内的自己対話-川の畔のささめごと

日々考えていることをフランスから発信しています。自分の研究生活に関わる話題が多いですが、時に日常生活雑記も含まれます。

古代文学史中間試験問題 ―『古事記』の表記法・文体に見られる歴史的現実の弁証法

2017-11-10 18:33:53 | 講義の余白から

 どうも流感が職場で猛威を奮っているらしい。同僚のうちの二人もやられている。一人は治りかけ、もう一人は声がよく出ない。日頃水泳で体を鍛え、健康自慢の私もやられた。一昨日からなんとなく体がだるく、左腰に鈍痛がある。昨日今日とその症状が徐々に顕在化してきた。しかし、水木金と演習や中間試験監督があるから休めない。今日は、しかし、午後の会議は休んだ。週末は答案の採点で完全に潰れる。少し体力を温存しておきたかった。
 昨日行なわれた古代文学史の試験問題は、万聖節の休暇の前に学生たちに伝えておいた。二週間かけてよく準備してきなさい、ということである。
 ほとんどの学生は、こちらが感心するほど、よく調べ、考えてきている。資料はなんでも持ち込み可とした。学生たちは、よく整理された資料を脇に置き、試験開始と同時に一心不乱に答案を書き始める。途中で、ふと手を休め、中空を凝視しながら考えている学生もいる。皆、真剣に試験問題に取り組んでくれたことが見ていてわかる。
 どんな問題だったか。例によって、歴史的想像力と論理的思考力とを同時に問う問題である。以下、問題のおおよそのところを和訳してみよう。

 あなたは「古事記編纂委員会」の書記に任命されたとせよ。
 元明天皇からの命を受けた委員長太安万侶を議長として、第一回会議が開かれた。稗田阿礼は陪席者として出席。当日の議題は、『古事記』において採用すべき表記法と文体である。
 会議に先立って、同議題に対して委員たちから三つの案が提出されている。まず、純漢文体。この文体は、中国の史書に精通した漢学者によって主張されている。つぎに、その対抗案として、漢字を表音文字としてだけ使う純和文体。これは、長年語部として天皇家の祖先にまつわる口承に携わってきた古老によって主張されている。そして、これら両文体の中間案としての変則和式漢文体を主張する立場である。この案は、宮廷歌人として儀礼の場で数多くの作品を制作してきた詩人によって主張されている。
 当日、会議では、それぞれの案の支持者から意見陳述が行われた。その上で、委員会全体で徹底的な討議がなされた。その陳述と討議の一部始終を、あなたは、書記として、過不足なく公平に記録しなくてはならない。
 そして、特に、どのような議論を経て、なぜ第三案採択という結論に至ったかを正確に記述しなくてはならない。

 実際の試験問題には、政治的背景についてなどもっと詳しい条件規定と指示が含まれているのだが、それらは省く。
 言うまでもないことだが、「古事記編纂委員会」など、史実ではない。こんな委員会はもちろん存在しなかった。稗田阿礼と太安万侶以外に古事記編纂に関わった者がいたかどうかさえ不明である。
 問題を公表した後、私の出題意図をよく理解していなかった真面目な学生の一人から、「先生、どんな参考文献を見ても、こんな委員会について何の記述もありません」と、途方に暮れたようなメールが届いた。そこで、「そりゃあ、そうさ。三つの案の支持者を創造して、議論を構成するのは君自身だよ」と返事する。
 歴史書に書かれた答えはもうわかっている。太安万侶自身が『古事記』の序文(もともとは天皇への上奏文)の中で表記上の多大な困難について語っているのであるから、それをそのまま書けば、『古事記』がなぜあのような文体になったのかの答えとしては正解である。
 しかし、そんなことをただ覚えてきて答案に書かせることに何の意味があるのか。
 歴史が実際に出した一つの答えに至るプロセスを論理的に再構成してみること、それを私は学生たちに求めたのだ。その準備を二週間かけてやってこいと要求したのだ。
 その論理的再構成作業から見えてくるのは、『古事記』の表記法と文体は、単なる苦肉の折衷案などではなく、〈太安万侶〉という編纂者の名の下に展開された歴史的現実の弁証法の帰結にほかならない、ということである。