持続する夢

つれづれにふと気づいたことなど書き留めてみようかと
・観劇生活はえきさいてぃんぐに・日常生活はゆるゆると

オーラ

2005-12-28 02:03:21 | 演劇:いろいろ
過去に一度だけ、演劇人(←大げさ)っぽく舞台に立ったことがある。ときは文化祭、ところは体育館。演劇部には、けっこう入り浸っていたので(←部外者)。芝居の段取りが把握できているという理由の代役だったか。あと、同じ壇上で開祭の挨拶を(文化祭実行委員←お祭り大好き)しゃらしゃらこなす舞台度胸を買われたのだったか。。
クリスマスに放映された音楽番組を、今さら再生していて、こんなことを思い出している。

『クリスマスの約束』とは、小田和正氏の、ツアーとは別立ての年に一度のライヴのことで。ご自身以外のアーティストの歌を歌ったり、ゲストを招いてデュエットしたりなさるのらしい。今年のゲストは、SMAPの中居正広氏で。普段テレビで見る中居氏らしからぬ、緊張される姿が映しだされている。いつも緻密な計算をし、憎らしいほどの自己演出をされるというイメージがあり。にこやかに、誰よりも友好的な素振りでいて。鉄壁の鎧で身を固めているような気がし、妙に気にかけていたりする。舞台上で、どう居ればいいのかわからないと言い。武器を持っていたいのに、持てない不安を口にされる。小田氏が、武器は俺だと仰言る(←かっこええ)。彼の纏うベールを剥がしたいのだと、舞台に上げる理由を語られる。

舞台上に登場の折の中居氏は、心なしか瞳をうるませながらも。いつものような、達者なトークを展開されていたけれど。歌に入ると、そんな余裕も消え失せて。。真っ芯から出てくる歌声と。丁寧に丁寧に、差し出される綺麗な感情に。なんだか、こっちが泣き出しそうになってしまったのだけど。。人が、緊張感に昂揚する姿は、なんて美しいのだろうかと溜息する。白い衣装も相まって、天使がいたらこんな表情だろうかと思う(←かなり本気)。

話を冒頭に戻して。演劇は、幼いといってもよいころから好きだけど。演じることへの興味は、ほとんど持ったことがない。ただ、もののはずみで舞台に立ちながら。緊張することもなく型と台詞をこなす自身に、けっこう幻滅したことだけは、確かな記憶となっている。
緊張感と昂揚感から生まれるものを、オーラと呼んで良いのではないかな。こういうものを、しっかり抱え込んだまま。あらゆる表現手段で、いっぱいのなにかを伝えてくれる。そんな役者さんに、たくさん逢っていきたいと。聖夜からずっと遅れて、そっと願ってみる。

むかしがたり

2005-12-06 01:16:21 | 演劇:いろいろ
先ほど、ゲキ×シネ『SHIROH』の感想をようやくUPしました。ほんとは、11月の最終なので、『ボレロ』の前なのですが。ま、この位置でもいいかと(←あばうと)。いつもの感覚だと、2回連載くらいの勢いなのですが。時間経過しているということもあり、一気に。
遅いわ、まとまらないわ、長いわで申し訳ない。
なんかね、『吉原御免状』のときにも思ったのですが(←結局、全部書かなかったし)。劇団☆新感線のことは、どうやら好き過ぎてダメダメみたい。

ちなみに、初観劇は1988年の『宇宙防衛軍ヒデマロ3』。衝撃の演目でございました(笑)。がっつりはまったのは、1989年の『仮名絵本西遊記』。イノウエさんもフルタくんも、細くって(←そこか?)。大阪の街中でフツーに生活されていたので、フツーにすれ違ってました。
劇場(扇町ミュージアム・スクエア)ときたら、ほんっとに狭くって。椅子はなく、お座布団に座った横を出ハケするものだから。真横に太ももとか見えました。その後。あれよあれよという間に、お座布団のスペースが狭くなり(←つめつめに座るため)。椅子席になり、劇場規模がでかくなり。ファンクラブに属していてさえ、チケットがとれなくなっていき。
まぁ、長くおつきあいしてきたものだなと思います。でもね。当時は、転機の作品:『阿修羅城の瞳』を観ていないなんて、と言われた「新しい」ファンだったんだよ。

