昔、と云っても去る数10年ほど前、年末となると店の中にはカレンダーが毎日のように届けられ、直ぐ箱一杯になった。どんなに大きい家でもそれだけかける部屋はなく、父など自分の部屋の壁に色とりどりのカレンダーを貼って楽しんでいた。東武前の店にいた時は持って来て下さった方には申し訳ないが、通りに大きい箱を出し、沢山のカレンダーを並べ「ご自由にお持ちください」と旗を立てておいた。1本でなく、2本置いていく問屋もあった。今泉に来てからも同様に競輪場通りの歩道に置いて持って行って頂いた。それが今年は生命保険会社から1本届き、暫くしてからプリンス電機のカレンダーが届いたきり・・・毎年それらをお客様に使っていただいていたのでそのお客様らしい方が「カレンダーは無いのかい?」とお出でになった。その時は生命保険会社からの1本しか来ていなかった。うちでも少し作る事にしていたが、こんなわけではだれそれと無闇には配れない。アメリカでは姉が渡米した40数年も前の頃からカレンダーは買う物と決まっていた。くれるのはペプシコーラの1枚物だけでそれ以来うちのカレンダーを送ってやっている。日本はこれを見ただけで景気は最悪だ。年末年始を覚悟して過ごそう。
今日は良く晴れて暖かかった。前から人を頼んでおいて枯れた雑草の山を整理して貰った。雑草は金網の手すりに執拗に絡みつき、それが10Mもの間、向こう側が見えないほどだった。午前中だけ手が空くと聞いて頼んだけれど、何とか綺麗になった。西側のドンドン山の崖も落ち葉や枯れ草が見えなくなった。年末までには玄関前に、葉牡丹が少しだけでも飾れるようになった。後は街道に出る北側の植え込みから真っ赤な南天を頂いてくれば良い。謹賀新年はいつも自分で大きな筆で書いて貼り付ける。松も竹も家の周りにいくらでも生えている。新年がそれほどお目出度いとも思わず、ただ今年もやまいにも負けずにお正月が迎えられることを歓ぶだけ・・・子供の頃のそれとは全く違う感覚。体力も衰え、気力も無く、そんな年になってしまったが、父や母が同じ年になった頃、私は優しく接していただろうか?いや、全く優しくは接していなかった。この後悔が私を悩ませている。