現職の参議院議員、自民党の島田三郎さんが逝去されたそうです(自民党・島田三郎参院議員が死去 竹下元首相の秘書)。現職で、体調不良報道があったためか、今朝亡くなり、午前中に報道されました。哀悼の意を表します。
6年前の初当選のときなど、控えめな元県会議長さんという印象を持っていました。
特定枠という、今度の参院選から初めて導入される比例代表制度での、第一号になる方向で既に党公認されていましたが、辞退していました。他の全国的な有力者に譲るのではないかとの憶測も出ましたが、残念無念、任期はまっとうできず。
これは、補選にならないと思います。
現職ゆえ午前中に報道され、現職ゆえの話もあります。初登院の時はご家族連れだったかな。
再度、人間・島田三郎さまへ、哀悼の意を表します。
このエントリー記事は、gooニュース(NTTレゾナントのポータルサイト)を参照して、記事を作成しました。
報道によりますと、小山峰男・元参議院議員がおととい亡くなったそうです。心より哀悼の意を表します。
新進党公認で、1995年の参院選に立候補。長野選挙区定数2で、小山さんは42・5万票を獲得し、得票率47・4%。次に、細川内閣で与党でありながらウルグアイラウンドで暴れた、村沢牧さんが21・6%。厚相経験もあった自民党公認の下条進一郎さんが21・1%。これは2人区ですから、小山さんと村沢さんが当選し、下条さんが落選。事前に決まったルールとはいえ、変なルールですが、小山さんは、2位にダブルスコア。もちろん、羽田孜ブームと、旧公明党支持者の後押しがあったわけですが、山谷が多く市町村が小規模な長野県では、県庁の副知事が尊敬を集めやすい地域性もあったようです。1998年民主党結党に参画。その後、比例に転出しましたが、議席は獲得できず、1期6年となりました。
ちなみに、その頃の6年間は、参議院議員会館は北澤俊美事務所しか寄っておらず、私は、小山さんにお会いした記憶はありません。しかし、羽田ファミリーは、県庁副知事を参議院議員候補にリクルートできるなど、全盛期だったと思いますが、二度目の総理は見果てぬ夢となりました。
小山峰男さんのご冥福を心よりお祈りします。
東北大卒。59年、長野県庁に入り総務部長などを歴任。92年から副知事を務めた。95年、参院長野選挙区に当時の新進党から出馬し、初当選。当選1回。その後、民主党に参加した。
以上。
新聞各紙によると、長島隆久さん=享年85=が先月、平成30年2018年10月31日(水)亡くなりました。
長島昭久・未来日本(会派)衆議院議員のご尊父。
心より哀悼の意を表します。
お子さんを、慶応義塾で、幼稚舎から大学院まで通わせることは並大抵のことではないだろうと察しますが、長島昭久さんは当選6回、これまでに防衛副大臣、総理大臣補佐官を歴任する、日本を代表する政治家になりました。
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(C)2018年、宮崎信行 Miyazaki Nobuyuki 2018
[写真]小宮山洋子さん、2012年8月1日、都内で宮崎信行撮影。
自民党には騙されましたが、晴れて叙勲となりました。
政府・内閣府賞勲局は、平成30年2018年11月3日(祝・土)付けで、秋の叙勲を発表しました。
政権交代ある政治に貢献し、2012年の通常国会では、社会保障と税の一体改革3党合意をなしとげた、
小宮山洋子・厚生労働大臣(券)内閣府認定こども園担当大臣と
城島光力・与党民主党国会対策委員長に、
旭日重光章が授章されることになりました。おめでとうございます。
小宮山さんは羽田グループで、1998年の最後の拘束名簿式参院選で出馬。東大総長の娘のNHK解説委員が民主党1位、元東大総長が自民党の1位という古き良き参議院らしい選挙となりましたが、自民党の人はすぐに入閣し文部大臣となりましたがその後政界を批判して1期でやめました。小宮山さんは、成城学園とゆかりがあり、羽田孜さんの東京の自宅がある選挙区で衆議院議員に。小宮山さんの別荘がある軽井沢は逆に羽田さんの長野県での選挙区ですので、生粋の羽田グループとなります。
城島光力(城島正光)さんは東大卒業後フード連合の執行委員をつとめて、衆院選だけに出馬し、何度か苦労もありましたが、2009年に再選しました。おそらく今後とも「歴代最も地味な大臣」と後世まで言われるでしょうが、初入閣で財務大臣もつとめました。現職財務大臣の衆議院落選も記録に残りそうです。
[写真]城島光力さん(右)、2012年4月15日のNHK日曜討論から撮影。
2012年国会では、衆参ねじれの中、小宮山担当相と城島国対委員長で3党合意にこぎつけましたが、自民党に騙されました。やはり自民党というのは、社会党国対委員長を首班に担いでまで羽田孜内閣から政権を寝取った政党ですから、最後の最後まで信頼してはいけない政党だったようです。
旭日大綬章には高木義明さん。岡田克也代表のもと民主党最後の国対委員長をつとめました。
旭日大綬章には、千葉景子さんも選ばれました。法相ながら、2010年の参院選に落選。民主党がアッというまに凋落していく兆しをみせました。こういう兆しがあったのに、テンション高く騒いでいた与党議員の気が知れません。千葉法相は参議院落選後から内閣改造の直前の間に、死刑執行を自分の目で見て確認しました。
秋の叙勲とは別に、政府は昨日付で、故・仙谷由人さんにも旭日大綬章を与えました。
民主党・新緑風会副会長をつとめた、福島県知事、佐藤雄平さんも旭日重光章。