はじめて、潮時なのかな? と思ったのは。お染ちゃんが加わったときでした。歌舞伎は、「それはそれ」で観ていただけに。異文化交流になじめない気がしたのかな。でも、今では『吉原御免状』で、彼の名前(松本錦升)を見つけて喜ぶほど好きだしね。
そういえば、『吉原~』も変わり目の作品ですね。先月、ちょっと寂しくなったのは事実です。でも、きっちりジャンルを確立していく彼らのことが好きなのも事実。だから、たぶんずっと好きでいることでしょう。基本姿勢は、中島かずきさん(←作家)万歳で。最近とみに、岡崎司くん(←音楽)万歳で。あ、原田保さん(←照明)も万歳。・・・ほら、好きすぎる(笑)。

大向こう

2005-09-24 00:43:12 | 演劇:いろいろ
微妙に昨日(9/23)の歌舞伎バナシのつづき。
『大向(おおむ)こう』とは。もともとは常連さんの通う桟敷席のことだと聞く。それが、常連さん(歌舞伎ツウ)をさす言葉となって。今は、彼らが発する掛け声自体をさすようにもなっているらしい。役者さんが良い芝居をする。それに対する気持ちをのせて掛ける声だから。なければ寂しく、きっちりキマればすっとする。

基本は誰がやってもいいけれど。専門の方たちの集まりもあり、たしか関西では『初音会』という名だったと記憶している。こんなふうに。見物に通っていると事情がわかってくる。屋号は当然アタマにはいるし。特に3階席に通うと(←懐事情でね)、近くに座することになるわけで。よっしゃいくで、な準備態勢も感じられて。だんだん、掛ける間合いが体に入り。声量の強弱だってわかってきて。ここまでくれば。。仕末の悪いことに、やりたくなってくる。

顔見世(看板役者勢揃い)興行で聞く大向こうさんの声は、深くて渋くて絶妙の間ではいる。若い役者さんの舞台に出かけると、あきらかに掛かる声も若くて。あぁ、これから一緒に育っていくんだなぁと、しみじみしたりする。
だけどな。これは男声でなきゃ。たまに、女声を耳にすることがあるけども。あれはいただけない。あぁ、昔もこんな主張をして、フェミニスト軍団に叩かれたなぁ(←懲りてないらしい)。

不要なものを、削ぎ落としたところで磨かれるものがある。歌舞伎は、女性をそぎおとして磨き続けられてきた芸でもある。大向こうは、すでに演目のなかの必須事項で。そこまで含んで完成品だと考えるから。だったら、女声は不要だ。見物客は男女であっていい。女性であっても、向いた声質であれば許せるものもあるかもしれない。だけども。板の上の女形の声を偽者にするような、女声はいらない。

当時は、ここまで考えていたわけではないけれど。やりたい気持ちと、やっちゃいけない感の間で揺らいで。結局、寂しくなって。通うほうをやめてしまったんだけど。昨日の、久しぶりの歌舞伎見物は。こんなことも想ったりしてたんだけど。とっても楽しくて、好きなんだなぁと思ったよ。それなら。こみ上げる声は。全部拍手に換えとけ、こん畜生ってなもんだ。

そういえば。台詞で、「春には松嶋屋さんが来る」とあって。確かめてみたら。あら、ほんとに片岡仁左衛門さまがいらっしゃるじゃないですかーっ。相手役ってば、大和屋の坂東玉三郎さまじゃございませんかーっ。・・・わかりました、ひとりでも行けばよろしんでござんしょう?(←なにことば?)。あーぁ、幕間に一緒にお弁当を食べてくれる友は欲しいよなぁ。。

ロケコメ!

