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「積極的平和主義」とは「軍国主義」(5)(6)  慶應義塾大学名誉教授・弁護士 小林節氏

2015-03-17 22:16:09 | シェアー

http://www.data-max.co.jp/politics_and_society/2014/10/19649/1016_knk_05/

「積極的平和主義」とは「軍国主義」(5)
集団的自衛権の今後を占う 

2014年10月16日09:00

慶應義塾大学名誉教授・弁護士 小林 節 氏

 政府は7月1日の臨時閣議で、従来の憲法解釈を変更し、歴代内閣が長年、憲法9条の解釈で禁じてきた「集団的自衛権」の行使を認める決定を下した。1954年の自衛隊発足以来堅持してきた“専守防衛”の理念を逸脱する戦後安全保障政策の大転換である。「憲法」を骨抜きにする決定が、国民の声を聞くことなく、政府の一存で下される。本当に、こんなことが許されるのか。論客、慶応義塾大学名誉教授・弁護士の小林節氏に聞いた。

<憲法解釈の方法、限界を知ることがとても重要>

 ――今ほど、「憲法」、「立憲主義」、「集団的自衛権」等と言う難しい言葉が国民の間で話題にのぼることありません。特に、今回話題となっているのは、“憲法解釈”の問題です。

慶應義塾大学名誉教授・弁護士 小林 節 氏 小林 憲法解釈の方法、限界を知ることはとても重要なことです。私は憲法解釈について2つの点を留意することをお勧めしています。

 1つ目は「言葉」です。憲法は言葉で書かれています、そこで、先ずは国語的解釈を大事にしないといけません。憲法第9条では「1項:日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。2項:陸海空軍その他の戦力はこれを保持しない。国の交戦権はこれを認めない」と書かれています。そのため、戦争は極力してはなりませんし、軍隊を持ってはいけないわけです。日本には、陸軍、海軍、空軍はありません。法的に、第2警察としての陸上自衛隊、海上自衛隊、航空自衛隊があるだけです。軍隊は外からくる暴力に対抗する組織ですが、警察は国内の暴力に対抗する組織です。そのため、日本の自衛隊は外から外国軍が入ってきた時、国土とその周辺に限定して“専守防衛”をすることしか認められていません。攻めて行くことは認められていません。このように、言葉を大事にしなければいけません。

 2つ目は憲法のできた「歴史」的背景です、憲法は歴史的文書でもあります。細かい評価は分かれますが、現実的には、日本は他国に軍隊を派遣、侵略戦争を仕掛け、敗戦した国です。勝ったアメリカが作成して日本に与えた憲法には、間違っても「2度と海外に軍隊を出しませんと」いう意味が含まれています。

<行使できないことはアメリカが一番よく知っている>

 実は、このことはアメリカが一番よく知っています。私はアメリカでホワイトハウスの高官から「いつ日本は、アメリカが与えた憲法9条を改正して、イギリスのようにアメリカと一緒に世界で戦争ができる国になってくれますか?」と聞かれました。このように日本に憲法を与えたアメリカでさえ、現憲法下では、どう解釈しても「集団的自衛権」(軍隊を海外に派遣)を行使できないことは知っているわけです。

 憲法条文の解釈は「言葉」の限界を厳しく踏まえ、解釈に迷った時は、その憲法の「歴史」的背景(生まれ育ち)まで遡り、斟酌する必要があるのです。今回の安倍政権の「集団的自衛権」行使容認の憲法解釈はこの何れの壁も乗り越えることができていない、唯我独尊とも言える一方的誤解釈《憲法の破壊》なのです。

 ――アメリカは今回の安倍政権の「集団的自衛権」行使容認をどう見ているのですか。

 小林 アメリカはとても自由な国で、この問題に関しても様々な意見があります。詳細はさておき、大きく2つに分けて説明します。1つは「日本らしく経済貢献だけでいいのではないか」という意見です。主に親日派の人達、ふたたび軍国主義に向かう日本の不気味さを警戒する人達がこのような考え方をしています。政党的には民主党がこの考え方に近いのではないかと思います。
 もう1つは「もうアメリカは経済的にも、軍事的にも、1国だけでは世界の警察を維持できなくなった。イギリスのように日本もアメリカの2軍として手伝って欲しい」という意見です。政党的には共和党がこの考え方に近いのではと思います。

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「積極的平和主義」とは「軍国主義」(6)
集団的自衛権の今後を占う 

2014年10月17日07:04

<純粋な「平和主義」とは完全に対極の概念です>

 ――安倍政権は、ズバリ、今後どこに向かって行くのでしょうか。自衛隊志願者が激減、「徴兵制」復活という声も聞かれるようになりました。

hinomaru 小林 ぞっとするようなことなのであまり想像したくありません。しかし、そうなることを阻止できるように、国民全員で考えていただくために、あえて申し上げます。