小沢グループの長老格だった、鈴木克昌さんも旭日重光章。
西村真悟元衆議院議院も旭日重光章。
UAゼンセンの柳沢光美さんも旭日重光章。
また、官僚では、瑞宝中綬章に、名取はにわ元内閣府男女共同参画局長が選ばれました。
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(C)2018年、宮崎信行 Miyazaki Nobuyuki 2018
藤原正司(ふじわらまさし)・元参議院議員が、先週、平成30年2018年9月15日(土)に亡くなったそうです。享年72。各紙が報じました。心よりお悔やみ申し上げます。
電力総連の、関西電力労働組合(関電労組)の組織内として、足立良平さんの後任として、2001年に初当選し、2013年までつとめました。後継者は、浜野喜史参議院議員。
在任中は、電力の所管でもある参議院経済産業委員長や、ベテランが起用される調査会長を歴任。民主党・新緑風会(現在の国民民主党・新緑風会)の副会長をつとめました。
自民党の中堅などにも気さくに声をかけて、エネルギー政策をめぐって院全体である程度の力を持ちました。
二大政党会派会長クラスが発議者となる、参議院定数是正の法律提出者に、参議院自民党議員会長らと名を連ね、答弁に立ちました。
与党・民主党時代には、東日本大震災が発生。全国で最も原発依存度が高い関電出身者として、菅直人総理・代表らが指示した民主党内議論で一定の発言力を持ちました。企業・団体献金を廃止しようとして結局頓挫した岡田克也幹事長部局の政治改革構想でも、労組組織内として意見を反映させました。
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(C)2018年、宮崎信行 Miyazaki Nobuyuki 2018
[写真]上出義樹さん(右)、2017年3月13日、東京都千代田区霞が関で、筆者・宮崎信行撮影。
上出義樹(かみで・よしき)さんが亡くなりました。
フリージャーナリスト、元北海道新聞記者・編集委員・シンガポール駐在員、そして、上智大学博士。
きょう、桐ケ谷斎場で告別式がありましたが、私は直前まで参列を模索しながらどうしても離れられなかったので、ブログでお別れ。
参列した、ジャーナリストの畠山理仁さんによると、みんなで拍手と「ありがとう」の声で送り出したそうです。
○きょねん奥さんに花束を。
上出さんは、きょねん2017年3月13日(月)に東京・千代田区霞が関の「霞友会館」で、出版記念と博士号取得記念パーティーを開きました。ここには、北海道や東京などから、親族、道新時代の同僚、上智大学の先生・生徒、シンガポール時代の他社の幹部記者、そして、フリーランス記者で東京電力記者会見のなかま。そして、永田町・霞が関系のジャーナリストを代表するかっこうで私も参加しました。
[写真]奥さんに花束を渡す、上出義樹さん、2017年3月13日、宮崎信行撮影。
この席で、上出さんから奥さんへの花束贈呈。抗がん剤治療をされていましたから、きょねんのうちに、思い残すことはないようにされていたんだろうと、忖度するところです。
○2009年以降の記者会見をめぐる攻防、記者クラブ出身のフリーランス記者として共闘。
2009年夏からの、「記者会見をめぐるフリーランス・独立メディア記者と、記者クラブと、政府をめぐる攻防」において、上出さんと私・宮崎は「記者クラブメディア出身のフリージャーナリスト」としてたたかいました。これにおける「戦友」を今回の上出さんの他界で私は失い、孤独になったといえます。
上出さんと私が知り合ったのは、「3・11」の翌年になった、2012年の副総理記者会見で、自然と横に並ぶことが増えました。最後の会見の一つ前の会見が始まる前に、私が会見場の様子を記念撮影していると、察したようで、「政権交代後の記者会見はどうなるでしょうね」と話し合いました。
○「ちょっと教えてください」からクラブ内外の現場記者に「取材」した博士論文。
上出記者の口癖「ちょっと教えてください」の後、思いに、永田町の先の見通しについてご説明しましたが、2012年末以降は、政府が記者会見を再び閉じだしていることへの対応、取材の前さばき、さらには、上出さんの博士論文・著作へとつながるメディア論へと昇華していただきました。
上出さんは「報道の自己規制 メディアを蝕む不都合な真実」(リベルタ出版)を2016年8月25日に出版しています。
これについての私の書評のブログ(上出義樹博士(北海道新聞元編集委員)「報道の自己規制 メディアを蝕む不都合な真実」)もお読みください。
○「取材の権利」「言論の自由」はすべてに優先する。
私としては、上出さんから教えたもらったことは、取材においては、まず取材の権利・自由をすべてにおいて優先すること。私がちょうど1年前のきょう、最大野党の衆議院内の党首記者会見で、「この党の支持団体の今の会長は歴代最低最悪」と口がすべって司会者の国会議員から「議事録から削除する」と言われた後、上出さんも「何がいけないんですか。これは言論の自由の問題です。民進党はそういうことをやってはいけない」と。次の動画の19分20秒頃からです。
[動画]旧民進党の2017年7月13日の党首記者会見から、旧民進党Youtubeチャンネルから。
このようすは、(産経新聞「民進・蓮舫代表会見司会の芝博一幹事長代理「ふさわしくない質問、議事録から削除する!」 連合会長「批判」の質問に過剰反応?」)、(田中龍作ジャーナル「民進党は死んだ 蓮舫代表の戸籍公開し、連合批判の記者質問を抹消」)などで報じられています。
