昨日はブログ投稿を忘れた。だんだんに物忘れが酷くなるだろう。同じ事を何度も書く。これは大体分っている。書き足りない、言い足りないのだ。ブログと云ってもおのずから限度がある。ここはこう書いてはまずい。奥歯にものの挟まったような書き方になる。だから小説を書きなさい、そして作中の人物に云いたい事を言わせなさいと教えられていえう。だが仕事をやりながら、あまり良くない目を酷使してはそれにも限度がある。ああ、3億円の宝くじに当ってのんびりと生活しながら書きたいことに集中したい、とまあ、こんな事ばかり考えております。
失敗した!!!テレビを見ながら高血圧の薬を飲んでいた時、その薬の入っている硬いアルミの包装まで飲んでしまった。毎朝1錠ずつ飲むので14個位繋がっているのを1錠ずつに切り離してあった。急いで洗面台に行き、喉の奥に指をつっ込んで何とか吐き出そうとしたが・・・駄目だった。飲んでいないのでは?と思いなおしもう1度座っていた所を隈なく探したが無い。もう食道を通過しているのだろうか、何となく胸の辺りがチクンとする感じ。1ヶ所だけ痛い。どうしようと思っても後の祭り。一応会社に行ったが今日は日曜日。いつもの病院は休み。仕方が無いので月曜日に行く事にした。1日中そこがチクンとしていたが、食べ物を入れると一緒に押し出されると思い、ひとくちに多く入れて食べた。死ぬ事も無かろうと思いベッドに入った。朝まで何とも無かった。そして本日午後、そのお薬を処方して下さったクリニックに行き、おなかのレントゲン撮影。何処にもその影は無かった。そしてお叱りを受けた。「もう、出てしまっていますよ。でも、ばらばらにしてはいけません。10何錠と繋がったままひとつだけ飲んでください。その錠剤は切られたその時から飲み込まれる運命にあったんですよ」との事だった。そうかなあ???でも良かったね。
昭和48年12月20日だから何年が過ぎたのか数えなければ分らない。悲しみもいつか薄らぎ自分もお仲間入りするようになった。その頃幼かった子供、3歳と5歳の男児は33歳で黄泉の国に旅立ったその父親の年齢を超えている。最近はその2人の甥が私の弟の子だとは思えなくなっている。あの時の弟は33歳、いつも私には33歳の姿で現れる。その若い弟の幼い男児がこのようにでっかく、父親よりひと回りも上になっている。弟が33歳を超えた時、兄が「やっとおやじの年を越えられたな」と云ったという事を聞いて、やはりこの兄弟の胸にはいつも父親の影が去来しているのだと思い悲しくもあり、嬉しくもあった。33歳の若い弟よりひと回り大きくあの時の彼らよりもっと大きい子らを抱えている甥達に、何時までも子供達と共に在れ、と祈るばかりである。
クリスマス が来ればもう後はお正月を迎えるだけ。戦後の暮は貧しかったがみんな浮かれていた。お父さんが何処かに遊びにいってしまい、悲しかった私は松が峰教会のミサに行って祈った事もあった。私はクリスチャンではないが、幼稚園がここだったのでいくらかお御堂についても覚えていた。数年が過ぎ、私も短大に通うようになりそれなりのボーイフレンドも訪れるようになった。でも、わたしにとって恋などとは未だ縁の遠いものだった。ある日店を訪れた彼は私のおばあちゃん、とりに私が未だ帰省していないと告げられて、帰省したらいつも行っていたみどりという喫茶店でクリスマスイブに「デコレーションケーキを上げたいから8時に待っている」と告げて帰った。いつもいない私との連絡はおばあちゃんが間に入って私に伝えていた。おばあちゃんは暮で忙しく、すっかり忘れてしまった。電話の上に小さい黒板があり、メモを書くようになっていたのに。それを思い出したのは私の幼い妹や弟の為に父が大きいクリスマスのデコレーションケーキを買って来た後だった。クリスマスイブのその時間はとっくに過ぎていた。彼はどんなケーキを買って私にプレゼントしようとしたのか今は知る由もない。甘党でない彼はそれを誰に食べさせたのだろうか?それ以来彼とは特に遠くなった。時々何かのイヴェントで顔を合わせることがあるが、大変偉くなられた彼と私はいつも苦笑いして会釈するだけ。お互いの胸に去来するのはクリスマスのデコレーションケーキだろうか?