 安倍首相は、口を開けば「積極的平和主義」と言いますが、このような奇怪な概念は世界に存在しません。もちろん、純粋な「平和主義」とは完全に対極の概念と言えます。
 自分や自分の仲間と違う価値観と意見を持つ国(派閥)を軍事力で張り倒し、従わせるというだけのことです。

 例えば、現在まさに進行中の米軍のシリア空爆もそうです。イスラム教国とキリスト教国は価値観、考え方が違います。さらに、この問題は、歴史を遡ると、キリスト教国による、石油利権略奪に対する、イスラム教国の恨みに起因しています。イラクのフセイン元大統領は、堂々と戦争を仕掛けましたが、多くのイスラム教国は重装備の戦争ではアメリカなどのキリスト教国に勝ち目がないのを知っています。そこで重装備を捨て、ゲリラ戦を展開しています。しかし、軍服を着ていないので“テロ”(犯罪)と言われているわけですが、イスラム教国の人達にしてみれば、民族の歴史的恨みを表現する正当な方法なのです。

 日本は神道と仏教の国であるにもかかわらず、今、イギリスのように、キリスト教国の盟主であるアメリカの2軍として軍事参加する道を歩み始めようとしています。
これはとても危険なことです。安倍首相は「国連安全保障理事会」の常任理事国入りを目指しています。しかし、国連安全保障理事会は戦争ばかりしている国の集まりです。(アメリカの2軍では、中国、ロシアが拒否権を発動して、入れるはずがありません)

<日本の東京で、テロが多発し、治安が悪化する>

 これらの政策は全く日本国民に幸福と平和をもたらしません。そればかりか、日本の東京で、「9.11」やロンドンでのテロと同じ事が多発し、治安が悪化することは目に見えています。記憶に新しいところでは、スペインはイラク戦争に参加、これに対するテロの反撃があり、2004年3月11日に、列車爆破事故で191人が死亡、2,000人以上が負傷しているのです。

 世界の大国の中で、69年間一度も戦争をしなかったのは日本だけです。日本は世界で、唯一の「平和」のクッションになれる国なのです。それにもかかわらず、その地位を自ら放り出し、かつ日本国民を大きな危険にさらすなんて、とても正気とは思えません。

<「日本国民がとても忘れっぽい」ことを知っている>

 ――「集団的自衛権」の問題は、日本国民の明日を危険にさらす大問題ですね。最後に国民にメッセージを頂けますか。

 小林 「集団的自衛権」行使容認は7月1日にすでに閣議決定されました。この後、関連法律(海外派兵手続き法)が成立すれば、本日お話したシナリオが現実に動き出します。

 5月15日、安倍首相の私的諮問機関である「安保法制懇」(注)が憲法解釈の変更を求める「提言」を安倍首相に提出、同日、安倍首相は記者会見を開き、「集団的自衛権」行使容認の方向性を明言しました。
しかし、安保法制懇が掲げる事例は、いずれも非現実的で、本来集団的自衛権行使の問題でない事例ばかりであり、集団的自衛権行使の本質が示されていませんでした。そこで、5月28日には、憲法学者や国際法学者、国家安全保障の実務家、元外交官、弁護士が集合、主権者国民のために「国民安保法制懇」ができ、私もその一員として活動しています。

 安倍政権は、集団的自衛権の行使を実際に可能にするためのいわゆる「自衛隊の海外派遣手続法制」の整備は、来年1月からの通常国会(しかも5月以降)に先送りすることにしています。
これには2つの理由があります。1つは、福島知事選挙、沖縄知事選挙などの自治体知事選挙及び統一地方選挙への影響を恐れてのことです。

 もう1つの理由が大事です。政府は「日本国民がとても忘れっぽい」ことを知っており、「安倍政権が憲法9条破壊という暴挙を犯した」という記憶が消えるのを待っているわけです。これほど国民を愚弄した話はありません。この機会に国民の皆さんも、憲法に深く関心を持っていただければと思います。「政治の過失は、選挙を通じて、政治で取り戻す」しか方法がありません。

 権力者は自由に情報を操作できますので、そこに文句を言っても始まりません。ナチスの宣伝相ゲッペルスの言葉と伝わる慣用句に「ウソも100回言えばまことになる」というのがあります。しかし、私は「真実を10回言うことができれば、ウソを糺(ただ)すことができる」ことを信じて活動していくつもりです。

 ――本日はありがとうございました。

(了)
【金木 亮憲】

 

【注】国民安保法制懇日本の立憲主義を守るために、憲法、国際法、安全保障などの分野の専門家、実務家が結集して作られた組織。メンバーには、愛敬浩二(名古屋大学教授・憲法)、青井未帆(学習院大学教授・憲法)、伊勢崎賢治(東京外国語大学教授・平和構築、紛争予防)、伊藤真(法学館憲法研究所長・弁護士)、大森政輔(元第58代内閣法制局長官)、小林節(慶応大学名誉教授・憲法)、長谷部恭男(早稲田大学教授・憲法)、樋口陽一(東大名誉教授・憲法)、孫崎亨(元防衛大学教授・元外務省情報局長)、最上敏樹(早稲田大学教授・国際法)、柳澤協二(元防衛省防衛研究所長、元内閣官房副長官補)が名を連ねる。