[WARPから引用はじめ]
蓮舫代表記者会見2017年7月13日(木)
【フリーランス・宮崎記者】
この労働基準法の14条の改正案は2年以上前に出てきて、その時点では労働者派遣法改正案もあったが、派遣のほうは成立したが、労働基準法14条のほうは2年以上成立もさせない、審議入りもしない状況で来ている。手続はどうであれ、連合会長が修正に応じるということは、成立に応じると、普通に考えればそうなると思う。そういった国会内での闘争を連合会長が後ろから鉄砲を撃つようなことを任期間際にするというのは、ちょっと人としてどうかなと思う、神津さんというのは。連合発足以来最低最悪の会長だ。代表は、立場でおっしゃれないかもしれないが、どう思われるか。
【代表】
やはり「残業代ゼロ」法案というのは、我が国で働く労働者全員にかかってくる労働環境の変化というものがもたらされますので、その中身においてはより慎重に、なおかつ最大限の情報公開をしながら、政府には丁寧な説明責任が求められるものと思っています。
その部分では、今回、連合さんは政府との関係でさまざまなご提案をされると伺ってはおりますが、連合の中でも闊達な議論というのは封じられるものではないと思っていますので、そうした健全な議論を経て連合さんがどのような判断をするのかを、私達が口を出す立場ではないと思います。
ただ、我々は公党として、その労働法制の中身が納得できるものなのかどうなのかは、しっかりと独自の判断をするべきだと思っています。
【芝役員室長】
今の発言の中でちょっと、あまり記者会見の場でふさわしくない発言がありました。そこは議事録から抹消しますが、いいですね。
【フリーランス・宮崎記者】
それはじゃあ、終わった後に話しましょう。
【芝役員室長】
これは我々としてもきちっとした公式の場ですから。後で話をしましょう。
【フリーランス・田中記者】
ふさわしくないから抹消します、というのはどういうことでしょうか。宮崎さんの質問は、どの字句がふさわしくなかったのか、僕はピンとくるが、それでもやはり抹消するというのは好ましくないのではないか。
【芝役員室長】
後で話し合いをしましょう、ということです。発信しますから、全てこの中身は。質問側も答弁側も。
【代表】
ちょっと丁寧にやらせてください、そこは。
【フリーランス・上出記者】
今のは非常に重要な問題なので。記者会見の場で記者が言ったことを、これは言論の自由ですからね、それに反することですから。評価の問題です。罵倒している言葉ではない。確かに相手にとっては聞きよくないかもしれないが、これは相談の意思はないと思う。
【芝役員室長】
後で発言者と相談させてください。
【フリーランス・上出記者】
それは私は反対。民進党はそういうことはやってはいけない。
【芝役員室長】
わかりました。後は宮崎さんに、判断に任せます。
【代表】
私達は情報公開・透明性を重んじておりますので(代表会見はネット)中継されているますので、いろいろお思いのことはありますが、個人攻撃に当たるかのようなことは、私としても、それに対して直接お答えするのは難しいと、そこはご理解をください。そこは丁寧にやらせてください。
【芝役員室長】
発言を制限していることは全然ございませんから、考えは。
【フリーランス・宮崎記者】
今、代表が「中継中に」とおっしゃったが、後の話し合いは入らないので、一言だけ。私の考えだ、と言ったはずです。私はそう思う、とたぶん言っています。
[WARPから引用おわり]
○2012年から秘密保護法に懸念、2013年に成立してしまう。
上出さんは2012年当時から「秘密保全法案」への懸念を示していました。これについて私はいつも記者会見場であまりピンと来なかったのですが、政権再交代後の翌年末には「秘密保護法」として成立してしまいました。
[首相官邸ホームページ内から引用はじめ]
平成24年3月2日
岡田副総理記者会見要旨
(略)
(記者)
フリーランス記者の上出と申します。
一部報道されている問題で、秘密保全法案のことについてお聞きします。これは、私、外務大臣時代からフォローさせていただいているんですが、岡田副総理が頑張って、密約その他、情報公開に風穴をあけたのとは全く正反対に、今度はそれを逆方向に向けようとする、ちょっと岡田副総理がおられる内閣で、こういう法案が出てくるってちょっと信じられないんですが、国会議員への守秘義務も課すとか、そういう議論も出ているようですし、現実にこれ、どういうスケジュールで出そうとなさって、本当にこういう法案が出てくるのか。新聞協会なんか、あるいは弁護士連合会なんかも反対声明を出しておりますが、ちょっとその辺の真意と、実際に法案を出すまでのプロセスについて、その辺、国民の議論もございません。その辺のことをどうお考えか。
(岡田副総理)
そこまでまだ煮詰まってない話じゃないかなと思います。
(略)
[首相官邸ホームページ内から引用おわり]
○5月25日の最期のブログで「現役の新聞記者として痛恨の極み」
で、直前の上出義樹さんのブログ。母胎保護法(優生保護法)をめぐる救済立法は今国会は先送りとなりましたが、その報道で次のように書いておられます。
[「タラの<メディアウォッチ>上出(かみで)義樹が斬る」から引用はじめ]
自省込め強制不妊手術の報道責任問う
2018年5月25日 上出義樹
