わが心深き底あり喜も憂の波もとゞかじと思ふ
1923(大正12)年、西田53歳のときの歌である(『西田幾多郎歌集』岩波文庫、2009年、25頁。この文庫版には、「喜」には「よろこび」、「憂」には「うれひ」とルビが振られている)。西田はどのような心境でこの歌を詠んだのだろうか。上田閑照『西田幾多郎とは誰か』(岩波現代文庫、2002年)巻末の西田幾多郎略年譜からこの年の前後の身辺の事項を拾ってみよう。1919年に、妻寿美が脳溢血に倒れ、以後五年余りの病床に就き、1924年に亡くなっている。1920年には、長男謙が4月に急性腹膜炎にて入院、6月に没。享年23歳。「西田の悲嘆限りなし」と年譜にある。1922年5月、四女友子、六女梅子チフスにて入院。その月の日記に「友絶望という」、翌年、つまりこの記事のはじめに掲げた歌が詠まれた年の1月3日の日記には、「終身跛となるか狂となるかの岐路に立って居る我子の行末を思うも寸時も心のくもりはれる時はない」と記している(この四女友子は1941年に34歳の誕生日を前にして亡くなっている)。京都大学においては多くの優れた弟子たちに囲まれ、哲学者としての名声を築きつつあった西田だが、その家庭生活においては、家族の相次ぐ病と死によって、片時も心の休まるときがなかった時期にこの歌は詠まれているのである。同『歌集』での直前の歌は、「二月病児病院より帰る」の詞書を伴って、
子は右に母は左に床をなべ春は来れども起つ様もなし
数首後には、やはり「四月病児癒え難く思はる」の詞書とともに、
かくてのみ生くべきものかこれの世に五年こなた安き日もなし
この二首の間に先の歌は詠まれている。
「わが心深き底あり」というときの「深き底」とは、喜びも憂いもとどかない「底」とは、何のことだろうか。それは、あらゆる感情がそこから生まれて来るがそれ自体はいかなる感情にも還元されえない根源的な何かではないかと私は考える。そこにおいて、あらゆる感情がそれとして受け入れられている。〈私〉が受け入れているのではない。「深き底」が〈私〉の一切の思いに先立って、〈私〉のあらゆる思いを受け入れている。そのことの自覚がこの歌において表現されていると私は見る。そして、これを根源的受容性と私は呼ぶ。
毎日が勉強になります。島木赤彦先生と西田幾多郎先生のお名前があり、お二人の関係は信濃教育会が深く関係していることを関係者から聞いたことがあります。京都学派の方々は戦前から戦後にかけて教員教育に多く長野県に来られていまし、島木先生は長野県塩尻市の広丘尋常小学校の教員をされていたこともありました。
今では若い現職の人は来られませんが、西田哲学を生涯教育ということでご高齢のOB先生方が今も難しい講義を聴講し勉強しています。2・3年前になりますが夏の講義で「島木赤彦と短歌」が演目になっていました。
素人がこのような感想を述べるのは誠に失礼なのですが、前回ブログに「根源的受容性」を書かれていましたが、感動しました。
失礼なコメントですみません。