 


【後記】
日本は湾岸戦争でアメリカ軍の全費用に相当する金額(135億ドル、約1兆5,000億円)を負担した。しかし、戦争終結後、クウェート政府から御礼はなかった。当時、新聞報道では「金だけ出して、“汗”をかかなかったからだ」という話が出て、記者を含め、多くの日本国民は納得させられた。
今、その考えは、はっきり間違いだったと思う。なぜ日本政府はあの時、戦争の善悪は別にして、「クウェート政府の非礼さ」に抗議できなかったのか。使われたのは、日本人が365日、“汗”水流して働いた「血税」である。キリスト教圏、イスラム教圏、どちらの価値観も存在するのが地球社会だ。そこに、軍国主義を「積極的平和主義」と名前を変えて、どちらか一方の価値観を否定する戦争に、世界で唯一日本人だけは参加すべきではない。今、国民が動かなければ、日本で起こる「9.11」を阻止することはできない。

 


<プロフィール>
小林 節(こばやし せつ)小林 節(こばやし せつ)
慶應義塾大学名誉教授・弁護士。法学博士、名誉博士(モンゴル・オトゥゴンテンゲル大学)。1949年東京都生まれ。1977年慶大大学院法学研究科博士課程修了。ハーバード大学ロースクール客員研究員を経て1989年~2014年まで慶大教授。その間、北京大学招聘教授、ハーバード大学ケネディ・スクール・オヴ・ガヴァメント研究員等を兼務。著書として、『「憲法」改正と改悪』、「『白熱講義!日本国憲法改正』、『白熱講義!集団的自衛権』等多数。

 

 

 


「積極的平和主義」とは「軍国主義」(3)(4)  慶應義塾大学名誉教授・弁護士 小林節氏

2015-03-17 22:09:56 | シェアー

http://www.data-max.co.jp/politics_and_society/2014/10/19370/1014_knk_03/

「積極的平和主義」とは「軍国主義」(3)
集団的自衛権の今後を占う 

2014年10月14日07:02

慶應義塾大学名誉教授・弁護士 小林 節 氏

 政府は7月1日の臨時閣議で、従来の憲法解釈を変更し、歴代内閣が長年、憲法9条の解釈で禁じてきた「集団的自衛権」の行使を認める決定を下した。1954年の自衛隊発足以来堅持してきた“専守防衛”の理念を逸脱する戦後安全保障政策の大転換である。「憲法」を骨抜きにする決定が、国民の声を聞くことなく、政府の一存で下される。本当に、こんなことが許されるのか。論客、慶応義塾大学名誉教授・弁護士の小林節氏に聞いた。

<他国(同盟国)の戦争に加担することになります>

 ――話を「集団的自衛権」に移します。「集団的自衛権」、「個別的自衛権」に関する政府説明はとても複雑です。言葉の定義をズバリ、簡潔に教えて下さい。

 小林 確かに政府の説明はわざとと思えるくらい複雑化させているようですが、実に簡単なことです。

 「個別的自衛権」:自国が武力攻撃を受けた際に、自国の武力で反撃する権利
 「集団的自衛権」:同盟国が武力攻撃を受けた際に、その反撃に参加する権利

 のことで、これ以上でも、これ以下でもありません。個別的自衛権は、いわば正当防衛に近い概念であり、集団的自衛権は、他国(同盟国)の正当防衛に加担することです。

 ところで、「集団安全保障」と言う言葉は「集団的自衛権」と混同、時には故意に混同させて使われることもあるのですが、この2つの概念とは全く違います。

国会議事堂 集団的自衛権の根底には、世界が例えば、キリスト教圏とかイスラム教圏とかの派閥(同盟)に分かれているという現実があります。つまり、集団的自衛権を行使するということは、どちらかの派閥(同盟)に加担することを意味します。

 それに反し、集団安全保障は、理論上では存在しますが、歴史上いまだかって実現していない、どの派閥(同盟)にも属さない第3者としての、いわば「世界政府」の概念です。
 しばしば、「集団安全保障」の名を借りて、「集団的自衛権」が行使されることがあるため、誤解されている方も多いと思います。

<集団的自衛権の解禁など冗談でしかありません>

 ――よく分かりました。先生は今回の政府による「集団的自衛権」行使容認の見解は認められないと言われております。どこが問題なのですか。

 
 小林 我々憲法学者にとって、現憲法下で集団的自衛権の解禁など冗談でしかありません。このことは、戦後70年近くに渡り、守ってきた政府見解であり、最近まで、防衛省のホームページに書かれていた事実です。それを、わずか十数人しか参加しない閣議で、密かに憲法解釈を変え、覆すことなどは許されないことです。

