持続する夢

つれづれにふと気づいたことなど書き留めてみようかと
・観劇生活はえきさいてぃんぐに・日常生活はゆるゆると

エビ大王 2/2

2005-12-30 22:34:07 | 演劇:2005年観劇感想編
12/30のつづき>
王の息子を産むことのできる女が、国にひとりだけ存在するという。たったひとつの、最後の希望。死神たちが告げた、「父に捨てられ、夫に捨てられ、息子に捨てられた女」を捜しさすらう旅は長い。ようやく見つけた女は、なんと昔に捨てた実の娘という皮肉。結ばれる直前に真実が判明し(←結ばれてからでなくて良かったよ)、悲嘆に暮れる王は。みずからが描いた悲劇に幕を降ろすべく、死を受け入れる。

かの国の、親子の情の深さに驚嘆する。因果応報の苦しみから解放されて、死の旅路につく父と。自身を捨て、愛する夫と息子を殺した父と邂逅し。懐かしさに(←想い出は、なにひとつないのに)、すべてを洗い流す娘。
こういう。見知らぬ国の、慣れぬ情念に。照明と音響には最後までなじめなかったなぁ。。そういうものなのかと、納得させてくれたのは。ひとえに、演者の熱。

筧利夫氏の。火をあやつる場面は、非道ぶりを一瞬忘れるほどかっこよく。娘たちに国を追われ、ボロ着姿でさすらえども威厳を失うことのなかった姿から。絶望に、一気に老け込む姿。身勝手が引き起こした悲劇には、一切の同情の余地がないにもかかわらず。身悶える演技には、心地よく呑まれてしまう。
円城寺あや氏の演じる二役は。母性に満ちた王の伴侶と、娘を邪魔に思う義母で。真逆ながら、どちらにも説得力があり。こぐれ修氏は、三役で登場し。優しい義父と、金で小娘を買い取る地主と、国家統一に加勢する役で。これらすべてに、メリハリが効いている。

なにより。死神という役どころの、橋本じゅん氏と河原雅彦氏。お遊びの、独立コーナーありで(←そうしなきゃおさまらない大騒ぎ♪)。作品の重々しさを吹き飛ばしてありあまる激走(←勢い)は、ひたすら楽しい。わちゃわちゃと、二人で騒ぎ立てたあげく。「おれのほうが、あきらかに体力がないんだから!」と、ほんとにへばる河原氏やら。なぜだか突然、筧くんの暴露話を始め。主役(←筧くん、ご苦労さま)を撃沈させて満足げな、じゅんちゃんやら。この、おはがきコーナー。「明日もやるぞー」と燃えてらしたということは、恒例日替わりなんだな。。全部観たいと考えてしまった(←思うツボ)。けれど、要所では。王や娘への、同情や迷いや嫌悪などの、こちらの抱く感情を代弁してくれて。ふたたび舞台に誘(いざな)う、ストーリーテラーとしての役割を。きっちり果たせる実力に、惚れぼれする。

とにもかくにも、これは「第一弾」。はやくも、第2弾が楽しみではある。行くよぉ♪

エビ大王 1/2

2005-12-30 22:24:05 | 演劇:2005年観劇感想編
Team ARAGOTO Vol.1 『エビ大王』 Strong Play of The World
劇場:シアターBRAVA!
作:洪元基(ホン・ウォンギ)
演出:マ・ジョンヒ
演出:岡村俊一
出演:筧利夫,橋本じゅん,河原雅彦,サエコ,こぐれ修,円城寺あや 他


出演者表は、ほぼ個人的趣味で(^^)。TeamARAGOTOとは、筧氏が主催する演劇ユニット。世界演劇の様々な作品から、荒々しさを基準として選択し上演することを目的としているという。そんなことはさておき(←そんなこと?:笑)、カケイ節が健在なのがなによりで。彼が、舞台の芯を担う受ける芝居をしながらも。姿勢は攻めてるところが、好ましい。

