戦争を挟んで生きた女性の回顧録

若い方が知らない頃のセピア色に変色した写真とお話をご紹介いたします。

事を為すなら明るい顔で・・・未だやるべき事が残っている。 6/30

2010-06-30 12:04:13 | Weblog
今朝起きた5時前は土砂降りだった。薄暗い玄関を開けるとプランターの日光きすげのような黄色い百合が2輪開きかけていた。傘をさしてその2輪だけを切り取った。歩く姿は百合のよう・・・といわれるが、私は枝を長く切らない。蕾がたくさん付いているので咲いた順から短く切り取り、小さな容器に入れて全部仏様に供える。訪れる人に見せる為の花ではなく、うちのお花は一年中、全てが仏様用だ。湯のみの好きな甥がいて、いろんな湯のみを買ってきてくれるが、湯のみなどはそう沢山いるものではない。それで頃合の大きさのものはそんな小さな花を飾る為に使わせて貰っている。そんなわけで今のうちの仏壇は赤、白、クリーム、黄色、ピンクとお線香をあげる時に苦労するほどの百合で混み合っている。明日は真っ赤な百合が2輪咲く予定だ。おとなう人が咲いていない枝ばかりの草花を見たとて苦にならない。私にとって1番大切な人は両親を含むご先祖様と、私より若くてもやまいを得て先に逝った弟達だ。1年を通じてお花屋さんから買うのはうちのお花が咲かない時だけ・・・昨日は暗い1日だったが、暗い顔ばかりしていては「あの店つぶれるんじゃないか」などと云われてしまう。どんな顔でいても良くならない時はならないし、消費税も上が時は上がる。いいや、こんな雨の降る日やサッカーの負けたひでも明るく過ごそう。おととい、植月さんに「今やっている日本が今度出るというスポーツは何?」と聞いたら「サッカーですか」「そうそう、お宅の息子さんが学生時代にやっていたというあれ・・・」「サッカーです」と云われた。昨夜寝ながらテレビをつけっ放しで聞くだけ聞いていた。そのスポーツ音痴の私でさえ、聞いていて負けると思った。押されているのはテレビを見ていなくても分った。気配、それは感じられる事だ。私も自分が負けると感じさせてはいけない、と思った。死なないのは未だやるべき事が残っているからだ。竜馬のように“この世に生を享けたのは事を為す為である“という信念を持ってやるべき事をきちんと為し遂げてからにしよう。同じ為す為には明るい顔で為そう。

元気を出そう、挫けないで・・・6/29その2

2010-06-29 18:24:42 | Weblog
 今日はどんよりとして雨もぱらついたが、入札に失敗して暗くなっている気持ちを家庭菜園の収穫が慰めてくれる。未だ赤くなっていないが、ミニトマトや中型のトマトに随分沢山の実がなっている。一斉に赤くなられたら食べ切れないほどの量だ。それにジャガイモは花盛り、薄紫の花は思いのほかに美しい。ゴーヤの花も咲いている。サトイモの葉も葉っぱの中心に銀色の水滴をためている。小学生の低学年の頃、溜まったさといものあの水で墨をすれば、上手に字が書けるといわれ、すずり石に入れた事もある。じゃがいももさといもも捨てようと思い、放っておいたしなびた台所のゴミのうちから埋めたものだし、トマトは苗を買って植えた4,5本だが、こんなに慰められるとは思いもしなかった。冷蔵庫の野菜室の隅に1個残っていたミニトマトをプランターに埋めておいたら1本だけ芽が出て大きく育ったものもある。楽しみはこのように身のまわりに幾らでもある。元気を出そう。

原価で出した入札に破れて・・・ 06/29

2010-06-29 17:29:00 | Weblog
 今日は朝から元気が出ない。
先週末に大きな入札に指名されたので関係書類を取りに行き、毎年不調(取れない事)に終わっているので今年こそは・・・と他の仕事はそっちのけで大きな問屋3社を相手に駆け引きが続き、昨夜最終案が纏まった。全く利益はゼロだが、せめて今年は取りたいと出かけて行った。だが、今年も不調・・・メーカーがえこひいきをして金額を出すわけがない。原価といっても普通の原価ではない。普通の人が聞くとあっと驚くような入札用にしか出ない金額である。P社、T社などメーカーは何処でも安い所で良いという事であった。それが不調だとは・・・元気が出るわけがない。役所の入札である。うちで出した金額でも利益は全く無いのに、落札した業者の金額はうちより5%も安かった。これで市や県に税金を払っている所でなければ参加する資格も無いのにそんな商売をさせているのだ。いろんな自治体だってそうだ!!!いいや、いつだってそうだったんだから無理だ。庶民はいつも泣かされてきた。でも、それに挫けてはいけない。戦争の時の事を思えば何だって耐えられるが、以前はそんな商売、聞いたためしは無い。現代は狂っている。4,5日も時間をかけて苦労するより最初から辞退して昼寝でもしていたほうが良かった。来年はそうしよう。時間はもっと有効に使おう、と考えた次第だが、どう考えても気持ちは暗くなるばかりだ。

