久しぶりにお医者さんへ行った。珍しく空いていた。番を待つまでもなく2番目に呼ばれた。こんな事は珍しい。血圧は140の60で少し高いが先生は心配ないとおつしゃって計りなおしもしない。平均ではいつも低いから大丈夫なのだろう。私はこの前来た時に血糖値を計って貰ったが71だった。それより前2ヶ月の平均値のヘモグロビンA1Cが知りたかった。その時食べていなかったりすると70が出てもおかしくないが、前2ヶ月に沢山食べていると警戒域の5,7を越してしまう。アメリカから姉が来て群馬の姉や大宮の妹から食品が嫌というほど送られてきている。その上、姉自身が食べたいものを買い込んでくる。姉妹5人も集まりご馳走が並べばどうしても食べてしまう。それで姉が帰国した後、直ぐ血糖値を計ってもらったという次第。その日の血糖値は71だったがヘモグロビンA1Cは絶対に高いと思った。その結果はOKだった。信じられなかった。そして喜んで帰る途中で電話が入った。お医者さんからで「別の人のお薬を渡してしまったので・・・」 血糖値は私のだろうな?
快晴を喜んだのにはわけがある。昨夜がお通夜で本日が葬儀。私は目も悪くどちらにも欠席したが、こんな行事のある日に雨が降っては困る。良かった、と思っていた。私はあとでゆっくりと落ちつかれた頃行く。先生に対する想いは人の千倍も万倍もある。そのような先生であった。私の知人で非行少女の父親も「あんなに良い先生はいないよな」と呟いていたが、今は故人だ。あの世でお目にかかり、立ち直った娘の事を話題にしているだろう。お葬式やお通夜はどちらかといえば残された者への儀式である。長い間いろんな人の死に関りあってその思いを強めている。この騒ぎが静まった頃、同様に恩を受けた奥様のもとを訪ね、いろいろと話し合いたい。奥様の知らない面もある筈。楽しい語らいになると思っている。
今日も快晴。今朝は寒くて2度と予報が出ていたが、戦後の私の迎えた思春期の頃はもっと寒かった。敗戦という古今未曾有の体験をした日本国民は、そんな事に思いを致すより、飢えと闘わなければならなかった。今テレビで見る難民より酷い状況だった。次第に商売を始められるようになり、学校へも行けるようになったが、疎開して区域外だった私は元の学校へ通っていた。小学校は区域内に行くように書類が来たが、元の学校へ行くように誤魔化した。その帰り、寒風吹きすさぶたんぼの中を母とふたり、さつまいもの餡を入れたお饅頭を夢中でパクついた事は忘れ難い思い出で、今どんなご馳走が出てもあの時の重曹で膨らました所々青っぽい饅頭には敵わない。その後、ララ物資による学童への給食が始まったが、食料事情が良くなるまでには随分年月がかかった。今、テレビで見る限りではこんなに景気が悪いというのに贅沢な食品の氾濫・・・私はそれを見るとチャンネルを変えてしまうが2,3のチャンネルが同様の番組である事が多い。もう少しお金のかかった良い番組を流してください。いくらただで見られる民間放送だからと云って・・・尤も見なければ良いのか?見るほうが阿呆か?
今日は快晴。でも、心は暗い。今夜が恩師のお通夜、家に帰ればジェニーの小屋が先ず目に入る。いけない!もっと明るい心を持たなければ・・・ただでさえ不景気で暗い年末。近所のお肉屋さんが明日で店じまい。何処で新たに商売を始めるのか、商売はこれで終りにして勤めるのか、気の毒で聞けない。商売を終りにするのは始めるよりお金がかかると聞いている。口説いてばかりいないで好きな事をしよう。姉から電話があった時、恩師の死を伝えた。どんなにお世話になったか、どんなに楽しい中学生時代だったかをいつの間にか全部話していた。そうしたら私自身がその時代に戻っていた。そうだ!あの頃の事を書こう!花泥棒に書いてある事はその前後で、先生方や同級生との交流は書いてない。思っただけで心はうきうきし出した。中学3年生の1年間だけは何にも増して楽しかった。それほど良かった。これで暫くは楽しい日が送れる。発表する、しないは別として・・・楽しい3年生の前の1年生、2年生の時は暗黒だった。暗い2年間があったからこそ生まれた1年間だった。自力でかちとったものだ。たった1年間だけで人間は変わるものだと思った。本当に良い先生や同級生に恵まれて幸せだった。うまく書ければブログに載せられるが、どうだろう???
