戦争を挟んで生きた女性の回顧録

若い方が知らない頃のセピア色に変色した写真とお話をご紹介いたします。

22/10/31 台風と共にジェニーは去ってしまった。

2010-10-31 16:51:26 | Weblog
 昨日、アメリカの姉から貰ったご飯の残りのご馳走をきれいに食べて、ジェニーは元気を取り戻したかに見えたが、今朝朝食を持って行ってみたら静かに頭を西に向け、南側の入り口に身体を向けて覚悟していたかのように横たわっていた。そんなかたちで寝ていた事もあるのでじっと見つめたら確かに死んでいた。ドアを開けて入ったら、目は開かず蝿が1匹飛んでいた。夏の頃から何時死んでもおかしくないような様子だった。暑さに耐えかねてか、コンクリートの上を這いつくばって動いている時もあった。これで終りかと思うと翌朝は元気に立っていた。けれど私とどっちが先かという位だったが、先に逝ってくれよと心からそう願っていた。ジェニーはその通りに一足先に逝ってしまった。これ以上おとなしい犬はいないくらいで電気や水道の検針の人に小屋の10センチくらいの間からいつも頭を撫でて貰っていた。私の悩みがひとつ消えた。もうひとつは3階にひとり住むミーコである。これも必ず先に・・・と願っている。

22/10/30  その2 数10年前に宇都宮を襲った台風の記憶

2010-10-30 17:56:12 | Weblog
いつの台風の時だったか、山の中腹にあった我が家の屋根が吹き飛び、それで家を建て替える羽目に陥ったのだが、あの時は多分キャスリーンとか、ジェーン台風の時だったと思う。駅前の繁華街の店に妹と2人で住んでいたが、あまりの強い風に山の中腹にある自宅を心配して電話を掛けてみた。父が出て「何とか大丈夫だよ」と言う言葉の次に「アッ、アッ、アーアーッ・・・屋根が飛んだあーー」と言う声は最後まで聞こえずにぷつんと切れた。
私は妹と2人「どうしよう、屋根が飛んだんだって、どうする?行ってみようか?」「こんな酷いのに行けるわけないよ」「どうする?交番に行って頼んでみようか?」「そうね・・・」2人で外に出ようとしてカーテンをめくってみるが、荒れ狂う風は東武デパート前の広場を唸りを上げて駆け巡り、電信柱の電線まで切れたらしく、切れた電線が又風で吹き上げられ、途中でスパークしてその恐ろしさは尋常ではない。
5メートルと離れていない交番まで行こうとしても、風は少しの休みも無く電線を舞い上げてその度に散るスパークの恐ろしさにどうしても足が踏み出せないでいた。物凄い火花は切れ目無しに散った。でも、親や弟のいる自宅の屋根が飛んだと、それで電話も切れれば我らもどうしても助けに行きたい、と或る瞬間を見計らって交番に駆け込んだ。一世一代の度胸を出したのだ。飛び込んだ交番で「おまわりさん、おまわりさん」と叫んだ。
夜勤のおまわりさんは中年を少し過ぎた人でステテコ姿で出て来た。こんな台風の夜は寝ているに限ると思ったらしく、その通り、たしかに台風の他に事件は無かった。飲んだくれの姿は夕暮れからいなかった。そう、昼間から人の気配の無い町の中で、聞こえるものは激しい風雨と通りを転がってゆくバケツや板切れの音だけだった。「うちの自宅の屋根が飛んだって言うんです。そのあと電話が切れてしまって・・・」と訴える我らに眠そうな顔の刑事さんはこう言った。「こんな風じゃあ宇都宮の建物はみんな屋根は飛ぶわね。どこでも飛んでいるわ。私のうちだって飛んでるわ、しょうがないよ」
「どうしよう、でも、何とかうちまで行きたいんです」と訴える私と妹にどうしようも無いを繰り返した。
その時、大通りの交差点にいたパトカーが直進せずにこちらへ曲がって来た。降りて来ると「どうしたんですか?」と訊ねた。
それで事情を話すと「市内をパトロールしながらで良ければ乗せて行ってあげましょう」と言う事になり本当に嬉しかった。
上町から国鉄駅前の方に向かった大通りは、あまりにも沢山のものが道路に散乱していて、それらが間断無く音を立てて転がっていた。

「パトロールしながら駅前の交番にさし掛かった時、若い女性が二人、警官と話をしていたので何があったのかと寄ってみたのです」という事だった。方々をパトロールしながら自宅の入り口まで連れてきて貰って本当に有難かった。つぶさに市内の様子を観察しながら、誰も体験できない事もやってしまった。二度目にパトカーに乗った時は違反をして捕まった時だ。

