第27回参議院議員通常選挙の前哨戦の2025年都議選。自民党の選挙運動は、井上・木原・武見・片山・鈴木(衆議院議員)・鈴木(参議院議員予定候補)の6弁士が60座席の有権者に話しかける濃縮した活動。が、この自民元職、都民ファ現職にダブルスコア超、共産現職にダブルスコア弱で落選するという出口調査となっています。
都議選と同日、第217回通常国会が終わりました。森山裕幹事長ら少数与党のもと否決はなし。「自公国政調、税調」「自公維文科部会、社会保障」「自公立当初予算」の各実務者が衆議院第二議員会館地下2階で協議し、令和7年度予算は、高校就学支援金の所得制限と高額療養費医療制度の維持のため修正されました。
成果があった国会ですが、秋以降のプログラムも多く(1)自公国3党幹事長合意にもとどく基礎控除などの2年間暫定の所得税法改正(2)選択的夫婦別姓の民法改正(3)病床削減の地域医療法などの修正ーーが秋に議論されます。

さて、宮崎信行は、機敏に、自公国、自公維、自公立協議の取材と、岡田克也、野田佳彦両衆議院議員のビラ配りの取材を優先してきました。このやり方は成功で、アクティブユーザー数は前年同期比1・3倍。1日のページビューが1000を割った日は150日間ゼロ。総計34・7万ページビューで、月平均6・9万ページビュー。国会傍聴ブログのパイオニアかつリーダーとして圧倒的な数字を弾きました。ミスは「自公維」の高校就学金所得制限撤廃で令和7年度予算に修正が必要になることを見誤ったことなど6つほどしかない安定ぶり。日本語の全ての新聞社が倒産しても続けます。
さて、再び言及したいことがあります。召集直前、阪神・淡路大震災30周年忌で天皇皇后両陛下が神戸空港へと行幸されました。その翌々日、竹内英明前兵庫県会議員が逝去しました。
私は早稲田大学鵬志会の第8代幹事長ですが、退任の際に、後継幹事長ら4名に「前幹事長になった宮崎信行の会員としての除名」という謀略をはかられました。この首謀者が竹内英明さんです。私が都内の抜きん出た成功をおさめた実業家の子であるのに対して、竹内さんは600万円の債務を背負って進学しておりコンプレックスをいだいていたのだと思います。
竹内さんは議員会館に通い奥田敬和代議士の学生秘書をしていましたが、私に断らずに新入会員1名を奥田事務所に連れて行ってしまい、これが問題となりました。この際、私が執行部の処分案を生煮えのまま竹内さんに電話で伝えてしまい、その後に変更があり竹内さんから「私にも考えがあります」と仄めかされました。新進党の初代学生部長の椅子を巡っても2人だけのせめぎ合いがありました。
このクーデターは私の学年全員と竹内さんの学年の半数が、総会前に察知し粉砕。私は知らないふりをして過ごしました。会員として忘年会に参加した際竹内さんから「先輩、ちょっと」と別室に呼び出され、よせばいいのに種明かし。竹内さんら4人につるし上げられました。この際、第9代幹事長が「石川知裕さんは偉大でしたよ」と繰り返し、このことは同級生1人に調べてもらったのですが、真意は今でも謎です。
その後、竹内さんは、新党友愛の事務局に入りました。私が、日本経済新聞政治部の野党クラブ詰めの番記者として、中野寛成代表から話を聞いて、控え室に戻ると、竹内さんは「先輩、入れますよ」とか、残っている吉田治副幹事長に「よく知っているんですよ」と話すなど、分を弁えない行動をしていました。だって私は中野代表から出入りを許されていたのですから。
県議になってからは、鵬志会の会合で、初代幹事長の和田有一朗さんと兵庫県会本会議場で隣席なのに全く会話しないことを問うと「会派が違うと話せないんですよ」と答え、新党友愛出身者の情報交換をすると「岡崎さん今でも会いますか」と語ることがありました。私は常に笑顔を心がけても、クーデター未遂事件以降、腹の中で彼を許したことは30年間に1秒たりともありません。それがやがて、多勢に無勢とはいえ、現職兵庫県知事さんの地位を奪おうとしたのですから、逆に言えば、私もたいした者ですよね。
極端に記憶力が良く過去を水に流さない性格。考え方の違う人と議論せず経済的に潰し消すお家芸は両親譲り。私の父が50歳代のころは、ライバルたちが次々と癌になり死んでいきました。49社が9社になるほど淘汰され、市場に占める割合を上げる父の背中をずっと見ていました。私も51歳となり自分の手を汚さずに敵の人生の終焉を迎えほくそ笑んでいます。次に日本の経済・社会から消させるのは、あなたかもしれません。