重大人権問題を知らなかった記者としての自らの不覚
今年1月以降全国各地で、国による強制不妊手術や優生保護の報道が流され始めたとき、恥ずかしながら、これは戦前か戦中の話だと思った。ところが、1973年に成立し、1996年まで続いた法律が根拠になっていた。1996年といえば私も現役の新聞記者。絶対に目を向けなくてはいけない問題に、全く関与できなかったのは痛恨の極みである。
(後略)
[「タラの<メディアウォッチ>上出義樹が斬る」から引用おわり]
○道新の支局長、学芸畑、東京政経部、シンガポール特派員、上智大学院、東電・霞が関・永田町で楽しんだジャーナリスト人生。
上出さんの道新の同僚によると、上出さんは道新では学芸畑が長かったとのこと。道内各地での支局長。シンガポール支局長としては、全国の地域有力ブロック紙からの特派となりますが、加盟している通信社のシンガポール支局もあるので、道内から進出している企業取材が楽しかったとのこと。東京政経部時代は、昭和から平成へ。退社後の、永田町・霞が関の取材は新しい経験もあり楽しんでおられたようです。上出記者が枝野幸男経済産業大臣に質問した内容が、各社で大きく報じられたときは、ベテランとはいえ、うれしかったようです。定年退職までつとめあげていたので、道新東京政経部で私が知っている記者のその後の消息も把握されておられました。
[写真]上出義樹さんの親族・友人・知人、上出義樹さん提供。
○心より哀悼の意を表します。
記者クラブ出身のフリージャーナリストとして、永田町の記者会見での取材機会を守り続けることは、私がしますから、安心していただきたい。これは命がけで断言します。
上出義樹さん、記者、博士に、心より哀悼の意を表します。
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岸井成格さん死去 16年「NEWS23」降板…TBS専属契約に
毎日新聞の岸井成格記者、元政治部長、元主筆が、けさ亡くなったそうです。享年73。私より29歳先輩ということで、お話ししたことはありませんが、自民党の保利茂さんとの信頼関係。それと、著名ながら主張が違う同級生の評論家と、永田町で会ったら、すぐに去って行ってしまった点などは参考にさせていただきました。また、毎日新聞社が主催する、センバツ高校野球に、慶応義塾高校が出場し、同窓生で、JR列車を借り切って応援に馳せ参じる姿は、私は知らない世界ですから、政治記者界にも、そういう世界の人もいるんだと頼もしく思った次第です。
衷心より、哀悼の意を表します。
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このブログの筆者・宮崎信行が、日経新聞横浜支局の経済記者(1998年9月から2002年2月まで)時代にお世話になった、
ホテル、ニューグランドの社長だった、原範行さんが、先月、2018年4月23日に亡くなっていたそうです。享年89。
関東大震災からの横浜港復興のシンボル、ホテル、ニューグランドの社長をつとめ、日本ホテル協会の会長もされました。ホテル、ニューグランドには、「ペリー来航の間」があり、日本側から見た、ペリー来航の様子が描かれています。
原さんは外交官の子息で、原家に婿入り。原家は、原富太郎が生糸(シルク)で成功し、昭和金融恐慌では時の首相に呼ばれて意見を述べました。成した財は、「三渓園」として一般に公開されています。
原範行さんは、外交官の子息ということもあり、私が横浜を離任するときには、「宮崎さんは横浜に名を成したね」との外交辞令をいただいたこともあります。心より、哀悼の意を表します。
[写真]ニューヨーク風の車寄せがある、ホテル、ニューグランド、2013年撮影、左側にあるガス灯も日本では横浜港で最初にともされた。
[写真]ホテル、ニューグランド。
[写真]原家の自宅で、現在は、一般に公開されている、「三渓園」、神奈川県横浜市中区。
[写真]このブログの筆者・宮崎信行が、2010年12月14日の日経新聞に書いた記事。
原範行氏が死去 ホテルニューグランド名誉会長、89歳
1953年に東京工業大金属工学科を卒業後、日産自動車に入社。67年に同社を退社して原地所に入社し、同社社長を経て83年ホテルニューグランド社長に就任した。その後、2003年に同社会長、今年1月に相談役名誉会長。
横浜を代表するクラシックホテルの顔として、1991年には新館のニューグランドタワー建設を手掛けた。自ら市内の有力企業に足を運び、企業や個人の協力を取り付けて「市民の共有財産のホテル」にふさわしい資本構成を実現。横浜の観光産業の活性化にも心を砕いた。
横浜経済界でも存在感を発揮し、横浜商議所の副会頭を2000年から6年間務めたほか、日本ホテル協会や横浜美術館協力会の会長、横浜観光コンベンション・ビューロー評議員などの要職を歴任した。横浜を代表する実業家として知られる原富太郎(三渓)の流れをくむ原家の当主だった。
これらの多方面にわたる貢献で00年横浜文化賞、04年旭日中綬章を受けた。
横浜商議所は「市内観光・ファッション産業のほか文化、芸術活動など幅広い分野でご活躍され、地域経済の振興、発展に多大なるご尽力をいただいた。心よりご冥福をお祈りする」とのコメントを出した。
横浜市筆頭副市長を務めた、柏崎誠さんが、昨日平成30年2018年3月31日退任され、前日金曜日に万雷の拍手の中、市役所を去った光景が、神奈川新聞goo ニュースで報じられました
おつかれさまでした!
