【元日経新聞記者】宮崎信行の国会傍聴記

政治ジャーナリスト宮崎信行、50代はドンドン書いていきます。

[訃報]さようなら笹森清さん 思い出す、伊吹労相“選挙干渉”への毅然とした「撃ち方はじめ」の背中

2011年06月04日 22時01分09秒 | その他


[写真]笹森清さん、連合ホームページからトリミングさせて頂きました

 笹森清(ささもり・きよし)さんが、きょう2011年6月4日(土)早朝、亡くなりました。享年70。連合、日本労働組合総連合会の事務局長、会長を務めました。2人しかいない「内閣特別顧問」の1人でした。菅直人さんと笹森清さんは、民主党初代代表と連合事務局長という関係でした。

 心より、ご冥福をお祈りいたします。

 私が思い出すのは、1998年春、日経新聞政治部記者として、労働省記者クラブ・連合を担当していたときのことです。

 第2次民主党結党にあたって、菅直人・初代代表らは、連合が民主党の支援団体になってくれるよう努力します。昨今、連合が民主党を応援するのが当たり前のように思われていますが、結党段階ではそうではありませんでした。新進党を解党された民社協会が、第1次民主党(オリミン)参院議員の元連合副会長の前川忠夫・参院議員に新・民主党の組織委員長になってもらうよう、働きかけるなど必死の工作がありました。

 このとき、鷲尾悦也会長とともに、民主党結党を支えたのが、笹森清事務局長で、菅さんにとっては、その恩義は忘れることができないでしょう。

 もともと、初代会長の山岸章さん(全電通=現在の情報労連)は7党1会派による連立政権、細川護煕内閣の接着剤でした。しかし、自民党や、あるいは連合内の産別からも、「山岸さんは政治道楽が過ぎる」と批判もあり、2代の芦田甚之助会長(ゼンセン同盟)時代には、ナショナルセンターとして、春闘など労働運動の本来の形に戻っていきます。1994年の新進党結党大会では、芦田さんは海外出張中ということで、ビデオメッセージで「新進党がんばってください!」と短いメッセージ。その後、副会長だった笹森さんが来賓あいさつに立ったのですが、これが長広舌で、おそらく20分以上、新進党に注文をつけました。まだ、連合へ馴染みの薄い、自民党出身者や、日本新党初当選組などは面食らったようで、あいさつの後半では、「長いぞ!」「連合も変わってよ!」とヤジが飛びました。

 そして、芦田甚之助会長時代には、メーデーに自民党総裁である橋本龍太郎首相が出席。橋本さんは衆院議員になる前、紡績会社の社員で、ゼンセン同盟の組合員でしたから、「芦田さんは元上司だ」として、「ナショナルセンターと内閣」という構図に連合を引き寄せていきます。橋本行革の原案をつくった行政改革会議の委員にも芦田さんが就任しました。

 そして、民主党ができ、すぐに第18回参院選に突入するタイミングで、伊吹文明労相が露骨に連合に対して「選挙干渉」する、いってみれば、第2回総選挙のときの品川弥次郎・内相による「選挙干渉事件」「品川事件」のようなことが起きました。しかし、連合はそれをはねのけ、民主党は予想外の大勝で、橋本内閣は総辞職しました。

 このときの「伊吹労相選挙干渉事件」騒動を、朝日新聞の1998年4月20日付で、編集委員が分かりやすくまとめ記事にしています。

[朝日新聞記事から引用はじめ]

自民の連合批判 「介入」にき然と対応を 中野隆宣(ミニ時評)
1998.04.20 東京朝刊 4頁 オピニオン (全669字)  
 
 伊吹文明労相は先に連合の鷲尾悦也会長を招き、政府と連合との「政労会見」の窓口を労働省に一本化することを伝えた。あわせて、自民党内の声だと断りながらも、「連合は政治活動に偏りすぎている。特定政党の支持を決めるのは、労働組合としていかがなものか」と述べたという。

 
参院選挙をひかえ、自民党内には新「民主党」に肩入れする連合への批判が高まっている。先月末には、党として「連合との政策協議を打ち切る。連合が健全な労働運動に徹するよう要望する」と口頭で伝えた。労相発言も、その延長線上にある。

