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大仙院

2010年03月11日 | 京都
静かな大徳寺の山内を歩いて、やはり塔頭の一つの大仙院にやってきました。



手前から奥に延びる石畳を大きな松の先で左に折れると大仙院です。

実は大仙院では写真撮影はできませんので、写真はありません。

ここの方丈も周りを庭園で囲まれています。

特に、方丈の北東にある枯山水庭園は有名です。しかし、実際に目にすると、その地割の狭さとそこにある石の多さに驚くのではないでしょうか。

石は極めて特徴的で、説明がなくても普通の感覚の持ち主であれば、これが滝、これが橋、これが舟、とすぐにわかるように極めて具象的です。

深山の滝を流れ落ちた水が海に注ぐまでの様子を、石でもって具象的に表現しています。その意味では、本当によくできていると思います。ただ、ここまで具象的だと少しやりすぎではないのか、という思いがします。しかしながら、よくぞこれだけ特徴的な石を集めたものだと感心します。

一方、方丈の南庭は、「ほとんど何もない」白砂の庭です。南西の隅に沙羅双樹の木が一本、そして本尊の前の位置辺りに盛砂が二つ、あるのはこれだけです。ところが何故か、この庭を前にすると心が落ち着くのです。前回もそうでしたが、今回もそうでした。

いつも独り貸切の状態であったとはいえ、何も無い庭なのに何故気持ちが落ち着くのだろうと不思議な気がしました。今回気がついたことなのですが、その理由は結局「何も無い」からなのではというのが私の結論です。

庭の東側は玄関で、南と西側は生垣と木々で囲われています。この緑の囲いのために、周辺の建物は見えません。結局、目の前に広がるのは、緑で囲われた白砂の庭だけになります。色彩でいえば、白と緑だけなのです。

特別なものが何もないということは、視線も意識も特に向かうべき対象が存在しないことです。その結果、視線も意識も自らのおもむくままに、自由に庭の中をさまよう事になります。時々、盛砂や沙羅双樹に向かいますが、直ぐにまた離れてしまいます。

特別なものが目の前にあれば、どうしても視線と意識がそれに束縛されてしまいます。何も無いことによって、視線と意識は自由を得ることができるのです。

心が落ち着くと感じるのは、視線と意識が解放された心地好さなのかもしれません。

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