私が横浜市政記者会に常駐していた際の、財政局財政部財政課長。もちろん、私の取材は、99%の、概算要求する側の局課長が中心でしたが、査定側の柏崎課長からも、「(霞が関の)マイナスシーリングという言い方は、地方自治体では言わないんですよ」と教えてもらいました。
一般会計、特別会計の上の三階の公営企業会計。その歳入は、一般会計から繰り出して繰り入れる税金と、横浜市営地下鉄、横浜市営バスの運賃が混在。さらに、みなとみらい線を建設中でした。その時、市長命令で、市政初の、総計でなく純計を発表。大変なご苦労だったと思います。
予算を制するものは政治を征す。おかげさまで、他者の追随を許さない、抜きんでた予算スキーム把握力を持つことになった私は、ガソリン値下げ国会の最前線で、取材、報道ができました。
感謝の念にたえません。ありがとうございました。
[画像]ガラケーを持つ安倍晋三首相、NHKニュースウェブから。
安倍晋三首相がガラケー(フューチャーフォン、ガラパゴス携帯)を使っていることが分かりました。
これは、きょう、平成30年2018年1月5日(金)の初閣議前の、首相官邸内でのアタマ撮り映像をNHKが報じたことで分かりました。ニュースは、きょう午前11時前後に、茨城県と石川県で各々震度3の別の地震が起きる直前に、緊急地震速報が配信されたことで、安倍首相らがざわめく様子が流れたものです。緊急地震速報そのものは、別々の地震を一つの地震と勘違いした、「空振り」だとみられます。
安倍首相が取り出したガラケーは、金色のもので、筆者・宮崎信行が使っているのと色も含めて全く同じ端末(Fから始まる型番)とみられます。
永田町では、与野党とも、ガラケーが主流で、携帯電話のショートメール(SMS)を使ったやりとりが多く行われています。NTT出身の議員もガラケーで、スケジュール管理も、ガラケーで自動的にバックアップできるものを使っています。
ただ、安倍首相の場合は、昨年末にインスタ(インスタグラム)、これに先立つ、フェイスブック、ツイッターなどのSNSで個人名義のものを開設しています。ツイッターは首相就任前から使っています。現時点で、ガラケーからは、フェイスブックに文章を投稿することができるのみで、首相の個人名義のSNSは別の人物が投稿している可能性が高まりました。
私は、今年秋に、ガラケーと併用している、タブレットの2年縛りの時期が来るので、スマホ1本持ちにしようかと思案していますが、首相もガラケーであることが分かったので、思案しどころだと考えます。端末と通信料、両方とももっと安くしてほしい。
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Miyazaki Nobuyuki
[写真]野党4党幹事長から国会召集要求書を受け取る、川端達夫衆議院副議長、国会内副議長応接室、2017年6月22日、筆者・宮崎信行撮影。
川端達夫さんが、後述のgoo=産経=ニュースによりますと、政界引退を発表しました。
来週、平成29年2017年9月28日(木)の衆議院解散にともない、衆議院副議長や衆議院議員を辞めて、次の第48回衆院選には立候補しないとしました。
これはきょう、21日、滋賀県大津市内の民進党滋賀県連で記者会見して発表したものです。
川端達夫衆議院副議長は、さる、平成29年2017年9月8日(金)に青山葬儀所で開かれた、羽田孜先生の、羽田家・民進党合同葬で、衆議院を代表して弔詞を朗読したばかりでした。
川端さんは、1986年の死んだふり解散第38回衆院選で、当選。東レというと、昔も今もすごい企業ですが、1986年頃はそんなでもありませんでした。滋賀全県区は、宇野宗祐首相、「最後の田中派」山下元利さん、武村正義元知事らがひしめく激戦区でした。
その後、新進党結党に参画。いったん離党したものの、復党。しかし、解党。
ここで、連合系のI衆議院議員(自動車総連)から新党結成への参加を求められ、幹事長就任を打診。しかし、翌朝、市議出身の中野寛成さんとともに、事務所に行き、中野寛成代表、川端達夫政調会長の「新党友愛」をつくりました。
その後、「民主党」の枝野幸男さん、「民政党」の岡田克也さん、「新党友愛」の川端達夫さん、「民改連」の北橋健治さんの4人で政策をすりあわせ、「私たちの基本理念」いわゆる「民主党98綱領」を一週間で書き、「民主中道の政権担当能力のある勢力の結集」を呼びかけました。
後輩の岡田克也代表の下で幹事長。社会保障と税の一体改革では、岡田克也副総理のもとで、消費税の半額を所管する総務省の大臣として200時間審議を支えました。
前回衆院選で、10選すると、岡田克也代表・枝野幸男幹事長の全幅の信頼で、副議長推挙。向大野新治事務総長が選挙をとりしきり、副議長に当選しました。その後、町村信孝議長が逝去し、新議長選挙を、副議長として取り仕切り、大島理森議長が当選しました。
先の通常国会では、平成天皇ご退位特例法で与野党との意見の集約につとめました。
[gooニュース=産経新聞=から引用はじめ]
(【衆院解散】川端達夫衆院副議長が政界引退を表明 「体力、気力、能力に限界を感じ、終止符を打ちたい」
【衆院解散】川端達夫衆院副議長が政界引退を表明 「体力、気力、能力に限界を感じ、終止符を打ちたい」
川端達夫衆院副議長(72)=民進党、比例近畿=は21日夜、大津市内で記者会見し、次期衆院選には出馬せず、政界を引退する意向を表明した。「時代の変化の中で体力、気力、能力を発揮して重い責任を果たしていくことに限界を感じ、終止符を打ちたいと決心した」と語った。
川端氏は昭和61年に初当選し、当選10回。旧民主党政権で文部科学相や総務相を歴任、民主党幹事長や国対委員長などを務めた。平成26年12月から副議長を務めている。
[gooニュース=産経新聞=から引用おわり]
[写真]前川喜平さん、2014年3月26日の、衆議院インターネット審議中継から、宮崎信行が当時スクリーンショット。
真の国士です。感動しました。
前文部事務次官の前川喜平さんが、福島県で講演。このもようは、「産経ニュース電子版」のWEB編集チームが、テキストで報じました。
