「日本はこれから中国のウイグル地域に注目しなければならない。」一昨年から対談等でそう言って来た休職中の外務省職員、「ラスプーチン」こと佐藤優氏については今さら紹介するまでもなかろうと思う。
最近の著作では「獄中記」等がある。氏は中央アジアの民族問題についても知識十分であることは昨年の著書「国家の崩壊」で知られている。藤原正彦氏との対談はこちらから。
http://blog.goo.ne.jp/taraoaks624/e/97a7ce8d7a379d46febacd0f4ebb880c
さてその佐藤氏はSAPIOの07年3月14日号の連載、Intelligence Databaseで中国とバチカンの接近の問題でウイグルに関連してこのようなコメントを出した。
http://seiji.yahoo.co.jp/column/article/detail/20070314-02-0401.html
中国インテリジェンスの最も弱い部分は、宗教に関する基礎研究である。具体例を挙げよう。
中国は以前からウイグル人の民族運動を警戒していた。東トルキスタン共和国を建設しようとする民族運動家に関する情報を丹念に収集し、新疆ウイグル自治区でも民族活動家に対して過酷な弾圧を加えている。しかし、イスラム教に関して、中国共産党のイデオロギー官僚は「遅れた迷信で、文明化とともに自ずから消えてなくなる」程度の認識しかもっておらず、結果としてかなり寛容な政策がとられていた。ウイグル人がハッジ(大巡礼)、ウムラ(小巡礼)で中東に出国することも比較的に容易だった。
しかし、1990年代末より、巡礼に出たウイグル人で中国に帰国しない者が増え始めた。それと同時にチェチェンやボスニアの原理主義武装集団の戦闘員に加わるウイグル人が増えている。ロシアはチェチェンで拘束したウイグル人を例外なく中国に送還している。これらウイグル人は中国の公安(警察)、国家安全局(諜報機関)から徹底的な尋問を受けた後に、裁判にかけられ、ほとんどの者が死刑になっているという。中国が、イスラム原理主義がウイグル族や回族(中国人イスラム教徒)に与える危険を認識しだしたのは過去数年のことだ。
<iframe align="left" marginwidth="0" marginheight="0" src="http://rcm-jp.amazon.co.jp/e/cm?t=truthofsilkro-22&o=9&p=8&l=as1&asins=4000027727&fc1=000000&IS2=1&lt1=_blank&lc1=0000FF&bc1=000000&bg1=FFFFFF&f=ifr" frameborder="0" scrolling="no" style="WIDTH: 120px; HEIGHT: 240px"> </iframe>中国が現在「東トルキスタン共和国を建設しようとする民族運動家に関する情報を丹念に収集し、民族活動家に対して過酷な弾圧を加えている」のはそのとおりである。しかし、「中共のイデオロギー官僚はイスラム教が『おくれた迷信』で文明化とともに自ずからなくなると思っていた。」というのは本当だろうか?
ここで「東トルキスタン共和国研究」の神戸大学教授、王柯氏の1996年の著作「ウイグルアイデンティティの再構築」(岩波 「イスラム原理主義とは何か」に掲載)から引いてみよう。王柯氏の研究には批判も多いが少なくとも中国の対少数民族政策に対しては正しくトレースしていると思えるからである。
王柯教授によれば中共の対ウイグル宗教政策は性格の転換によって2つの時期に分けることが出来る、「新疆解放」より文化大革命の終結に至るまでは、イスラームは国内外の反共産党勢力により利用されやすく、「イスラムが宗教的支配地位を手にすれば、野望を持つイスラム首領は政治支配権を奪いたくなる。」(李泰玉、1979)というのが基本的認識であり、そのため名目的な信仰の自由は許されたが、宗教の行政、司法、教育等への関与、礼拝や巡礼以外の集団的宗教活動は禁止された。その結果イスラム初等学院(マクタプ)やモスク、イスラム法学者は激減してイスラムは自生自滅の状態になった。文化大革命がそれに拍車をかけたことは言うまでもないところであると思う。
