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7/30:LAST SHOW のつづき>
一部反転表示にしています。
苦手で仕方のない題材(
カニバリズム)。舞台では、必ずお目にかかる題材。と言うよりも。舞台のような空間でなら、描きやすいのだろうか。自己責任で選択して観ているのだから、文句を言うつもりはない。ひとことで片付けるなら、あぶない思想のあぶない話。そういうものを、嗜好とする人間が生息することは、たまにほころんでメディアに出るので知っている。インターネットの世界でも、少し深みに入れば触れられるものらしい。
最初に登場するカメラマンは、不快なくらいのワイドショウ的暴露根性を発揮する。同行の、善良なディレクターは迷っている。取材目的は動物愛護家。これはうさんくさい。
ディレクターの自宅には、長年音信不通だった父親が訪ねてくる。ここには妻で、元・人気子役の女優がいて。ふとしたきっかけで父親は狂気を見せる。それが。気のせいであって、芯からの狂気ではないと思い込みたいのだれど。どこまでも本物なのだ。それがわかるころ、背筋が冷えてくる。カメラマンの態度に、臍を曲げてしまった動物愛護家を。女優で釣って、自宅を取材場所にしたことで。役者は揃う。
プラモデルキットのような舞台装置の上に、普通の部屋がセットされていて。場面が、より見やすいようにと、時折、土台ごと角度を変える。
剥き出しの舞台の上で展開される、剥き出しの芝居。
父親(風間杜夫)の妄執。動物愛護家(古田新太)の偏愛。テープを回し続け、現実を映しこもうとするカメラマン(中山祐一朗)は、瀕死だ。どこまでも常識的な発言をする、夫婦(永作博美と北村有起哉)の振る舞いは。逆に、その狂気を際立たせる。
どうにもならない物語を収束させるのは。女優が宿していた胎児(市川しんぺー)。祖父に、母の腹ごしに殴られて水子となる。そういう運命を受け入れて。それでも母の危機に、強く思うことでこの世に生まれたのだという。この、とんでもないファンタジーを受け入れて、救いだとさえ感じてしまったのは。たぶん。それまでに展開されていた、異常な光景よりは受け入れたいものだったからだ。
彼が責める。「お前は誰かを幸せにしたことがあるのか」と。「誰かに必要とされたことがあるのか」と。あまつさえ、言い放つ。「生まれてこなければよかった」と。だが、この父親がいなければ、それに続く命はひとつもないのだ。母がなによりそれを理解している。親子の。密接な関係だからこそ生まれる、ざらついた感情に撫でられて。涙がでる。
風間氏の独白。どれだけ毎日を苦しもうとも。雨の後の植物は匂い立ち、遠くに子どもの笑い声が響くのだと。死にたくなるけれど。それが死んでも続くと思うと、次には哀しくなるのだと。彼が、劇場に描き出す日常の光景は。穏やかで、寂しくて。涙が止まらない。