 日本国憲法では、第9条で戦争放棄を謳っています。ただ、独立国家である以上、襲われた時に抵抗する「個別的自衛権」までは否定されていないと解釈ができます。一方で、国際慣習法上は、「個別的自衛権」と同時に「集団的自衛権」が認められているという意見があります。それは事実です。しかし、国際慣習法と国内法が抵触した場合国内法(憲法)に従うのが世界の常識です。諸外国がどうであろうと、日本の憲法では、集団的自衛権の行使に不可欠な海外派兵は認められていません。

 もし、「集団的自衛権」行使をどうしても認めさせたいのであれば、96条の手続き改正に従って、堂々と主権者である国民の信を問うべきです。それを行わずに憲法解釈だけを密かに変えること自体が憲法違反と言えます。

<これほど国民を愚弄した行為はありません>

 政府見解の中には、「中国軍がすぐ尖閣諸島に攻めてくるので・・・」とか「北朝鮮がすぐにでもミサイルを放つ可能性があるので・・・」というニュアンスのものがありました。ここでは、その内容に関する論議はしませんが、少なくともこれを理由に、急いで閣議決定したことは真っ赤なウソであることがわかっています。

 安倍首相は5月15日に「集団的自衛権」行使容認の方向性を明言、7月1日の自衛隊記念日に閣議決定しました。しかし、閣議決定だけで、関連法律ができなければ実際の海外派兵はできません。本当に急いでいるのであれば、関連法案は数の論理から、8月にも可決可能でした。

 ところが、安倍首相は9月からの臨時国会でもこの問題の審議を避け、約1年先の来年の5月以降に先送りしました。それは福島知事選、沖縄知事選、統一地方選挙への影響を考えてのことです。国民を狼少年のように脅迫し、その後何もしない。これほど、国民を愚弄した行為はありません。

 もう一度憲法の定義に戻りますが、「憲法とは主権者たる国民が権力者を管理する法」です。どんなに急いでも、主権者である国民に信を問わなければなりません。逆に、管理される側の権力者が解釈1つでも勝手に修正して良いわけがありません。

 私は30年以上に渡り改憲主義者です。それは時代背景に合せて、国民が権力者をより管理しやすいようにしていくべきと考えるからです。しかし、その場合でも、どんなにハードルが高くても、国民をないがしろにするような姑息な手法は、ゆめゆめ考えたこともありません。

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「積極的平和主義」とは「軍国主義」(4)
集団的自衛権の今後を占う 

2014年10月15日07:02

慶應義塾大学名誉教授・弁護士 小林 節 氏

 政府は7月1日の臨時閣議で、従来の憲法解釈を変更し、歴代内閣が長年、憲法9条の解釈で禁じてきた「集団的自衛権」の行使を認める決定を下した。1954年の自衛隊発足以来堅持してきた“専守防衛”の理念を逸脱する戦後安全保障政策の大転換である。「憲法」を骨抜きにする決定が、国民の声を聞くことなく、政府の一存で下される。本当に、こんなことが許されるのか。論客、慶応義塾大学名誉教授・弁護士の小林節氏に聞いた。

<全て、「個別的自衛権」の範囲で解決可能です>

 ――今回の「集団的自衛権」行使容認の根拠として、政府は安全保障法整備に関する与党協議会に「15事例」を出しています。この内容をどのように思われていますか。

 小林 ここでは、15事例全てを解説できませんが、全て「集団的自衛権」ではなく、「個別的自衛権」の範囲で充分に対処可能な問題です。

 例えば、在留邦人の母親が子どもを抱いているパネルがTV等で話題になった事例8「邦人輸送中の米輸送艦の防護」というのがあります。

 わが国近隣で武力攻撃が発生し、米艦は公海上で武力攻撃を受けている。攻撃国の言動から、わが国にも武力攻撃が行われかねない状況である。取り残されている多数の在留邦人をわが国へ輸送することが急務である。米国が、わが国の要請を受け、自国の艦船で在留邦人をわが国に向けて輸送している。しかし、米国の艦船は防御能力が低く、防御が必要である。しかし、現憲法下、憲法解釈ではこのような米艦の防御はできない。(一部抜粋)

 この事例自体が専門家によるとあり得ないと言われています。それはさておき、この事例は以下の様に解説できます。

<この事案の起草者の頭脳は小学生以下と言えます>

 先ず、これは「邦人を守る」話であって、「米輸送艦」を守る話ではありません。日本国が日本人を守るわけですから、典型的な「個別的自衛権」の事案になります。アメリカの軍艦だろうが、フランスの軍艦だろうが、そこに日本人が乗っていて、それを助けるのであれば、集団的自衛権を持ち出す必要はありません。本当にこれが集団的自衛権の問題と考えているのなら、この事例の起草者は、小学生未満の頭脳の持ち主だと言わざるを得ません。

