幼稚園は後半は殆ど休まされた。学校と違って幼稚園は行きたくて行ったので休むのは辛かったが行きたい時は負ぶって連れて行って貰った。あの時は間違いなくあの世に旅立とうとしていたので、夢とうつつのはざまを彷徨っていたのではない。それでもこの体験は、もがりの森や夕べ見た遠野物語を理解するのに良いたすけとなっている。でも、やっぱり夜寝るのに怖いような気がした。