竜馬伝に見る拷問のすさまじさ。  22/06/28

2010-06-28 15:42:08 | Weblog
ゆうべの竜馬伝は見応えがあった。一時も眼を逸らせなかった。武市半平太が岡田以蔵に毒饅頭を渡すのは、史実では殺し屋として自分の命ずるままに使った以蔵が、拷問によって半平太の名前を出すのではないかと恐れたからで、本当に以蔵を愛し、以蔵を苦しみから救ってやろうとしたわけではなかった。けれど拷問とはすさまじいものだ。去年は北方謙三の水滸伝全19冊に捉われて読んだが、其処にも拷問のすさまじさが書いてあった。多くは敵方の情報を読み取ろうとして為される行為だが、それははるかに人智を超えて普通の人には想像だにできない方法であった。現代に入ってからも日本軍が行った行為や、いろんな戦争という美名に隠れた拷問が行われている。表に出るのは氷山の一角に過ぎない。後の世にいろんな作家がそれらを取り上げて美化して書いているが、実際の岡田以蔵は惨めに死んでいった。昨夜、岡田以蔵が本当は武市半平太が事実の発覚を恐れて・・・であるが、半平太が以蔵を苦しみから救ってやろうとして毒饅頭を寄越したと思い「早く寄越せ」と岩崎弥太郎と奪い合いになるのを見て、複雑な心境だった。今回の竜馬伝では考えさせられる事があった。最後まで目が離せないだろう。

宇都宮大空襲 3話 寝ていると思った人は実は死骸だった。

2010-06-27 17:14:29 | Weblog
今日は雨の予定だが晴れたり曇ったりで時々雨がぱらつく程度だ。
戦争が終わる年の8月の1ヶ月前はやはり梅雨でじめじめしていた。でもどうしてもあの頃と感じが違う。それは全体に明るいからで、昭和20年はもっともっと暗くじめじめしていた。どうしてこんなに違うのかと思うほど違いがある。うちの菜園は生い茂っているけれど、昭和20年に植えたかぼちゃやほうれん草は殆ど育たなかった。土が良いとも思えず、今だってそんなに肥料などやっていないのに、物凄く生育が良い。苗を買って植えたのだが苗が違うのだろうか?
今月15日に濃い紫色の西洋朝顔が咲いた。毎年同じ頃に咲く。この頃まで山では鶯がホーホケキョと鳴く。あの頃も同じに鶯は囀ったと思うが、それも覚えが無い。けれど戦争中の朝顔や鶯には覚えが無い。覚えているのは油蝉の焼け付くような暑さを感じさせる鳴き声だけ。世の中が落ち着き、食べる物に不自由しなくなって初めて周囲のたたずまいに目が行く事を知った。もうじき7月12日がやってくる。戦災で焼け出された人達の為に南校(今の一条中学)で日に1度だけ午前中に炊き出しがあった。焼け出され、泊まるところの無い人が多く泊まっていたが、夕方学校の北の出口から出て食べ物を探しに行った南校の教員をしている女性が、道の傍らに横になって休んでいる人達を見た。翌日も同じ道を通って市内に行ったら、又同じく休んでいる。おかしいと思ってよく見たら、空襲で死んだ人の死骸が累々と並んでいるので腰が抜けるほどびっくりして其処を通れなくなってしまった、という話を聞いた。これらを忘れてはならない。同じ日本人として、80数年前にあった事を伝えていかなければならない。