「有難うございます、有難うございます」を繰り返し、何度もお辞儀をしてパトカーと別かれた。しかし、降りたところからも恐ろしさで歩き出せなかった。やはり強風で切れた電線がしょっちゅうスパークするのだ。
「怖いよ、どうしよう」と言う私に妹は「私が先に行くから」と歩き出した。恥ずかしながら私の方が度胸がなかったのであります。妹の後に隠れるようにして、やっと自宅に辿り着いた私と妹に父は驚き、釘付けされていた玄関を開けてくれた。
「来なくていいのに・・・」と言われたが、パトカーの話をしたら「それは良かった」と喜んでくれた。
下屋〔げや、母屋の屋根から張り出し、即席に作った物置〕の屋根が飛んだ時、繋がっていた母屋の屋根がめくれ、押入れが水浸しになっただけで他の部屋には異常は無かったが、戦時中に建てたボロ家はこの台風を限りにおさらばとなった。今日の14号がこんな台風にならなければ良いが・・・

22/10/30 台風14号はこれからだがうちの台風は去った。

2010-10-30 16:41:33 | Weblog
  現在15時30分、14号の影響を受けながらフクダヤに行った。相当風は強くなっていて、傘をさすとあおられて飛ばされそうだった。仕方なく顔が隠れるくらいにすぼめて歩いた。 明日の朝刊に75歳の老婆、台風の風にあおられて飛ばされそうになり、入ってきた車にぶつかり・・・などと書かれては大変だから真剣だった。
我が家を襲ったアメリカからのハリケーンも今朝私と大宮の妹をホテルの朝食に招待したあと、妹の車で群馬の姉のもとへ出発した。今日からひとり、ひとり暮らしの寂しさに耐えかねていた私に、ひとりの良さを教えて去った。ひとりは辛い、確かに辛い。孤独に耐えかねてはいたが、ひとりの自由も悪くはないと教えて去った。今日からハリケーンは群馬と大宮を通過して来週末には又うちに戻ってくる。

22/10/29 戦争のような忙しさ。

2010-10-29 19:52:58 | Weblog
 やっと今日のパソコンのお勉強も終わった。昨夜はアメリカからの1連隊が3時間も遅れて到着。今朝は独協で紹介状を持っての診察、午後も内科で診察、その間に店もやる。月末でもある。忙しい昨日のうちに給与の振込み。
明日は姉の娘夫婦の泊まっている東日本ホテルで朝食をジョアン達がご馳走したいという。昼も夜も出られない私が朝なら来られるだろうという事で断れない。本当は行きたくない。兎に角忙しい。あとで顛末を書くにもあまり混み合っていて整理するのに図解説明するほどだ。もう8時。帰ろうとしたら予備鍵が見つからない。予備鍵なので構わないが、これで又ひと晩悩む。毎日同じ事の繰り返しだけれど、今日は見つからないまま帰る事にする。なにしろ姉とはいえ、アメリカからのお客人が待っているので、これで失礼致します。さようなら。


10/28 あわただしかった朝

2010-10-28 14:16:06 | Weblog
 いつもより早いくらいに起きたのに時間は余らない。途中で休んだわけでもないのに、いつも会社に行く時間は過ぎている。その時電話のベル !!急いで出ると群馬の姉からの電話で“食べる物などを今日つくように送るけれど自宅が良いか会社が良いか”などと云っている。そんなに急がなくても良いのに、などと思っていたら今度は“誰が迎えに行くの?えっ?と口ごもっていたら28日に着くんでしょう?そうね、みんなは東日本ホテルだけど迎えに行った人はうちに泊まるんでしょう?大丈夫?大丈夫、いつでも泊まれるから、28日でしょう?そう、今晩だよ。アッと驚いた。そうだ、今日は28日、姉達一行が成田に到着、妹が出迎えてこちらに連れて来るんだっけ!!!このところ猛烈な忙しさでいろんな事が相次ぐ。明日朝早くに独協に行く予定だし、その上に暮れに近付き、夕暮れが早くなったので灯りに需要が多い。蛍光管の種類だけで1000点は軽く超え、その中から探すのは容易ではない。沢山お買い上げなら嬉しいが殆どが1個2個なので難しい商売といえる。雨の日の出迎えは初めてだけれど、迎えに行った事だし何とかなるでしょう。
そういえば今朝はジェニーにご飯をやらずに来てしまった。

10/27 頑張れ!76歳のほりひとみ!!

