戦争を挟んで生きた女性の回顧録

若い方が知らない頃のセピア色に変色した写真とお話をご紹介いたします。

24年6月23日 宇都宮大空襲

2012-06-23 16:24:22 | Weblog
来月の12日に宇都宮はB29による空襲を受け、壊滅的な打撃を蒙った。いつもその時期になると思い出す。昭和20年のことである。連日空からはそのようなビラが撒き散らされていたが、拾うとスパイ呼ばわりをされるのであまり見る事もなかった。父は短波放送で宇都宮空襲が7月12日に行われる事を知っていたがデマだという噂により信じる事はなかった。しかし連日の警戒警報や時には空襲警報発令により多くの人は田舎の親戚などを頼って少しずつ出ていった。今頃はそのビラが撒かれていた頃である。梅雨の晴れ間を縫って空からひらひら舞い落ちるビラ・・・
1枚くらいとって置けばよかった。でも拾えばスパイと密告される。そんな勇気のある人はいなかったという事。この頃はそんな事も思い出す。そしてそんな事を知っている人もいなくなっていく。

24年6月22日 台風一過。

2012-06-22 18:13:34 | Weblog
 暑い陽射しがまさに台風一過。これで明日からの天気は落ち着きそうな感じ。台風一過の次には大体秋晴れと続く。未だ6月なのに・・・季節は確かに狂っている。異常気象が多い。私にとっては熱さで弾性ストッキングを穿く時、汗ばんで穿き難いシーズンに入る。穿きたくはないが確かに穿くと具合が良い。汗ばんでいなくても超穿きにくい。暑さと共にストッキングで苦労するとは思わなかった。1回で嫌になる。欲しい方には上げたいくらい。皆様、大腿骨骨折だけはしませんように。アメリカの姉も同じ怪我で苦しんでいる。そして私のブログを毎日のように楽しみに見ている。どうか良くなって下さい。そして早く日本に来てください。お互いに楽しみに、それだけでも楽しみに待ちましょう。

24年6月21日 箸とらば

2012-06-21 11:19:44 | Weblog
 私が子供の時、戦争中の小学4年生のお弁当の時間に
箸取らばあめつち御代のおん恵み 君と親とのご恩味わえ
というのを唱和してから蓋を取ったものだが今では知っている人も少ない。君とは天皇陛下であるが、私は作ってくれるお百姓さんと解釈している。米という字は八十八と書く。八十八の種類の作業をして作るからといわれ、百姓とは100種類の仕事をするからとも教えられていた。今、たんぼにさなえを植えているあねさんかぶりの女性は見た事はない。大概機械で植えている。現代は風流とは縁遠い。箸とらば・・・も君が入っているので教えられる事もないだろう。この歌を知っている人もいなくなりつつある。

平成24年6月19日 忙しいといっても毎日ごみ掃除

2012-06-19 17:12:06 | Weblog
 忙しいというとやる仕事があって羨ましいといわれます。60歳で定年。最近は65歳が多いといわれますが、農家や漁村には定年はありません。小さな商店も使用人は早く帰っても店主はいつまでも働いています。私がそれです。今の若い人はお金より時間だそうで、空いた時間を遊びに使うそうです。今でも2つ掛け持ちで働いている働き者もいるようですがいろいろな人がいるものですね。私の忙しさは何十年の溜まったごみを棄てるのに一番時間がかかっています。早く終わらせたいけれど、自分の方が先に終わりそうです。

24年6月18日 恥ずかしくて銭湯に行かれない。

2012-06-18 17:12:35 | Weblog
 今は昔のような銭湯はあまり見かけない。現在は豪華な温泉のようなお風呂屋で値段も高い。昔はあちこちに良く見かけたものでのれんが下がると昼間から人は集まった。どちらかというと田舎より町の中に多かった。田舎では水も薪も不自由しないが、町の真ん中では水はともかくとして薪がなかった。
私が内風呂があるのに初めて風呂屋に行ったのは戦争さなかの昭和19年だった思うが薪も配給になり手に入りにくくなった頃、初めて近くの風呂屋に行かされた。よく覚えていないが浴槽の湯は凄く汚れていて2度と行きたくはなかった。私はそれ1回だけれどそれでも入れない人は風呂屋の世話になるほかはなかった。2度目は姉が大学に入り、親戚の家に下宿をしていた時、お米や菓子類を届けに行って姉と一緒に夜行った風呂屋である。戦争中は小学生で子供だったが高校2年生ともなればひと様の前で裸になるのはちと恥ずかしい。いつも行っている姉は馴れたもので直ぐ裸になったが、もじもじしている妹に姉は早く脱いだら・・・と急かした。2年後、私も進学して同じ家に下宿をし、同じ風呂屋の世話になった。あの頃から銭湯に行ける様になったけれど60年余が過ぎて今はしわしわの肉のない老婆に落ちぶれて銭湯には行かれない。