2005-09-19 14:38:03 | 演劇:いろいろ
ABCテレビ 『ヨーロッパ企画のロケコメ!』
放映日:9/2 25:31 ~


番組コンセプトは。普段、彼らの住まう京都の街中を舞台にしたシチュエーションコメディを作ること。それも。1ロケーションごとに1作品を、1日(!)で作り上げ、上演しようという企画。無謀じゃないかぁ? 日常と一線を画す劇場と違い。生活空間での日常演劇は、簡単なようで逆に難しい。もちろんテレビ映像になれば、自然にみえるだろうが。彼らは、ここに観客を入れることを望む。あぁ。たぶん、この性根の部分が一番好きだ(←告白)。

まずは。風景写真をもとに、作家と役者勢揃いの企画会議。そして、ロケハン(自転車で:笑)。役者も加えたディスカッション。そして。それらをしっかりと、作品にまとめ上げる作家。とてもバランスのとれた劇団だと、改めて思う。テレビカメラは、このドキュメント部分も惜しみなく流してくれる。そして、上演。作品は、メイキングと完成演目がセットになった6篇。かなり贅沢な楽しみ方ではある。

  第1話:プリクラのLOVEなコメディ  第4話:廃業したガソリンスタンド
  第2話:コインランドリーのコメディ  第5話:銭湯における客席移動演劇
  第3話:学食をのぞき込むコメディ  第6話:森の中の川で怪奇ものコメディ

映像的に、いちばん好きなのは。プリクラ編。生で観るなら断然、銭湯編。これは下足場から脱衣所・洗い場と、徐々にストーリーが進むから。役者と観客はどんどん奥へと移動する(←原始回り舞台)。現場に居合わせたら、きっと相当ウキウキと席移動してるよ。密空間物も好きなので、ガソリンスタンド編も良いな。いやはや、これはお宝。
これじゃ、伝わらねぇよ! という方に。こちらがとっても詳しくレポされているので、ヨーロッパ企画を今のうちに持ち上げておく。さまへ、ぜひ。観劇もされているので、裏話も満載。

かなり期待して録画したはずの番組。ワクワク再生したら。・・・なぜかハイヒール(漫才コンビ)さんたちが喋っていたよ。久しぶりの痛恨の録画ミス。。とりあえず友に泣きつき、このたび無事視聴(いつもありがとーっ)。観ているうちに、なんとはなしに『現代用語の基礎体力』を想い出したり(これだけで通じる方は仲間っ←強引)。関西劇団は今も元気だ(嬉)。

深夜といえば。月曜25:00からの『劇団演技者。(関西テレビ)』で、現在『冬のユリゲラー』が放映中。上田誠氏は脚本までで、キャストも違うけれど。けっこうヨーロッパ企画が連想できて、毎週楽しませてもらっている。あ、今夜最終回だね。

表現者

2005-08-25 03:22:39 | 演劇:いろいろ
TBS系『情熱大陸』を視聴。かなり硬質な作りこみが好きな番組。
今週は『福山雅治』。この人のことは。すごく寂しかった時期に、深夜放送ラジオのオールナイトニッポンで知った。すごくガテンなことを言うアニキで(えっちなことも山ほど言ってたな)。あとで、その顔を知って。あまりの端正さに驚いたことを思い出す。だけど。顔立ちの造詣の美しさより、ソレを「武器」と言い放った男前ぶりに惚れてた。その後、立ち直るまで暫くお世話になったため。彼を見る目は、色香抜きの親愛の情。

現在は、ずいぶん大物になられ。なんと産業レベルにまでになっていると番組は言う。ならば。『福山雅治』は、よってたかって「作られた人」ではないのかと、インタビュアーが本人に問いただす(結構すごい切込みだね)。それに対して、涼しげな笑顔で語られた言葉。
「エンターティメントだから作りもの・・・。エンターティメントだからメチャメチャいいもの作るんですよ。ちょっとやそっとで剥がれるような、そんな塗装じゃないですよウチは・・・いい塗りしてますよ、みたいな」