 もう1つ、これもTVや新聞等で話題となったホルムズ海峡の事例14「国際的な機雷掃海活動への参加」を解説します。

 わが国の船舶が多数航行し、輸入する原油等の大部分が通過する重要な海峡(例えばホルムズ海峡)の近隣で武力攻撃が発生、海運に貿易を依存するわが国では、わが国船舶の安全を求める声が高まっている。原油が滞ることによる経済及び国民生活への深刻な影響も生じている。攻撃国による武力攻撃の一環として機雷が敷設され、海上交通の通路が封鎖された。国連及び各国から機雷掃海の能力に秀でるわが国に、国際的な機雷掃海活動への参加要請があった。しかし、現憲法下、憲法解釈では機雷掃海はできない。(一部抜粋)

 これは「シーレーン」に関する案件です。シーレーンというのは、日本に必要な物品を外国の港から乗せて帰国する途中の“海の廊下”のことです。公海、他国の領海に拘わらず、国際法上全ての国が無害で通航できる権利があります。これを、「無害通航権」と言います。その海の廊下に機雷が敷設されたということであれば、その機雷をどけるのは日本のためなので、問題なく個別的自衛権で対応が可能です。

<このような事態は起こり得ず、妄想に近いものです>

 安倍首相は7月1日の閣議決定の際、武力行使の新三要件というのを定義しました。その前提は、「我が国と密接な関係にある他国に対する武力攻撃が発生し、これにより我が国の存立が脅かされ、国民の生命、自由及び幸福追求の権利が根底から覆される明白な危険があること」となっています。しかし、このような事態は起こるはずがなく、妄想に近いものです。よく考えて下さい、他国が襲われることによって、日本の存立が危うくなり、日本人の人権が完全に否定されるケースなどが本当にあるでしょうか。

 この問題についても、首相は、我が国の必要な石油の8割がホルムズ海峡を通ってくることを強調しておりました。しかし、日本は2度のオイルショックを乗り切り、現在では備蓄も、代替エネルギーもあります。集団的自衛権の行使をどうしても容認させるための、無茶苦茶な論法になっていることがお分かり頂けるかと思います。

(つづく)
【聞き手・文:金木 亮憲】

 

<プロフィール>
小林 節(こばやし せつ)小林 節(こばやし せつ)
慶應義塾大学名誉教授・弁護士。法学博士、名誉博士(モンゴル・オトゥゴンテンゲル大学)。1949年東京都生まれ。1977年慶大大学院法学研究科博士課程修了。ハーバード大学ロースクール客員研究員を経て1989年~2014年まで慶大教授。その間、北京大学招聘教授、ハーバード大学ケネディ・スクール・オヴ・ガヴァメント研究員等を兼務。著書として、『「憲法」改正と改悪』、「『白熱講義!日本国憲法改正』、『白熱講義!集団的自衛権』等多数。

 

 

 


「積極的平和主義」とは「軍国主義」(1)(2)  慶應義塾大学名誉教授・弁護士 小林節氏

2015-03-17 22:03:42 | シェアー

http://www.data-max.co.jp/politics_and_society/2014/10/19368/1010_knk_01/

「積極的平和主義」とは「軍国主義」(1)
集団的自衛権の今後を占う 

2014年10月10日17:37

慶應義塾大学名誉教授・弁護士 小林 節 氏

 政府は7月1日の臨時閣議で、従来の憲法解釈を変更し、歴代内閣が長年、憲法9条の解釈で禁じてきた「集団的自衛権」の行使を認める決定を下した。1954年の自衛隊発足以来堅持してきた“専守防衛”の理念を逸脱する戦後安全保障政策の大転換である。「憲法」を骨抜きにする決定が、国民の声を聞くことなく、政府の一存で下される。本当に、こんなことが許されるのか。論客、慶応義塾大学名誉教授・弁護士の小林節氏に聞いた。

<権力者というのは我々と同じ「不完全」な人間>

 ――今回の閣議決定の内容にはとても驚きました。しかしその反面、国民が「憲法」というものを身近に感じ、真剣に考えるいいチャンスとも思っています。先生にとって、憲法とはどのようなものでしょうか。

慶應義塾大学名誉教授・弁護士 小林 節 氏 小林節氏(以下、小林) 僕にとってというよりも、世界の常識として、「憲法とは、主権者である国民が権力者を管理する法」のことを言います。権力者というのは、政治家や公務員のことを言い、我々と同じ不完全な人間です。偶々、選挙等で手を挙げて選ばれ、一時的に国家権力という大権を預かっているに過ぎません。国家権力とは、個人が持っていない軍隊、警察、税務署等の実力を有する国家機構のことです。そして、権力者が権力を濫用する傾向にあることは、過去何千年の歴史の中で明らかにされています。

