内的自己対話-川の畔のささめごと

日々考えていることをフランスから発信しています。自分の研究生活に関わる話題が多いですが、時に日常生活雑記も含まれます。

自らを見ることができない植物たちは見られることを欲している ― ショーペンハウアー『意志と表象としての世界』より

2022-12-30 23:59:59 | 読游摘録

 リュティガー・ザフランスキーによるショーペンハウアーの伝記『ショーペンハウアー 哲学の荒れ狂った時代の一つの伝記』(法政大学出版局、1990年)の第二刷(2005年)を購入したのは昨年一月のことだった。以来、気にはなりつつも、ところどころ拾い読みしただけで通読することはなかった。月末締め切りの原稿が一昨日仕上がり時間に余裕ができた年末までの数日で本書を読み上げることにした。
 昨日、ショーペンハウアーの『意志と表象としての世界』の中の植物についての考察が引用されている箇所に行き当たり(365頁)、それがとても印象に残った。ここに読書記録として書き写しておきたい。ただし、引用するのは、中略がある伝記からではなく、西尾幹二訳(中公クラシックスの電子書籍版、2013年)から当該箇所全文である。

自然のなかでもわけても植物界が、われわれに向かって美的な観察をするようにうながし、いわば否応なしにそれをするように迫ってくるさまは、目を見張らされる思いがする。そのため誰でも次のように言ってみたい気持ちになるかもしれない。すなわち、植物は動物の身体のように、それ自体が認識の直接的な客観ではないので、植物は盲目的な意欲の世界から表象の世界のなかへ姿を現わすためには、たぶん悟性をもった別種の個体を必要とするのであろう。そのため植物は、意欲の世界から表象の世界へ姿を現わすことをいわば憧れていて、直接的に自分ではできないことをせめて間接的にでも達成しようとするのであろう。

 これはかなり大胆で「夢想となりかねない」思想だから、完全に未決定のままにしておきたいとショーペンハウアーはこの直後に付け加えている。「なぜならこのような思想を鼓吹したり是認したりするのは、自然をきわめて親密かつ献身的に考察したあかつきにはじめて可能になることだからである」というのがその理由である。
 死の前年1859年刊行の『意志と表象としての世界』第三版の当該箇所にショーペンハウアーは以下のような注を付している。

ここに述べた思想をわたしがじつに控えめにためらいながら書き留めてから四十年たった今、聖アウグスティヌスがすでに同じ思想を表明していることを発見して、わたしはそれだけいっそう嬉しい気がするし、驚いてもいる。すなわち、「草木はこの世界の仕組みが目に見えて美しいかたちをなすよう、感覚に対しその多様な形態を提供して知覚に役立ててくれる。草木は自分では認識することができないから、いわば認識されることを欲しているようにみえる」〔『神国論』第十一巻第二十七章〕

この発見はショーペンハウアーにとってほんとうに嬉しかったのだろう。だからこの注を付けずにはいられなかったのだろう。