古代朝鮮、青銅器時代から鉄器時代へ移ろうかというころ。王の嘆きから、物語は始まる。世継ぎがいない。娘は6人も生まれたのに、男子が生まれない。待ちわびた7人目は、やはり女で。やりきれぬ気持ちをもてあまし、捨て去った。。死神の迎えを、徹底的に拒む王。延々と継いできたエビ王家を、自分の代で止めて死ねるはずがない。娘にも、娘の夫にも、娘の息子にも、王座は譲れない。なにがなんでも、自身の男子を授からねば。たとえ引き換えにするものが、何千人もの民の命だったとしても! 王の血統への執念はすざまじく。2つに国を分かち、二人の娘夫婦に与え。当然おこる争いに、王位を追われ老いさらばえても。見せる続ける執念は、狂気を漂わせる。

物語の展開には、少しく馴染んだシェイクスピアを連想させるところもあり。やはり演劇の基本なのかと、横道にそれたことを考えながらも。南北分断の悲劇を描いているのであろう場面など、韓国風土に落としこんだ部分は、たいへんに目新しく(←韓流ブームには乗りそびれたので)。ただ、こうして。全体に横たわる異国の情緒に惑わされつつも、描かれる男子至上主義は。この国の現代においても、いまだ残るものであって。誰彼の妄執に呆れながらも、笑い飛ばしきることができない。

リトルショップ・オブ・ホラーズ 3/3

2005-12-25 23:56:44 | 演劇:2005年観劇感想編
12/21のつづき>ぼやぼやしているうちに、全公演終了しちゃったよ(汗)。
ミュージカルならではの、ファンタジーな芝居。なのに登場人物は、皆とても人間くさい。それが、背筋に冷たいものを突きつけてくる。明るく歌い語られる、将来への絶望。今の日本には存在しない、知識階級格差。教育を受けずに生きて、考えることが苦手で。報われない上昇志向。常にある、渇えた感情。がっちりはまった配役から生み出される、演技の調和は心地良い。←観劇前は、配役がベタすぎるのなんのと文句をたれてたくせにね。

上演前からふれこみのあった、映画版とは異なる結末。通常推奨される勧善懲悪が、案外舞台では無視される。これだから、舞台好きだったりするんだ。
負の心が招いた結果に、自ら始末をつけるべくオードリーIIに闘いを挑むシーモア。だけど、育ちすぎたオードリーIIには敵わず、あっけなく敗れてしまう。それはもう、あっけなく。物語の最初から、花屋の壁で律儀に時を刻み続けていた時計が。ぱたりと動きを止めて、二度と動かないのが哀しくて仕方がない。

幕を開けた三人娘が、幕を閉じるために現れる。彼女たちの歌はどこまでも、ソウルフルで。あぁ、終わってしまったのだと寂しくなる。それにしても、彼女たちのストーリテラーとしての確かさと、本編での悪ガキぶりが素敵。・・・で、小堺さん。彼女らを指して「大」「中」「小」ってひどくない? 笑っちゃったけどね。ちょっと残念だったのは、その小堺一機氏。声が、まだまだ戻っていらっしゃらないようで。。でも、素晴らしいコメディアンぶりで。ちゃんとシーモアに対する愛があったのが、このひとの持ち味だよなぁと思う。このひとと、上原多香子ちゃんの可愛いオードリーだからこそ。こんなに、かわいい物語になったんだよね。

飲み込まれてしまった、正義。シーモアの願いも、むなしく。人喰い植物は、切り分けられて。栄誉心に育(はぐく)まれて、アメリカ全土に広まっていく。
その後に描かれた、本物のラストシーン。一瞬、驚きのあまり椅子から転げ落ちるかと(←@ヨシモト)。演出の吉川徹氏が、山本耕史氏を起用した意味は、ここにあったのだと思う(←扮装のことじゃないよ、念のため)。気弱なくせに、オードリーIIに闘いを挑み。後始末を自分の手できっちりつけようとし、飲み込まれてしまったけれど。きっと残る強い意志が、いつかオードリーIIを滅ぼすのだと。彼のシーモアだからこそ、信じることができる。
人間の愚かな部分を晒すような物語の、その最後に。どうしても言わずにいられなかったことが、これならば。決着点が、希望と勇気なら。きちんと受け取っておこう、そう思う。

遅くなりましたが、やっと終了です。忙しい時期に連載などすると、こうなることはわかっていたけど。一回では、おさめたくなくて。。愛しい彼らのために通ってくださった、あなた。お付き合いいただいて、ありがとう。これからも、ずっと愛していこうねっ。