 歴史的に見れば、王様国家では、王が神の子孫と名乗っていたこともあり、法で管理することは畏れ多いと考えられていました。しかし、王様国家が終わり、例えばアメリカの独立のように民主国家になり、普通の人が大統領になることがはっきりすると、前もって権力の在り方の外枠を決めておく必要性が出てきました。そこで、主権者である国民が憲法を使って、権力者を管理することにしたのです。

<不幸な「歴史的経緯」が正しい理解を妨げた>

 ――とても明解ですね。しかし、諸外国と比べて日本人と「憲法」にはかなり距離があるように感じています。

 小林 その通りです。それには、2つ理由があります。1つ目は、現在の憲法ができる前に、日本には「大日本帝国憲法」(1890年・明治23年施行)しか存在しなかったことによります。大日本国憲法は、それまでの約300の藩を束ねた封建的な幕藩体制に基づく君主政から、近代的な官僚機構を擁する君主政に移行、明治天皇(明治大帝)の御旗のもとに1つの国になったことによって作られています。そこには前文にあたる「憲法発布勅語」のさらに前に「告文」(王や皇帝が臣下の人々に対して告げる文章)というのが有り、その中には「皇祖」(天皇陛下の祖先)や「皇宗」(天皇家の代々の先祖)の文言もあり、この文章が代々の神々のご意向として存在し、それを臣民に下げ渡したものとなっています。つまり、近代国家日本において、憲法とは神々しいものであったわけです。

 そして、2発の原爆投下で日本が敗戦し、今度は、神たる天皇を降ろしたアメリカ軍のマッカーサー元帥から、英文で下げ渡された現在の「日本国憲法」に突如変わりました。つまり、日本はアメリカのように独立戦争で民主国家を成立させ、民衆が憲法を制定したわけではありません。そこで、不幸なことに、歴史的経緯から、憲法というものは「有り難く、触れてはならず、神棚に飾っておくもの」という誤った理解が日本人の心に残ってしまったわけです。このことが、世界の常識である「憲法とは主権者である国民が権力者を管理する法」という本来の理解を遠ざけてしまった大きな理由です。

<「六法」という言葉が憲法の特殊性を見誤らせた>

 2つ目は、「六法全書」という言葉が、結果的にではありますが、国民の正しい理解を妨げてきたと感じています。日本の基本的な法は6分野あります。私人間の取引は民法で、その変形が商法、民法や商法のトラブルは民事訴訟法で、犯罪が刑法で、刑法上のトラブルが刑事訴訟法で処理すると、5法ができています。これらは何れも、国家の権威を背景に、国家が国民に対してあるべき法的基準を示し従わせるもので、国家の権威によって国民を縛る機能のものです。そして、六法の中に憲法も含まれ、最高法とも呼ばれることから、いわばこれらの法律の「親玉」みたいな存在だと思い込んでおられる方が多くいます。

 しかし、それは誤りです。憲法だけは全く異質ものなのです。従って、正しくその関係を表すと「憲法+五法全書」ということになるのでしょう。憲法は我々国民が守るものではありません。主権者である国民が、一時的に権力を預かっている、「権力者」(政治家や公務員など)に守らせ、監視するためのものです。そのために、憲法を改正する場合には、政治家たちからの提案に加えて、主権者である国民による投票が絶対に必要なのです。

 

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「積極的平和主義」とは「軍国主義」(2)
集団的自衛権の今後を占う 

慶應義塾大学名誉教授・弁護士 小林 節 氏

 政府は7月1日の臨時閣議で、従来の憲法解釈を変更し、歴代内閣が長年、憲法9条の解釈で禁じてきた「集団的自衛権」の行使を認める決定を下した。1954年の自衛隊発足以来堅持してきた“専守防衛”の理念を逸脱する戦後安全保障政策の大転換である。「憲法」を骨抜きにする決定が、国民の声を聞くことなく、政府の一存で下される。本当に、こんなことが許されるのか。論客、慶応義塾大学名誉教授・弁護士の小林節氏に聞いた。

<憲法とは主権者国民が権力者を管理する法です>

 ――先生は30年来の改憲主義者と言われております。しかし、昨年の「96条改正案」、そして今回の「集団的自衛権解禁」については、強く疑義を抱かれています。

 小林 今の憲法では、右、左どちらの人が権力を握っても、お互いの思想良心が守られなくてはいけないということになっています。私は自民党の人達とのお付き合いも長いのですが、今の自民党改憲主流派の人達は、そんな最低限のマナーさえ、なくしてしまいました。安倍首相はその筆頭です。

hinomarukokki 自民党改憲主流派の人達は、「この世の中は乱れている。一人一人が社会に対する連帯意識とか、公に対する責任感がなさすぎる。これは現在の個人主義憲法が原因である。明治憲法では、家制度があり、日本という大家族では天皇がお父さん、それぞれの家でも戸主であるお父さんが一番偉くて、結婚にも親の許しが必要だった。そのような社会や家族の絆が崩れている。改憲して社会の絆を取り戻そう」とか「国を愛しなさい」と言います。
 国を愛することはとても大切なことだと思います。しかし、それは憲法論議とは別次元の問題です。さきほどから、何回も申し上げているように、そもそも、「憲法とは主権者である国民が権力者を管理する法」です。政治家が、憲法で国民に対して枠をはめることなど、本末転倒しているわけです。