それによると、前川喜平さんは、当時、文部科学審議官(次官級)。最終攻防となっていた、平成27年2015年9月18日、(関連エントリー
18日(金)の安保法成立を阻止! 第189回通常国会大詰め、衆参で牛タン戦術などの死闘続く
)
の夜、国会正門前の、学生市民団体「SEALDs(シールズ、自由と民主主義のための学生緊急行動)」=現在は解散=の抗議活動で、「♪集団的自衛権はいらない!」のラップのリズムに乗って、デモに参加し、安保法制に反対していたことを明らかにしました。
このうごきは、杉田和博・内閣官房副長官(事務)が率いる、警視庁公安部なども情報を漏らしたようで、内閣人事局は、この後に、前川さんを文部科学事務次官に決めました。
政官要覧(平成25年秋号)によると、前川さんは、1955年1月生まれで、東大法学部卒業。
前川さんの祖父は、学生寮「和敬塾」の創設者として知られ、右翼の大物との扱い方もあります。1968年末から1970年初頭まで2年間、和敬塾から早稲田大学に通った、村上春樹さんの代表作「ノルウェイの森」では、その第2章で「この寮の唯一の問題点はその根本的なうさん臭さにあった。寮はあるきわめて右翼的な人物を中心とする正体不明な財団法人によって運営」されていた、名指しは避けながら批判的に描かれています。
その寮長の孫が、文部科学省の次官級審議官として、「集団的自衛権はいらない!」とラップに乗せて反対したわけですが、真の国士だからでしょう。文科省は日本学生支援機構を所管しています。
産経新聞電子版によると、前川さんの発言は以下の通りですが、シールズの綴りが違っていますので、そこだけ、私が勝手に直させていただきました。
[産経新聞電子版から引用はじめ]
(前略)
(前川氏の該当部分の発言要旨)
ここだけの内緒の話ですけど、2年前の9月18日、国会前にいたんです。
「SEALDs(シールズ)」の連中はね、ラップのリズムで「集団的自衛権はいらない」って言ってるわけですよ。「集団的自衛権はいらない」って非常に散文的な言葉ですけど、これがあのリズムに乗るところがすごいですよね。「集団的自衛権はいらない」「集団的自衛権はいらない」ってこういうリズムで、こういくわけですね。
これもシュプレヒコールっていうのかなとか、つまんないこと考えながらですね、面白いなって思って。
私は安保法制は解釈改憲によるものですけども、集団的自衛権を認めるという解釈は成り立たない。立憲主義に反すると、やっと憲法の話になってますけどね。
戦争はしないと9条で宣言している。自衛隊の存在を多くの国民が認めている。それは、ここまでは認められるというコンセンサスに近いものを作ってですね。専守防衛で自衛隊ならば、実力組織として認めてもいいんじゃないか、というところで踏みとどまっていたのが自衛隊だったと思うんです。
それをいともあっさりと踏み越えてしまったんですね。しかも法制局の見解だ、閣議決定だと政府の中の考え方として、集団的自衛権は憲法上認められていると、ありもしないことを言って、あってはならない憲法解釈に基づいて法律作っちゃったわけですから。
私は個人的には、安保法制は、集団的自衛権に基づく条文はすべて憲法違反だと思います。
いや、これは安保法制は賛成の人もいますから、これは私の意見です。
あの法律は作るべき法律ではなかったと思っていますので、そのためには一個人として、一国民として正門前に私は声を出す場がなければいけないと思ってですね。声を出すといったって、みんなに混じって言ってたんですけど。
みんなに混じって言ってただけで、しかも行ったのは9月18日の1回きりですからね。あの日はですね。今日行かなきゃもうないと思ったんですね。その日は安保法制が参議院で成立した日ですから。
何も好き好んで満州事変の日にやらなくてもいいと思ったんですけども。9月18日ですから、まさに日本が中国侵略を、本格的な中国侵略を始めた日ですよね。1931年9月18日。
だからまあ、日本が誤った戦争をしたというこの痛切な反省の上にできている憲法だからこそ、平和憲法というわけですから、その平和憲法を本当に土足で踏みにじるような行為、これはやっぱり問題だと思ってましたから、だからそれはですね、バレてませんから。
これ、バレてたらおそらく事務次官になってなかったんです。あの、おそらく。
まさかねえ、これから事務次官になるっていう人間がですよ、安保法制のデモにいるとは思わないですよね。
だからこれ、本当に内緒の話ですから。(WEB編集チーム)
(後略)
[引用おわり]
前川さんがデモに参加していた時間帯の、国会のようすは次の通りです。
[当ブログ内エントリーから引用はじめ]

[画像]安保法案成立阻止のため、「憲法クイズ」を引用しながら迫真の演説をする、小西洋之さん、参議院インターネット審議中継からスクリーンショット。
【平成27年2015年9月18日(金) 参議院本会議】
午前0時10分開議。
中谷元防衛大臣問責決議案が議題になりました。ここで、自民党から「趣旨説明・討論・投票を10分以内に制限する動議」が提出されました。民主党が「記名投票表決を求める動議」を出したため、記名投票採決され、可決しました。
続いて、本題。自民党の討論に立った江島潔さんが「自衛隊統合幕僚監部の文書を共産党が違法に入手した」「蓮舫代表代行ら民主党は人のことを言う前に、みずからを反省すべし」とし、共産党の仁比聡平さんらの抗議で場内が騒然としました。
採決され、投票総数232、賛成89、反対143で、中谷大臣問責決議案は否決されました。午前2時2分に休憩しました。
午前10時再開。山崎正昭議長不信任決議案が提出されました。これも10分以内に制限されました。趣旨説明で足立信也さんは「定数是正の参院選挙制度改革でリーダーシップを発揮しなかった」とも批判しました。討論で徳永エリさんは「安保法案の衆参の参考人・公述人に女性がゼロだったので、各党の女性の会で鉢巻をして山崎議長を探したが所在が分からず、鴻池特別委員長は要望書をていねいに読んでくれた」とし「女性の壁などと報じられたのは残念だ」としました。共産党の井上哲士さんは「地方公聴会の派遣報告を委員会でしなかったのは参議院史上初だ。議長の名前で出席依頼を出しており、議長にも責任がある」としました。投票総数224、賛成76、反対148で否決。午前11時24分ごろ、休憩になりました。