 労組の特定政党支持は、議論が分かれる古くて新しい問題だ。しかし、労組の中央団体(ナショナルセンター)の政治活動に対し、政権政党が介入まがいの言動を公式に示したのは、戦後の労働運動史をひもといても前例がないのではあるまいか。

 「健全」な労働運動を、自民党が「判定」する筋合いではなかろう。また、党内の声を伝えるという形をとったにしても、政府の立場にある労相が口にするのは、いかがなものか。

 だが、異例の事態にしては、連合の姿勢はなぜか歯切れが悪い。自民党のけん制に「いわれなき組織介入だ」(鷲尾会長)と反発しながらも、「まともに反応するのは大人げない」とする慎重論が、幹部たちの大勢だそうだ。

 「組合幹部のための春闘はもう終わりにして、労働者のためになる春闘をやってほしい」といった伊吹労相の発言にも、真意をただした上で対応を検討するという。

 物分かりがいいのも結構だが、組織や運動の基本にかかわる問題で、き然とした対応を欠くと、今後に禍根と汚点を残しかねない。(編集委員)

[引用おわり]

 「政労会見」は、長年、内閣では、内閣官房長官が対応していました、連合発足に伴い、ナショナルセンターの1本化により、自民党政権ながら、連合会長と内閣総理大臣が同じテーブルにつく格好になりました。1998年4月13日の「政労会見」は、わずか20分間。鷲尾会長が要望書を橋本首相に渡そうとすると、手が届かず、お互いが苦笑するハプニングもありました。伊吹労相は、政労会見を労相にして、連合会長と首相の会談はしない、とけん制したのです。

 これに猛然と抗議し、動き出したのが、笹森事務局長。伊吹労相があたかも笹森事務局長に追いかけられ、逃げ回る格好となり、私も日経新聞社のハイヤーの運転手さんにお願いしてカーチェイスに近い取材もしました。その結果、労働省に乗り込んだ笹森さんが、女性初の事務次官だった、松原亘子(まつばら・のぶこ)さん通称「タン子」さんから一定の謝罪と妥協策を引き出しました。この後、笹森さんが先導して、松原事務次官とともに、労働省クラブの記者会見室に入ってきて、「このように連合の事務局長と労働事務次官が2人で記者会見するのは異例ですが」と切り出して、話し合いの内容を説明。記者からの「これからも話し合いは続くのか」との質問に対して、笹森事務局長は「連合としては一定の成果を得られたので、これをもって、撃ち方止めとしたい」と発表しました。

 ちなみに、このとき、私は平和な時代に育ったためか、「うちかたやめ」という言葉を知らず、メモがとれずに苦労したことを思い出します。多少強引なように見えても、労相を追いかけ、労働省に乗り込み、事務次官と記者会見し、そして、ある程度のところで、調和する。そういう、「撃ち方」を笹森さんは、春闘などの労働運動で身につけていたのでしょう。

 その後も政労会見は続きましたが、政権交代というか、民主党政権になって、「政労会見」は、「政府・連合トップ会談」というような呼び名に変わっているようです。

 民主党議員に再確認して欲しいのは、①連合が民主党を応援するのは当たり前のことではない、②連合は民主党が野党になっても、ナショナルセンターとして政府に直接政策要望することができるーーという2点です。

 さて、1994年12月10日の新進党結党大会の笹森副会長の長広舌は何だったのかな、とこちらも記事を調べました。

 そうすると、このとき、執行部あいさつで、海部俊樹初代党首をさしおいて、幹事長の小沢一郎さんが冒頭あいさつに立ち、「「私はいま、あらしの海に乗り出す咸臨丸のかじをとったジョン万次郎の心境であります」「私自身、みなさまの期待にこたえられるかどうか心配ですが、党首のご指導の下、党の融和と団結に尽くす決意です」と述べました。

 これに対し、来賓の笹森連合副会長は「「国の命運を(新進党に)預けていいのか、と一抹の不安を(連合としては)禁じ得ない。数合わせやパワーゲームばかりが目立つようでは困る」と釘をさしたようです。朝日新聞の記事を参考にしました。もっといろいろ話していましたが、新進党は1997年12月に解党しましたので、「新進党ホームページ」は現存しませんから、よく分かりませんが、こういったことを述べたようです。