強烈なプロ意識。なのに、こんなことも言う。
「ものづくりにおいて精神のめざすところはアマチュアだ」
要するに。商品化とは関係ないところで、本当に作りたいものを作る。それが「アマチュアの心」なのだという。「心から楽しんでいるときに。本物が生まれる」のだとも言う。
番組は、本物が生まれる過程をも追っていく。数多いファンのためでなく。敬愛した写真家(植田正治氏)たった一人のために。追悼のオルゴール曲が完成。この、オルゴールを。ぜひ、手元において聴きたいと熱望する。こう思わせるこの人は。やはり、完璧なプロだ。


なぜか[演劇]カテゴリ。[なんでもないこと]に入れるには、どうにももったいなかったの。。
「表現は手段ではない。表現自体が、目的でなければ」と言い切る、まぎれもない表現者に。敬意を表します。

ふたり芝居

2005-07-07 02:02:35 | 演劇:いろいろ
大人数でドタバタする劇も良いけれど。少人数でがっつり向き合う劇も好き。

ひとり芝居は。ひとつだけを、何度も観続けている。加藤健一氏による『審判』。裁判劇で。彼は、ことの顛末を語る被告役。そう、役。なのだけど。いつしか、客席は陪臣員席に変わる。彼の喋る、七万語という膨大な台詞が、いつしか台詞でなくなって。それを観劇しに行ったはずの我々は。気付けば、客ではなくて舞台の一部になっている。彼の罪や、それに値する罰を判断しなければならない立場になっていて。当事者になってしまっていることに、恐れ慄くことになる。

ふたり芝居の最高峰(←だと思っている)は。やはり加藤健一事務所の『セイムタイム・ネクストイヤー』。本来は。再演の観劇制覇には、こだわらない。けれど、これだけは。いつまでも、上演されるたびに観に行く、という態勢でいる。店でたまたま知り合った二人が意気投合し、一夜を共にする。どちらも既婚のため、5年後ごとの再会を約束して別れ。それは、なんと30年間も守られる。心の近さが、決して身体の近さとは同じではないのだと、知らされた作品で。観る側の意識(年齢や経験)によって、これほど違って見えるものなのだということを教えられた作品でもある。だから、この二人が舞台にいる間中は。何ひとつ見落とすことの無いように。しっかりと見届けなければ、という使命感に支配されている。

逃げ場がない、なんてことを過去に何度も書いたけど。それを、とても楽しんでいるので。決して、否定的な言葉として書いていないと、ご理解いただけると嬉しい。この夏は『ラスト・ファイブ・イアーズ』を観劇予定。ふたり芝居。全編歌のみは、初体験。だから、この後は。まったく違う感想を語っているかもね。

第59回 トニー賞授賞式

2005-06-20 23:49:39 | 演劇:いろいろ
普段は見られないBSを、無理矢理視聴。審査対象は、ブロードウェイ作品の数々。長い時間をかけて準備される演目は、長く愛されて上演され。こうして賞揚される機会がある。

始まりは。話術の達人、ビリー・クリスタル。ヒュー・ジャックマンとの、携帯電話コント(ごめん)は爆笑で。つかみは万全。一流の授賞式はプレゼンターにもエンターティメントを求め。ヒュー(昨年の主演男優賞受賞)は、芝居で歌でダンスで応える。
驚いたのは。プレゼンターのクリスティーナ・アップルゲート。「プレビューで足を骨折しながらも初日を迎えた」と紹介されて。登場と同時に、見事にコケて(本人?)這い上がってみせる。美人なのに、イブニングで決め込んでるのに。なんて素敵なコメディエンヌ。

そして。舞台では、授賞の発表とともに。完成された最高傑作品が披露される。華やかな式の中でダイジェストが見られるなんて、なんて、贅沢!
印象的だったのが。「ミュージカルの音楽は、ダンスとジョークの間の物語を進める装置」という言葉。こういう番組が地上波で放映されて。ミュージカルなんてありえない、といまだに言い続ける皆様の目に、もっと触れればいいのにな。