宇都宮大空襲 2話   6/26

2010-06-26 11:48:18 | Weblog
昨日は宇都宮大空襲を思い出してブログに投稿したが、うちに帰ってからテレビを見たら見慣れない画面が写り、これも田舎くさい男性の顔で宇都宮大空襲の話をしていた。ふだんは見ないケーブルテレビを間違って出してしまったらしい。釘付けのようになって見ていたら、誰かの描いた絵入りで体験者らしく、警報もならないうちに大きな爆音で外に出ると右の家も左の家も真っ赤に燃え上がり、それから逃げる様子が語られていた。いつでも思い出す事が出来る。いつでも語る事も出来る。いつ何時でも書く事が出来る。小学校5年生で、父親が大曽に疎開先を見つけ、横穴防空壕を掘り、あのような戦火の中を逃げ惑う事はしないで済んだ。入っていた横穴防空壕の上にも焼夷弾が落ちて住んでいる家の屋根も少々焼けたが、消す事も出来、それなりの被害を受けたと思ってはいたが、私の知っている宇都宮大空襲とはそんな生易しいものではなかった。はるかに燃え上がる宇都宮市内を、大曽の山の上から眺めただけだった。それは恐ろしいというより、敵機も去り、爆撃の音も聞こえない、初めて見る空襲での火災の遠景、それは子供の私には綺麗に燃え上がるオーロラ(話に聞いたりテレビで見るだけだが)のように美しいものとしか写らなかった。その後、学校に戻ってから何十年と、誰とも空襲の話をした事はない。1度もないとはどういう事であろうか・・・そういえば家族と空襲の話をした事も無かった。私がそれに目覚めたのは記憶にある私の人生を文字にし始めてからである。3歳になるかならない幼い頃から、私の記憶は殆ど鮮明に近いほどなのに、大事件であるべき大空襲を良く知らないというのは罪悪に近いと思い、それらを知らない世代の人達に語り継ぐ必要があると思った。沖縄の姫ゆり部隊の話を見、聞きするうちに私が死ぬ前に少しでも残しておきたいと書き始めた。
同級生や姉達からも情報は寄せられてきた。父親が早く手を打っておいてくれたお陰で誰ひとり、猛火の中を逃げずに済んだ。それを子供のうちのひとりとしても感謝の言葉をかけた子はいない。親不孝な娘らではある。今更ながら”お父さん ごめんなさい”

宇都宮大空襲のあった7月12日が近づいてきて・・・6/25

2010-06-25 16:45:28 | Weblog
今日も何もしないうちに午後四時になってしまった。何もしないわけではなく、いろいろな事をしているうちに・・・といい換えたほうが良いかもしれない。今日は暑かった。車に乗ると直ぐ分る。いつの間にか六月も終り、七月を迎えるが、昭和二十年、敗戦の年の六、七月はもっとじめじめと雨ばかり降っていた。私は小学校五年生、姉は第一女学校の一年生と三年生だった。姉二人は勤労奉仕に明け暮れていたが、小学生にはそれは無かった。七月十二日の夜の宇都宮大空襲をご存知の方の多くは既にお亡くなりになり、辛うじて記憶にある我々、昭和九年生まれの中にもあの世に旅立ってしまった方も多い。
現代の若者の中にはアメリカと戦争をした事自体、「本当???」と信じられない人も多いというのだから驚く。戦争といっても現代のような派手なものでなく、国民を犠牲にして遂行されたものだった。一番不足したものは国民生活に必要なあらゆる物だった。これ以上惨めな思いで生活した事はない。今、有り余る物資に囲まれて、ゴミステーションにはうちで使っている雨傘より余程上等な傘が棄てられているのを見かける。あの頃は破れた番傘でもあれば良いほうだった。破れた番傘を修理する商売や、穴のあいた鍋を修理する鋳掛や(いかけや)も友達の中にいた。今穴があくほど鍋を使う人もなく、うちでも鍋を幾つも捨てなければならない状態にある。あまり立派な鍋だと捨てるのも考えてしまうが、何とか役に立てる方法はないのだろうか。
敗戦の日を挟んで二、三年の事を考えると頭が重いのは私だけだろうか?