 結党大会後の記者会見では、この笹森さんの発言について、小沢幹事長に質問。小沢氏は「自社さきがけ政権こそ数合わせだ」と気色ばんだ、と朝日新聞は伝えています。まあ、小沢氏のそのたびごとの発言は、実は、その通りで、筋が通っていて、納得するものです。しかし、ここ20年前後の彼の言行はまったく一貫性にとぼしく、100年先を見てこの国を良くしようとしている人間たちにとっては、まさに小沢一郎は害悪でしかありません。

 組合員に期日前投票に必ず行かせ、投票済み証に投票先を書かせ、職場に張り出せ!という笹森さんの「撃ち方」には、賛否があるでしょう。しかし、労働省で垣間見た笹森さんの「撃ち方」は、おとなしくしていることが組織や仲間を守ることではないということです。自分の信念は貫き通さないといけません。私は笹森さんと膝を交えてお話しする機会はありませんでしたが、私は笹森さんが好きだし、その背中を少し、参考にしているところがあります。

 新進党結党大会での長広舌について、きょう調べてみて、笹森さんは人を、組織を見る目があるなと思いました。そして、事務局長昇格後の自分の信念を実現させるための食らいつき方。そういった「撃ち方」は、菅さん、岡田さん、枝野さん、仙谷さん、安住さん、玄葉さん、野田さんら、「非2世」の菅・岡田民主党にバトンを引き継ぎました。

  「憎まれっ子世に憚る」と言うのですから、もっと長生きしていただきたかった。せめて来年8月1日の友愛会創設100周年を目で見たかったかもしれませんが、出身の電力総連・東電労組へのストレスも多少は感じておられたかもしれません。

 きょうをもって、笹森清さん、「撃ち方止め」となりました。
 
連合|連合元会長・笹森清さんのご逝去にあたって(連合ニュース)

連合元会長・笹森清さんのご逝去にあたって
日本労働組合総連合会
会長   古賀 伸明

 本日早朝、連合元会長の笹森清さんが都内の病院でご逝去されました(享年、70歳)。慎んでご冥福をお祈りいたします。
 笹森さんは1997年10月から連合事務局長を4年、引き続いて2001年10月から連合会長を4年務められました。当時はグローバル化や市場万能主義、格差拡大など、社会経済環境が劇的に変化しており、そうした変化に労働組合としてしっかりと対応すべく果敢にチャレンジされました。
 2001年10月には「21世紀連合ビジョン」を発表、連合の目指すべき社会像「労働を中心とする福祉型社会」を提起し、また2003年9月には外部有識者からなる「連合評価委員会」からの報告を受け止め、連合運動の活性化を進めました。加えて、47地方連合会および全ての連合構成組織との直接対話を実施するなど、連合運動の強化・発展に多大なる貢献をされました。
 連合は昨年12月、今後目指すべき社会像として「働くことを軸とする安心社会」を策定しました。これは笹森さんのめざした「労働を中心とする福祉型社会」を今日的に再定義したものであり、その先見性に敬意を表します。その精神は現在の連合運動に脈々と受け継がれています。
 笹森さんのご冥福を改めてお祈りするとともに、その志を継いで、今後もわたしたちは連合運動の発展に邁進いたします。どうぞ安らかにお眠りください。

合 掌

asahi.com(朝日新聞社):元連合会長・笹森清さん死去 70歳 菅内閣の特別顧問 - おくやみ・訃報

 元連合会長で、菅内閣の特別顧問も務める笹森清(ささもり・きよし)さんが4日早朝、肺炎で死去した。70歳だった。連合幹部が明らかにした。菅直人首相の助言役でもあり、震災後も、たびたび意見を交わした。都内の病院に入院して闘病生活を送っていた。

 埼玉県立川越高卒。1960年に東京電力に入り、91年に東電労組委員長、93年に上部組織の電力総連会長に就いた。97年に連合事務局長となり、2001年から05年まで会長。会長時代には、野党だった民主党を支援する立場を引き継ぐ一方で、小泉純一郎首相(当時)をはじめとする自公政権や財界とも積極的に対話する路線を敷いた。

 会長退任後も、労働者福祉中央協議会会長などを務めていた。昨年10月には菅政権の内閣特別顧問に就任し、雇用や社会保障について首相の助言役となった。小沢一郎・民主党元代表や鳩山由紀夫前首相ら政界での人脈も幅広く、首相の指南役的な存在だった。今年4月には首相特使として訪中もした。