私は先生に非常に恵まれていると云わざるを得ない。そのお一方は昨日亡くなられたが、もうお一方はもう少しお若いのに10数年前に亡くなられている。母はいつも「お前が羨ましいよ。お母さんにはそんな先生はいないもの」と云っていた。先生に対する恩返しとは一人前になって生きていく事だと考えている。先生はそういう生徒を育てる事で、教科書の学問ばかりを教える事ではない。昨日その訃報を耳にした時は相当こたえたが、このように考える事で救われた。私も老齢ではあるがもう少し頑張ってみよう。それが恩返しというものだ。先生方、有難う御座いました。
私の一番大事な恩師が亡くなられた。誰にも恩師はいる。何人も皆お世話になってこんにちの自分が存在する。親に等しい存在でもある。私の中学時代、花泥棒という随筆にあるように、人間形成に一番重要な年頃の私に影響を与えてくださった先生が亡くなられた。
私は即、店を閉め、歩いて先生の家に向かった。近いからではない。動顚している私には車を運転する気持ちはなかった。先生はお若いころと同じ表情で横たわっていた。先生は冷たかった。そして血の気はなく、確かにこの世の人ではなかった。新制中学第一期生の私達と先生の年はたった10歳しか離れていなかった。友達のようであり、先生であった。3年間、私は良い先生に囲まれて恵まれた生活を送りました。先生、遠からず同じ所へ私も逝く。私の両親もいるその黄泉の国とやらに・・・それまではこの世を精一杯生きて行きます。
私は即、店を閉め、歩いて先生の家に向かった。近いからではない。動顚している私には車を運転する気持ちはなかった。先生はお若いころと同じ表情で横たわっていた。先生は冷たかった。そして血の気はなく、確かにこの世の人ではなかった。新制中学第一期生の私達と先生の年はたった10歳しか離れていなかった。友達のようであり、先生であった。3年間、私は良い先生に囲まれて恵まれた生活を送りました。先生、遠からず同じ所へ私も逝く。私の両親もいるその黄泉の国とやらに・・・それまではこの世を精一杯生きて行きます。
今し方、電話が入り、中学時代に私をこのように形成して下さった一番大事な恩師が亡くなられた事を知った。奥様からである。今、私は混乱している。店を早く閉めて直ぐに行く。奥様からの暗示とも取れるお言葉にも反応せず、お目にかからないうちに逝かれてしまった。この会社から近いのに・・・相当私こたえている。
坂の上の雲を見たがいつ、何処を見ても素晴らしい。一身独立して一国独立す。テレビドラマから得る教訓は多いが、司馬遼太郎の作品は特に多い。迂闊に居眠りばかりしては居られない。一身独立して一家成る、もいいし、一社興隆す、も良い。みんながきちんと一人前にならなければ家も会社もうまく立ち行かないのは当然。明日の日曜で竜馬伝は終り、来週からは坂の上の雲が始まる。アメリカの姉は故国を離れ、フロリダで大作の 坂の上の雲 を読んだ。先般テレビドラマとして流れた日系移民の戦争を挟んで迫害を受けた物語の 九十九年の愛 も読んだという。テレビで見る前に本で頭に入れたいが、現在のような霞んだ目では到底無理・・・・
もっと悪くならないように気をつけながら最低限の仕事をしている。
だからもっともっと手を加えながら推敲する文章の手直しはなおざりになっている。これが一番情けない。早くやりたい事を精一杯出来るようになりたい。
野菜が多くなければいけないという事で、先ずは茹でて冷凍にしておいたゴーヤでチャンプルーを作った。その後は宮の市で買った野菜でけんちんを作った。どちらも野菜を切り刻むまでの工程に時間がかかる。足りないものはない。アメリカからのお客さんが帰ってから作ろうと思っていた。群馬の姉からは直ぐけんちんが届き、姉は充分堪能してフロリダへ帰った。私も群馬のけんちんのお相伴に預った。今度は栃木県は宇都宮、我が家のけんちんの番だ。アメリカの姉はマカロニサラダを作ってくれたが、なかなか真似の出来ない味で、同じ材料で作っても姉の味は出ない。年季の差というか、アメリカ風というかとても真似は出来ない。チリビーンズは材料だけ買っておいても作る時間が無かったらしく、済まなそうに「自分で作ってね」と云って去った。朝早く起きてもぐずぐずしてはいられない。戦争のようないっときの間にも、北朝鮮と韓国のニュースが気になる。切り終わって1番大きい鍋に油を熱してお豆腐を入れ、野菜、こんにゃくを炒め水を張り灰汁をすくって終り。やっと庭に出る。今度はごみの用意。空を見上げたら北から西へ向けて飛行機雲が幅広く乱れていた。食べるのもそれを作るのも、散らかすのも片付けるのも自分でやる。今朝の番組で子供達が自分でお弁当を作っていたが、「自分で作ったからとても美味しいです」と云っていた。私もみな自分で作るから「とても美味しいです」
電話が入り、日曜日に又姉が来るという。私を心配して何度も来てくれる。その度に私が楽なようにと煮物やいろんな食材を持って・・・姉とは喧嘩も言い合いもした仲だけれど、一番心配してくれる。早く仕事を止めて群馬に来いと云ってくれる。年老いた私は幾つもの病気を持ち、これから先、薬を貰いに行くさえおぼつかない事もあると思えば、姉の所で世話になれば長男は内科でいつも安心して過ごす事が出来る。でも、此処の仕事ももう少しやりたい。此処の甥も一緒に暮らせば?と云ってくれる。この甥の近くには甥の従兄弟が何人もいて、同じように心配はないが、宇都宮を離れる事が出来るだろうか。出来る、出来ないは別として、私の夢の写真展の準備だけはしておこうと沢山のセピアに変色した写真を持ち出してきた。会場を借りればお金もかかる。でも、お父さんへの感謝の念で何としてもやりたい。そして女姉妹が五人、ひとりも欠けない内にやりたい。このように公言し、宣言する事によって後には引けないようにするのが私のやり方だ。来年こそは、と思っているが・・・