お絵描き日記~イラストレーター照井正邦

職人、照井正邦の似顔絵、意匠など。画力の向上を目的に練習しています。

孤立とブレスト(お絵描き雑記)

2020-12-29 16:16:46 | 雑記
孤立を防ぐという考えがあるという。
生きていくためには必要なことかもしれない。
生命活動がある程度保証されている場合の絵描きにとって、逆に孤立して描くのは利点があるように思う。間違った方向性かもしれないが、自分で自分を批評しながら判断して描いていくから。
それをネガティブ、自己否定と考えられてしまうと、絵が向上しない。
一人ではなく、三人いることを想像したりする。
「Aが考え、Bが描き、Cがほめる」
この一見、ポジティブな正のスパイラルに思えることを繰り返したときの行き着く答えが、自分一人の場合は「間違っていましたすみません」ですむかもしれませんが、三人だとすみませんでは済まず、それが何十年もになると、逆にまわりが間違っていることにしてしまったことを忘れ、そのまま社会が負のスパラルに見えてしまうのではないかという、うがちすぎな、かつ当たってしまうと預言者と誤解されてしまうことを想像してしまう。

想像を狭めてみる。
まわりが間違っていて、自分が合っていて謝らなければならないことを理不尽という。
多くの社会人が理不尽に踏みつけられながら生きている。
けれど、絵の世界は別だと考えている。
「人の意見を否定をしてはいけない」という「デザイン」のブレインストーミングの理論で絵を責めたとしても、その「否定的な批評をしない」人々が勢力をのばして絵の見え方を、今の私のように話術で「かえた」としても、言葉の違う、あるいは言葉を超えようとする絵に、衝撃を受け、「絵描きに打ちのめされた」と思うことだろう。
絵は人を「打ちのす」ことはしないから、「絵描きが打ちのめした」と錯覚するだろう。スポーツとして定着されたリベンジの理論で、絵に復讐するのではなく、描いた人物に復讐することもあるのだろう。
訂正する。
「打ちのめす」目的の絵もあるのかもしれない。そういう絵を描く人が万が一いた場合、それは絵を見てほしいのではなく、打ちのめすのが目的なのだとしか想像できない。それは絵を(言語で)批評してこなかった私の責任なのかもしれない。

絵ではない人と話すことが難しい。

絵ではない人である
ことを悲しく思いつつ、くだらない話を面白げに話すだけだ。
デザイン科を出てしまったばかりに、「絵描き」であることを理解されないまま放置したのは間違いでした、すみません。
自己否定は孤立の最大の問題点ではあるけれど、自己肯定のトップも怖い。皮肉のように感じられてしまうかもしれませんが、

「また絵が描けました」、それは絵ではない人にとってはどうでもいいことだと思いつつ。

「習作」馬なのかしら(ミリペン画)

2020-12-29 14:32:53 | 習作


習作です。ミリペンで描きました。
バッテンだけで描く鉛筆画を見た事があるのですが、エッチングなどの銅版画を目的とした表現なのでしょうね。今回の習作は、アクリル画に向けての光の表現の模索です。陰影の陰の広い部分を直線ぎみに描いていたり、明るい面を省略したりしているので、デッサンとしては0点になる危険性があるので、真似したりしないほうが賢明です。
真似や模写をするのは自由なのかもしれませんが、模倣からですと何ができていて、何ができていないのかを自分自身で把握できずに、前へ進めなくなる危険性があると思います。「自分の作品だ」と主張する方と出会ったことがあり、「そうではなかった」とまで言いにきたことがありましたが、そのあと、どう学べばよいのか分からなくなってしまうのだと思います。そして、学ぶと真似ぶとをイコールとする考えがあると聞きますが、結果論として「習う」しかできなくなるのではないでしょうか?自分で描く事の中から発明し、それが絵との出会いで発見であったと気付き落胆し、その積み重ねから発明に近い発見をしていくのが、あえて言うなら私の「描き方」であり、「描き方」は教えられない代わりに、何かを見つけられるように指導をしています、似顔絵においては。