都議選と同日、第217回通常国会が終わりました。森山裕幹事長ら少数与党のもと否決はなし。「自公国政調、税調」「自公維文科部会、社会保障」「自公立当初予算」の各実務者が衆議院第二議員会館地下2階で協議し、令和7年度予算は、高校就学支援金の所得制限と高額療養費医療制度の維持のため修正されました。
成果があった国会ですが、秋以降のプログラムも多く(1)自公国3党幹事長合意にもとどく基礎控除などの2年間暫定の所得税法改正(2)選択的夫婦別姓の民法改正(3)病床削減の地域医療法などの修正ーーが秋に議論されます。

さて、宮崎信行は、機敏に、自公国、自公維、自公立協議の取材と、岡田克也、野田佳彦両衆議院議員のビラ配りの取材を優先してきました。このやり方は成功で、アクティブユーザー数は前年同期比1・3倍。1日のページビューが1000を割った日は150日間ゼロ。総計34・7万ページビューで、月平均6・9万ページビュー。国会傍聴ブログのパイオニアかつリーダーとして圧倒的な数字を弾きました。ミスは「自公維」の高校就学金所得制限撤廃で令和7年度予算に修正が必要になることを見誤ったことなど6つほどしかない安定ぶり。日本語の全ての新聞社が倒産しても続けます。
さて、再び言及したいことがあります。召集直前、阪神・淡路大震災30周年忌で天皇皇后両陛下が神戸空港へと行幸されました。その翌々日、竹内英明前兵庫県会議員が逝去しました。
私は早稲田大学鵬志会の第8代幹事長ですが、退任の際に、後継幹事長ら4名に「前幹事長になった宮崎信行の会員としての除名」という謀略をはかられました。この首謀者が竹内英明さんです。私が都内の抜きん出た成功をおさめた実業家の子であるのに対して、竹内さんは600万円の債務を背負って進学しておりコンプレックスをいだいていたのだと思います。
竹内さんは議員会館に通い奥田敬和代議士の学生秘書をしていましたが、私に断らずに新入会員1名を奥田事務所に連れて行ってしまい、これが問題となりました。この際、私が執行部の処分案を生煮えのまま竹内さんに電話で伝えてしまい、その後に変更があり竹内さんから「私にも考えがあります」と仄めかされました。新進党の初代学生部長の椅子を巡っても2人だけのせめぎ合いがありました。
このクーデターは私の学年全員と竹内さんの学年の半数が、総会前に察知し粉砕。私は知らないふりをして過ごしました。会員として忘年会に参加した際竹内さんから「先輩、ちょっと」と別室に呼び出され、よせばいいのに種明かし。竹内さんら4人につるし上げられました。この際、第9代幹事長が「石川知裕さんは偉大でしたよ」と繰り返し、このことは同級生1人に調べてもらったのですが、真意は今でも謎です。
その後、竹内さんは、新党友愛の事務局に入りました。私が、日本経済新聞政治部の野党クラブ詰めの番記者として、中野寛成代表から話を聞いて、控え室に戻ると、竹内さんは「先輩、入れますよ」とか、残っている吉田治副幹事長に「よく知っているんですよ」と話すなど、分を弁えない行動をしていました。だって私は中野代表から出入りを許されていたのですから。
県議になってからは、鵬志会の会合で、初代幹事長の和田有一朗さんと兵庫県会本会議場で隣席なのに全く会話しないことを問うと「会派が違うと話せないんですよ」と答え、新党友愛出身者の情報交換をすると「岡崎さん今でも会いますか」と語ることがありました。私は常に笑顔を心がけても、クーデター未遂事件以降、腹の中で彼を許したことは30年間に1秒たりともありません。それがやがて、多勢に無勢とはいえ、現職兵庫県知事さんの地位を奪おうとしたのですから、逆に言えば、私もたいした者ですよね。
極端に記憶力が良く過去を水に流さない性格。考え方の違う人と議論せず経済的に潰し消すお家芸は両親譲り。私の父が50歳代のころは、ライバルたちが次々と癌になり死んでいきました。49社が9社になるほど淘汰され、市場に占める割合を上げる父の背中をずっと見ていました。私も51歳となり自分の手を汚さずに敵の人生の終焉を迎えほくそ笑んでいます。次に日本の経済・社会から消させるのは、あなたかもしれません。
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