2010-10-27 19:20:20 | Weblog
随分落ち込んでいたが、立ち上がる決心をした。絶望ばかりしていても何の益もないから。その時間、何かしていたほうが良い。その解決策として、私は電子書籍に賭ける事にした。未だそれほど知られていない電子書籍を76歳の私がやる事に意味がある。星野先生の助けを借りながら、ではあるが新しい歓びが生まれてくるに違いない。体もあまり完全ではなく、昨夜も遅く診察を受けたが、行かないほうがまし、のような感じがした。少し位なら自分で治そう。

22/10/26 その2 姉と観た最初の映画

2010-10-26 17:56:12 | Weblog
 姉は面白いとこらがあって、小学校5年生の頃から妹の私や近所の春ちゃんをつれて 傷病兵の慰問などをやった。その前だったと思うが、私を連れて今のブルドッグのパルコ側の方から 入り、下足番に下駄を預け、2階の座席でチャンバラ映画を見せてくれた。その前は今の108ビルの1階にあった東宝で岸井明が猪八戒になった孫悟空を観た。古い話である。学術優等であったくそまじめ位の姉だが隠れてやったのだろうか?学校をサボって行ったのだろうか?戦後、私は学校をサボって映画三昧の日を送ったが、あの下足番に下駄を預けて観たチャンバラが懐かしい。その時は花屋敷だったかもしれない。松竹と云ったのは戦後でないとすれば松竹だ。いずれにしろ昔はよかった。


22/10/26 絶望感にうちひしがれて・・・

2010-10-26 15:45:44 | Weblog
 今私は失意のどん底にある。けれど嘆いても泣いてもどうしようもない。今迄に何度も絶望感を味わった。けれどそれを乗り越えてこられたのは将来があったからだ。それが若さというものだとその時は気がついていなかった。周りには喧嘩をしつつもきょうだいが、そして年をとっていても父母がいた。

現在は運転をしなくなった78歳の姉と今月末、アメリカからやって来る80歳の姉と妹がふたりいるだけになってしまった。私のブログは読んでいて嫌になるほど暗い事ばかり。原因はある。いつかこのブログでも吐き出すだろう。私は何でも溜めて置くことは出来ない人種だから、いつか吐き出す。いつかこれを御読みになる方は理由を知る事になる。昨夜私はアメリカからやってくる姉を思い浮かべ、早く来ないかなあと思っている自分に気がついた。そうだ、群馬の姉だけでなく、私も心の中で姉を待ち望んでいるのだ。やっぱり、肉親とは掛け替えのない宝なのだ。それがあるだけで幸せなのだと思った。不幸せの中で、良い肉親がいることは無上の幸せというべき・・・姉も病気を持っているので定期的にやる事がある為1ヶ月しかいられない。そしてアメリカでもこの私のブログを見ていてくれる。うちのお正月料理、おせちを食べるのは多分11月にばるだろう。

22/10/25  その3 宝くじが当ったら・・・

2010-10-25 18:30:32 | Weblog
 フクダヤに行く事が多い。近いし、プールを止めてから、運動の為に歩いて行く。エスカレーターは殆ど使わず階段を使う。そして歩き回る事にしている。栃木銀行もこの前軽い接触をやってから怖くて行けなくなってしまったのでフクダヤ内の栃銀に入金に行く。その時はいつも宝くじ売り場の方から入るので西田敏行の元気な声が聞こえてくる。2億5千萬、前後賞併せて・・とかロトシックスなどと景気の良い話はここだけ。私もお金が欲しい。お金さえあれば何とかなるし、お金で何ともならない事だってお金が全くないよりは百倍も良い。でも、大体当らないので買わない。買わなければ当らない。当らなければ勿体無いし、3億貰える人に私が出資してやる事になる。どうしたらいいでしょうか?やっぱり1生お金に縁がないようです、


22/10/25  その2 法事でお会いした人達。

2010-10-25 16:51:26 | Weblog
 法事の主催者は私の甥で、その従兄弟達は若いが殆どは年配の人ばかりだった。私の斜め前の方がアフガニスタンでムシャラフ大統領が拘束された時、やはり1週間警察に連れていかれ、仕方なくそのまま帰国された話をして居られた。その後又行ったが、今度はホテルに入って部屋で寛いでいるとドアをノックする音がした。開けると6名の屈強な兵士がピストルを構えて連れ出そうとする。言葉は分らないし、いくら日本から観光で来たといっても通じない。それで又留置された。身振り手振りで観光と云っても良く通じない。そこで又しばらくお世話になりようやく解き放たれたけれど、持っていた写真機が悪かったらしい。あのようなところでは写真機は逮捕される理由になる。尖閣諸島の場合も写真くらい撮って何が悪い?という理屈は通らない。でも、アラブ諸国へ観光で何度も行ける方なんてどんなお金持ちなんだろうとびっくりした。
隣に座っているご婦人は、私よりひとまわり下らしくご主人を亡くされている。この方の話題が又物凄いもので、有名なスポーツ用品の会社のオーナーであった。1年のうちに何度も良い物を探したり、自社製品の売り込みにアメリカやヨーロッパに出かけているという。植村直巳なんて友達のように話している。私の姉やその夫も山歩きをしているのでそのような知人がいるのだろうか?口あんぐりとする以外になかった。