これが変化したのは1980年代からの改革開放の時代である。1982年の中国共産党中央委員会第19号文件では宗教弾圧が少数民族の反感を増大させると認め、「自由な宗教活動」を明言したのであるという。その結果、新疆社会科学院の調査によればモスクの大量建設、マクタプの増加、巡礼者の増加(メッカ巡礼の意味かは不明)、ウラマーの権威の復活、共産党員の宗教行事への参加が見られた。ちなみにウイグル族がメッカへの巡礼が許可されるようになったのが1979年からであるという。またウイグルの著名な文化人マフメド・カシュガリーやユースフのマザール(聖廟)が政府の力によって復興されたのもこの時期であろう。これを王柯教授はウイグル独自ののイスラム復興であるとしている。もちろんこのイスラム復興は無神論を金科玉条とする中国共産党統治下のもの
であるから無制限の「信仰の自由」を保障するものではなかった。「宗教無信仰の自由と無宗教者に対する差別の禁止」という面があり共産党員の宗教信仰は堅く禁止されている。
もちろんこれらの政策は90年代末から変化して、イスラム初等学院は登録制になるという事実上の禁止となり、モスクの建設、宗教的行事にしても厳しい制限がかかるようになってきた。このことはヒューマンライツウォッチらの報告書「毀滅的打撃 Devastating Blows」に書いてあるとおりである。
また、佐藤氏の言うウイグル人のチェチェン戦争への参加、逮捕、中国への送還であるが、確かに2000年にKurban Abdulaikという名のウイグル人がダゲスタンでロシアに逮捕されて中国へ強制送還されたという報道があった。
http://news.bbc.co.uk/1/hi/world/europe/831679.stm
しかしながら、このブログをはじめた2005年から現在にかけてそういった情報は英語メディアでは流れていないと思う。佐藤氏独自のロシアからの極秘情報なのであろうか。
ウイグル地域での「イスラム原理主義」の浸透、そしてチェチェン紛争などへの参加。それは断片的に伝えられるものの確実なソースで伝わることはほとんどない。ここでNYTやFTなどでもコメンテーターとして活躍しているというカナダの中央アジア政治分析者アンドリュー・マクレガー氏の1月5日新疆パミール高原コスラップ事件についてのレポートから引きたい。
http://www.cacianalyst.org/view_article.php?articleid=4735
「多くのウイグル人はイスラムのスーフィ秩序のメンバーで、アルカーイダとの協力に欠かせないサラフィー派イスラム(いわゆるイスラム原理主義)への関心はない。スーフィーがアルカーイダと協力しているという実例はほとんどない。そればかりかスーフィの礼拝方式は異端として撲滅しなければならないとオサマ・ビン・ラディンやその仲間に攻撃されている。しかしながら1990年代にはタリバンでの軍事訓練が反アメリカのビン・ラディンのジハードではなく中国からの分離のためとして必要だとして参加したウイグル人がいることがわかっている。パキスタンのISIから訓練を受けたウイグル人がいたかもしれない。」
「タリバンやジュマ・ナマンガニ率いるIMU(ウズベキスタンイスラム運動)とともに戦ったウイグル人もいるし、1999年に始まった、第二次チェチェン戦争のイスラム戦士に加わったウイグル人もいる。然るに2001年の外国でのジハードグループで戦ったウイグル人は数百人以下であるし、その年から大きく減少しつつある。ウイグル分離主義運動は広範な目的と方法をとっており「ジハード主義あるいはイスラム(原理)主義は断片に過ぎないということを記するのが重要である。」
佐藤氏は中国が西部の国境ではイスラム原理主義との対応に手一杯であるとの分析でバチカンとの接近を論じているのであるが、その中でウイグルの実態についてイスラム原理主義をとにかく強調するその姿勢は疑問符がつく。
思えば、チェチェン問題にしても佐藤氏はイスラム原理主義者とロシアとの狭間で苦しむ一般のチェチェン人に対するまなざしがほとんどない。
この件についてはウェブ上で林克明氏や大富亮氏らのジャーナリストによる批判を聞いたことがないがどうであろうか。
国家権力の均衡によって国際社会の状況はきまるという「国家主義者」である佐藤優氏のそれが限界なのかもしれない。
ラビア・カーディル紹介サイト↓
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