馬鹿馬鹿しく聞こえるだろうけれど。演劇には。演じる側と、観る側のふたつが在る。
番組ゲストで出演していた、俳優の山本耕史氏の言葉の数々は。適した単語を誠実に選びながら話すため、少したどたどしく聞こえるくらいなのだけど。それ故に、とても素直に受けとれて。ハードなパフォーマンスの『ラ・カージュ・オ・フォール』の放送後。「舞台裏では、ほぼ無傷な人はいないですね」という発言など。その視点がいつも、演者以外の何者でもないことが。とても好ましいと思った。多分この人は客席にいても、意識は完全に板の上にあるのだろう。
こういう人を見ると。こちらにも気合が入る。いつまでも、ずっと客席視点で舞台を観ていようと思う。中途半端に彼らの領分を侵すことなく。余計なうがった見方を避け。純粋に観劇を好きでいようと思う。そうやって、真逆の立場からでた感想が。彼らと気持ちを共有できるものであれば、最高に幸せだと思う。

宝塚歌劇団

2005-05-30 23:36:23 | 演劇:いろいろ
ご質問をいただいてしまいました。感激。・・・してる場合でもない。
『タカラヅカ』という単語を使ったのは多分一度きりだと思うのだけど。なんだか思わせぶりなことを書いてしまっているようで。他に気にされている方がいらっしゃるかどうかはともかくとして。ちょっと整理。(いわゆるタカラヅカ用語を多用しますので解説付でお送りします)

地理的に恵まれていたことと、身内に関係者がいたことで。公衆の場で行儀よくできるようになるやいなや、母達に連れられて観劇。眼前に展開されるのは豪華絢爛な夢の世界。はまらぬ理由などあるわけもなく。子どもなりに御贔屓の生徒(女優)さんをみつけ、いわゆるヅカファンとなった。余談ながら、こういう経路を辿るのってかなり王道だと思われる。好きな演目には何度か足を運ばせてもらい。実は毎日アドリブコーナーがあったりして、生の舞台は何度観ても飽きるものでないことをここで知った。
ずっと大好きだったトップ(劇団組内の一番の男役)さんが卒業(退団)するときは悲しくて。時を同じくして、お引越しをしたこともあり。それからは、当時の研究生(劇団新人)が卒業するまでは雑誌などで追いかけてはいたものの。やはり劇場への距離が致命傷となり。なんとはなしにファンを卒業。

それでも。たとえば小学校や中学校を、母校として心に残すのと同じ感覚で。タカラヅカのことは愛しく思っている。OG(タカラヅカ出身の女優)さんには、自然と注目するし。肩入れする女優さんは、つい愛称(本名に由来するもの)で呼びたくなる。
きっと。三つ子の魂百までとか言う、アレ。この先、何かを書いたりするかどうかはわからない。でもきっとずっと好きでいる。そういえば、未見の演目に『エリザベート』がある。これは観るならば絶対タカラヅカ!と思っている。そういう「好き」は持っている。
読みづらい記事に。最終行まで、お付き合いいただいた方。本当にありがとう。(もしも用語の定義が古くても、こういう事情なので堪忍してね)

ゲキ×シネ考

2005-05-29 16:54:10 | 演劇:いろいろ
演劇と映画を融合させて『ゲキ×シネ』。初めて聞いたときにはなんやそれ? だったのだけど、体験すれば良いネーミングだと思う。