<思想良心の自由に対する人権侵害となります>

 愛というのは心の作用です。つまり好き嫌いの問題であって、その理由に説明をつけることはできません。説明がつくものであれば、「間違っている」と論理的に指摘されれば、反省し、直すことができます。しかし、好き嫌いは直しようがありません。こうした心の作用に国家権力が介入することは、それこそ思想良心の自由に対する人権侵害となり、憲法違反になります。

 では、どうすれば愛国心は育つのでしょうか。もちろん、憲法で「国を愛しなさい」と何度謳っても愛国心は育ちません。「この国に、この時代に、この両親の元に生まれて、この仲間と暮らせてよかった、幸福である」と国民が思えれば、自然に備わるもので、それ以外のどんな方法でも育つことはありません。答えは簡単です。政治家たちが良い政治を行い、国民に自由と豊かさと平和を享受させることです。良い政治を行わないから、愛国心が崩れているのです。その努力を全くせずに、政治家が「愛国心を持ちなさい」と命じるのは、はなはだ筋違いと言えます。

<愛される国づくりができれば、国民は国を愛します>

 大物閣僚などが高額の賄賂をもらい逮捕される事件を何度も見せつけられる。「お国のために全身全霊を尽くします」と言っては、裏で私腹を肥やす政治家が多くいます。そこで、国民が馬鹿らしくなり、「俺たちも勝手にするよ」ということになっているだけです。国民の代表である政治家が襟を糺すことなく、国民に「国を愛しなさい」と言うのは冗談以外の何ものでもありません。

 国民に愛される国づくりができれば、国民は国を愛すものです。それを、その努力もせずに、強制しようとすることは独裁国家に等しい行為です

 今回の自民党改憲案では、そもそも手続きの前提、方向性が全く逆です。憲法は、世界の常識として「主権者である国民が権力者を管理する法」ですが、自民党の改憲案では、「全国民が憲法を守る義務がある」と全く逆のことを言っています。これは主権者である国民の地位を危うくするばかりではなく、憲法の本質を覆すことになり、憲法学者としては絶対に見逃すわけにはいきません。
 同時に、国民の皆さんにも、この点をご理解頂き、政府のトリックを見抜いて欲しいと思っています。

<離婚や不倫が憲法違反で犯罪になる日がきます>

 もう1つ、今回の自民党の憲法改正案では、和を尊ぶ、「家庭を大事に」と言った内容が憲法に盛り込まれています。和を尊び、家庭を大事にすることは当たり前のことです。
 しかし、これを憲法に盛り込むことはいけません。先ず、現状では民法と齟齬が生じてしまいます。
 もし、本当に憲法に「家庭を大事にする義務」が定められたら、離婚や不倫は憲法違反になります。この自民党の草案を作った政治家は離婚も不倫も絶対にしないのでしょうか。そんなことはないと思います。それは人間の本性に由来する、よくあることなのです。自民党の起草者たちは、単純に勉強不足で、「憲法とは何か」ということが全く理解できていないのだと思います。しかし、一旦この改憲案が成立してしまえば1人歩きすることになります。充分に注意しないといけません。

(つづく)
【聞き手・文:金木 亮憲】

 

<プロフィール>
小林 節(こばやし せつ)小林 節(こばやし せつ)
慶應義塾大学名誉教授・弁護士。法学博士、名誉博士(モンゴル・オトゥゴンテンゲル大学)。1949年東京都生まれ。1977年慶大大学院法学研究科博士課程修了。ハーバード大学ロースクール客員研究員を経て1989年~2014年まで慶大教授。その間、北京大学招聘教授、ハーバード大学ケネディ・スクール・オヴ・ガヴァメント研究員等を兼務。著書として、『「憲法」改正と改悪』、「『白熱講義!日本国憲法改正』、『白熱講義!集団的自衛権』等多数。

 

 


右翼系学者の「侵略」理解とは? 歴史を見る目歪める「北岡発言」・長谷川三千子

2015-03-17 15:11:41 | シェアー

右翼系学者の「侵略」理解とは?