24年6月17日 三途の川は間違いなくある。

2012-06-17 14:24:10 | Weblog
 何度か私は三途の川について書いた。自分自身は必ず川でなくてもそのような物は有ると信じている。テレビでこの世からあの世へいく時の話が出て幼かった頃、何の知識もなかった私が黒い西向きの車にやはり黒い衣装をつけた女の人においでおいでと手招きされて吸い寄せられるように行き、一段片足を乗せ掛けて降りた場面を思い出す。学校に上がる前の年だから今から70年も前の話である。姉は死に立ち会った医師の話として蘇生手段によりこの世に戻った患者に聞いた話をしてくれた。一旦死を宣告されたあと、必死の心臓マッサージで生き返ったその人は、再び元気にこの世に戻る事はなかったが、やはりその間にかすかに魂の抜け出すのを見たという。私はあの世もこの世もなく、生きているこの世しかないと思っているが、しっかりと死んだ事はないので分からない。私達おんなきょうだいはもうお呼びが掛かっても仕方のない年でこんな話題が出るようになった。果たしてその時や如何に?

24年6月16日 言葉遣い。その2

2012-06-16 17:10:26 | Weblog
 おんな言葉とおとこ言葉がある。最近は極めて判別が難しく、混乱しているようだが出来ればその場に合った言葉遣いが望ましい。そういう遣い方は綺麗に聞こえるものだ。自分をより良く見せようとせず、自然に出る言葉でありたいと常々考えているがそれが身に付いたというものでそうは簡単にいかない。いつもそう考えているのだけれどどうだろうか?

24年6月16日 言葉遣い。

2012-06-16 16:55:49 | Weblog
 言葉遣いは大変難しく、気をつけている私でも間違っている事もある。あとで知り顔を赤くする事もある。丁寧だから良いとは限らない。余り丁寧すぎると馬鹿にされたような感じのときもある。言葉遣いは何処で教えて貰うというような物でなく自然と身に付くようだ。私が手本とするのはテレビのアナウンサーと貴族、王朝物の番組である。時代が違ったりいろいろで決して全てではないが、今の若い者が出て来るドラマより参考になる。時宜を得た言葉遣いが一番望ましい。

24年6月13日 瑞穂の国にペットボトルの水が流行っている。

2012-06-13 13:49:55 | Weblog
 わが国は豊葦原瑞穂の国といわれている。それほど水の豊かな稲穂の稔る国であった。しかるにこの私は買ったペットボトルに入った水で生活している。発端は私の大腿骨骨折による入院からであった。ベッドに張り付いたまま3ヶ月の入院を余儀なくされた私は病院で出される3食の時のお茶以外は水道の水を飲む以外はなく、しかたなくペットボトルの水やお茶を買って来て貰った。それ以来退院後もペットボトルを買う癖が抜けず、常に2リットル入りの大きいのから500ミリリットルの小さいのまで何時災害があっても大丈夫なほど用意してある。昔フランスでは水を買って飲んでいると聞いて信じられなかったが、現在の日本が同じ状態である。今では米をとぐ時もペットボトルの水を使う。水道の水では宇都宮は1番良い位なのに・・・

24年6月12日 松が峰幼稚園。

2012-06-12 15:24:54 | Weblog
 時々東武デパートへ買い物に行きますが駐車場を出て左折すると右手に懐かしい松が峰幼稚園の大谷石の建物が見えます。私はその頃学齢前の6,七才、70年を過ぎてすっかり変わり果てましたが大谷石の建物はあの時のままです。戦火にも震災にもビクともしなかったのでしょうか?それともすぐさま直したのでしょうか?ブランコやお砂場があり、東武電車の通る西側にはどんぐりが落ちていました。あの時一緒だったお友達は殆ど高校まで一緒でした。小さなバスケットに海苔を2段に敷いて上にいり卵を散らしたお弁当が渡されると嬉しくてスキップをしながら幼稚園に行ったものです。今日のお弁当はコンビニエンスストアで買いました。いろいろ入っていましたが半分は残しました。母は当時朝はお弁当造りで忙しかったようですが幼い私には特別に違うお弁当を作ってくれたようです。母を夢に見た事は一度もありません。父の夢は何度も見ます。昨夜も見ました。昨夜はアメリカにいる姉の夢も見ました。姉を見たのは初めてですが、私と同じ時期に大腿骨を骨折しています。今夜はアメリカに電話でも入れてみましょう。一体どんな人を夢や幻に見るのか何故父ばかりなのか教えて貰いたいものです。