舞台と映画の楽しみに違いはいろいろあるけれど。舞台には。たとえ毎日観に行こうとも、完全に同じモノが目の前で展開されないというところがある。だからこそ。同じ演目に何度も通ったり、その刹那をできるかぎり記憶に焼き付けることを楽しみにする。でも、人の記憶は薄れるし。諸事情あって劇場に足をはこべずに、泣く泣く見送ったりすることも多々あるわけで。当然、映像に残れば、という欲求はでてくる。
このところの映像化熱意と技術はどんどんあがってきていて。人気演目のDVD化は流れとして定着しつつある。一点固定だったカメラも複数台に増え、臨場感も楽しめるようになってきた。その作品を映画館で上映する。今回のゲキシネはひとつの到達点だと思う。

上映前の映画館の雰囲気は少し異質だった。あたらしいジャンルだから、舞台側、映画側のどちらからも途惑いはあると思う。映画として評価すると。大写しになることで見えるアラは当然あって、それはもったいない。たとえば衣装や舞台化粧。舞台ファンとしていえば。要所要所で見られるアップは、たとえS席かぶりつきでもお目にかかれるものではなく。どうしても見落としがちな、ピンスポットのあたらぬところで展開される小芝居がフォローされるのも嬉しい(逆にここを映せーっというところもあるが)。実物にかなうものはないという点はゆずらない。それは、スポーツだって歌だって同じこと。

だから。演劇でなく、映画でもない。ゲキシネという、ひとつの文化として定着するといい。自宅で偲ぶためのDVDも良いが、新作としてのゲキシネも良い。自身の経験でいえば。芝居小屋に向かうための時間が、そこに居る時間より長くなると、どうしても足が遠のく。映画館は比較にならないほどたくさんあるのだから。そして、全国同時上映だって可能なのだから(間違っても舞台上演を減らすという方向に進んでもらいたくはないが)。
ゲキシネ鑑賞をとっかかりとして。舞台でみたら面白いかな、と思って。劇場に足を運ぶ人が増えたら嬉しい。

ゲキ×シネ鑑賞

2005-05-25 00:48:58 | 演劇:いろいろ
劇団☆新感線の『髑髏城の七人~アオドクロ』を観てきた。今日は、まともなことが書けそうにないので。ちゃんとしたヘッダーはパス。
これ、舞台芝居としては東京公演しかなく。本日(もう昨日だけど)は映画館上映を鑑賞。『ゲキ×シネ』ってDVDの映画館サイズだよね、なんて出かけたら。とんでもない! 劇団☆新感線といえば、なんといっても音の迫力。音がホンモノに近いから(パンフレットに5.1chサラウンドって書いてある←シロウト)、そりゃあテンションも上がる。脇から足音が聞こえると、花道から役者さんが出てきたのかと、一瞬本気で思う。

もともと。主役の「玉ころがしの捨之介」は、中島さんの脚本段階から無類にかっこいい。そこにいのうえさんが、反則技やろってくらいかっこいい演出をする。笑いに走らずにいられない(思い込み?)、新感線が。この捨之介だけには、絶対それを許さない。あげく、ほっといてもかっこいい市川染五郎が演じるとなれば。ありえないくらいかっこいい捨之介ができあがる。新感線の古田新太の捨之介は。それはもう、気が遠くなるほどかっこいい(←本気)というところはゆるがない(←重ねて言うが本気)。
で、鈴木杏ちゃんの演じる狭霧は、かつてないほど可愛かった。いや、言いなおす。狭霧を演じる杏ちゃんが、もうもうもう(牛といわれてもいい)。かわいぃて、かわいぃて(えろおやじといわれてもいい)。ちゃんと舞台で見ていたら、きっと腰砕け状態に惚れてる。

劇場では。バズーカ砲みたいな(@お染さま)カメラが彼らをとらえているらしいが。大画面のアップに堪えるわこのふたり(溜息)。観終わって。ふたりのファンの人を、心底羨んだ。たぶんファンの人たちには全然違う感想があると思うけど。それは長く見守ってきたゆえの、好きなゆえの。そういう感想があると思うけど。とてもとても羨ましく思った。だって二人とも。全部、すっげーかっこよくて。めちゃくちゃかわいいんだよ?

うーん。とっちらかってるな。というより。かっこいいとかわいいしか言ってねぇ。。