孤立を防ぐという考えがあるという。
生きていくためには必要なことかもしれない。
生命活動がある程度保証されている場合の絵描きにとって、逆に孤立して描くのは利点があるように思う。間違った方向性かもしれないが、自分で自分を批評しながら判断して描いていくから。
それをネガティブ、自己否定と考えられてしまうと、絵が向上しない。
一人ではなく、三人いることを想像したりする。
「Aが考え、Bが描き、Cがほめる」
この一見、ポジティブな正のスパイラルに思えることを繰り返したときの行き着く答えが、自分一人の場合は「間違っていましたすみません」ですむかもしれませんが、三人だとすみませんでは済まず、それが何十年もになると、逆にまわりが間違っていることにしてしまったことを忘れ、そのまま社会が負のスパラルに見えてしまうのではないかという、うがちすぎな、かつ当たってしまうと預言者と誤解されてしまうことを想像してしまう。
想像を狭めてみる。
まわりが間違っていて、自分が合っていて謝らなければならないことを理不尽という。
多くの社会人が理不尽に踏みつけられながら生きている。
けれど、絵の世界は別だと考えている。
「人の意見を否定をしてはいけない」という「デザイン」のブレインストーミングの理論で絵を責めたとしても、その「否定的な批評をしない」人々が勢力をのばして絵の見え方を、今の私のように話術で「かえた」としても、言葉の違う、あるいは言葉を超えようとする絵に、衝撃を受け、「絵描きに打ちのめされた」と思うことだろう。
絵は人を「打ちのす」ことはしないから、「絵描きが打ちのめした」と錯覚するだろう。スポーツとして定着されたリベンジの理論で、絵に復讐するのではなく、描いた人物に復讐することもあるのだろう。
訂正する。
「打ちのめす」目的の絵もあるのかもしれない。そういう絵を描く人が万が一いた場合、それは絵を見てほしいのではなく、打ちのめすのが目的なのだとしか想像できない。それは絵を(言語で)批評してこなかった私の責任なのかもしれない。
絵ではない人と話すことが難しい。
絵ではない人である
ことを悲しく思いつつ、くだらない話を面白げに話すだけだ。
デザイン科を出てしまったばかりに、「絵描き」であることを理解されないまま放置したのは間違いでした、すみません。
自己否定は孤立の最大の問題点ではあるけれど、自己肯定のトップも怖い。皮肉のように感じられてしまうかもしれませんが、
「また絵が描けました」、それは絵ではない人にとってはどうでもいいことだと思いつつ。
生きていくためには必要なことかもしれない。
生命活動がある程度保証されている場合の絵描きにとって、逆に孤立して描くのは利点があるように思う。間違った方向性かもしれないが、自分で自分を批評しながら判断して描いていくから。
それをネガティブ、自己否定と考えられてしまうと、絵が向上しない。
一人ではなく、三人いることを想像したりする。
「Aが考え、Bが描き、Cがほめる」
この一見、ポジティブな正のスパイラルに思えることを繰り返したときの行き着く答えが、自分一人の場合は「間違っていましたすみません」ですむかもしれませんが、三人だとすみませんでは済まず、それが何十年もになると、逆にまわりが間違っていることにしてしまったことを忘れ、そのまま社会が負のスパラルに見えてしまうのではないかという、うがちすぎな、かつ当たってしまうと預言者と誤解されてしまうことを想像してしまう。
想像を狭めてみる。
まわりが間違っていて、自分が合っていて謝らなければならないことを理不尽という。
多くの社会人が理不尽に踏みつけられながら生きている。
けれど、絵の世界は別だと考えている。
「人の意見を否定をしてはいけない」という「デザイン」のブレインストーミングの理論で絵を責めたとしても、その「否定的な批評をしない」人々が勢力をのばして絵の見え方を、今の私のように話術で「かえた」としても、言葉の違う、あるいは言葉を超えようとする絵に、衝撃を受け、「絵描きに打ちのめされた」と思うことだろう。
絵は人を「打ちのす」ことはしないから、「絵描きが打ちのめした」と錯覚するだろう。スポーツとして定着されたリベンジの理論で、絵に復讐するのではなく、描いた人物に復讐することもあるのだろう。
訂正する。
「打ちのめす」目的の絵もあるのかもしれない。そういう絵を描く人が万が一いた場合、それは絵を見てほしいのではなく、打ちのめすのが目的なのだとしか想像できない。それは絵を(言語で)批評してこなかった私の責任なのかもしれない。
絵ではない人と話すことが難しい。
絵ではない人である
ことを悲しく思いつつ、くだらない話を面白げに話すだけだ。
デザイン科を出てしまったばかりに、「絵描き」であることを理解されないまま放置したのは間違いでした、すみません。
自己否定は孤立の最大の問題点ではあるけれど、自己肯定のトップも怖い。皮肉のように感じられてしまうかもしれませんが、
「また絵が描けました」、それは絵ではない人にとってはどうでもいいことだと思いつつ。