リトルショップ・オブ・ホラーズ 2/3

2005-12-21 02:54:50 | 演劇:2005年観劇感想編
12/19のつづき>
植物オタクな青年が、不思議な経緯で入手したオードリーII。萎れてしまわぬよう、あらゆる手を尽くし。「育って」と語りかける声が、とっても優しくて。。唯一、人の血がエサだと知り。自傷し、貧血になりながらも与えてしまう気持ちは。憧れのオードリーに対するよりも、ぐっと強いのかもしれない。すくすく育ち始めたオードリーIIの鉢を、しっかりかかえ。好き勝手に動く彼女(?)に振り回されながらも、ぜったいに落としてしまったりしない。後生大事に抱きしめる姿に、深い愛を感じてしまう。

ここでの、お楽しみポイントは反転にて。→両手に抱えた、かなりでかい植木鉢。だけど、右手は義手で(←精巧さに感心)。演者の山本耕史氏本人の腕は、ジャケットに隠れ。植木鉢の中のオードリーIIを、自在に操る。引っ張られた素振りで、もう片腕で宥(なだ)める動作をしつつ。体は、遅れてついていく。なおかつ、三人娘を引き連れ歌いきる。舞台の端から端まで使う、ダイナミックなパワーマイム! すげぇ(喜)。

オードリーを傷つけることしかしない恋人を、餌にして与えたのは。もちろん、彼を疎ましくおもったのだろうけれど。オードリーIIを愛しく想う気持ちも、強いのだろう。揺れ動く気持ちから、次第にはっきりしていく歌声。決意する彼の瞳の力が、眼鏡の奥で強く輝いていることに驚かされる(←猫背はなおらないのにね)。

繁忙と悔恨と邪心に、千路に乱れるシーモアを案じ。誰もいない店に戻り、オードリーIIの策略に喰われかけるオードリー。シーモアに助け出された腕のなかで、自分を餌として与えるようにと願うオードリー。オードリーIIと一緒にいれば、ずっとシーモアが愛してくれるだなんて。。彼女は、彼の愛情の深さを知っていたのだろう。理論だてて考える娘ではなかったからこその直感で。彼に抱かれるオードリーの純白の夜着が、ウェディングドレスに見えて。唯一の夢の「お嫁さん」になれなかった人生に、哀しくなってしまう。シーモアは、涙をぽろぽろこぼして。いちばん好きな娘を、いちばん好きな植物に同化をさせる。。
オードリー、きっと半分くらい溶けてたよね(←苦手というわりに、こぉゆうことを考える)。

タイトル変更。なんだか迷走してるので、仕切りなおします。

リトルショップ・オブ・ホラーズ 1/3

2005-12-19 01:19:07 | 演劇:2005年観劇感想編
ブロードウェイミュージカル 『 LITTLE SHOP OF HORRORS 』
劇場:シアターBRAVA!


正直、この演目を観に行く日がくるとは思わなかった。オフオフブロードウェイから、オンに進出し。日本でも役者を替えながら再演を重ね、これで5度めの上演なのらしい。わかりやすくて楽しかろうと、入門編として人に薦めたことがあるが。自分の目で確かめたのは、初めて。極めて上質なミュージカルだと思う。何度も再演が続くということが、証拠なのだと。改めて思う。公演予告を→こちらに。あーら、気乗りしてないよ(汗)。

舞台の両脇の、平衡感覚を狂わせる歪んだ建物に。くすんでしまった、パステルカラーに。異空間に踏み込んだのだと知らされる。暗闇に舞い散る花びら(?)のなか。重厚に響き渡る台詞が、オープニングを告げる。浦島りんこ氏、Tina氏、尾藤桃子氏の3名が。華やいだ衣装で、プロローグを歌い上げる。豊かな声量に、一気に物語へと引き込まれていく。

スラム街の、寂(さ)びれた花屋。9時開店から、新聞を読みふける店主。店に響くのは、粗忽な店員が裏で物を壊す音だけ。看板娘は、13時を過ぎても出勤してこない。
山本耕史氏の演じる、店員のシーモアは。気弱だけども、ずっと懸命に自分の人生と向き合っている。彼が惹かれる、上原多香子氏の演じるオードリーは。バービー人形のように、か細くて。どんな衣装も着こなしてしまえるほど可愛いのに。自分が愛されるに足りないと、思い続けている。彼らの店主の、小堺一機氏は。儲け話に都合よく乗っかっていくしたたかさを持っているけれど、基本は善人だ。なのに、こんなところにも悪意は入り込む。