安倍晋三首相が入室して、午後1時再開。郡司彰さんから「内閣総理大臣安倍晋三君問責決議案」が提出されました。郡司彰民主党参議院議員会長は「この夏から、安保法制反対との思いに駆られ、戦争を経験した世代、若者、学生、母親、学者が行動している」とし、「安倍総理はそのなかに入って説明したのか」と問いました。午後2時43分、投票総数233、賛成89、反対144で否決されました。休憩。
午後8時31分再開。
ここで、公報通り、安保2法案(189閣法72号、73号)が議題として宣言されました。
民主党はすかさず「鴻池特別委員長問責決議案」を提出。自民党が「趣旨説明は25分間、討論は15分間に制限する動議」を提出し、堂々めぐりで可決。
小西洋之さんが登壇し、「憲法クイズ」の議事録を読む、迫真の演説を55分間繰り広げました。
討論。
午後11時2分に開票し、問責決議案は否決されました。
ここで山崎議長は「延会」を宣言。
これにより、18日(金)中の可決・成立は阻止されました。
【同日 衆議院本会議】
設定は午前1時。
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午後4時32分、15時間半遅れで、開議。
動議が出て、安倍内閣不信任決議案(189衆決議 号)が議題になりました。
枝野幸男さんが趣旨弁明。
討論は、自民党の棚橋泰文さん。
次に、民主党の岡田克也代表。岡田さんにとっては、2005年8月8日の郵政解散で奪われた、内閣不信任決議案の演説の雪辱を果たしました。これについては別エントリーを投稿します。
公明党の赤羽一嘉さんの鬼気迫る討論には、世の無情を思わざるを得ませんでした。
維新の党の松野頼久代表は、初当選以来続けてきた、「ストップウォッチではかりながら演説する」ことをしなかったように見えました。
共産党の志位和夫委員長も討論。堂々めぐりの結果、投票総数464、賛成139、反対325で、安倍内閣不信任決議案は否決されました。
これにより、第189回通常国会の衆議院は事実上閉幕しました。
大島議長は午後9時台に本会議を再開し、「あす午前1時00分」に設定し、延会しました。60日ルール3分の2条項で、参議院自民党をけん制するねらいと思われます。
(後略)
[当ブログ内エントリーから引用おわり]
このエントリーの本文記事は以上です。
(C)2017年、宮崎信行。
[お知らせはじめ]
宮崎信行の今後の政治日程(有料版)を発行しています。
国会傍聴取材支援基金の創設とご協力のお願いをご一読ください。
このブログは以下のウェブサイトを活用しエントリー(記事)を作成しています。
衆議院インターネット審議中継(衆議院TV)
参議院インターネット審議中継
国会会議録検索システム(国立国会図書館ウェブサイト)
衆議院議案(衆議院ウェブサイト)
今国会情報(参議院ウェブサイト)
各省庁の国会提出法案(閣法、各府省庁リンク)
予算書・決算書データベース(財務省ウェブサイト)
インターネット版官報
[お知らせおわり]
Miyazaki Nobuyuki
[写真]開高健ノンフィクション賞の受賞が決定した、畠山理仁さん、集英社ホームページ内の写真をスクリーンショット。
おめでとうございます!
集英社は、平成29年2017年7月、「第15回開高健ノンフィクション賞」を
畠山理仁(はたけやま・みちよし)さんの
「黙殺 報じられない“無頼系独立候補“たちの戦い」に授賞する、と発表しました。
(集英社出版4賞のホームページ参照)。
畠山さんは、2009年政権交代での民主党政権での記者会見オープン化に始まった、我々フリーランス・独立系メディア記者の、記者クラブ内外での、既存メディアとの攻防を描いた、「記者会見ゲリラ戦記」(2010年)で著名な、フリーランスライター。
受賞作は、畠山さんの20年近くの選挙取材の蓄積を活用して、「何者にも頼らず独自の戦いを続ける無名の新人候補」の物語で、畠山さんは「無頼系独立候補」と名付けました。
今後は、世間一般の「泡沫候補」ではなく、畠山さん命名の「無頼系独立候補」の呼び名が静かに主流となっていくでしょう。
かくいう私も、受賞作「黙殺」を、まだ読んでいません。というのは、まだ出版されていないからです(2017年7月22日現在)。ぜひ、早く店頭の平積みから手に取って取り出して、読みたいものです。
畠山さんは「私も、あなたも、あの人も、無視されていい存在ではない」とのメッセージを送っています。
▲畠山理仁(はたけやま・みちよし)=1973年、愛知県生まれ。フリーランスライター。早稲田大学第一文学部在学中の1993年より雑誌を中心に取材・執筆活動を開始。関心テーマは政治家と選挙。国内のみならず、アメリカ、ドイツ、イラク、ヨルダン、北朝鮮、台湾なども取材。自著に『記者会見ゲリラ戦記』(扶桑社新書)、『領土問題、私はこう考える!』(集英社)。取材・構成、編集協力した書籍に『日本インディーズ候補列伝』(大川豊著・扶桑社)、『10分後にうんこが出ます』(中西敦士著・新潮社)、『新しい日米外交を切り拓く』(猿田佐世著・集英社)などがある。東日本大震災以降は、被災地に生きる人々も取材している。==集英社発表の略歴より。
このエントリー記事の本文は以上です。
[写真]日本銀行、東京都中央区日本橋本石町、2016年、筆者・宮崎信行撮影。
木内登英、佐藤健裕、両日本銀行審議委員が、5年間の任期を終えることになりました。木内さん、佐藤さんの在任期間は、平成24年2012年7月24日から、平成29年2017年7月23日(日)までで、きょう、最後の金融政策決定会合を終えました。
これにより民主党政権下で同意された金融政策決定会合メンバーは全員、日銀を去りました。最後の決定会合で、黒田東彦総裁が提案に反対したのは、木内さん、佐藤さんの2名だけ。特に、「年80兆円ペースの維持」に反対したのは、木内審議委員ただ一人でした。
木内さんは、2013年4月の異次元の「年50兆円」金融緩和スタートに賛成したものの、2014年11月の衆議院解散後の会合では、「年80兆円ペースへの拡大」には、反対。その後、毎回のように、「年45兆円ペースへの修正」の木内案を提案。1対8で、否決され続けました。黒田東彦総裁が提案する「年80兆円ペースの維持」や「日銀当座預金のマイナス年0・1%金利」には反対し続けました。