長谷川三千子:保守系政治団体日本会議代表委員。NHK経営委員。埼玉大学名誉教授。

長谷川三千子は安倍晋三の大ファンらしいが、晋三の祖父・岸信介の「あれは侵略だった!」発言をどう思うのかな?

   youtube➡ 安倍首相の祖父・岸信介衝撃発言!あれは「侵略戦争だった

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産経ニュースhttp://www.sankei.com/column/news/150317/clm1503170001-n1.html

2015.3.17 05:02更新

【正論】
歴史を見る目歪める「北岡発言」 埼玉大学名誉教授・長谷川三千子

≪定義づけのない「侵略戦争」≫

 「私は安倍さんに『日本は侵略した』と言ってほしい」-3月9日、或(あ)るシンポジウムの席上で北岡伸一氏が述べたと伝えられるこの発言は、大変な問題発言と言うべきものです。「安倍談話」について検討する懇談会の座長代理を務める方が、いわば場外である公の場で自らの私見を述べる、というマナー違反もさることながら、一番の問題は発言の内容です。

 日本が侵略戦争をしたのか否かという話を政治の場に持ち込んではならない-これは単に、そういう問題は歴史学者にまかせておけばよいから、というだけのことではありません。もしも本当に学問的良心のある歴史学者ならば、そんな問いには答えることができない、と突っぱねるはずです。

 なぜなら「侵略戦争」という概念そのものが極めていい加減に成り立ったものであって、今に至るまできちんとした定義づけがなされたためしはないからなのです。

 ここで簡単に「侵略(アグレッション)」という言葉が国際法の舞台に登場してきた経緯を振り返ってみましょう。今われわれが使っているような意味での「侵略(アグレッション)」という言葉が最初に登場するのは、第一次大戦後のベルサイユ条約においてです。

いわゆる「戦争責任(ウォー・ギルト)」条項として知られる231条には「連合国政府はドイツおよびその同盟国の侵略により強いられた戦争の結果、連合国政府および国民が被ったあらゆる損失と損害を生ぜしめたことに対するドイツおよびその同盟国の責任を確認し、ドイツはこれを認める」とあります。

 そして、このような罪状によって、ドイツには連合国の戦費すべてを負担する全額賠償という巨額の賠償が負わされたのでした。

≪敗戦国だけに責任負わせる概念≫

 では、そのような重大な罪であるドイツの「侵略」はどんな根拠に基づいて認定されたのかといえば、ほとんどいかなる客観的検証もなされなかった。むしろ逆に、前例のない巨額の賠償を根拠づけるために、降伏文書では単なる普通の武力攻撃を意味していた「アグレッション」という語を、重大な罪を意味する言葉「侵略」へと読みかえてしまったのです。

 現在のわれわれは、第一次大戦がいわば誰のせいでもなく起こってしまった戦争-各国のナショナリズムの高揚の中であれよあれよという間に拡大してしまった大戦争だったことを知っています。

 その戦争の原因をもっぱら敗戦国だけに負わせる概念として登場したのがこの「侵略」という言葉だったのです。こんな言葉を使ったら、歴史認識などというものが正しく語れるはずはありません。

でも、それからすでに100年近くたっているではないか。こんなひどい概念がそのままということはあり得ない、と言う方もあるでしょう。確かに、第一次大戦と第二次大戦の間には不戦条約というものが成立して、それに違反した戦争は違法な侵略戦争である、という言い方ができるようになってはいました。

 ところが不戦条約には米国の政府公文の形で、この条約は自衛権を制限するものではなく、各国とも「事態が自衛のための戦争に訴えることを必要とするか否かを独自に決定する権限をもつ」旨が記されています。現実に個々の戦争がこれに違反するか否かを判断するのは至難の業なのです。

≪「力の支配」を肯定する言葉≫

 第二次大戦後のロンドン会議において、米国代表のジャクソン判事はなんとか「侵略」を客観的に定義づけようとして、枢軸国のみを断罪しようとするソ連と激しく対立しますが、最終的にはその定義づけは断念され、侵略戦争の開始、遂行を犯罪行為とする、ということのみが定められました。しかも、それは枢軸国の側のみに適用されるということになったのです。そしてその後も、この定義を明確化する国際的合意は成り立っていません。

 つまり、「侵略」という言葉は、戦争の勝者が敗者に対して自らの要求を正当化するために負わせる罪のレッテルとして登場し、今もその本質は変わっていないというわけなのです。この概念が今のまま通用しているかぎり、国際社会では、どんな無法な行為をしても、その戦争に勝って相手に「侵略」のレッテルを貼ってしまえばこちらのものだ、という思想が許容されることになるといえるでしょう。

 こんな言葉を、安倍晋三首相の談話のうちに持ち込んだら大変なことになります。首相がしきりに強調する「未来志向」ということは、もちろん当然正しい歴史認識の上に立って、平和な未来を築いてゆくのに役立つ談話を出したい、ということに違いない。だとすれば、歴史を見る目を著しく歪(ゆが)めてしまうような言葉や、国際社会において、「法の支配」ではなく「力の支配」を肯定し、国家の敵対関係をいつまでも継続させるような概念は、決して使ってはならないのです。国際政治がご専門の北岡さんには改めて、本来の学識者としての良識を発揮していただきたいものです。(はせがわ みちこ)