内的自己対話-川の畔のささめごと

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魂として傷ついた和泉式部と精神として傷ついた紫式部 ― 西郷信綱『源氏物語を読むために』 より

2024-05-16 04:01:50 | 雑感

 西郷信綱の『源氏物語を読むために』(平凡社ライブラリー、2023年。初版、平凡社、1983年。再刊、朝日文庫、1992年)は、創見に満ちたスリリングな源氏物語論・紫式部論である。源氏物語の篤実な専門家たちからすれば、その大胆すぎる所説に異を唱えたくなる箇所も多々あるのだろうと推察されるけれど、西郷氏の洞察の切り込みの鋭さは他の追随を許さない。
 この本にも昨日の記事で言及した和泉式部の歌が引用されている。第一章「歌と散文と」のなかの「紫式部の歌」と題された節に出てくる。その節を部分的に引用しよう。そのなかで西郷氏は、紫式部と和泉式部との創作者としての資質の決定的な違いを鮮やかに指摘している。

 実は私は、人がいうほど紫式部の歌を見どころあるものは考えていない。和泉式部とつい比べたくなるからで、口疾くいいすてたことばが天来の芳香を放っているかのような和泉式部の作の前におくと、紫式部の歌はどうも理が勝っており、喚起力に乏しいと思う。[中略]つまり紫式部は歌よみであるよりは散文作家であったわけで、だからその歌よみのほどを変にほめすぎると、逆にひいきのひき倒しになりかねない。そうしたなかにあって、『紫式部日記』と『紫式部集』の双方に見える、

年暮れて我が世ふけゆく風の音に心のうちのすさまじきかな

という歌は、例外的にほとんど唯一の傑作と見ていいのではなかろうか。[中略]私は以前、和泉式部が魂として傷ついたとすれば紫式部は精神として傷ついていたという風に書いたことがあるが、「物思へば沢の蛍もわが身よりあくがれ出づる魂かとぞみる」(和泉式部)にうかがえるように、苦しむ無垢な魂は無意識と化して身体からあくがれ出てゆくにたいし、精神は傷つくことによっていよいよ鋭く自己意識的になる。「心のうちのすさまじきかな」には、そういう寂莫たる自己意識の尖端が感じとれる。これはおそらく散文作者の手になる類い稀な歌の一つに数えてよかろう。
 もっとも、紫式部がおのれの歌才にたのむところがあったとしても不思議でない。たとえば、かの女は和泉式部の歌の天成のよさを認めつつも、歌の知識や道理に欠ける点があり「恥づかしげの歌よみやとは覚え侍らず」(『紫式部日記』)などとことわっている。が、どうもこれは負け惜しみであり、嫉み心さえそこにはのぞいていなくもない。歌の伝統に深く棹さしながらも、紫式部はわが心中にえたいの知れぬ葛藤がわだかまり、自分が一途な歌よみではもはやありえなくなっているのに気づいていたはずである。そしてちょうどその反極にいて、まるで生得の歌よみであるかのようにほとんど一義的・直線的にふるまっていたのが和泉式部であった。さらに『枕草子』の清少納言のことを考慮に入れるなら、狭い女房社会とはいえいかに鋭い分化がそこで経験されつつあったかわかるというものである。

 魂として傷ついた和泉式部と精神として傷ついた紫式部という対比はとても示唆的だ。世に在ることに情念において煩悶し唯一無二の表現へとその煩悶を転化・昇華する和泉式部と、その煩悶さえも理知において底まで省察せざるを得ない紫式部、この対比は、おそらく、文学の生成の機微に触れている。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


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