民主党の岡田克也幹事長は2011年8月25日、卒業会見にのぞみ、衆参ねじれ国会で、「衆議院での3分の2条項をなるべく使わないように、公明党との協議を優先した」と述べました。そのうえで、「10年間与党をやってきて、自公の絆はなかなか強かった」として、民自公の3党協議に切り替えたことを明らかにしました。
その理由として、記者の質問に答えて、「公明党は、新進党のときからやってきた身近な存在だ。新進党のとき、あのときは一つの党でしたが、信頼できる人も多い」と述べ、新進党の枠組みを活用して、ねじれ国会を乗り切ろうとしたことを明らかにしました。特例公債法案(子ども手当、農業者戸別所得補償など4k見直し)の協議では、最後は公明党が賛成に回ろうとし、自民党が慌てて党議決定することもありました。
また、初当選のとき、中選挙区で自身が初当選したあおりで、政調会長(政審会長)でありながら落選の憂き目を浴びた坂口力さんが引退を撤回して、厚生労働大臣経験者としての知識と経験をいかして、子ども手当の所得制限と年少扶養控除のバランスに関する坂口試案を軸にしてまとまりました。
新進党を破壊した小沢一郎(氏)の処分に時間がかかったことについては、「本人がすんなり受け入れていればこんな風にはならなかった」、「党内が混乱した」とし、小沢(氏)が衆議院政治倫理審査会での説明を拒んだことから、処分決定に時間がかかったとし、「処分問題を除くと、小沢グループと呼ばれる人たちがひっかかることは他に無いのではないか」とし、これにより、党内で岡田さんを悪く言う人が増えたことは、菅直人首相・代表から幹事長就任を要請されたときと同様に、「天命だ」とたんたんとしました。
「天命」とは「天によって定められた人の宿命」のことです。
また、3・11の原子力災害と震災について、菅総理は「真っ暗闇の中を手探りで進んだ」とし、「閣僚の中にはストレスで人知れず悩んだ人もいた」とし、精神的な症状があった閣僚がいたことを実名はあげずに明らかにしたうえで、菅さんを「歴代のなかでも抜きんでたタフな首相だった」と持ちあげました。
そして、「心残りは党改革と政治改革ができなかったこと」としながら、「法案はできている」と述べ、与野党の調整ができれば、提出できるとの構えをみせました。
記者からの「ポスト菅に名前が上がらないなど、失うモノが多かったか?」との質問には「大事なことは民主党が信頼を回復すること。個人的にはずいぶんご批判をいただいたが、そういったことを冷静にみている国民や、国会議員はいると思う。それも含めて天命だと思う」とたんたんと語りました。そのうえで「4人目はありえない」とし、来年9月の代表選(解散がなかった場合)にも出馬しない考えを表明しました。幹事長退任後について、「これからやりたいことはいろいろある」とし、「新総理からこれは天命だと思う仕事を頼まれれば引き受けるか?」との問いには、「天命という言葉はそうちょくちょく使う言葉ではない」と笑いました。
11ヶ月間にわたる3度目の幹事長職、与党としては初の幹事長職でしたが、半分は小沢(氏)問題、半分は特例公債法案で終わってしまった感じです。新進党解党を防げず、民由合併で悪魔を民主党におびきよせてしまった2つの後始末だけで、終わってしまった感があり、日本を前に進めるバトンは次の幹事長に引き継がれることになります。

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ところで、まったく関係のない話を書きます。
代表選出馬要請を受けた鹿野道彦さんがなかなか「決断」をしませんが、過去にも似たようなシーンがあり、思い出しました。最近の国会議員はwikipediaが好きですが、初代民主党執行部は、菅代表、石井一国会対策委員長、横路孝弘・総務会長となっています。しかし、実は、菅初代代表は、鹿野さんに国会対策委員長を依頼しています。この時点の民主党のベテランは、寄り合い所帯ですが、今と違って与党経験がやたら長い人と、野党経験が長い人が二分されていました。与党経験が長い鹿野さんは、自民党では3役と呼ばれている総務会長(現在は常任幹事会議長に改組・改称)という言葉に憧れたようで、菅初代代表サイドには伝えていたようです。しかし、ここで、野党経験の長いベテランらが、「野党と与党は反対で、総務会長よりも、国対委員長の方が野党では格上だ」と指摘しますが、鹿野さんはあまり人の言うことを聞かない人のように、13年前に私は感じました。どうも、与党が長い人も野党が長い人も最終的には鹿野さんが総務会長にこだわり、国対委員長を拒む理由がよく把握できなかったようです。これとは直接の関係はないと思いますが、当時既に長老議員だった石井一さんが自ら菅さんに「オレが国対委員長として切り込み隊長になる」と申し入れて、国対委員長に就任しました。ピンさんは「菅は、菅は」と代表を呼び捨てにし、「オレが大臣のころ、菅は野党の若手だったからよく質問してきたけど鋭かったよ。ああいう奴が伸びるんだよなあ。国会議員は野党スタートがいいな」と若手に教えて、大喜びされます。このときの若手というのが、安住淳さん、原口一博さんらの世代になります。一方、自民党出身者から羽田孜幹事長、石井一国対委員長がきまったので、総務会長は社会党系にさざるをえなくなり、北海道知事3期を経て、2年前に国政復帰していた横路孝弘さんが総務会長となり、鹿野さんは無役となってしまいました。その後も、副代表や、ネクスト農相などしか役職に就いたことがありません。最近の鹿野さんをみていると、あのときに似ているなと思ったので参考までに書きました。それから、民主党1期生議員に対して「赤坂で飲んでいるんじゃない」「国会議員になってから真の友達はできない」と書いてきた意味も、ようやく最近分かっていただけた方も多いかと思います。別段、代表選に対して、何か影響を与えたい狙いはまったくございませんので、私を叩かないでください。もう疲れました。