最後の会合でも一人異論を出し、反対多数で否決されました。
義を貫き通しました。
[画像]きょうの議事要旨の一部、日銀ホームページから。
きのうきょう開かれた、最後の会合でも、「年45兆円ペースへの修正」を提案し、否決。ただ、日銀執行部は、この会合で、「2年で2倍で2%」すなわち「2013年から2015年までにマネタリーベースを2倍にして、物価(CPI)を2%にする」との目標を「2019年度にずれこませること」を決めざるを得ませんでした。
野田佳彦内閣は、平成24年2012年の第180回通常国会で、他の人物の同意案を出しましたが、民主党賛成、自民党・公明党反対で否決されました。その後、「木内・佐藤案」は、民自公賛成、み共反対で、同意されました。
木内さんと同じ日に就任した、佐藤健裕・審議委員も、きょうの会合で、反対票を投じました。
これ以降は、すべて安倍内閣で、同意された、総裁・副総裁・審議委員となります。9名すべてがリフレ派となったことで、暴走機関車は、行き着くところまで行くしかないといったところです。正直、どうにもならないでしょう。
木内さんは52歳ということで、私と同じ早稲田大学政治経済学部の卒業生です。よく「早稲田の政経」と言われ知名度も抜群ですが、残念ながら、公職で義を貫く人はあまりいません。しいていえば、今行われている横浜市長選で「横浜のドンがカジノに反対」と話題になっている、藤木幸夫・横浜港運協会会長らでしょうか。木内さんの今後の去就は分かりませんが、日銀の重々しい雰囲気の建物の中で、毎回反論を唱え続けた人物ということで、さらなる活躍の場があればいいし、そういう日本であってほしいと考えます。
このエントリー記事の本文は以上です。
[写真]蓮舫代表の臨時記者会見にそなえる、報道陣、2017年7月18日、民進党本部内、筆者・宮崎信行撮影、写りの関係などでモノクロ風に加工しました、他意はありません。
民進党の蓮舫代表は、平成29年2017年7月18日(月)、臨時記者会見を開きました。1年前の、民進党代表(ネクスト総理)選挙の前後からずっとくすぶっていた、台湾(中華民国)と日本との二重国籍問題についてです。
筆者としては、その経緯はさほど興味があるわけでなく、略しますが、私としては二重国籍問題は解消したんだろうと思います。資料として配られた、戸籍謄本ないし戸籍抄本の個人部分の一部に、「国籍選択の宣言日 平成28年10月7日」と書いてあり、代表選後に国籍選択をしたことは事実でしょう。私としては、これをもって、了としたいところです。
●メディア側も「なんでこんな大きな話になったのだろう」
私自身がメディア側の者ですが、きょうの150名ほどの報道陣は何人も「なんでこんな大きい話になったんだろう」と言っていました。そういっても、「逃げれば追いかける」ことをしないと、商売あがったりなので、やはり蓮舫さんが説明から逃げる姿勢があったことが、ここまでくすぶったことになると考えます。
また、きょうの記者会見では、国籍法の改正議論に言及。これは悪い表現ですが、「泥縄」のように感じます。ここは、黙って世論がおさまるのを待つべきではないでしょうか。
●国共関係なく、「様々な生き方をしてきた」
会見では、私が聞きたかったことを聞きました。1年前の外国人特派員協会で代表選3候補の記者会見。蓮舫さんは17歳のときに、台北駐日経済文化代表処(日本・東京)で、お父さんと職員が台湾語で話しているのを聞いた、としていました。私はこの発言を1年間疑問に思っていました。これについてただすと、今日の蓮舫さんは「私は17歳のときに、あまり北京語と台湾語の区別がつきませんでした。北京語とは違うイントネーションのやりとりが要所要所であった」とのことでした。
国民党(中国国民党)は、1949年に台湾を占領して以来、北京語を強制しました。なので、国外とはいえ、国家公務員であり、外交官ともいえる、職員は北京語を話すはず。もちろん、その当時、台湾関係者で北京語を話す人は少ないから、日本語で便宜を図ることはあったでしょう。ただ、台湾語でやり取りをするものだろうか、と思っていました。まして、蓮舫さんはその後、北京に留学しています。きょう聞いたら、やはり、台湾なまりがある北京語だった、と考えていいだろう、と私は理解しました。
もう一つ、1971年の日華断交以後も、台湾国民党(中国国民党)に共感し、中国共産党を拒む感情を持っていた人はかなり多かったはず。これが国籍離脱の時期に関係しているのかと、私は心に引っかかっていました。このへんも質問しましたが、蓮舫さんは「(1989年の)天安門事件があって、自分で勉強した」と話し「台湾人が必ずしも国民党を歓迎していたわけではない」としました。そして、国民党、共産党、台湾、大陸というよりも、「様々な生き方を祖母の代からしている」と語りました。間を縫うことで貿易で財を成したということでしょう。機を見るに敏、風見鶏。私は良い意味だと考えます。
●記者会見で出なかった、「名の変更」。
実は事前のブリーフィングで質問が出ながら、記者会見では質問にならなかった部分で、「戸籍に記載されている者 【名】蓮舫」の下に、身分事項として、上から下に、出生、名の変更、婚姻とあります。この「名の変更」というのはあまりないもので、芸名としても本名としても親しまれている、「蓮舫」という名前が、変更されていたのかもしれません。私の関心事ではありませんから、女性週刊誌などに譲ります。
●差別の対象にならないよう気をつけることも必要ではないか。
排外主義者、レイシストの差別につながるという話が出ましたが、きょうの会見には、独立系インターネットメディアの主宰者や記者が多く集いました。無料が基本のインターネットでは、差別や弱者叩きが横行しがちなのかもしれません。ただ、何らかの劣等感は誰にでもあり、差別が絶対に無い社会など、人間が人間である限りあり得ません。その対象にならないように気をつける、という考えがあってもいいのではないでしょうか。
このエントリー記事の本文は以上です。