東京神田をぶらぶらと明治大学の方へくだって行くと右手に上の山ホテルという高級なホテルがあった。戦後は駐留軍に接収されていて、その頃日本人も入れるようになったばかりだと聞いた。坂の途中からはレストランの大きな1枚のガラス張りの窓からは人影が見えた。同級生とよくその辺を散歩していた私は「たまにあそこで食事をしましょうよ」と誘った。その頃の大学生は大方貧乏学生で、そんな所で食事をするほどの余裕は無かった。たまに新宿の歌舞伎町あたりでカクテルをご馳走になるくらいだった。どん底というバーに学生がたむろしていた。其処で飲むのはどんカクというハイボールだった。私はいつもその同級生にあちこちと案内して貰っていたので1度はお礼に何かと思っていたら彼は「1度上の山ホテルのレランに連れて行くよ」と云った。いくらも経たないうちに電話が入り、上の山ホテルのレストランに行った。彼はバイトでいくらか懐が暖かいと言いながらチキンの丸焼きをご馳走してくれた。クリスマスには未だ日のある頃だった。レストランの1枚ガラスから坂の方を見たのはその時1度だけだった。私は短大なので先に学校を終え、実家に帰った。今から50年以上前の話。私の同級生、明治大学の学生だった私のジェラールフィリップももういない。明日は宇都宮でのクリスマスの思い出を書きます。
一応投稿を用意しておいたのですが、いざ投稿となったら書いておいた原稿の入っている所が全て無いのです。今までにそんな事は1度もありませんでした。でも、保存を取ってあるので痛手としては今日書いた分だけだと思い、慌てませんでした。今日の分はブログに直接書く事も出来ますが、お授業が長引いたし8時近くなっていたので怠けて帰る事にした次第です。機械のトラブルで・・・と言い訳が成り立ちます。そんな訳でした。嘘ではありません。御免なさい。
昨今毎日のように我を忘れるほど情けない事が起きる。物忘れである。昨日も大事なカードを失くしたと大騒ぎになった。それを使われないうちに紛失届けを出そうとしてその前に他のことで自宅に帰ってみたら、ありました。あったんですよ。こんなに嬉しい事はなかった。第一、持ち出した覚えもなく、買い物に持っていった覚えもないのに無いんだから、頭はおかしくもなる。車に入れておいてキーををかけて無い時に取ったか、ドアを開けた時に落としたかそのいづれかとしか考えられなかった。このような事が毎日のようにおき、その度にそこらじゅうを引っかきまわす。それで時間が無くなる。今日は私と同じ年齢のお客様がおいでになり、今後のことをいろいろと話し合ったが、悩みは同じ、お金が無ければ施設にも入れないという事だった。日本は平均寿命が女は世界一、男は二番目というが、それはとりもなおさず、世界一不幸であり、男性は世界で二番目に不幸であるという事だ、と二人共意見は一致した。さて、どうしてこれから先、生きていきましょうか?
いつも野菜ばかり食べているので少しはこの競輪場通りの美味しい物のレストラン街を探検してみようと思い立った。作らなくてもいろいろと出てくる。片付ける事もしないで済む。たしかに外食は気楽だ。好き嫌いもあるからまずは食べてみようと思った。そのレストランの全部を食べるわけにも行かないが本日の予定は焼肉。口に合わなかったら又行かないだけでのんきなものである。今から焼肉探訪です。ではさようなら。
午前1時を過ぎたので外に出て天を仰ぎ見た。いくらか雲の切れ目があり、見えそうに思ったが結局は寒くて家の中に入った。それでは2階のベッドでカーテンを開きそこから見ようと思ったが、いつの間にか寝てしまった。途中で起きたがいいや、と一旦は空を見上げたが又寝てしまった。寝る、食べる、起きて会社に行く。此のパターンが毎日繰り返される。そしてやがては死に到る。途中で何が起きようが死ねば終わる。夕べは少し調子が悪かったのか、そんな事ばかり考えていた。この衣服類だけでも何としよう。でも死ねば捨てられる運命が待っているだけ・この古い家が2軒、残された者に処分を任せなければならない。死んでしまえば甥達に処分を任せる事になる。先に死ねば何もしなくて済む。そうだ、これだけでも何とかしていかなければ・・・と思っていた。今日もいくらか調子が悪いけれどパソコンのお授業をやっていたらいくらかすっきりとしてきた。今、星野先生がお帰りになったばかり。し残した仕事をして私も帰る。今日は流星群がないからゆっくりと寝よう。夜明けに少し見られるというけれど怠け者の私では星よりねぐらの方が良い。
雨は上っても現在の空には厚い雲がかかっている。いつもなら午前1時には目が覚めて白湯を1杯くらい飲む時間だ。雲さえ無ければそのころの空には星がピカーッと輝いている。それを見て又寝る。その時間が特に良く見えるらしいし、丁度真上だとすると苦労をせずに見られる。何と運の良い事?でも、この調子ではみられないかもしれない。でも起きて見るだけでも見てみよう。その頃は雲も晴れているかな?高校生時代なら眠くて絶対に起きられなかったろうに、75歳の今なら起きられる。受験勉強にも最良だけれど、こっちの方は駄目です。