店で育てはじめ、巨大化しつつある花のオードリーIIが。オードリーを苦しめる恋人を、餌としてせがみ。シーモアが、殺意を孵化させていく場面が圧巻。
毒々しい花と、ぴったり填まった和田アキ子氏の声の迫力と。それに対峙して、一切ひけをとらない山本氏の歌い合わせ。録音の不自然さを感じない音響と、掛け合いの間合いが生む臨場感は。今回堪能したかったものの最たるもので。目標達成。大満足。

あと。ぐっとくるラストシーンと、ぶっとびのラストシーン(←ん?)を語りたいので続けます。

<余談> オープニング、重々しく開幕を告げたのは・・・鹿賀丈史氏で。一瞬、寝不足による幻を聴いたかと。なんでー!? くらいのイキオイで、かろうじて保っていた理性がショートしたよ。オードリーの以前の職場が、ナイトクラブ「どん底」に至っては。一瞬、ここはロンドンなのかと(←アメリカのスキッド・ロウ)。あげく、ここは日生劇場かと(←間違いなくBRAVA!)。頼む。。『ジキル&ハイド』の再観劇、やっと諦めたんやから刺激せんといて。。そぉいえば、『料理の鉄人』のオープニングが好きやったなぁ(惚←どっちにでも読んで:笑)。

贋作・罪と罰

2005-12-13 01:59:43 | 演劇:2005年観劇感想編
野田地図(NODA MAP)第十一回公演 『贋作・罪と罰』
劇場:Bunkamura シアターコクーン
脚本/演出:野田秀樹
出演:松たか子,古田新太,段田安則,宇梶剛士,美波,野田秀樹 他


彼の演劇ネタは、ストーリーだけではバレないなんて考えもあり、以下一切隠してません。
客席の中に据えられた四角の舞台、それを45度(ダイヤ型)に配置し。出番でない役者たちは、舞台下の余白に置いた椅子に掛けて待つ。すべてを晒す形で、展開される芝居。
舞台上には、何本かの棒と椅子。控える役者たちがたてる効果音(←すごい緊張感)によって、棒は扉になど。さまざまなものに、次々と姿を変える。

時代は江戸時代末期、幕末の混乱の世。立派だった父のように生きるのだと育てられた、三条英(はなぶさ)。江戸開成所塾生として、切れる頭脳と強い信念に基づく行動力を持つ。だが、生活の貧窮はなんともし難く。ある日、金貸しの老婆の殺害計画を実行する。不測の事態は、老婆の妹に目撃されたこと。あきらかな、予定外の殺人を犯し。彼女は罪の意識には苛(さいな)まれつつも、成し得てこその思想を捨て去ることができないでいる。

塾生仲間の才谷梅太郎が、彼女の変化に気付く。暴力によらぬ倒幕・無血革命を信念とする彼は。日本を憂うのと同じ基準で、好きな女子を心配する。日本を良い方に向けたいのと同じ熱意で、彼女を屈託なく笑わせたいと願う。祖国を愛するということは、娘を愛することなのだと言ったのは。つかこうへい氏だったけ。湿度が高めの才谷の(←古田氏ならでは)親愛の情が、彼女の警戒心を崩していく。

英は、罪を責め悔やんでいてさえも。まなざしは濁らず、佇まいは真っ直ぐだ(←松氏ならでは)。償うべき罪の存在を認めながらも、牢の開く日は待てないと。通そうとする勝手な論理も、涼やかだ。才谷は、英を許している。牢の開く日を待つのは俺なのだと言う。そうやって、許されて。英は、自分を許してはいけないことに気づく。大政奉還、江戸開城。才谷の言葉どおり、彼女には、恩赦だか大赦だかがもたらされ。けれど、もはや彼女はそれを急(せ)いてはいない。解かれても、罪を一生の荷として生きていくことを決意している。