ひばりさんの命日が来ると独協に入院した日を思い出す・・・

2010-06-24 16:53:49 | Weblog
今日は6月24日、美空ひばりさんは1898年6月24日に亡くなった。その日私は独協の8階西ナースステーションから2部屋西の特別室にいた。5月7日に高血圧で緊急入院して1ヶ月半になる。その部屋は那須温泉の豪華な洋室に似て、入った私をいたく満足させてくれた。痛くも痒くもない私の病状は普段は何の症状も現われず、時々蟻走状態(ぎそうじょうたい 両足のくるぶしから上に向かって血管から蟻が這い上がるような感触に襲われる状態)に襲われるだけでそれが決まって血圧が高い時、ひどい時は上が220になるときもあった。今回も緊急事態で車椅子に乗せられ空いている部屋は此処だけといわれて入院した。部屋は広く、その時は南に面した窓から下をのぞくと八重桜の満開が見えてどこかの温泉ホテルに泊まっている感がした。部屋に入ると右手に下駄箱があり、見舞い客がスリッパに履き替えられるようになっていた。それに続いて小さなキッチンがあった。その向かい側にはホテルのような西洋風呂があり、トイレも付いていた。こんな部屋にしばらくいても何の症状も現われず、気晴らしに外泊でもして来たら?」という主治医の言葉で2回外出許可を貰った。だが、家に到着する前に2回ともその蟻走状態が現れ、即病院に戻り、外出禁止令が出、車も病院に置いてはいけないというお達しになってしまった。
何故外出時にだけ蟻走状態が現れるか?毎日うんざりするほどの嫌な検査を繰り返しても分らない時であった。その日も梅雨時の暗い雨の降る日であった。綺麗な看護婦さんが血圧を測りに来て「ひばりさんが亡くなりましたねえ」と測りながら語りかけた。格別にひばりのフアンでもない私も驚いて「えっ!」と云った。美しい看護婦さんはそれを別な意味に解釈した。「こんな時にこんな事を申し上げて済みませんでした。申し訳ございませんでした」というなりそそくさと帰ってしまった。病名も分らず、今迄やった事もない検査の毎日におそれおののいている事をまわりでは知っていた。ことわざに“出ないお化けにおののく”というのがあるが、自分で治らない病名を作っては「膵臓がんじゃないの」とか何とか家族に訴えていた。姉は来る度に「誰がそうだといったの?」と云っては私を叱った。誰も病名を云わなかったからだ。結局は胃と膵臓の間にある、5本の指を広げたような腸間膜の後に出来た良性の腫瘍で、運転をするとそれが副腎を押し、悪性腫瘍を疑われてしまった。副腎は押すと血圧が上がると聞いた。そこに出来る腫瘍は悪性が多いらしい。同様の原理で私の良性の嚢腫も背中からも見えず、調べるのに時間がかかっただけだった。今から20年も前の事だった。6月が来るといつもあの頃の事を思い出してしまう。そしてひばりさんを思い出す。



結局は自分のお金でも儲かった気がする。  6/22

2010-06-22 12:58:16 | Weblog
前に私は紙切れ1枚でも直ぐには棄てず2度確かめる、そして3度目に始めて棄てると書いた事がある。その為に費やす時間は馬鹿にならないが、それで助かった事もある。この度はやっぱりそんな私でも失くすものがあった。栃銀の通帳が今年初めに失せたまま何としても出てこない。今まで出てこなかった事は1度も無い。それで自分では多分スーパーの買い物袋にでも入れておいてそのままゴミを詰めて捨ててしまったのだろうと諦めていた。無くても良いが記帳した履歴が分らない。それで随分待ったのだけれど再発行して貰った。2,3日前、根岸さんが「ありましたよ、通帳が・・・」と驚きの声をあげて私の方を見ている。「何の通帳?」と聞いたら「栃木銀行です。あら、お金も入っているわ」「何処にあったの?」「此処です」と出した所を見たら毎日使っている書類たての中に沈没していた。10数枚のファイルの中には紙切れ1枚の物もあり、どう見ても必要そうなものは無かった。通帳の入ったファイルを引っ張り出すとばらばらと硬貨が出て来た。通帳の間には紙幣も数枚挟まっていた。そうだ!あの時、紛失したのは私の手落ちだと自分で穴埋めをしておいたのだ!!それならこれは私のお金だ!!!その金額は既に通帳に入金されているのを確認の上、私の財布におさまった。あてにしていた年金も結局は予定より支出が多く、困っていた所なので大いに助かった。

獲らぬ狸のはなしばかり・・・06/21

2010-06-21 15:08:55 | Weblog
 昨夜は久しぶりにベッドを1人で使い悠々と寝た。あんなに小さくてもいるといないではこんなにも違うのかと思うほどの違いだった。でも、百獣の王のライオンですら蟻の1匹に悩まされるのだから仕方がないのかもしれない。今晩だけだ。明日は帰ってくる。帰ってこないようにしても良いのだけれど、岩上先生に払うお金が多くなるばかりだ。そうしたらハナちゃんを代わりに上げれば良いか???
朝はハナちゃんがいないのでよほど仕事が捗ると思ったが、さにあらず、同じだった。あいつはうるさいだけで私も手をかけてやっていないという事が良く分った。庭に出てうちの猫のひたいの農園の草むしりをした。狭いところにいろんな物を植えたのでびっしりと詰まっていて太陽の光線が届かない。でも半分は収穫を期待していたわけでもないので諦めているが、もうトマトなどは幾つも青い実がなっている。全部完全に収穫できれば市場にも出せるなどと笑っていたが、梅雨が明けて真夏の太陽が照り付ければならない事もない。こんなに大きくなるんだったらプランターに植えればよかった。今のところ、なり過ぎたらどうやって食べるか、どのように保存するかという事ばかりだけれど、本当に収穫出来てから考えたほうが良いかな?