旅とエッセイ 胡蝶の夢

横浜在住。世界、50ヵ国以上は行った。最近は、日本の南の島々に興味がある。

ジュリアおたあ

2017年04月23日 11時43分35秒 | エッセイ
ジュリアおたあ

 ジュリアおたあ?誰、いつの人?安土桃山時代の朝鮮人女性だ。生没年不明、実名、家系共不明だ。実在した女性であることは、疑いの余地がない。出自が不明なのには訳がある。「おたあ」は戦乱の中(文禄・慶長の役)で、拾われた子だった。戦死または自害した朝鮮人の娘とも、人質として捕虜になった李氏朝鮮の両班の娘ともいわれる。拾い主の小西行長が関ヶ原の合戦に負けて滅亡したから、おたあの出身は永遠に分からない。平壌近郊でおたあを保護した行長は、九州の自宅に連れて帰り「おたあ」は行長夫人*の教育の元、特に小西家の元の家業である薬草の知識に造詣を深めた。
*小西夫人:正妻の菊姫(ジュスタ)と思われるが、側室の立野殿(カタリナ)の可能性もある。
おたあの才気と美貌を見初めた(どこでどうやって、おたあを見たのかな)家康は、駿府城に召し上げ侍女として側近くに仕えさせた。おたあは一日の仕事を終えると、夜に祈祷をし聖書を読み、他の侍女や原主人ら家臣をキリスト教信仰に導いた。家康はどこへ行く時も、おたあを連れ歩いた。しかしおたあは、キリシタン棄教を拒絶しまた家康の側室になることを拒んだ。
キリシタンの信仰は、小西家の養女となってからだろう。親(小西家)の仇というなら、家康の侍女にはならなかったであろうから、側室拒否は娘の潔癖かジジイ嫌いか。家康を通じて影響力を持って、キリシタンを庇護する方法も側室なら無くもなかろうに。おたあの気持ちは、おたあにしか分からない。家康は怒ったのか、息子・秀忠の政策にあからさまに反対は出来なかったのか、おたあを突き離す。
慶長17年(1612年)の禁教令により、おたあは駿府を追放され伊豆大島に流された。次いで八丈島もしくは新島に、最後に神津島へと流罪にされた。罪を3回問われたという訳ではない。赦免と引き換えに、ヒヒじじい家康の妾となるか棄教をするかと迫られ、その都度拒否したのだ。
おたあは信仰を守り、見捨てられた老人や病人を保護し、自暴自棄になった若い琉人を感化したり、島民の生活の向上に献身的に尽くした。特に身に付けた薬草の知識を活用して、貧しい島民の命を救った。
そんなおたあにもうれしい出会いがあった。新島(八丈島?)で駿府時代の侍女仲間のルチアとクララと再会して、一緒に一種の修道生活に入った。おたあの最期については一切不明だ。神津島で「島にある由来不明の供養塔が、おたあの墓ではないか」と言いだした郷土史家がいて、日韓のクリスチャンが毎年5月におたあの慰霊祭を行うようになった。
そして1972年、韓国のカトリック殉教地の切頭山に神津島の村長らが、おたあの墓(不明の供養塔)の土を持って行って埋葬し、石碑を建てた。しかしその後、おたあ神津島終焉説を否定する文書が発見された。1622年2月15日付フランシスコ・パチェコ神父が日本から発信した書簡に、おたあが神津島を出て大坂に移住し、神父の保護を受けている旨書かれていたのだ。
戦国から江戸初期の美女、おたあの話はこれで終わる。これ以上のことは分かっていない。ところが話はこれで終わらない。実は行長は文禄の役でもう一人のみなし子を保護して日本に連れて帰っていたというのだ。行長は博愛の精神で連れ帰ったのに違いないが、これで良かったのか。

その子は男の子で、「権」という名字の彼を行長は、長女マリアに託した。マリア夫人は対馬藩主・宗義智の妻で、宗義智自身も極秘のうちに洗礼を受けていたらしい。そしてこの男の子が「マンショ小西」に他ならない。このブログを読んでいる人にはお馴染みのマンショ小西だ。ペトロ岐部と共にマカオを脱出してゴアへ、その後別経路でローマへ渡った青年だ。実子ではなかったのね。
宗義智は妻子を捨てたことになるが、実際には助けたのかもしれない。マリアはキリシタンの上に逆臣小西行長の娘であったのだから。公的な立場の藩主夫人では助けられないが、私人として長崎に住めば状況によって海外に出られる。マンショ小西は、日本に帰国して5年間、島原半島で最後の司祭として宣教し、1625年に捕まり翌年長崎で火炙りにされた。そしてマンショ小西は、早くも1867年に時のローマ教皇ピオ8世により福者に列っせられていた。ペトロ岐部よりちょうど150年早い。
マンショ小西、別名権ヴィセンテは、日本に帰国する前に朝鮮に渡って宣教しようと試みた。朝鮮の鎖国政策のため中国経由での朝鮮入国は失敗に終わった。朝鮮語を覚えていたのだろうか、先祖の地に行こうとしたんだね。
マンショ小西が、ジュリアおたあと出会ったかどうかは分からない。もし同じ船で朝鮮から日本に連れてこられたのなら、兄妹(多分)のような意識があったかもしれない。血は繋がっていないが、二人とも意思の強さは半端ではない。別々にだがそれぞれ朝鮮からきた少女と少年は、人の心を打つ壮絶な人生を送った。マンショ小西の殉教を聞いたおたあは、衝撃を受けただろう。おたあの消息を聞いたマンショ小西は、誇らしかったのではないかな。

コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« それぞれの幸せ | トップ | 原主水 »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

エッセイ」カテゴリの最新記事