彼女に疑いの目をむける刑事役の段田氏が、あいかわらず、すっと(←語彙不足)していらして嬉しい。勤皇の志士役の右近氏は、あいかわらず、ちとうさんくさい(←やっぱり不足)。歪んだ愛を押し付けながら、破綻をむかえる役の宇梶氏と。憎んでも、殺す手段をとらない妹役の美波氏のお二人が。サイドストーリーを、とても大切に演じていらしたのが良く。あと。古田くんのアドリブに、舞台下でひっそり笑う野田さんが見られて。得した気分に。

ラストシーン。雪が舞台に降り積もる。雪が覆い隠すものを、見て。雪を踏みしめる足音を、聴いて。提示される命題を、改めて考える。これは、しっかり言葉にしておかねば。
「人は、人を殺してはいけない」

ジキル&ハイド

2005-12-11 23:14:09 | 演劇:2005年観劇感想編
ミュージカル Jekyll & HYDE 『ジキル&ハイド』
劇場:日生劇場
原作:R.L.スティーヴンソン
台本/作詞:レスリー・ブリカッス
作曲:フランク・ワイルドホーン
上演台本/詞:高平哲郎
演出:山田和也
出演:鹿賀丈史,マルシア,鈴木蘭々,石川禅,浜畑賢吉 他


ドクタージキル。精神コントロールを失調した父のため、人間の内の「善」と「悪」を「分離」する薬を作り出す。父に試そうとする彼の行動は、理事会の審議にかけられ却下される。人類の幸せと科学の発展にも寄与できるとの訴えも、死神よりも危険な論理だと否定され。。失意のうちに紛れ込んだ、場末のパブ。出遭った娼婦・ルーシーが彼を誘う台詞、「自分で試して」に。他人への実験でなく、自分自身に投薬することを思いつくジキル。

人の心から悪を分離させれば、争いは消えて幸福な世の中になるはずだった。薬は、ほどなく効きはじめ。身体のなかで、分離されていく精神。切り離されて、現われたのは。残忍な人格者、エドワード・ハイド。彼は、まず。理事会の面々の殺害を実行しはじめる。

善良なジキルを歌う鹿賀氏の歌声は、澄んでいて。分離されて取り出されたハイドの歌声は、まるで裏にジキルがいることを示すように二重に嗄(しわが)れる。迷うことなく人を殺めるハイドの、いで立ちは力強く。けれど、ジキルは闘うことを諦めない。善良なはずの自分の中から取り出された悪への、嫌悪。ハイドを打ち消す投薬を繰り返すあいだ、せめぎあう二つの人格。錯乱し力尽きて倒れ伏すまで続く、激しい人格の入れ替わり。眼前で展開される迫力としか言いようのないそれを、見つめ続けるのは。とても辛くて、とても哀しくて。ひどく消耗する。やってる役者さんの消耗って、計り知れない。。

ジキルが愛する、聖母のようなエマ。ハイドが気に入る、ルーシー。こんなところにも違いは顕著で。ラストだけ反転にて→ハイドは、そのルーシーさえも手にかける。そして、打ち消されたはずが。ジキルとエマとの結婚式に現われる。正気が狂気に変わる様(さま)、エマさえ傷つけるであろう人格を。見つめる親友・アターソンに。「撃ってくれ」と請う声は、なぜだか二つで・・・! そのままでは撃てはしないであろう、実直な親友への切なる懇願。やっと、おとずれた安らかな時。願い叶って倒れた彼に囁く、エマの。許しを告げる「おやすみなさい」の台詞は優しい。(ここでの鈴木氏の声が幼くて、唯一の残念ポイント←辛口ごめん)

カーテンコール。思いのほか、キャストが少なくて驚いた。この人数で、あのアンサンブルの厚みは素敵。再び、カーテンコール。指揮者が、舞台奥から出てきて驚いた。そうだった、始まるときにはオケピが見えないなぁと思っていたんだった。舞台裏から流れる音楽は、とても自然に体に響いてた。別れがたさに続く、カーテンコール。。観劇当日の興奮した感想は→こちら嗚呼、も一回でいいから見に行きたいっ。空席があるなんて、もったいないよ。

夢見心地

2005-12-08 00:56:08 | 演劇:2005年観劇感想編
鹿賀丈史さん主演の『ジキル&ハイド』を、無事観劇。いつもと違って、タイトルが演目名でないのは。このあと、グダグダになるのがわかりきっているため(笑)。
今回で再々演になるというのに、やっと初見。今日の観劇決行のために、やったよ!根回しを!! 安いチケットだと、仕事に流されてしまうので(←それもどうよ)。事前に12,000円を、アピールしたりなんぞしながら(←案外効いたなぁ)。そして、最後の駄目押しは。大阪からやって来た同僚を、人身御供に差し出して逃げ出すという(←人)。。

そんなこんなで駆けつけた日生劇場(←祝・初入場)は、とっても素敵な空間。広々としたロビーは、談笑するに充分で。ひとりでいることを、久しぶりに寂しく感じるほどで。
そして舞台では、鹿賀さんが! 歌ってる!! いや、当然なんだけど(笑)。あんまり、久しぶりでーっ。それだけで、泣きそう。。彼を知ったのが、年端も行かない小娘だったころで。初恋をもっていかれた(?)人なので。いまだに、姿を観るだけで気分が昂揚する。上演の最初から最後まで、どきどきそわそわ。心中、落ち着かないったらない。
色つきの水(←設定:薬品)を飲み干すにあたっては、そんなもの飲んじゃ体に悪いってば! と止めたくなり。「しょっぱい」とのつぶやきに、お砂糖をもって走りたくなり。。彼らに近づく女性には、もれなく妬いて。。

こんな視点で見つめていても。演目の完成度は、すばらしく。だから、感想らしい感想は、落ち着いたころに改めて。これは、やばいね。東京に住んでなくて、良かったかもしれない。これは、もれなく通う。正統派ミュージカル、ならではの。オーケストラの音色の厚さや、アンサンブルの揃い具合が心地よく。なにより、主演の技量(←結局、ここ♪)。二重人格の演じ分けは、とてもくっきりしていて。そのどちらも魅力的で、、夢見ごこち。

いまから、残した仕事をやっつけます。帰れる空気を演出してくれた友、ありがとぉなっ。 ・・・ここのこと言ってないんだった。明日、ちゃんとお礼を言おう。

SHIROH

2005-12-05 23:28:28 | 演劇:2005年観劇感想編
ゲキ×シネ 劇団☆新感線公演 『SHIROH』
会場:梅田ブルク7
作:中島かずき
演出:いのうえひでのり
出演:上川隆也,中川晃教,高橋由美子,杏子,橋本じゅん,高田聖子,池田成志 他


大阪本公演は、2005年1月。劇団☆新感線、初の本格的ロックミュージカル作品。ゲキ×シネは、録画映像を編集し、映画館で上映するものとして。このところの、劇団☆新感線の新しい流れとなっている。ゲキ×シネについては→こちらに思うところをつらつらと。
大スクリーン向けの気合の入った編集、クリアな大音量の音楽。本公演の興奮がよみがえるのはもちろんのこと、客席からでは見えなかった距離と角度からの映像は。震える腕や、わななく唇の演技までを再現し。みごとに、新しい世界に引き込んでくれる。

あらすじも中味も、語りつくされているだろうから。このたび新しく感じたことだけを。
俯瞰の視点で眺めて思ったのは、民の強い気持ち。この物語は、ふたりのSHIROHのカリスマ性に惹かれたものではあるけれど。死と隣り合わせの、ぎりぎりかつかつの生活を強いられ。ひとたび、救いを信じ、すがった民にしてみれば。忠誠の意志は、至上だったことだろう。四郎は奇跡の力を持たずして民を導びくことに、重圧と迷いを感じ続けていたけれど。率いてくれる先導者を持ち得た民は、最上に幸せだったのだと。今更にして思う。

煽動者であるシローは、物語の中で。無邪気に笑う少年から、きっちり大人になる。神の声をもち、彼らを鼓舞するあの声は。劇場の空気の中ならではなのかも、と懸念していたけれど。中川氏の歌声は、映像で観ても本物で。彼が本気で歌い出した瞬間は、鳥肌もので。「こぶしを振り上げろ、足を踏み鳴らせ」。その言葉に、従いたくなる。
そして、最期の聖戦のとき。民は、自らの意思で死に立ち向かう。逃れるためでなく、「はらいそ」へ行くために。踏み出す足取りは強くて、誰にも止められない。

皆が倒れ伏したなかで、四郎がおこす奇跡。四郎のくちづけによって、現世に呼び戻された寿庵は。3万7千人と、2人のSHIROHの命を携えて生きていく宿命を負う。たったひとりで、生き続ける彼女。恋した人から与えられた生を、まっとうする彼女は。凄まじく、清廉で潔い。そして。歌うさなかにも、決して芝居が停止しない高橋氏は凄い。
間違って観ていたのは、リオ。女神のように下界をみつめているのかと思っていたら、あんなに泣いていたなんて。なんとかしたくてたまらない無力な娘の、てんしだったんだね。

そして、上川氏。上演中は、彼が歌うたびに「わーっ」とか「きゃーっ」とか。心中、大騒ぎだったんだけど(←失礼:笑)。あぁ、なんて格好良い(溜息)。。彼の、流麗な殺陣は。スーパースローになっても、ぶれることなく。ぴったり決まった「あとの(←ここが、映像の役者さんとの相違点!)」動きが美しいのなんの(再び、溜息)。。

残念だったのは。聖子ちゃん、じゅんくん、なるしーたちのアドリブ部分。東京のより、ぜったい大阪バージョンの方が面白いって! DVDにアドリブ集入れてくんないかなぁ。。

冷静に分析すれば。ミュージカルとしても演目としても、まだまだ削ぎ落として叩き上げる余地はある(←4時間超だし)。だけど。長ぁく、新感線を観てきて。劇団もファンも、良い加減に大人になったと思ってたところにきた、この作品は。ごつごつとしてて、熱くって。それこそ他の舞台への観劇熱まで、再燃させるイキオイがあって。。
願わくば、再演にもこれだけの熱を持ち続けて欲しい。上川さんは、再演嫌いだそうだから、もうでてくれないのかなぁ? だとすれば、ずいぶん変わるよなぁ。

ボレロ

2005-12-03 02:04:26 | 演劇:2005年観劇感想編
シルヴィ・ギエム 最後の『ボレロ』
他演目:『スプリング・アンド・フォール』、『小さな死』、『シンフォニー・イン・D』
劇場:フェスティバルホール
振付:モーリス・ぺジャール(ボレロ)
音楽:モーリス・ラヴェル(ボレロ)
出演:シルヴィ・ギエム,東京バレエ団,マッシモ・ムッル(特別出演)


暗い舞台の上に、人影が見える。ゆらゆらと動く腕が、スポットライトに浮かび上がる。ライトが、中心に照準を当て。それが、一気に大きくなる。中央に、深紅の円卓。この上にいるのは、たったひとりのバレエダンサー。強靭な肢体、腰にとどくブラウンの長い髪。周囲には、気配を押し殺した男性ダンサーたち。彼らを従えて、『ボレロ』が始まる。

最初は、音楽とだけ出逢ったのだった。力強いのに、郷愁を感じる。そんなふうに思い、気になっていた。バレエの演目だと知ったのは、確かニュース番組からだったと思う。そこには、上半身を曝け出し、裸足で踊る男性ダンサーがうつっていた。バレエといえば、古典物をいくつか知っている程度のころに。この映像は、衝撃的だった。
ダンサーの印象を弱めるほど、主張の強い音楽。舞台装置は、円卓のみ。身を飾る衣装すら無く、たった独り。体から発する気と、踊る力だけが支えの。厳しすぎる舞台。

ギエム氏は、この演目に1986年から出演しているという。とうとう今回、日本公演に終止符を打つという。彼女は、観客の視線を堂々と受けて立って。なお、こちらを圧倒する。静かに踊る30人近いダンサーたちを、指先の動き(←素晴らしく美しく動く)ひとつで操り。生気を吹き込み、卓の周囲に引き寄せる。劇場2階の天井席なのにもかかわらず、一緒に引き寄せられて身動きができない。停止した躰のなかで高鳴る心音に、生を実感する。

信条として。舞踏ものとオペラには手を出さずに、ここまできた(←主に懐事情)。だけども、コレだけは例外にしようかなぁ。。綺麗に波打つ髪とともに、しなやかな舞踏を堪能したら。雄々しく直截的な、男性による『ボレロ』も観たくなってる。